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第44話 声が出ない君と、文字で過ごす夜

 インターフォンが鳴る少し前から、悠真は何となく玄関のほうを気にしていた。


 時計は二十時を少し過ぎたところだ。

 しらいさんからは、三十分ほど前に短い連絡が来ていた。


『少しだけ行ける』


 続けて、


『声はまだ温存』


 そして最後に、


『ホワイトボード持っていく』


 その三行を読んでから、悠真は部屋を整えた。


 整えたと言っても、大げさなことはしていない。

 ローテーブルの上に青灰色のコースターを置き、しらいさんのマグカップを棚から下ろす。

 蜂蜜入りのハーブティーを用意し、喉飴の袋をテーブルの端に置く。

 ティッシュの箱も少し近くへ寄せた。


 あまりにも「喉を労わる準備万端」という感じになって、途中で少しやりすぎかと思った。

 でも、片づける気にはならなかった。


 今夜は、これくらいでいい。


 インターフォンが鳴った。


 悠真はすぐに玄関へ向かう。


 ドアを開けると、しらいさんが立っていた。


 黒いキャップ。

 白いマスク。

 ゆるいグレーのコート。

 肩には小さなバッグ。

 そして手には、本当に小さなホワイトボードを持っていた。


 目が合うと、彼女は片手を少し上げる。


 声は出さなかった。


「こんばんは」


 悠真が小さめに言うと、しらいさんはホワイトボードを胸の前に掲げた。


『来た』


 黒いペンで、そう書いてある。


 いつもの「来た」が文字になっているだけなのに、悠真は少し笑ってしまった。


「来てくれてよかったです」


 しらいさんは、少しだけ目を細める。

 それからホワイトボードの端に、きゅっと書き足した。


『それ好き』


「声に出さないと、いつもより直球ですね」


 しらいさんは一瞬だけ固まり、それから慌ててボードの文字を消した。


 その仕草がいつもの彼女すぎて、悠真の胸が少しだけ軽くなる。


「入ってください。寒かったでしょう」


 彼女は小さく頷き、靴を脱いで部屋に上がった。


 部屋に入ってすぐ、しらいさんはローテーブルを見る。

 コースター。

 マグカップ。

 喉飴。

 ハーブティーのティーバッグ。

 蜂蜜の小瓶。

 ティッシュ。


 彼女は数秒それを眺めてから、ホワイトボードに書いた。


『喉の避難所みたい』


「作りました」


『やりすぎ』


「少し思いました」


『でも』


 そこで文字が止まる。


 しらいさんは少し迷ってから、続きを書いた。


『かなりうれしい』


 悠真は、何も言わずに頷いた。


 言葉にすると、またいつもの「ならよかった」が出そうだった。

 でも今日は、それを少しだけ飲み込む。


 しらいさんはコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。

 そしてローテーブルの前、いつもの場所に座る。

 その動きがあまりにも自然で、悠真は少し安心した。


 彼女はマグカップを指さした。


「ハーブティーにしますか。蜂蜜、入れます?」


 しらいさんはボードに書く。


『少し』


「分かりました」


 悠真がキッチンへ向かうと、背後からペンの音がした。

 振り返ると、しらいさんがボードをこちらへ向けている。


『今日は声出さない努力中』


「はい」


『春日くんも質問少なめで』


「分かりました」


『でも構って』


 その一文を見て、悠真は思わず笑った。


「注文が細かいですね」


 しらいさんは目だけで笑い、ボードを伏せた。


 湯を注ぎ、蜂蜜を少し入れる。

 甘い匂いが部屋に広がった。

 自分の分は、いつものコーヒーではなく、同じハーブティーにした。


 二つのカップを運ぶ。


 しらいさんのカップは、青灰色のコースターの上へ置く。


 ことん。


 小さな音がした。


 彼女はその音を聞いて、目を閉じるみたいに少しだけ顔を緩めた。


 それから、ボードに書く。


『この音、戻った感じする』


「俺もです」


 彼女はマグカップを両手で包み、ゆっくり口をつけた。

 熱すぎないか心配だったが、彼女は小さく頷く。


『ちょうどいい』


「よかった」


 言ってから、悠真は少し笑う。


「結局、出ました」


 しらいさんも目元だけで笑った。


 今日は声がない。

 けれど、思ったより静かすぎなかった。


 ペンがホワイトボードを走る音。

 カップを置く音。

 息を吐く音。

 マグカップを両手で包む仕草。

 そういう小さなものが、会話の代わりに部屋を満たしている。


 しらいさんは喉飴の袋を指さした。


「開けます?」


 頷く。


 悠真が袋を開けて一粒渡すと、彼女は受け取って、少し迷ってからボードに書いた。


『あーんは?』


 悠真は固まった。


「……声が出ないからって、急に攻めますね」


 しらいさんはボードを持ったまま、肩を揺らして笑った。

 でも声は出さない。

 ちゃんと我慢している。


 すぐに文字を消して、書き直す。


『冗談』


 さらに小さく、


『半分』


「半分なんですね」


 しらいさんは目を逸らした。


 その仕草があまりに可愛くて、悠真は少しだけ迷った。

 でも、今日は彼女をからかいすぎる日ではない。


「今日は普通に渡します」


 彼女は少しだけ不満そうに頷き、飴を口に入れた。


 それからボードに書く。


『今日は春日くんが理沙さん側』


「喉を守る日なので」


『裏切り』


「守るためです」


『それ言われると弱い』


「知ってます」


 しらいさんは目元を細めた。


 ペンを持った手が、少し止まる。


 そして、ゆっくり書いた。


『理沙さんにも同じこと言われた』


「守るため?」


『うん』


『声を出すなって』


『今日、現場でかなり止められた』


 悠真はボードの文字を見つめた。


「悔しかったですか」


 彼女は少しだけ黙った。


 質問少なめで、と言われたばかりなのに聞いてしまった。

 でも、そこだけは聞かずにいられなかった。


 しらいさんは、ホワイトボードを膝の上に置いたまま、ペンを握る。

 少し考えてから、書いた。


『悔しい』


 その三文字は、思っていたより重かった。


 さらに続ける。


『でも今日は止めてもらえてよかった』


『自分だと止まれなかった』


 悠真は息を吐いた。


「理沙さんがいてくれてよかったです」


 しらいさんは頷く。


『春日くんも』


「俺は何もできてないです」


 彼女は少しだけ眉を寄せた。

 そして、少し強めの字で書く。


『いる』


 ただ、それだけ。


 悠真は言葉に詰まった。


 彼女はさらに書く。


『マグカップ置いてる』


『写真くれる』


『戻っていいって言う』


『それ、何もしてないじゃない』


 最後の字は、少しだけ歪んでいた。


 悠真はゆっくり頷いた。


「……分かりました。してます」


 しらいさんは満足そうに頷く。


『よろしい』


「採点制ですか」


『今日は八十八点』


「微妙に厳しい」


『自信なさそうだったから減点』


「そこも見てるんですね」


『見てる』


 その文字を見て、悠真は少し笑った。


 声がなくても、しらいさんはしらいさんだった。

 少し強がって、少し甘えて、でも本当に大事なところではまっすぐ書いてくる。


 しばらく二人は、静かにハーブティーを飲んだ。


 しらいさんはスマホを一度見た。

 仕事の連絡かと思ったが、すぐ伏せる。

 それからボードに書いた。


『今日は仕事の話、ここまで』


「はい」


『喉の話も、少し休み』


「分かりました」


『普通の話して』


「普通の話」


 悠真は少し考える。


「会社のコピー機がまた詰まりました」


 しらいさんの目が、少し丸くなる。

 それからボードに書いた。


『普通すぎ』


「普通の話って言ったので」


『でも聞く』


「三崎が直そうとして、余計に悪化させました」


『うるさい同僚さん』


「はい」


『見たい』


「おすすめしません」


『ますます見たい』


「本当にうるさいですよ」


『春日くんのことよく見てる』


「見すぎです」


『少し安心』


「何でですか」


『春日くんの周りにも、春日くんを見てる人がいるから』


 悠真は少しだけ黙った。


 それは、思ってもみない言葉だった。


「……そういう見方をするんですね」


 彼女はペンを動かす。


『私だけじゃなくてよかった』


 その文字は、少しだけ照れているように見えた。


 悠真はカップを置き、素直に言った。


「しらいさんが見てくれているのも、かなり大きいです」


 彼女は一瞬、ホワイトボードを伏せた。

 そのまま数秒動かない。


「しらいさん?」


 ようやく彼女はボードを持ち上げる。


『声出せない日にそれ言うのずるい』


「すみません」


『謝らないで』


『もう一回』


「もう一回?」


 彼女は頷く。


 悠真は少しだけ照れたが、言った。


「しらいさんが見てくれているの、かなり大きいです」


 しらいさんは、マスクの下でたぶん笑った。

 目元がくしゃっと柔らかくなる。


 それから小さく書く。


『保存』


「文字じゃないのに」


『心に』


 悠真は今度こそ、何も言えなくなった。


 声が出ないのに、いつもより強い言葉が飛んでくる。

 ずるいと思う。


 でも、そのずるさも好きだった。


    ◇


 時間はゆっくり過ぎていった。


 声を使わない夜は、もっと不安になるかと思っていた。

 けれど実際には、いつもより一つひとつの動作が丁寧に見えた。


 しらいさんが文字を書く。

 悠真が読む。

 彼女の表情を見る。

 返事をする。

 彼女が消す。

 また書く。


 たったそれだけなのに、会話が雑に流れない。


 言葉が少ない分、相手の顔をよく見る。

 目の動きや、ペンの止まり方や、マグカップを持つ手の力の入り方を見る。


 しらいさんは、少しずつ部屋の空気にほどけていった。


 最初は背筋を伸ばして座っていたのに、やがてクッションに少しもたれ、ブランケットを膝にかけ、カップを両手で包むようになった。


 その姿を見て、悠真は静かに安心した。


「眠いですか」


 彼女は少しだけ首を横に振る。

 でも目元は明らかに眠そうだった。


「眠い顔してます」


 ボードに書く。


『してない』


「しています」


『してない』


「分かりました。してないことにします」


 彼女は満足そうに頷いた。


 その三秒後、あくびを噛み殺した。


 悠真は見なかったふりをする。


 しらいさんはすぐにボードへ書いた。


『今のは違う』


「何も言ってません」


『顔が言った』


「顔までは管理できません」


『減点』


「また?」


『でも今日は優しいから九十点』


「上がった」


『喉の避難所、よかったから』


 悠真はテーブルの端に並んだ喉飴や蜂蜜を見た。


「役に立ったならよかったです」


 しらいさんは、少しだけ真面目な目になった。


 そして書く。


『役に立った』


『でもそれより』


『私用に置いてあるのがうれしい』


 悠真は、静かにその文字を読んだ。


 彼女は続ける。


『仕事では、私用のものってあまりない』


『白瀬アカリ用のものはいっぱいある』


『衣装とかメイクとか台本とか』


『でも、しらいさん用は少ない』


 ペンが止まる。


 しらいさんは少し迷って、最後に書いた。


『ここにはある』


 悠真の胸が、じんと熱くなった。


 青灰色のコースター。

 白いマグカップ。

 喉飴。

 蜂蜜。

 ブランケット。


 どれも高価なものではない。

 けれど、彼女にとっては“しらいさん用”のものなのだ。


「増やしていきましょう」


 悠真は言った。


 しらいさんが顔を上げる。


「少しずつ。しらいさん用のもの」


 彼女は、長いあいだ何も書かなかった。


 ただこちらを見ていた。


 やがて、ゆっくり文字を書く。


『それ、かなり泣きそう』


 悠真はティッシュ箱を少し近づけた。


「あります」


 彼女はそれを見て、目元だけで笑った。


『準備いい』


「喉の避難所なので」


『泣いたら喉に悪い』


「今日は我慢しますか」


『少しだけ』


「じゃあ、少しだけ我慢しましょう」


『でも、いつか泣く予約は有効?』


「有効です」


『よし』


 彼女は満足そうに頷いた。


    ◇


 帰る時間が近づいても、しらいさんはなかなか立ち上がらなかった。


 時計を見て、少しだけ眉を寄せる。

 帰らなければならないのは分かっている。

 でも、もう少しいたい。


 そういう顔だった。


「今日は泊まれませんよ」


 悠真が先に言うと、彼女は目を丸くした。

 それから慌ててボードに書く。


『分かってる』


 少し間を空けて、


『読まれた』


「顔に出てました」


『春日くん、最近分かるようになりすぎ』


「しらいさんもですよ」


『うん』


 そのあと、彼女は小さく書いた。


『でも、今日は帰る』


「はい」


『理沙さんにも言った』


「偉いです」


『雑』


「本当に偉いです」


『じゃあよし』


 しらいさんは立ち上がり、マグカップを持ってキッチンへ向かった。


 声が出ない日でも、カップは自分で洗う。

 それはもう、この部屋での彼女の小さな決まりになっていた。


 水の音。

 カップを洗う音。

 拭いて、棚に戻す音。


 そして、コースターを整える。


 いつも通り。


 そのいつも通りが、今日はとても大事に思えた。


 玄関で靴を履く前、しらいさんはホワイトボードを掲げた。


『今日はありがとう』


「こちらこそ」


『声なくても平気だった』


「はい」


『少し怖かった』


「うん」


『でも平気だった』


「よかったです」


 彼女はボードを消さず、その下に書き足した。


『春日くんの部屋、声なくても戻れる』


 悠真は、その文字をしばらく見つめた。


「いつでも戻ってきてください」


 彼女は少しだけ首を傾ける。


『声ありでも?』


「もちろん」


『声なしでも?』


「もちろん」


『泣いても?』


「予約済みです」


 しらいさんは、声を出さずに笑った。


 目元だけで、ちゃんと笑った。


 そして最後に、短く書く。


『好き』


 それを見て、悠真は少し息を止めた。


 声ではない。

 でも、まっすぐ届いた。


「俺も好きです」


 しらいさんは、ボードを胸に抱えるようにして、少しだけ俯いた。


 照れている。

 声が出なくても分かる。


 悠真は玄関のドアを開けた。


「駅まで送ります」


 しらいさんは少し迷ったあと、ボードに書いた。


『今日は途中まで』


「分かりました」


『声出せないから、長くいると甘えそう』


「文字でも甘えてましたよ」


 彼女はボードで軽く悠真の腕を叩いた。


 痛くはない。

 でも、抗議としては十分だった。


 夜道を二人で歩く。

 声はない。

 けれど、沈黙は寂しくなかった。


 途中の角で別れるとき、しらいさんはボードに最後の文字を書いた。


『明日の朝も写真』


「送ります」


『マグカップ』


「コースターの上」


『よし』


「採点は?」


 彼女は少し考え、最後に大きく書いた。


『百点』


 悠真は笑った。


「ありがとうございます」


 しらいさんは手を振り、夜の道を歩いていく。


 その背中は少し疲れていた。

 けれど、来たときよりほんの少しだけ軽く見えた。


 悠真は見えなくなるまで、その背中を見送った。


 声が出ない夜。

 文字だけの会話。

 それでも、彼女はちゃんと戻ってきた。


 そして自分も、声がなくても隣にいられることを少しだけ知った。

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