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第48話 隠しているつもりでも、君の気配は日常に少しずつ滲んでいた

 朝、ローテーブルの上に置いたマグカップを撮るのが、いつの間にか一日の始まりになっていた。


 青灰色のコースター。

 その上に、しらいさんのマグカップ。

 横には、昨日買い足した喉飴と蜂蜜の小瓶。


 春日悠真はスマホを構え、少し角度を変えてから写真を撮った。

 朝の光がちょうどカップの縁に乗っていて、いつもより少しだけ柔らかく見える。


『今日もあります』


 送信。


 すぐに既読はつかない。

 それでいい。


 しらいさんは今日、午前中から短い取材があると言っていた。声はだいぶ戻ったらしいが、まだ無理はできない。理沙さんの判断で、スケジュールは少し軽めに調整されているらしい。


 それでも、彼女はもう白瀬アカリとして戻り始めている。


 そのことがうれしくて、少し寂しくて、でもやっぱり誇らしかった。


 悠真はマグカップを棚に戻そうとして、少しだけ手を止めた。


 戻す前に、もう一度だけ見る。


 昨日、しらいさんはこの部屋で「ただいま」と言った。

 その声はまだ細かったけれど、確かにこの部屋に届いた。


 おかえり、と返したときの彼女の顔を、悠真はまだ忘れられずにいる。


 マグカップを棚へ戻す。

 コースターはそのまま。


 それから、会社へ行く支度を始めた。


    ◇


 会社に着いて早々、三崎がこちらを見て言った。


「春日、今日なんか生活が丁寧な顔してる」


「何だよ、その顔」


「朝ちゃんとお湯沸かしました、みたいな顔」


「普通に沸かすだろ」


「お前は前までコンビニコーヒーで命を繋いでる顔だった」


「どんな顔だ」


「最近ちょっと違うんだよな。家に帰る理由がある顔」


 悠真は鞄を置く手を少しだけ止めた。


 三崎はそれを見逃さない。


「今、刺さったな」


「刺さってない」


「いや、刺さった。分かりやす」


「お前、朝からうるさいな」


「春日くん、おはようございます」


「急に丁寧に言うな。気持ち悪い」


「その反応、何か隠してるときのやつ」


「仕事しろ」


「始業前だし」


 三崎はにやにやしたまま自分の席へ戻った。


 悠真はパソコンを立ち上げながら、内心で少しだけ息を吐く。


 隠しているつもりだった。


 しらいさんのことは、もちろん誰にも話していない。

 相手が白瀬アカリであることも、河川敷のことも、部屋のマグカップのことも。


 けれど、隠しているつもりでも、何かは滲むのかもしれない。


 朝の写真を撮る。

 仕事帰りに喉飴を買う。

 帰宅時間を気にする。

 スマホを見るときの顔が少し変わる。

 たぶんそういう細かいものを、三崎は拾っている。


 危ない、と思う。

 同時に、少しだけ困ったような温かさもあった。


 大事な人がいることは、完全には隠せないのかもしれない。


    ◇


 昼休み、しらいさんから写真が届いた。


 控室のテーブル。

 今日は紙コップではなく、白い陶器のカップが写っていた。

 横には小さな喉飴の袋と、台本の角。

 ホワイトボードには、短く書かれている。


『声、七割』


 悠真は少し笑った。


『七割まで戻りましたか』


 既読。


『理沙さん評価』


『本人評価は?』


『六割半』


『細かいですね』


『慎重派なので』


『いいと思います』


 少し間が空いて、


『朝の写真、よかった』


『カップの光がよかった』


 悠真は画面を見て、少しだけ頬が緩む。


『気づきました?』


『気づく』


『私のカップなので』


 その文字が妙にうれしかった。


 私のカップ。

 彼女がそう言った。


 悠真の部屋にある、彼女のカップ。

 その存在が、少しずつ彼女の中でも当たり前になってきている。


『明日も同じ角度で撮ります』


『毎日同じだと飽きる』


『注文が細かい』


『今日は少し右から』


『分かりました』


『知ってる』


 そこで、思わず笑ってしまった。


 その瞬間、目の前の席に座っていた三崎が箸を止める。


「春日」


「何」


「今の顔、完全に彼女」


「……」


「否定するタイミング逃したな」


「見なくていい」


「いや、もう無理だろ。お前、スマホ見てそんな顔するタイプじゃなかったもん」


「どんな顔だよ」


「家で飼ってる猫が初めて膝に乗ってきた人の顔」


「例えが妙に具体的だな」


「当たってる?」


「知らない」


 三崎は少し笑ってから、声を落とした。


「まあ、いいことなんじゃね」


「何が」


「大事な人がいるの」


 悠真は、すぐには返せなかった。


 否定することもできた。

 適当に流すこともできた。


 でも、三崎の言い方はからかいではなかった。


 悠真は視線をスマホから外し、短く言う。


「……まあ」


 三崎は少し目を丸くした。


「お前が認めた」


「何も詳しくは言ってない」


「言わなくていいよ」


「……」


「春日がちゃんと大事にしてるなら、それでいいんじゃね」


 珍しくまともなことを言う。


 悠真は少しだけ調子が狂った。


「今日はやけに普通だな」


「俺はいつも普通だろ」


「それはない」


「ひど」


 三崎は笑って、唐揚げ弁当の唐揚げを一つつまんだ。


「でもさ」


「何」


「相手が誰でも、変に一人で抱え込むなよ」


「……」


「お前、抱えると顔に出るから。隠してるつもりでも、かなり出てる」


「そんなにか」


「かなり」


 悠真は、少しだけ苦笑した。


 隠せていない。

 やっぱりそうらしい。


「気をつける」


「そこは、頼る、じゃないのか」


「……」


「まあいいけど」


 三崎はそこで話を切り上げるように、弁当に戻った。


 悠真はスマホの画面を見た。


 しらいさんから、新しいメッセージ。


『春日くん?』


 しばらく返事が止まっていたからだろう。


 悠真は少し考えてから打つ。


『三崎に少しからかわれてました』


 既読。


『うるさい同僚さん』


『はい』


『何て?』


『大事な人がいるのはいいことなんじゃないか、と』


 送ってから、少しだけ緊張した。


 既読がつく。


 返事は少し遅れて来た。


『三崎さん、うるさいけどいい人』


『たぶん』


『春日くんの周りにそういう人がいるの、少し安心する』


 昨日も似たことを言っていた。

 彼女は、自分の知らない悠真の日常に、ちゃんと人の気配があることを安心しているらしい。


『しらいさんの周りにも理沙さんがいます』


『うん』


『理沙さんは強い』


『三崎も別方向で強いです』


『会ったらうるさそう』


『かなり』


『ちょっと見たい』


『やめましょう』


『いつか』


 その“いつか”が、妙に具体的な未来のように見えて、悠真は少しだけ胸が温かくなった。


    ◇


 午後、仕事の合間に小さなミスをした。


 提出前の資料に、日付の入力漏れが一か所あったのだ。

 上司に指摘され、悠真はすぐに修正した。


 普段なら、それで終わる。

 けれど今日は、少しだけ自分でも集中が切れているのが分かった。


 しらいさんのこと。

 三崎に滲み始めていること。

 理沙さんに会ったこと。

 声の不調から戻りかけている彼女のこと。


 頭の中に、いくつものことが並びすぎている。


 夕方、三崎が書類を持って寄ってきた。


「春日、今日ちょい浮いてるぞ」


「……分かってる」


「珍しく自覚あり」


「ある」


 三崎は、少しだけ真面目な顔で言った。


「定時で帰る日?」


「いや、今日は違う」


「なら、一回深呼吸してから続きやれ」


「お前、今日は本当にどうした」


「いや、ミス増えると俺に飛び火する」


「結局それか」


「それもある」


「それも?」


「まあ、いろいろ」


 三崎は書類を置いて戻っていった。


 悠真は言われた通り、一度深呼吸をした。


 気持ちを完全に切り替えることはできない。

 でも、仕事は仕事だ。


 しらいさんが白瀬アカリとして現場に立つように、自分も自分の日常をちゃんとやる必要がある。


 それは、彼女を大事にすることと矛盾しない。


 むしろ、ちゃんと自分の日常に立っていることも、彼女と向き合うためには必要なのだと思った。


    ◇


 夜、会社を出るころには、頭が少し疲れていた。


 駅前のコンビニで、悠真はまた喉飴の棚を見てしまった。

 もう部屋には十分ある。

 それなのに、蜂蜜入りの新しい種類を見つけると、つい手が伸びる。


 買い物かごに入れてから、少しだけ笑ってしまった。


 完全に習慣になっている。


 レジを済ませ、店を出たところでスマホが震えた。


 しらいさんからだった。


『今日、声八割になった』


 悠真は思わず足を止めた。


『理沙さん評価ですか』


『本人評価』


『理沙さんは?』


『七割』


『厳しい』


『でも嬉しい』


 悠真は、店の前の端に寄って返信する。


『かなり戻りましたね』


『はい』


『でも、まだ大事にしてください』


『理沙さん側』


『継続です』


『彼氏側は?』


 その問いに、悠真は少し考えた。


 彼氏側。

 最近しらいさんは時々その言葉を使う。


 守る側。

 甘やかす側。

 送り出す側。

 止める側。


 どれが彼氏側なのか、まだよく分からない。

 でも今なら少しだけ答えられる気がした。


『彼氏側も、声を大事にしてほしいです』


『また部屋でただいまを聞きたいので』


 既読。


 少し間が空く。


『それ、ずるい』


『ずるかったですか』


『かなり』


『でも効いた』


『ならよかった』


『出た』


 悠真は笑う。


 そのあと、しらいさんから続けてメッセージが来た。


『今日、少しだけ河川敷に行きたいと思った』


 悠真の指が止まる。


 河川敷。


 最近は部屋の比重が大きくなっていた。

 コースター、マグカップ、喉の避難所。

 戻る場所としての部屋。


 でも、二人の始まりは河川敷だった。


『行けそうですか』


 送る。


『今日は無理』


『理沙さんにも止められてる』


『でも思っただけ』


『河川敷にも戻りたい』


 悠真は、画面を見つめた。


 部屋に戻る。

 仕事に戻る。

 そして、河川敷にも戻りたい。


 彼女の中にある“戻る場所”が、少しずつ増えている。


『声がもう少し戻ったら行きましょう』


『短い時間で』


 既読。


『うん』


『春日くんと、またあそこに座りたい』


 胸の奥が静かに熱くなる。


『俺もです』


『始まりの場所なので』


 既読。


 返事は少し遅れて来た。


『そういうこと言う』


『本当なので』


『知ってる』


    ◇


 部屋に帰ると、悠真は買ってきた喉飴をテーブルに置いた。


 喉コーナーが、また少し増えた。


 正直、もう小さな薬局みたいになりつつある。

 でも、しらいさんが次に来たとき、たぶん少し呆れて、少し喜ぶ。


 それを想像すると、片づける気にはならなかった。


 スマホが震る。


『写真』


 短い催促。


 悠真は笑って、すぐにマグカップをコースターの上に置いた。

 今日は新しい喉飴も写るように撮る。


 送信。


『増えてる』


『増えました』


『喉コーナーが本格化してる』


『薬局ではありません』


『春日くんの部屋、私用のもの増えすぎ』


 少し間が空く。


『うれしい』


 悠真は、スマホを持ったまま少し黙った。


『もっと増やしていいですか』


 送る。


 既読。


『少しずつ』


『はい』


『急に増えると照れる』


『では少しずつ』


『うん』


『私も、春日くん用の何か置きたい』


 その一文に、悠真は少し驚いた。


『俺用?』


『うん』


『私の控室には置けないけど』


『鞄に何か』


『春日くんを思い出せるもの』


 悠真は、しばらく返事ができなかった。


 自分の部屋に彼女のものが増える。

 それは分かる。

 でも、彼女の持ち物の中にも自分を思い出すものが欲しいと言われると、また違う温度があった。


『何がいいですか』


 送ると、返事はすぐだった。


『考える』


『楽しい』


『そういう時間、久しぶり』


 悠真は、部屋の中で小さく笑った。


 彼女の日常にも、自分の気配が少しだけ入っていく。

 隠れて、慎重に、でも確かに。


 それがうれしくて、少し怖くて、やっぱりうれしかった。


    ◇


 その夜、短い通話をした。


 声はかなり戻っていた。

 まだ長くは話さない約束だったが、昨日よりずっと自然だった。


「春日くん」


「はい」


「今日、三崎さんにちょっと認めたんでしょ」


「詳しくは言ってません」


「大事な人がいる、くらい?」


「まあ」


「そっか」


「嫌でしたか」


「嫌じゃない」


「……」


「むしろ、ちょっと嬉しい」


「嬉しい?」


「うん。白瀬アカリのことは言えなくても」


「はい」


「春日くんの日常の中に、大事な人がいるって少しだけ入ったんだなって」


 悠真は、ローテーブルの上のコースターを見た。


「滲んでますね」


「何が?」


「しらいさんのこと」


「……春日くんの日常に?」


「はい」


「それ、かなりだめ」


「うれしいほうですか」


「うん」


 彼女は小さく笑う。

 今日は声で笑っても、昨日ほど辛そうではなかった。


「でも、気をつけます」


 悠真が言うと、しらいさんは少しだけ声を柔らかくした。


「うん。でも、全部隠れてなくてもいいのかも」


「……」


「誰かを大事にしてる春日くんまで、隠さなくていい」


「……そうですね」


「白瀬アカリのことは守る。でも、春日くんの気持ちまで消さなくていい」


 その言葉は、思ったより深く入ってきた。


 悠真は、ずっと慎重でいようとしていた。

 彼女を守るために。

 関係を壊さないために。


 でも、慎重でいることと、自分の中の温度まで消すことは違う。


「分かりました」


「ほんとに?」


「たぶん」


「そこは、はいって言って」


「はい」


「よろしい」


 しらいさんの声が、少しだけ楽しそうになる。


「しらいさん」


「何?」


「河川敷、行きましょう」


「……うん」


「声がもう少し戻ったら」


「うん」


「短い時間でも」


「うん」


「始まりの場所に」


 電話の向こうで、少しだけ沈黙があった。


「春日くん」


「はい」


「今度、河川敷で言いたいことある」


「声で?」


「声で」


「待ってます」


「知ってる」


 その“知ってる”は、もうかなりいつもの声に戻っていた。


 通話を切ったあと、悠真は部屋の中を見渡した。


 コースター。

 マグカップ。

 喉コーナー。

 スマホの中の紙コップの写真。

 そして、三崎に少しだけ滲んでしまった“誰かを大事にしている自分”。


 彼女の気配は、もう河川敷だけでも、部屋だけでもなかった。


 悠真の日常のあちこちに、少しずつ広がり始めている。


 隠しているつもりでも。

 守ろうとしていても。

 大事なものは、やっぱり少しずつ滲む。


 それが怖くないわけではない。


 でも、今夜はそれを少しだけ、悪くないと思えた。

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