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第45話 声が戻ったら、最初に君の名前を呼びたかった

 朝の写真は、いつもより少しだけ明るく撮れた。


 カーテンの隙間から入る光が、ちょうどローテーブルの端に落ちていた。青灰色のコースターの上には、しらいさんのマグカップ。中身は空のまま。けれど、そこにあるだけで部屋の空気が少し整う。


 春日悠真はスマホを構えて、一枚撮った。


 送る言葉は、もうあまり迷わなくなっていた。


『今日もあります』


 送信してから、画面を伏せる。


 すぐに返事が来なくても焦らない。

 彼女が仕事中なら読めない。喉を休めているなら、それでいい。眠れているなら、なおさらいい。


 そう思えるようになったのは、少しだけ進歩だと思う。


 けれど、まったく気にならないわけではない。


 昨夜、しらいさんは声を出さずに帰っていった。ホワイトボードに「声なくても戻れる」と書いて、最後に「好き」と書いた。

 その文字が、今も目の奥に残っている。


 声で聞いたわけではない。

 でも、声で聞いたときと同じくらい、いや、もしかするとそれ以上にまっすぐ届いた。


 悠真は自分のコーヒーを淹れて、朝食代わりのトーストを焼いた。

 トースターから食パンが跳ねる音がして、部屋に焦げた匂いが少し広がる。


 スマホが震ったのは、そのときだった。


『見た』


 続けて、


『今日、少し声出た』


 悠真は、思わずトーストを皿に置く手を止めた。


 少し声が出た。


 それだけで、胸の奥がふっと軽くなる。

 でも同時に、すぐに「よかった」と送るのは少し違う気がした。本人がどんな状態なのか分からない。


 悠真はゆっくり打った。


『痛みはありますか』


 既読。


『少し』


『でも昨日よりまし』


『理沙さんに喋るなって言われてる』


 悠真は少しだけ笑った。


『今日は理沙さん側でいきます』


『喋らないでください』


 すぐ返ってくる。


『裏切り二日目』


『守るためです』


『それ言われると弱い』


 いつものやり取りが戻ってきている。

 まだ声ではなく文字だけれど、それでも彼女らしさがあった。


 悠真は少し迷ってから、もう一文送った。


『でも、少しでも戻ってよかったです』


 既読。


 今度は、返事まで少し間があった。


『うん』


『ちょっと安心した』


 その文字を見て、悠真もようやく小さく息を吐いた。


 安心した。

 彼女がそう書けるくらいには、昨日より少し前に進んだのだ。


    ◇


 昼休み、しらいさんから写真が届いた。


 控室のテーブル。

 紙コップ。

 喉飴。

 ホワイトボード。


 ホワイトボードには、少し丸い字で書かれている。


『発声制限中』


 その横に、小さく追加されていた。


『でも昨日より勝ち』


 悠真は画面を見て、思わず笑ってしまった。


『勝ちましたね』


 送る。


 すぐ既読。


『まだ小勝ち』


『大勝ちは?』


『春日くんの部屋で普通に喋れたら』


 その文を読んだ瞬間、胸の奥が温かくなった。


 彼女にとって、声が戻る場所として自分の部屋が思い浮かんでいる。

 それが、うれしい。

 でも、焦らせてはいけない。


『急がなくていいです』


『ホワイトボードでも歓迎します』


『知ってる』


 少し間が空いて、


『でも声で言いたいことある』


 悠真の指が止まった。


 声で言いたいこと。


 何を、と聞きそうになる。

 けれど、聞かないほうがいい気がした。


『待ってます』


 そう送る。


 既読はすぐについた。


『知ってる』


 その一言で、午後の仕事に戻る足取りが少しだけ変わった。


    ◇


 夕方になると、雨が降り始めた。


 朝は晴れていたのに、会社を出るころには街全体がしっとり濡れていた。

 悠真はコンビニで傘を買い、ついでに蜂蜜の小瓶と喉に良さそうなゼリー飲料を買った。部屋の喉コーナーは、少しずつ本当にそれらしくなっている。


 帰宅して、いつものように手を洗う。

 上着をかける。

 ローテーブルの上を整える。


 しらいさんのコースター。

 マグカップ。

 喉飴。

 ハーブティー。

 蜂蜜。

 そして、小さなホワイトボード用のペンを一本。


 昨日彼女が持ってきたホワイトボードは持ち帰ったが、替えのペンくらいは置いておいてもいいと思ったのだ。


 スマホが震る。


『今日、少し寄れるかも』


 悠真はすぐに返した。


『来てください』


 少し間が空く。


『声、少しだけ』


『無理に出さなくていいです』


『うん』


『でも、言いたいことある』


 また、その言葉。


 悠真は画面を見つめて、少しだけ緊張した。


『待ってます』


 返すと、すぐ既読がついた。


『行く』


 たった二文字なのに、今日はいつもより重く、少しだけ明るかった。


    ◇


 インターフォンが鳴ったのは、二十一時前だった。


 玄関を開けると、しらいさんが立っていた。

 黒いキャップに白いマスク。淡いグレーのパーカー。肩には小さなバッグ。片手には、昨日と同じホワイトボード。


 目元は少し疲れている。

 けれど昨日より、ほんの少しだけ力が戻っていた。


「こんばんは」


 悠真が小さめに言う。


 彼女は一度、喉に手を当てた。

 そして、ほんの少しかすれた声で言った。


「……こんばんは」


 それだけだった。


 たったそれだけなのに、悠真は胸が詰まった。


 声が戻った。

 まだ完全ではない。細くて、かすれていて、慎重に置くような声だ。

 でも、確かにしらいさんの声だった。


「……声」


 思わず言うと、彼女はすぐにホワイトボードを掲げた。


『少しだけ』


 それから、下に小さく書き足す。


『多用禁止』


「分かりました。今日は声、節約しましょう」


 彼女は頷いた。


 部屋に入ると、いつものようにローテーブルを見る。

 コースター、マグカップ、喉飴、ハーブティー。

 そして替えのペン。


 彼女はペンに気づいて、目を丸くした。


 ボードに書く。


『ペン増えてる』


「予備です」


『本格的』


「声なしでも戻れる部屋なので」


 彼女はそれを読んで、少しだけ目元を揺らした。

 そして何か言おうとして、すぐに口を閉じる。


 代わりにボードへ書いた。


『今の声で返したかった』


「返さなくていいです」


『返したい』


「じゃあ、短く」


 彼女は少し考え、マスクを外して、喉に負担がかからないくらいの小さな声で言った。


「……うれしい」


 その声は、昨日よりずっと慎重だった。

 でも、ちゃんと届いた。


 悠真は、少しだけ息を吸う。


「俺も、聞けてうれしいです」


 しらいさんは、すぐにボードで顔の下を隠した。


『声で言うのまだ恥ずかしい』


「昨日は文字でかなり言ってましたよ」


『文字は強い』


「声も強いです」


 彼女はボードの端で軽く悠真の腕を叩いた。

 抗議らしい。

 でも、目元は少し笑っていた。


 悠真はキッチンへ向かう。


「ハーブティー、蜂蜜入りでいいですか」


 しらいさんは頷いてから、ボードに書いた。


『少し多め』


「今日は甘めですね」


『今日は甘やかされる日』


「分かりました」


 その言い方があまりに自然で、悠真は少し笑った。


 湯を注ぎ、蜂蜜を少し多めに入れる。

 甘い匂いが部屋に広がる。


 二つのマグカップを運ぶと、しらいさんは自分のカップを両手で受け取り、コースターの上に置いた。


 ことん。


 その音を聞いた瞬間、彼女の肩が少しだけ落ちる。


「戻りましたね」


 悠真が言う。


 しらいさんはボードに書いた。


『戻った』


 少し間を置いて、


『声も少し戻った』


「はい」


『でも、ここに戻った感じのほうが大きい』


 悠真は、その文字をゆっくり読んだ。


 言葉が少ない分、ひとつひとつが胸に残る。


「ここ、ちゃんとありますから」


 彼女は頷く。


 そして、カップに口をつけた。


 熱すぎないか心配だったが、彼女は少しだけ目を細めて、ボードに書く。


『甘い』


「蜂蜜多めです」


『正解』


「ならよかった」


 彼女はすぐにボードを掲げる。


『出た』


「出ますよ」


『今日は許す』


「ありがとうございます」


 そんなやり取りだけで、昨日の重さが少しずつほどけていった。


    ◇


 声は戻りかけている。

 けれど、しらいさんはきちんと喋る量を抑えていた。


 何か言いたくなると、まず喉に手を当てる。

 言うかどうか考えて、短い言葉なら声にする。

 長くなりそうなら、ホワイトボードに書く。


 その判断が、少しだけ大人しくて、でも彼女らしかった。


『今日、コメント撮り延期の分、明後日になった』


「喉、大丈夫そうですか」


『理沙さん判断待ち』


「理沙さん側としては、無理しないでほしいです」


『また裏切り』


「守るためです」


『二日目どころか三日目』


「継続します」


『厳しい彼氏』


「そこは譲りません」


 しらいさんは、少しだけ声で笑いかけて、すぐに口元を押さえた。

 声を出さないように笑うのは、なかなか難しそうだった。


 悠真は思わず言う。


「笑うのも喉に響きます?」


 彼女はボードに書く。


『春日くんが変なこと言うから』


「俺のせいですか」


『半分』


「残り半分は?」


『好きだから』


 悠真は、返事に詰まった。


 しらいさんはその反応を見て、満足そうに目を細める。


「……文字、強いですね」


『今日は文字も声も使う』


「二刀流」


『強い』


「強いです」


 彼女は少し得意げにハーブティーを飲んだ。


 そんなふうに過ごしていると、声が出ないことも、声が戻りかけていることも、少しずつ特別ではなくなっていく。


 今日のしらいさんは、声を節約している。

 でも、それでもちゃんとしらいさんだ。


 マグカップを大事そうに持つ。

 ボードの文字でふざける。

 照れるとすぐ目を逸らす。

 でも本当に言いたいことは、時間をかけてちゃんと書く。


 悠真は、その全部を見ていた。


「しらいさん」


 呼ぶと、彼女が顔を上げる。


「声、少し戻ってよかったです」


 彼女は頷く。


「でも、戻ってない間も、しらいさんでした」


 その言葉に、ペンを持つ手が止まった。


「声があるときも、ないときも、文字でも、黙ってても」


 悠真は、少しだけ言葉を選ぶ。


「同じ人なので」


 しらいさんはしばらく何も書かなかった。


 その代わり、マグカップをコースターの上に置く。

 ことん、と音がする。


 そして、ゆっくりボードに書いた。


『それ、声で返したい』


「短くなら」


 彼女は喉に手を当てる。

 少しだけ息を整える。


 そして、小さな声で言った。


「……春日くん」


「はい」


「好き」


 かすれた声だった。


 普段よりずっと小さい。

 少し不安定で、最後の音が消えそうだった。


 でも、ちゃんと届いた。


 文字でも見た。

 何度も見た。

 電話でも聞いた。

 それでも、今のその一言は、少し違った。


 声が戻ったら、最初に言いたいこと。


 彼女が昼に書いていた言葉の意味を、悠真はようやく理解した。


 悠真はすぐには返せなかった。


 しらいさんは少し不安そうに瞬きをする。

 喉を使ったせいか、ほんの少し眉を寄せた。


 悠真は静かに言った。


「俺も好きです」


 彼女は、目を伏せた。


 ホワイトボードを手に取る。

 少し震える字で、こう書いた。


『声で言えた』


「はい」


『言いたかった』


「待ってました」


 彼女は少しだけ笑った。

 泣きそうにも見えた。


 悠真はティッシュを近くへ寄せる。


 しらいさんはボードに書く。


『今日は泣かない』


「喉に悪いですからね」


『でもちょっと危ない』


「予約はまだ有効です」


『今日は仮予約』


「分かりました」


 そういうやり取りをしながら、二人とも少しだけ笑った。


 声が戻ったからといって、すぐ元通りになるわけではない。

 明後日のコメント撮りもある。

 理沙さんの判断もある。

 しらいさんの仕事は続く。

 疲れも、プレッシャーも消えない。


 それでも今夜、彼女は声で名前を呼んだ。

 好きと言った。


 それだけで、この部屋の温度は少し変わった。


    ◇


 帰る時間が近づくと、しらいさんは少しだけ名残惜しそうにマグカップを見た。


『洗う』


「はい」


 もう止めない。

 彼女にとって、それもこの部屋に戻る儀式のようなものだからだ。


 キッチンで水の音がする。

 洗い終えたカップを拭いて、棚に戻す。


 しらいさんはコースターを整えて、満足そうに頷いた。


「何点ですか」


 悠真が聞くと、彼女はボードに書いた。


『百二十点』


「上限超えましたね」


『声で言えたから』


「それは高得点ですね」


『春日くんは?』


「俺も百二十点です」


『甘い』


「今日は甘くていい日です」


 彼女は目元だけで笑った。


 玄関で靴を履く前、しらいさんは一度だけ振り返る。


 そして、声で言った。


「……また、来る」


 かすれている。

 でも、さっきより少しだけ自然だった。


「待ってます」


 悠真が答えると、彼女はボードに書いた。


『知ってる』


「そこは文字なんですね」


 彼女は小さく頷いた。


『これは文字でも強い』


「確かに」


 玄関の外は、まだ雨の匂いが残っていた。


 駅まで送るほど長く歩かない。今日は途中まで。

 声を使いすぎないためにも、体力を残すためにも。


 別れ際、しらいさんはホワイトボードを掲げた。


『明日の朝も写真』


「送ります」


『マグカップ』


「コースターの上」


『よし』


 それから、少し迷って、声で言った。


「……おやすみ」


「おやすみなさい」


 彼女は満足そうに目を細めて、夜の道へ歩いていった。


 声はまだ細い。

 完全ではない。


 でも、確かに戻り始めていた。


 悠真はその背中を見送りながら、胸の奥で静かに思う。


 声があっても、なくても。

 文字でも、沈黙でも。

 彼女はちゃんと戻ってこられる。


 この部屋に。

 自分のところに。


 そのことを、今夜少しだけ信じられるようになった。

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