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第46話 君がもう一度声を使う朝、僕は部屋から送り出す

 朝の光は、少しだけ白かった。


 春日悠真はカーテンを開ける前に、ローテーブルの前へ座った。

 青灰色のコースターの上には、しらいさんのマグカップ。昨夜、彼女が声で「好き」と言ったあと、自分で洗って、棚に戻したものだ。


 今はもう一度、コースターの上に出してある。


 空のまま。

 けれど、それでいい。


 この場所がある。

 声が出ても、出なくても、戻ってこられる場所がある。


 悠真は写真を撮った。


 マグカップ。

 コースター。

 横に置いた喉飴と蜂蜜。

 今日は少しだけ、いつもより画面の中が賑やかだった。


『今日もあります』


 それだけ送って、スマホを伏せる。


 すぐに返事は来ない。

 今日は、しらいさんにとって大事な日だ。延期になっていたコメント撮りがある。声の状態を見て、理沙さんが最終判断すると言っていた。


 無理はしてほしくない。

 でも、彼女が悔しさを抱えていることも知っている。


 だから単純に「休んでください」とだけは言えない。

 仕事へ戻ろうとする彼女を止めすぎることは、彼女自身を否定することにもなる気がした。


 難しい。


 コーヒーを淹れようとして、悠真は少し考え直した。

 今日は自分もハーブティーにすることにした。

 蜂蜜を少し入れる。


 甘い匂いが部屋に広がったころ、スマホが震えた。


『見た』


 続けて、


『喉コーナー、朝から圧が強い』


 悠真は少し笑った。


『理沙さん側なので』


 すぐ既読。


『春日くん、最近理沙さん側に寝返りすぎ』


『守るためです』


『それ言われると弱い』


 いつもの返しが来た。

 それだけで、少し安心する。


 さらに一通。


『声、昨日より少しまし』


 悠真はカップを持つ手を止めた。


『痛みは?』


『少しだけ』


『今日は理沙さんと相談して決めてください』


『うん』


『春日くんは?』


『俺は?』


『やめろって言う?』


 その一文に、悠真はしばらく返せなかった。


 言いたいことはある。

 無理はしないでほしい。声が大事なら、今日も休んでほしい。

 でも、彼女がそれを望んでいるわけではないことも分かる。


 悠真は、ゆっくり打った。


『俺は、しらいさんが戻りたいと思っているなら、止めません』


『でも、無理して壊れる方向なら止めます』


『理沙さんと相談して、大丈夫な範囲なら』


『行ってきてください』


 送信。


 既読がつく。


 少し長い間。


『行ってきてください、って』


『ちょっと泣きそうになった』


 悠真は胸が詰まった。


『今日は泣くと喉に悪いです』


 少しして、


『そこは理沙さん側』


『でもありがとう』


『春日くんに送り出されるの、かなり効く』


 悠真はスマホを見つめて、小さく息を吐いた。


 送り出す。


 そうか。

 今日の自分は、彼女を引き止めるのではなく、送り出す側なのだ。


 それは、思っていたよりずっと緊張する役目だった。


    ◇


 会社へ向かう電車の中でも、悠真は何度かスマホを見た。


 しらいさんからの連絡はない。

 それでいい。

 今は理沙さんやスタッフと相談しているのかもしれない。喉を温存しているのかもしれない。準備に入っているのかもしれない。


 分かっているのに、気になる。


 オフィスに着くと、三崎がこちらを見てすぐに言った。


「春日、今日も顔が喉飴」


「意味が分からない」


「いや、彼女の体調まだ気にしてますって顔」


「……」


「否定しないんだな」


「否定する元気がない」


 三崎は珍しく茶化しすぎず、デスクの引き出しから何かを取り出した。


 昨日渡してくれたのと同じ、のど飴の袋だった。


「もう一袋いる?」


「俺が持ってても仕方ないだろ」


「でもまた買って帰るんだろ」


「……買うかもしれない」


「じゃあ予備」


 悠真は少しだけ笑って、それを受け取った。


「ありがとう」


「おう」


 三崎はそこで一度自分の席へ戻りかけ、ふと思い出したように振り返る。


「何かさ」


「何」


「支えるって、近くに行くことだけじゃないんだな」


「……急にどうした」


「いや、今のお前見て思っただけ」


「漫画か?」


「今回は俺だって言いたいところだけど、たぶんドラマ」


「薄くなったな」


「うるせ」


 三崎は笑って戻っていった。


 支えるって、近くに行くことだけじゃない。


 その言葉は、思ったより胸に残った。


 今すぐ現場に行けるわけではない。

 喉の代わりになることもできない。

 コメント撮りの席に立つのは、白瀬アカリ本人だ。


 でも、部屋にマグカップを置いておくことはできる。

 写真を送ることはできる。

 行ってきてください、と言うことはできる。


 それもたぶん、支えることの一つなのだ。


    ◇


 昼前に、しらいさんから連絡が来た。


『午後、短めで撮ることになった』


 悠真は席でスマホを見たまま、少しだけ息を止めた。


 行くのだ。

 声を使う。


『理沙さん判断ですか』


『うん』


『かなり短くするって』


『途中で無理なら止めるって』


 そこまで読んで、少しだけ安心した。


『それなら、行ってきてください』


 送る。


 既読。


『うん』


 少し間が空いて、


『春日くん』


『はい』


『ちょっと怖い』


 悠真は、すぐに返した。


『怖いですよね』


『声を使うのが怖い日だと思います』


『でも、今日のしらいさんは一人じゃないです』


『理沙さんもいます』


『俺も部屋にいます』


 既読。


 すぐには返事が来ない。


 そして、数分後。


『部屋にいる、が一番春日くん』


『会場にはいないのに』


『いてくれる感じする』


 悠真は、スマホを握り直した。


『マグカップ、あります』


『コースターも』


『蜂蜜も』


『戻る場所はあります』


 既読。


『行ってくる』


 その短い文字に、悠真は胸の奥で静かに頷いた。


『行ってらっしゃい』


 送信。


 返事はなかった。


 それでよかった。


    ◇


 午後の仕事は、ほとんど時間の感覚がなかった。


 資料を確認する。

 メールを返す。

 上司に呼ばれる。

 電話を取る。


 手は動いているのに、頭の奥ではずっと別のことを考えている。


 今、彼女は準備しているだろうか。

 発声確認をしているだろうか。

 声は出ているだろうか。

 怖がっていないだろうか。

 理沙さんはそばにいるだろうか。


 十五時過ぎ。


 スマホが震えた。


 すぐに見たい。

 でも、ちょうど上司から説明を受けている最中だった。


「春日くん、ここなんだけど」


「はい」


 返事をしながら、視界の端でスマホが光るのが見える。

 焦る。

 でも今すぐ確認するわけにはいかない。


 五分。

 たぶん五分くらいだった。


 ようやく席に戻り、スマホを開く。


 しらいさんからではなかった。


 知らない番号ではなく、登録名が出ている。


『相沢理沙』


 以前、緊急連絡用として、しらいさん経由で交換していた番号だ。使うことはほとんどないだろうと思っていた。


 メッセージは短かった。


『無事に終わりました。声は少し不安定ですが、本人は落ち着いています』


 悠真は、その文を二度読んだ。


 無事に終わった。


 体から、ゆっくり力が抜けた。


 すぐに返信する。


『ご連絡ありがとうございます。安心しました』


 送ってから、もう一文。


『本人が無理していないならよかったです』


 少しして、理沙さんから返事が来た。


『無理は少ししています。ただ、今日は止めるほどではありませんでした』


 理沙さんらしい、正確な言い方だった。


 続けて、


『春日さんの写真を本番前に見ていました』


 悠真は、思わず画面を見つめた。


 写真。

 マグカップの写真だろう。


『それで少し落ち着いたようです』


 その一文に、胸の奥が熱くなる。


 理沙さんは、さらに送ってきた。


『支え方としては、悪くありません』


 悠真は、その文を何度も読み返した。


 褒められた、というほど柔らかい言葉ではない。

 でも、認められた感じがあった。


『ありがとうございます』


 そう返すと、


『お礼を言うところも、聞いていた通りですね』


 と返ってきた。


 悠真は少し笑ってしまった。


 たぶん、しらいさんがまた何か言っている。


    ◇


 しらいさん本人からメッセージが来たのは、それから二十分ほど後だった。


『終わった』


 それだけ。


 悠真はすぐに返す。


『おつかれさまです』


『本当におつかれさまでした』


 既読。


『声、出た』


『よかったです』


『ちょっと震えた』


『でも、出た』


『すごいです』


 既読のまま、少し間が空く。


『春日くんに、すごいって言われるの、今日かなり効く』


 悠真は返信する。


『本当にすごいです』


『怖いのに戻ったので』


『今日はちゃんと褒められてください』


 既読。


『褒められるの苦手』


『今日は逃がしません』


『理沙さん側すぎる』


『今日は完全に理沙さん側です』


 しばらくして、


『でも、うれしい』


 その文字を見て、悠真はようやく一息ついた。


 コメント撮りは終わった。

 声は出た。

 震えたけれど、戻れた。


 その事実が、部屋に帰る前から悠真の中を静かに満たしていった。


    ◇


 夜、しらいさんから電話が来たのは二十二時前だった。


 声を使いすぎていないか心配だったが、彼女のほうから「少しだけ声で言いたい」とメッセージが来た。


 悠真はすぐに出た。


「もしもし」


「……春日くん」


 声はまだ少しかすれていた。

 でも昨日よりずっと安定していた。


「おつかれさまです」


「うん」


「声、大丈夫ですか」


「少しだけなら」


「じゃあ、本当に少しだけ」


「理沙さん側」


「今日は譲りません」


「……うん」


 しらいさんは、小さく息を吸った。


「言えた」


「はい」


「本番前、怖かった」


「うん」


「声が出なかったらどうしようって思った」


「うん」


「でも、春日くんの写真見た」


「……はい」


「マグカップがあって、コースターがあって」


「はい」


「戻る場所あるって思ったら、少し息できた」


 悠真は、ローテーブルの上を見る。


 今日もそこにある。

 彼女のマグカップ。

 青灰色のコースター。


「写真、役に立ちましたか」


「かなり」


「それならよかったです」


「出た」


「今日は何度でも出ます」


「うん」


 電話の向こうで、彼女が少し笑った。


「理沙さん、春日くんに連絡したって言ってた」


「はい。いただきました」


「何て?」


「無事に終わったことと、写真で少し落ち着いたことを」


「うん」


「あと、支え方としては悪くありませんって」


「理沙さんっぽい」


「すごく」


「それ、かなり褒めてる」


「そうなんですか」


「うん。理沙さんの中ではかなり」


「なら、嬉しいです」


「春日くん、理沙さんにも好かれ始めてるかも」


「それはまだ早いです」


「でも、悪くない」


「悪くない、くらいが安心します」


「春日くんらしい」


 彼女の声が、少しずつ柔らかくなっていく。


 けれど、悠真はそこで止めた。


「しらいさん」


「何」


「そろそろ文字にしましょう」


「えー」


「喉」


「……はい」


「素直」


「理沙さん側すぎて逆らえない」


「守るためです」


「それ弱い」


 そのあと、通話は切れ、メッセージに移った。


『本当はもっと話したい』


『俺もです』


『でも今日は喉優先です』


『分かってる』


『春日くん』


『はい』


『今日、送り出してくれてありがとう』


 悠真は少しだけ画面を見つめた。


『送り出すの、緊張しました』


『止めたほうがいいのか、行ってと言うべきなのか』


『でも、しらいさんが戻りたい場所に戻るなら』


『行ってきてくださいって言いたかったです』


 既読。


 しばらく返事は来なかった。


 それから、


『春日くんに行ってきてって言われたから、行けた』


 その文字に、胸が詰まる。


『帰ってきてください』


 悠真は打った。


『俺の部屋でも、声でも、仕事でも』


『戻りたいところへ』


 既読。


『うん』


『帰る』


『今度、部屋行く』


『ミルクティー飲む』


『声でただいまって言う』


 悠真は、静かに笑った。


『待ってます』


『知ってる』


『でも、もう一回言って』


『待ってます』


 既読。


『よし』


『今日は百点』


『しらいさんも百点です』


『甘い』


『今日は甘くていい日です』


 しばらくして、


『うん』


『今日は甘くていい』


 そこで、やり取りは少し途切れた。


 悠真はスマホを置き、マグカップを見た。


 今日は、彼女がもう一度声を使った日だ。

 怖さを抱えて、それでも戻った日だ。


 自分はその場にはいなかった。

 けれど、送り出すことはできた。

 戻る場所を示すことはできた。


 それが少しでも彼女の力になったのなら、十分だった。

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