第43話 声が出ない朝に、文字だけで君を抱きしめる
朝になっても、マグカップはそのままにしておいた。
春日悠真は、目覚ましが鳴るより少し早く起きた。
カーテンの外は薄く明るい。天気は悪くないはずなのに、部屋の空気はどこか重かった。
ローテーブルの上には、青灰色のコースター。
その上に、しらいさんのマグカップ。
空のまま置かれたそれを見て、悠真は昨夜のメッセージを思い出した。
『声出なくても?』
その文字を見た瞬間の胸の痛みは、まだ残っている。
声が仕事の人だ。
画面の中で笑い、取材で言葉を選び、芝居で台詞を届ける人だ。
その人が、声が出ないかもしれないと怯えていた。
悠真にできることは少ない。
水を飲んで、喉を休めて、理沙さんに相談して。
そんな当たり前のことを文字で送るくらいしかできない。
それでも、何かしたかった。
悠真は顔を洗い、湯を沸かした。
自分のカップにコーヒーを淹れる。
しらいさんのマグカップには、何も注がない。
空でいい。
今はそれがいい気がした。
戻ってきていい場所。
声が出ても出なくても、そこにいていい場所。
そういう意味を込めて、空のまま置いておく。
スマホを見る。
メッセージは来ていなかった。
少し安心する。
眠れているなら、それでいい。
けれど同時に、胸の奥が落ち着かない。
何かあったのではないか。
朝の仕事に向かってしまったのではないか。
声がどうなったのか。
考え始めるときりがなかった。
悠真は写真を撮った。
ローテーブルの上。
青灰色のコースター。
空のマグカップ。
隣に、自分のコーヒー。
送る前に、少しだけ迷う。
眠っているなら起こしたくない。
でも、通知で起きるような設定にはしていないかもしれない。
それに、起きたとき最初に見るものが不安を煽る仕事の連絡ばかりではなく、この写真だったら少しはましかもしれない。
悠真は短く打った。
『今日も置いてあります』
送信。
既読はつかなかった。
それでいい。
悠真はスマホを伏せ、コーヒーを飲んだ。
いつもより少し苦く感じた。
◇
既読がついたのは、会社へ向かう電車の中だった。
乗り換え駅のホームで、スマホが震える。
『見た』
それだけ。
すぐに、もう一通。
『声、まだ変』
悠真は息を止めた。
短い文なのに、その向こうで彼女がどんな顔をしているのか、嫌なくらい想像できた。
不安。
焦り。
それを表に出さないようにしている白瀬アカリの顔。
悠真は人混みの端で立ち止まり、すぐに打った。
『喉、痛いですか』
既読。
『痛いというより、出にくい』
『理沙さんには?』
『言った』
『今日は一部調整してくれるって』
そこまで読んで、少しだけ息が戻った。
理沙さんが動いてくれている。
それなら一人で抱えているわけではない。
『よかったです』
送ってから、少し考える。
よかった、だけではない。
何もよくはない。
でも、一人じゃないことはよかった。
続けて送る。
『一人で抱えていないなら、少し安心しました』
既読。
少し間。
『春日くんもいる』
たったそれだけで、胸が詰まった。
悠真は、返信の文字を何度か打ち直した。
ホームに電車が入ってくる音がする。
人の流れが動き出す。
それでも、ちゃんと返したかった。
『います』
『声が出ない間も、います』
送信。
既読。
返事はなかった。
けれど、それで十分だった。
◇
午前中の仕事は、やけに長かった。
メールを打っている最中にも、スマホが気になる。
電話が鳴るたびに、彼女は今声を出せているのだろうかと考えてしまう。
会議資料の修正をしながら、昨日送られてきた「怖い」という文字が頭を離れない。
昼前、三崎が横から覗き込んできた。
「春日」
「何」
「今日、顔がかなり重い」
「仕事だよ」
「いや、それは仕事の顔じゃない」
「じゃあ何の顔だ」
「彼女が心配な顔」
返事が遅れた。
三崎は、それだけで察したように少し表情を変えた。
「何かあった?」
「……体調が少し」
「そっか」
それ以上、三崎は茶化さなかった。
珍しい。
「大丈夫なのか」
「分からない」
「分からないのが一番きついな」
「……うん」
三崎は少しだけ考えてから、机に置いていたのど飴を一袋差し出した。
「いる?」
「俺が舐めても意味ないだろ」
「まあそうだけど。何か持ってると落ち着くかと思って」
「……お前、たまに変な優しさ出すな」
「常に優しいだろ」
「それは違う」
「そこは乗れ」
悠真は少しだけ笑って、のど飴を受け取った。
「ありがとう」
「おう」
三崎は軽く手を振って戻っていった。
袋の中で、飴が小さく鳴る。
それだけで、少しだけ現実に引き戻された。
今すぐ彼女に渡せるわけではない。
けれど、今日の帰りに喉に良さそうなものを買っておこうと思った。
部屋に来られる日がいつになるかは分からない。
でも、戻ってきたときに置いておけるものはある。
◇
昼休み、しらいさんから写真が届いた。
控室のテーブル。
紙コップ。
ペットボトルの水。
喉飴の袋。
そして、小さなホワイトボード。
ホワイトボードには、黒いペンで文字が書かれていた。
『声温存中』
悠真は、思わず小さく笑ってしまった。
安心したわけではない。
でも、その字に少しだけ彼女らしさがあった。
『ホワイトボード導入されたんですか』
既読。
『理沙さんが持ってきた』
『喋るなって』
『正しい判断です』
『春日くんも理沙さん側』
『今日は完全に理沙さん側です』
少し間が空いて、
『裏切り』
その二文字に、ようやくいつものしらいさんが少し戻った気がした。
『守るためです』
送る。
既読。
『それ言われると弱い』
『声は出さないでください』
『文字でも反論できる』
『文字でも休んでください』
『厳しい』
『彼氏なので』
既読。
しばらく返事がない。
少し強かったかと思ったところで、返ってきた。
『それ、文字でもまだ慣れない』
悠真は画面を見て、ふっと息を吐いた。
『俺もです』
『でも使います』
『好き』
その短い文字に、胸が跳ねた。
すぐに返したい。
でも、ここで長いやり取りを続けて彼女を疲れさせるのは違う。
悠真は少し考えてから送った。
『俺も好きです』
『だから、今は返信しなくていいです』
既読。
返事はなかった。
それでいい。
今日は、それでいい。
◇
夕方、しらいさんからまた写真が届いた。
今度は、控室ではなかった。
スタジオの隅らしき場所。
床に置かれた紙袋。
その上に、ホワイトボード。
『コメント撮り、延期』
それだけ。
悠真は、その文字を何度も読んだ。
延期。
つまり、今日は無理をしなくて済んだのだろうか。
それとも、できなかったことに彼女は落ち込んでいるのだろうか。
多分、両方だ。
『喉を守るためなら、よかったです』
送ってから、すぐに続ける。
『でも、悔しいですよね』
既読。
少し長く間が空いた。
『悔しい』
やっぱり。
『でも理沙さんに止められた』
『止めてもらえてよかったです』
『分かってる』
『分かってるけど悔しい』
その文字が、彼女そのものだった。
仕事に対して真面目で、弱音を吐くのが下手で、ちゃんと立っていたい人。
だからこそ、声が出ないことで仕事が止まるのが悔しいのだろう。
悠真は、少しだけ考えてから打った。
『悔しいまま、今日は休んでください』
『悔しいのを無かったことにしなくていいです』
『でも、喉は休ませてください』
既読。
返事は、
『春日くん、今日ずっと理沙さんみたい』
だった。
悠真は少し笑ってしまった。
『嫌ですか』
『嫌じゃない』
『理沙さんは仕事を守る』
『春日くんは私を休ませようとする』
『両方いる』
その言葉に、悠真は少し黙った。
理沙さんは仕事を守る。
自分は彼女を休ませようとする。
けれど、どちらも彼女を守りたいからだ。
『理沙さんにも感謝ですね』
送る。
『うん』
『あとでちゃんと言う』
その返事を見て、悠真は少し安心した。
◇
夜になっても、電話はなかった。
その代わり、文字のやり取りだけが続いた。
『ホテル戻った』
『おつかれさまです』
『声、まだ薄い』
『今日は喋らないでください』
『もう喋らない』
『偉いです』
『雑』
『本当に偉いです』
『じゃあよし』
画面の中の文字は、いつもより短い。
でも、そこに彼女がいることは分かった。
悠真は、会社帰りに買ったものをローテーブルへ並べた。
蜂蜜入りののど飴。
喉に良さそうなハーブティー。
小さな瓶の蜂蜜。
ついでに買った、柔らかい焼き菓子。
全部が今すぐ役に立つわけではない。
でも、置いておきたかった。
写真を撮って送る。
『戻ってきたとき用です』
既読。
返事が少し遅れる。
『店?』
『俺の部屋です』
『喉コーナーできてる』
『できました』
『春日くん』
『はい』
『戻りたい』
今日は二度目のその言葉だった。
悠真は、ゆっくり返信する。
『声が戻ってからでも』
『戻る前でも』
『どちらでも待ってます』
『喋らなくていいです』
『ホワイトボードでもいいです』
既読。
少しして、
『ホワイトボード持って行くかも』
『歓迎します』
『文字だけでもいい?』
『いいです』
『ずっと黙ってても?』
『いいです』
『泣いても?』
悠真は、そこで少しだけ指を止めた。
泣いても。
彼女は今日、本当にぎりぎりなのだ。
悠真はマグカップを見る。
青灰色のコースター。
空のカップ。
その隣に、自分のカップ。
深く息を吸ってから、打つ。
『泣いてもいいです』
『声を出さなくても泣けます』
『ティッシュあります』
『ミルクティーも作れます』
『何も聞かずに隣にいることもできます』
送信。
長い沈黙。
既読はついている。
でも、返事がない。
言いすぎただろうか。
重すぎただろうか。
そう思い始めたころ、返事が来た。
『今、泣いたら声もっと変になりそうだから我慢してる』
胸が痛くなる。
『じゃあ今日は我慢でもいいです』
『でも、いつか泣いていいです』
『俺の部屋で』
既読。
今度はすぐに返ってきた。
『それ、予約』
『はい』
『泣く予約』
『受け付けました』
『変なの』
『でも、いいです』
『うん』
短い文字なのに、少しだけ彼女の呼吸が戻ったような気がした。
◇
その夜は、通話をしないまま終わることになった。
当然だ。
声を休めるべきなのだから。
けれど、寝る前に一つだけメッセージが届いた。
『今日は声聞けなかったけど』
『春日くんがずっといた感じした』
悠真は、何度も読み返した。
電話をしていない。
会ってもいない。
ただ文字を送っただけ。
それでも、彼女がそう感じてくれたのなら。
『俺もです』
『しらいさんの文字があったので』
『ちゃんといました』
送る。
既読。
『明日の朝も写真』
『送ります』
『マグカップ』
『コースターの上に置きます』
『よし』
『おやすみ』
『おやすみなさい』
それきり、画面は静かになった。
悠真はスマホを置く。
部屋の明かりを落とす前に、ローテーブルを見る。
喉飴。
ハーブティー。
蜂蜜。
しらいさんのマグカップ。
戻ってきたら、ここに座る。
声が出ても、出なくても。
笑っても、泣いても。
ホワイトボードで文字を書いても。
その場所を用意しておくこと。
今夜の悠真にできるのは、それだけだった。
けれど、それだけでも、きっとゼロではない。




