第42話 紙コップの写真が増えるほど、君の声は少しずつ薄くなる
朝、スマホに一枚の写真が届いていた。
白い紙コップ。
控室らしきテーブル。
端に置かれたペットボトルの水。
その奥に、少しだけ映り込んだ台本の角。
文章はなかった。
それでも、春日悠真には分かった。
しらいさんは、もう仕事場にいる。
時計を見ると、まだ七時前だった。
悠真は布団の中で半分だけ体を起こし、少しのあいだ写真を眺めた。
紙コップの横に、細い指先が少しだけ写っている。
意図して入れたのか、たまたま写ったのかは分からない。
けれど、その小さな指先だけで、妙に彼女の存在が近く感じられた。
悠真は起き上がり、ローテーブルの前へ行った。
青灰色のコースターは、いつもの場所にある。
棚から、しらいさんのマグカップを下ろす。
空のまま、コースターの上に置いた。
ことん。
小さな音が、朝の部屋に落ちる。
それから写真を撮った。
空のマグカップ。
コースター。
朝の薄い光。
短く添える。
『今日もあります』
送信。
すぐには既読がつかなかった。
悠真はそれでいいと思った。
朝から返信を待たせたいわけではない。
ただ、向こうの控室に紙コップがあるように、こちらの部屋には彼女のマグカップがある。
それを知らせたかっただけだ。
顔を洗い、コーヒーを淹れ、会社へ行く準備をする。
出かける前、もう一度スマホを見る。
既読はまだついていなかった。
少し寂しい。
けれど、心配とは違う。
彼女は今、白瀬アカリとして走っている最中なのだ。
◇
既読がついたのは、通勤電車の中だった。
満員に近い車内で、悠真は片手で吊革を掴み、もう片方の手でスマホを開く。
『見た』
そのあとに、少し間を置いてもう一通。
『今日それ、朝から効く』
悠真は小さく笑いそうになり、慌てて表情を戻した。
周りの人から見れば、ただスマホを見ている会社員でしかない。
けれど、画面の中の数行だけで、自分の朝は少し違っていた。
『今日も長いですか』
送る。
しばらくして返ってきた。
『長い』
『でも紙コップはある』
悠真は、胸の奥が少しやわらかくなるのを感じた。
『マグカップもあります』
『知ってる』
その“知ってる”を見て、ようやく少し安心した。
◇
その日から、写真の交換は少しずつ習慣になった。
悠真は朝、ローテーブルのコースターとマグカップを撮る。
しらいさんは、控室や移動中の車内や、現場の片隅にある紙コップを撮る。
写真だけの日もあった。
短い言葉がつく日もあった。
『今日の紙コップ、薄い』
『そんな違いあります?』
『ある。これは頼りない紙コップ』
『ではマグカップの勝ちですね』
『勝った気でいる』
『実際勝ってます』
『ずるい』
そんなやり取りを昼休みに見返すだけで、悠真は少し救われた。
会えないことに変わりはない。
河川敷にも行けない。
部屋にも来られない。
短い通話も、できる日とできない日がある。
それでも、完全な空白ではない。
彼女のいる場所と、自分の部屋が、写真で細くつながっている。
ただ、その細い糸の向こうで、彼女の疲れが日に日に濃くなっていることも、悠真には分かっていた。
写真の中の紙コップが増えていく。
ペットボトルの水が減っていく。
台本の角が少し乱れている日がある。
指先の写り込みが、ある日から少しだけ増えた。
それはたぶん、彼女が意図しているわけではない。
疲れて、写真を撮る手元が少し雑になっているだけだ。
悠真はそのたびに、画面のこちら側で少しだけ胸を痛める。
気づいている。
でも、すぐに飛んでいけるわけではない。
それが、もどかしかった。
◇
木曜日の夜、しらいさんから電話が来たのは、日付が変わる少し前だった。
悠真はすでに部屋着になっていて、ローテーブルの前に座っていた。
しらいさんのマグカップは、今日もコースターの上に置いてある。
スマホが震え、画面に名前が出る。
すぐに出た。
「もしもし」
「……春日くん」
声を聞いた瞬間、悠真は少しだけ眉を寄せた。
いつもより、声がかすれている。
「声、大丈夫ですか」
「第一声それ?」
「いや、でも」
「分かる?」
「分かります」
「やっぱり」
電話の向こうで、彼女が小さく笑った。
けれど、その笑いも少し薄い。
「今日、喋りすぎた」
「取材ですか」
「取材と、収録と、コメント撮り」
「それは……喋りすぎですね」
「うん。自分でも途中から、私ずっと喋ってるなって思った」
「喉、痛いですか」
「少し」
「水飲んでください」
「飲んでる」
「本当に?」
「今、飲んだ」
「えらいです」
「雑に褒めた」
「本当に褒めてます」
「じゃあ、よし」
いつものやり取りの形はある。
でも、声の奥に疲労が沈んでいる。
悠真は、何か言いたくなって、少しだけ黙った。
言いたいことはいくつもある。
休んでほしい。
寝てほしい。
会いたい。
無理しないでほしい。
でも、仕事だから仕方ないのも分かっている。
その全部が、喉の手前で引っかかる。
「春日くん」
「はい」
「今、何か飲み込んだ?」
「……分かります?」
「分かるよ。声が一瞬止まった」
「しらいさんこそ、そういうの分かるようになってますね」
「春日くんのことは、少しずつ」
さらっと言われて、悠真は少しだけ言葉に詰まった。
「何で黙るの」
「今の、ちょっと効きました」
「ならよかった」
「しらいさんが言うんですね」
「言ってみた」
彼女は小さく笑う。
やっぱり少しかすれていた。
「無理に喋らなくていいですよ」
「でも、声聞きたかった」
「俺も聞きたかったです」
「うん」
「でも、喉が心配です」
「それも知ってる」
「今日は短めにしましょう」
「彼氏っぽい」
「彼氏なので」
「……それ、まだ慣れない」
「俺も慣れてません」
「でも、聞きたい」
「じゃあ言います。彼氏なので、今日は早めに寝てほしいです」
「前も言った」
「何度でも言います」
「春日くん、そういうところ真面目」
「真面目です」
「うん。そこ、好き」
電話越しでも、胸の奥が静かに熱くなる。
けれど今日の彼女は、いつものように照れて流す余裕もないらしい。
言ったあと、少しだけ黙った。
「しらいさん?」
「……春日くんの部屋、今どうなってる?」
「いつも通りです」
「マグカップ」
「コースターの上にあります」
「空?」
「空です」
「そっか」
「写真、送りますか」
「うん」
悠真は電話をつないだまま、写真を撮った。
ローテーブル。
青灰色のコースター。
空のマグカップ。
隣に自分のカップ。
送る。
少しして、電話の向こうで彼女が息を吐いた。
「……ほんとにある」
「あります」
「私、そこにいないのに」
「はい」
「場所だけある」
「はい」
「それ、今かなり助かる」
「ならよかった」
「出た」
「出ますよ」
短い沈黙。
しらいさんが、何かを飲む音がした。
「春日くん」
「はい」
「私、今ちょっと、戻りたい」
その言い方が、胸に刺さった。
行きたい、ではなく。
会いたい、でもなく。
戻りたい。
この部屋が、彼女にとってそういう言葉の対象になっている。
うれしい。
でも、それ以上に切なかった。
「来てください」
悠真は言った。
「今じゃなくていいです」
「うん」
「来られるときでいいです」
「うん」
「マグカップもコースターも、そのままあります」
「……うん」
「俺もいます」
電話の向こうが静かになる。
遠くで、車の走る音が聞こえた。
また移動中なのだろう。
「春日くん」
「はい」
「それ、今日いちばんだめ」
「だめですか」
「うれしいほう」
「知ってます」
「取られた」
「たまには」
彼女が小さく笑う。
少しだけ、声が柔らかくなった。
それだけで、悠真も少し救われる。
「明日も忙しいですか」
「うん。朝から」
「じゃあ、本当にそろそろ」
「うん」
「寝る前に水飲んでください」
「はい」
「喉を温めて」
「はい」
「ちゃんと寝て」
「春日くん」
「はい」
「お母さんみたい」
「彼氏です」
「そこは譲らないんだ」
「譲りません」
「……うん。じゃあ、彼氏の言うこと聞く」
その言い方が少しだけ甘くて、でも疲れすぎていて、悠真は笑うより先に胸が痛くなった。
「しらいさん」
「何」
「明日は、声出す仕事多いですか」
「多い」
「……」
「でも大丈夫。理沙さんにも言われてる。喉、気をつけろって」
「理沙さんが言うなら少し安心です」
「春日くんも言う」
「俺も言います」
「二人に言われた」
「二人とも心配してます」
「うん」
しらいさんは、少しだけ黙った。
「心配されるの、前はちょっと苦手だった」
「今は?」
「今も少し苦手」
「はい」
「でも、春日くんの心配は、わりと飲める」
「飲める?」
「水みたいに」
「それは、いい意味ですか」
「かなり」
「ならよかった」
「出た」
また少しだけ笑う。
その笑い方は、かすれているけれど、ちゃんとしらいさんだった。
「もう切りますね」
悠真が言う。
「うん」
「本当に寝てください」
「寝る」
「おやすみなさい」
「春日くん」
「はい」
「明日の朝も、写真ちょうだい」
「送ります」
「マグカップ、コースターの上?」
「はい」
「よし」
「採点制ですか」
「今日は百点」
「高い」
「声、聞けたから」
「……俺もです」
「おやすみ、春日くん」
「おやすみなさい」
通話が切れた。
部屋に静けさが戻る。
悠真はスマホを置いて、しらいさんのマグカップを見た。
空のまま、コースターの上にある。
戻りたい。
彼女はそう言った。
その言葉が、部屋の空気を少し変えていた。
◇
翌朝、悠真は約束通り写真を送った。
空のマグカップ。
青灰色のコースター。
朝の光。
『今日もあります』
しばらくして既読がついた。
返事は一言。
『戻りたい』
それを見た瞬間、悠真の胸は少し締めつけられた。
すぐに返す。
『待ってます』
既読。
返事は来なかった。
仕事が始まったのだろう。
悠真は会社へ向かった。
その日は、妙に仕事が手につかなかった。
メールを打っていても、数字を確認していても、彼女のかすれた声が頭の隅に残る。
昼休みにスマホを見る。
写真が一枚届いていた。
紙コップ。
ペットボトル。
喉飴の袋。
文章はない。
悠真はそれを見て、少しだけ安心し、同時にやはり心配になった。
『喉飴、ありますね』
既読はすぐについた。
『理沙さんに渡された』
『ちゃんと舐めてください』
『春日くんにも言われた』
『二人目ですね』
『二人に見張られてる』
『守られてる、です』
既読。
少し間。
『それ、今日ちょっと効く』
悠真は画面を見ながら、静かに息を吐いた。
守られている。
そう感じてくれたならいい。
でも同時に思う。
彼女は今、かなり限界に近づいているのではないか。
それを画面越しに見ているだけなのが、ひどくもどかしかった。
◇
夜、電話は来なかった。
メッセージも、二十三時を過ぎても届かなかった。
悠真はローテーブルの前に座り、マグカップをコースターの上に置いたまま、何度もスマホを確認した。
待つ。
でも、急かしたくない。
寝ているなら、そのほうがいい。
仕事中なら邪魔したくない。
けれど、気になる。
迷った末に、短く送った。
『今日は寝られそうなら、そのまま寝てください』
『返信いりません』
送ってすぐ、既読がついた。
そのまま返事はなかった。
悠真は少しだけ安心した。
既読がついた。
そして返事がない。
つまり、彼女はもしかするとそのまま休むつもりなのかもしれない。
そう思って、部屋の明かりを少し落としたときだった。
スマホが震えた。
メッセージ。
『声、出ないかも』
悠真は、息を止めた。
続けて、
『明日、大事なコメント撮りあるのに』
さらに、
『ちょっと怖い』
その三つの短い文が、胸に深く刺さった。
すぐに電話をかけそうになって、手を止める。
声が出ないかもしれないと言っている相手に、電話をするのは違う。
悠真は文字を打った。
『電話しなくていいです』
『文字で大丈夫です』
『水、飲めますか』
既読。
『飲んでる』
『理沙さんには?』
『言った』
『今、ホテル』
『理沙さんも同じホテル』
少しだけ安心する。
一人ではない。
『それならよかったです』
『よくない』
『声出ないの怖い』
その文字に、いつものしらいさんの余裕はなかった。
悠真は、しばらく画面を見つめた。
何を言えばいいのか、すぐには分からない。
大丈夫です。
そう言いたい。
でも、本当に大丈夫かどうかは分からない。
頑張ってください。
それも違う。
彼女はもう十分頑張っている。
悠真は、ゆっくり打った。
『怖いですよね』
『声が仕事なら、余計に』
『でも、今は声を出さなくていい時間です』
『返事も短くていいです』
『ここにいます』
送ってから、しらいさんのマグカップを見た。
空のカップ。
そこに彼女はいない。
でも、ここにいると伝えたかった。
既読。
返事は、少し遅れた。
『マグカップ』
悠真はすぐに写真を撮った。
コースターの上のマグカップ。
その隣に、自分のカップ。
部屋の暗めの灯り。
送る。
しばらくして、返事。
『あった』
『あります』
『戻りたい』
『待ってます』
『声出なくても?』
悠真は、ほとんど間を置かずに返した。
『声が出なくても、戻ってきてください』
『喋らなくてもいいです』
『ミルクティーを置くだけでもいいです』
既読。
長い沈黙。
それから、
『泣きそう』
悠真は、胸が痛くなった。
『泣いてもいいです』
送る。
『声使わないので』
少しでも軽くしたくて、そう続けた。
既読。
しばらくして、
『春日くん、そういうとこ』
『何ですか』
『好き』
その一文字に近い短い言葉を見て、悠真は静かに息を吐いた。
『俺も好きです』
『だから、今日は喉を休めてください』
『明日のことは、理沙さんと相談してください』
『俺はここにいます』
返事は、すぐには来なかった。
五分。
十分。
ようやく届いた。
『少し寝る』
『マグカップ、置いてて』
『置いてます』
『おやすみ』
『おやすみなさい』
それきり、メッセージは途切れた。
悠真はスマホを置いた。
部屋は静かだった。
雨も降っていない。
車の音も遠い。
ローテーブルの上には、しらいさんのマグカップがある。
空のまま。
今夜、彼女はここには来られない。
声も出にくい。
怖いと言った。
自分にできることは、少ない。
でも、ゼロではない。
声が出なくても戻ってきていい場所を、ここに置いておくこと。
それだけはできる。
悠真は、部屋の明かりを少しだけ落とした。
マグカップは、コースターの上に置いたままにした。




