表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/173

第47話 ただいま、と君が言ったから、この部屋は少しだけ家みたいになった

 仕事帰りのスーパーは、いつもより少し明るく見えた。


 春日悠真は、野菜売り場の前でしばらく立ち止まっていた。

 手に持った買い物かごには、鶏団子、白菜、豆腐、卵、蜂蜜入りの喉飴、それから牛乳が入っている。


 別に、凝った料理を作るつもりはない。

 作れる腕もない。


 ただ、温かいものを用意しておきたかった。


 しらいさんから、夕方にメッセージが来ていた。


『今日、少し行ける』


 続けて、


『声でただいま言う』


 その文字を見た瞬間、悠真は会社のデスクで少し固まった。

 それを見た三崎に「顔が帰宅前の犬みたい」と言われたが、今日は反論する気にもなれなかった。


 声でただいま。


 その約束が、妙に胸に残っている。


 彼女は仕事へ戻った。

 コメント撮りを終えた。

 声はまだ万全ではないけれど、それでも白瀬アカリとしてもう一度立った。


 そして今夜は、春日悠真の部屋へ戻ってくる。


 ただ訪ねてくるのではない。

 戻ってくる。


 その違いが、今はとても大きかった。


 悠真は買い物を済ませ、急ぎすぎないように帰った。

 急ぐと、落ち着かなくなる。

 落ち着かないまま迎えるのは違う気がした。


 部屋に着くと、まず手を洗い、上着をかけた。

 ローテーブルを見る。


 青灰色のコースター。

 しらいさんのマグカップ。

 喉飴。

 ハーブティー。

 蜂蜜。

 ホワイトボード用の予備ペン。


 少しずつ増えた“しらいさん用”のものたちは、もう不自然ではなくなっていた。

 むしろ、そこにあるほうが自然だった。


 悠真は鍋に水を張り、鶏団子と白菜を入れた。

 豆腐を切って、卵は最後に落とす。

 簡単なスープ。

 前に作ったものと似ているが、今日は少しだけ喉に優しそうにしたつもりだ。


 湯気が立ち始める。


 部屋に、野菜の甘い匂いが広がっていった。


 インターフォンが鳴ったのは、ちょうど卵を落とそうとしていたときだった。


 悠真は火を弱め、玄関へ向かった。


 ドアの前で、一度だけ息を整える。


 開ける。


 しらいさんがいた。


 黒いキャップ。

 白いマスク。

 淡いグレーのニットに、長めのコート。

 肩には小さなバッグ。

 片手には、昨日のホワイトボード。


 けれど、今日はボードを掲げていなかった。


 彼女は一度だけ喉に手を当てた。

 それから、少しだけ息を吸う。


「……ただいま」


 かすかに掠れた声だった。


 それでも、ちゃんと届いた。


 昨日よりも、少しだけ自然に。

 まだ慎重で、無理をしていない声音で。

 でも確かに、彼女の声で。


 悠真は、すぐに返事ができなかった。


 その一言が、思っていたよりずっと大きかったからだ。


 ただいま。


 この部屋へ。

 この場所へ。

 自分のところへ。


 彼女がそう言った。


 しらいさんは少しだけ不安そうに瞬きをする。


「……春日くん?」


 その声で、悠真はようやく我に返った。


「おかえりなさい」


 言った瞬間、彼女の目元がゆっくりほどけた。


「……言えた」


「はい」


「ただいま、言えた」


「聞けました」


「……うん」


 しらいさんは小さく頷いてから、少し照れたようにホワイトボードで口元を隠した。


 でも今日は、すぐに文字を書かなかった。


「入ってください。寒かったでしょう」


 彼女は頷き、靴を脱いで部屋に上がる。


 部屋に入ると、いつものようにまずローテーブルを見た。

 そして、少しだけ目を細める。


「……ある」


「あります」


「マグカップ」


「はい」


「コースター」


「はい」


「喉コーナー」


「増えました」


「ほんとだ」


 声は少し小さい。

 けれど、会話になっている。


 悠真はつい嬉しくなりかけて、すぐに自制した。

 喉を使わせすぎてはいけない。


「今日は声、節約しましょう」


 しらいさんは少しだけ不満そうな顔をした。


「……少し、喋りたい」


「少しだけです」


「理沙さんみたい」


「今日は理沙さん側です」


「また」


「継続です」


 彼女は小さく笑いかけて、慌てて喉に手を当てた。

 それからホワイトボードに書く。


『笑うのも節約』


「そうしてください」


『春日くんが変なこと言うから』


「俺のせいですか」


『半分』


「もう半分は?」


 彼女は少しだけ目を逸らしてから書いた。


『戻れてうれしいから』


 悠真は、その文字を見て静かに息を吐いた。


「俺も、戻ってきてくれてうれしいです」


 しらいさんはボードを胸に抱えたまま、少しだけ俯いた。


 今日の彼女は、文字と声を両方使う。

 声にすると照れることを文字で書き、文字だけでは足りないことを声で置く。

 その不安定さが、今の彼女そのものだった。


 悠真はキッチンへ向かう。


「スープ、作ってます」


 しらいさんが顔を上げた。


「スープ?」


「はい。喉に優しそうなやつを」


 彼女はボードに書く。


『喉コーナーが食事まで進化』


「進化しました」


『春日くん、育成ゲームみたい』


「俺が?」


『喉避難所を育ててる』


「そのゲーム、地味ですね」


『私には大事』


 短い文字だった。


 でも、十分だった。


 悠真は鍋に卵を落とし、軽く火を通してから器によそった。

 湯気が上がる。

 熱すぎると喉に悪いかもしれないので、少し冷ましてからローテーブルへ運んだ。


「熱いので、ゆっくり」


 しらいさんは頷く。


 スプーンを持ち、一口だけ飲む。

 目元が柔らかくなった。


 声で、小さく言った。


「……おいしい」


 それだけで、悠真はかなり救われた気持ちになる。


「よかった」


 彼女はすぐにボードを持つ。


『出た』


「出ます」


『今日は許す』


「ありがとうございます」


 しらいさんはスープを少しずつ飲んだ。

 無理に話さない。

 時々、言いたいことがあるとボードに短く書く。


『あったかい』


『白菜、甘い』


『卵うれしい』


 そのたびに悠真は短く返す。


「よかったです」


「卵、入れて正解でした」


「次も入れます」


 部屋は静かだった。

 けれど、沈黙は重くない。


 スープの湯気。

 マグカップ。

 ホワイトボード。

 たまに置かれる小さな声。


 それだけで、今夜の部屋は十分だった。


    ◇


 食べ終わると、しらいさんはマグカップを両手で包んだ。


 今日はハーブティーではなく、蜂蜜入りのミルクティー。

 悠真が少し迷って提案したら、彼女がボードに大きく『それ』と書いたのだ。


 カップは青灰色のコースターの上に置かれている。


 ことん。


 その音を聞くたびに、しらいさんは少しだけ目元を緩める。


「やっぱり、その音好きなんですね」


 彼女は声ではなく、ボードに書いた。


『帰ってきた音』


 悠真はその文字を、しばらく見ていた。


 帰ってきた音。


 たしかに、そうかもしれない。


 彼女のマグカップが、彼女のコースターに置かれる音。

 そのたび、この部屋の中に彼女の居場所がもう一度確かめられる。


「これからも、鳴らしてください」


 しらいさんは少しだけ驚いたように顔を上げる。


「無理にじゃなくて。来られるときに」


 彼女はゆっくり頷いた。


 それから、声で言った。


「……鳴らす」


 短い。

 でも、約束みたいだった。


 悠真は頷く。


「待ってます」


 彼女はボードに書く。


『知ってる』


「そこは文字なんですね」


『これは文字も声も強い』


「確かに」


 彼女は少し得意げにミルクティーを飲んだ。


 しばらくして、しらいさんはバッグからスマホを取り出した。

 少し画面を見て、すぐに伏せる。


 悠真は聞かなかった。


 仕事の連絡かもしれない。

 理沙さんからかもしれない。

 けれど、今は聞かないほうがいい気がした。


 しらいさんが、自分からボードに書く。


『理沙さん』


「はい」


『今日はちゃんと早く帰れって』


「俺もそう思います」


『また理沙さん側』


「今日は完全にそうです」


『でも今日は怒らない』


「珍しい」


『戻れたから』


 その文字に、悠真は少しだけ黙った。


 戻れたから。


 それが、今日の彼女にとってどれだけ大きいことか。


 仕事へ戻った。

 声を使った。

 そして、この部屋にも戻ってきた。


 どちらか片方ではなく、両方に。


「しらいさん」


 呼ぶと、彼女が顔を上げた。


「今日、仕事にも戻って、ここにも戻ってきたんですね」


 しらいさんは、ペンを持つ手を止めた。


「すごいです」


 彼女は、少しだけ眉を寄せた。

 照れているようにも、泣きそうなようにも見える。


 ボードに書く。


『春日くん』


 その下に、少し間を空けて、


『今日それ言うのずるい』


「本当なので」


『知ってる』


 しらいさんはボードを置き、両手でマグカップを包み直した。


 そして、かなり小さな声で言った。


「……怖かった」


 悠真は黙って頷く。


「声、出なかったらどうしようって」


「はい」


「仕事、戻れなかったらどうしようって」


「はい」


「ここにも……戻ったら、泣くかもって思った」


「……」


「でも」


 彼女は少し息を整える。


「ただいま、言えた」


「はい」


「春日くんが、おかえりって言った」


「はい」


「それで、ちょっと大丈夫になった」


 悠真は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


 大丈夫にできたわけではない。

 全部を解決したわけではない。


 でも、少しだけ大丈夫になった。


 それだけで十分だった。


「言ってよかったです」


 悠真が言うと、しらいさんは少しだけ笑った。


「……うん」


 その声はまだかすれていた。

 でも、最初より少しだけあたたかかった。


    ◇


 長居はしない、と彼女は来る前から言っていた。


 だから、時計が二十二時を少し過ぎたところで、悠真は言った。


「そろそろ帰りましょうか」


 しらいさんは明らかに不満そうな顔をした。


 そしてボードに書く。


『まだいたい』


「知ってます」


『なら』


「でも今日は帰る日です」


『理沙さん側』


「はい」


『彼氏側は?』


 悠真は少しだけ困った。


 彼氏側。

 その言い方は、ずるい。


「彼氏側も、今日は帰って休んでほしいです」


 しらいさんは少しだけ目を丸くした。


「また来てほしいので」


 彼女はボードを持ったまま固まる。


 それから、ゆっくり書いた。


『それは強い』


「強いですか」


『強い』


『帰る理由になる』


「ならよかった」


『出た』


「出ます」


 彼女は渋々という顔をしながらも、マグカップを持ってキッチンへ向かった。

 声が戻りかけても、カップを自分で洗う習慣は変わらないらしい。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に戻す音。


 それから、コースターを整える。


 しらいさんは最後に、ボードに書いた。


『今日の点数』


「採点ですね」


『百五十点』


「かなり高い」


『ただいま言えたから』


「はい」


『おかえり聞けたから』


「はい」


『スープあったから』


「そこも入るんですね」


『入る』


『春日くんが帰らせてくれたから』


 悠真は、少しだけ驚いた。


「それも加点なんですか」


 彼女は頷く。


 そして声で、短く言った。


「……守られた」


 それは、とても小さな声だった。


 でも、悠真には十分だった。


「守れていたなら、よかったです」


 しらいさんはボードに書く。


『守られてる』


 少し迷ってから、もう一行。


『でも、甘やかされてもいる』


「両立します」


『するんだ』


「します」


 彼女は目元だけで笑った。


 玄関で靴を履き、コートを羽織る。


 悠真がドアを開ける前に、彼女は振り返った。

 ホワイトボードを持っているのに、今日は使わなかった。


 声で言う。


「……また、帰ってくる」


 慎重に置くような声だった。


 でも、確かに声だった。


 悠真は頷いた。


「おかえりって言います」


 しらいさんは少しだけ笑った。


 声を使わず、でもちゃんと笑った。


「……うん」


 駅までは送らない。

 今日は途中まで。

 それも、守るための約束だった。


 夜道を少しだけ一緒に歩き、角で別れる。


 しらいさんはホワイトボードに最後の文字を書いた。


『明日の朝も写真』


「送ります」


『マグカップ』


「コースターの上」


『よし』


 それから、声で小さく言った。


「……おやすみ、春日くん」


「おやすみなさい」


 彼女は手を振って、夜の道へ歩いていった。


 悠真はその背中を見送る。


 声は、まだ完全には戻っていない。

 仕事も、忙しさも、理沙さんとの約束も続く。

 この先も、会えない日や怖い日はあるだろう。


 でも今日、彼女は帰ってきた。


 ただいま、と言って。

 おかえり、と返せる場所へ。


 それだけで、この部屋は少しだけ家みたいになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ