第41話 会いたいのに会えない日々は、静かに部屋の温度を変えていく
金曜日の朝、悠真はいつもより少し早く目を覚ました。
目覚ましが鳴る前だった。
カーテンの向こうは薄く明るく、部屋にはまだ夜の冷えが少し残っている。
布団から出る前に、スマホを見る。
しらいさんからのメッセージは、昨夜のものが最後だった。
『今日はちゃんと寝る』
そのあとに、悠真が返した。
『おやすみなさい』
既読はついている。
でも返事はない。
ちゃんと寝たのなら、それでいい。
むしろ、返事がないことを少し安心してもいいくらいだ。
そう思うのに、画面を見てしまう。
付き合い始めてから、会えない日の静けさにまだ慣れない。
それは不安というほど大げさではない。
ただ、いつも部屋にあるものが今日は一つ足りない、みたいな感覚だった。
悠真は布団から出て、ローテーブルの上を見た。
青灰色のコースター。
棚の上のマグカップ。
しらいさんはここにいない。
でも、ここへ戻ってくる場所はある。
それだけで、朝の空気が少し持ち直す。
湯を沸かして、自分のマグカップにコーヒーを淹れる。
しらいさんのマグカップには触れない。
けれど、棚にあるかどうかは自然に確認してしまう。
コースターも、ずれていない。
我ながら、律儀だと思う。
でも、彼女がそれを気にするからではない。
もう自分にとっても、そこにあることが当たり前になっていた。
会社へ向かう前に、写真を撮った。
コースターと、棚のマグカップ。
朝の光が少しだけ入る角度で。
送ろうか迷った。
忙しい朝に送るのは邪魔かもしれない。
でも、昨夜の疲れ方を思うと、彼女が控室や移動中にそれを見るだけで少し楽になるのではないか、とも思う。
結局、短い言葉を添えて送った。
『今日もあります』
すぐには既読がつかなかった。
それでいい。
そう自分に言い聞かせて、悠真は部屋を出た。
◇
返信が来たのは、昼休みだった。
会社の休憩スペースで、悠真がコンビニのサンドイッチを開けたところで、スマホが震えた。
『見た』
それから少し間を置いて、
『今日それ、かなり助かる』
さらに、
『今週、たぶんあんまり会えない』
その一文で、胸の奥が少しだけ静かになった。
あんまり会えない。
分かっていた。
映画の公開前で、取材や番組が増える。
理沙さんにもそう言われていた。
しらいさん自身も、忙しくなると話していた。
だから、驚くことではない。
それでも、言葉として届くと少しだけ寂しい。
悠真はしばらく画面を見てから、返信した。
『分かりました』
打ってから、消す。
少しだけ、昨日のすれ違いを思い出した。
そっけない文字は、思った以上に相手に刺さる。
打ち直す。
『寂しいですけど、分かりました』
送る。
すぐ既読がついた。
返事は、少し遅れて来た。
『そう言ってくれるほうが安心する』
続けて、
『私も寂しい』
その短い一文だけで、胸の奥が少しほどける。
言っていいのだ。
寂しいと。
会えないことを、平気なふりで包まなくていい。
『無理に会おうとしなくていいです』
悠真は続けて送る。
『でも、声聞ける日があったら教えてください』
既読。
『うん』
『写真もほしい』
『コースターの?』
『うん。あとマグカップ』
『何度でも送ります』
『知ってる』
その“知ってる”を見て、悠真は少しだけ笑った。
「春日」
向かいの席から三崎が顔を出した。
「何」
「その顔、彼女と連絡してる顔だな」
「見なくていい」
「いや、分かりやすいから」
「お前、最近そればっかりだな」
「だって分かりやすいんだもん」
三崎はコーヒーを飲みながら、少しだけ真面目な顔をした。
「会えない系?」
悠真は、サンドイッチの包みを置いた。
「……まあ」
「そっか」
「仕事が忙しいらしい」
「向こうが?」
「うん」
「そりゃまあ、あるよな」
三崎は軽く言ってから、少し間を置いた。
「でも、ちゃんと言われてるならいいんじゃね」
「どういう意味だよ」
「何も言われないで距離空くより、忙しいから会えないって言われるほうが、まだ一緒に考えられるだろ」
悠真は少し黙った。
三崎は、こういうときだけ妙にそれらしいことを言う。
「漫画?」
「今回は俺」
「珍しいな」
「俺だってたまには自力で言うわ」
「そうか」
「まあ、寂しいなら寂しいって言っとけよ」
「……言った」
「お」
「何だよ」
「成長してる」
「うるさい」
「いや、いいじゃん。前のお前なら、分かりました、で終わらせて夜に一人でへこんでた」
図星だったので、悠真は何も言えなかった。
三崎は満足そうに笑って、自分の席へ戻っていく。
「たまにはいいこと言いますね、って顔してる」
「してない」
「してた」
「仕事しろ」
「昼休みだって」
やり取りはいつも通りだった。
でも、少しだけ助かった。
◇
その週は、本当に会えなかった。
金曜の夜も、土曜も、日曜も。
正確には、連絡はあった。
しらいさんは短いメッセージをくれたし、悠真もコースターとマグカップの写真を送った。
夜遅くに三分だけ電話した日もあった。
けれど、会えない。
河川敷にも行かない。
部屋にも来ない。
途中で呼ばれることもない。
ただ、画面の向こうの文字と声だけがある。
土曜の夜、悠真は一人で部屋にいた。
ローテーブルの上には、自分のカップ。
隣には、しらいさんの空いたコースター。
何となく、彼女のマグカップを棚から下ろす。
使わないまま、コースターの上に置いた。
ことん。
小さな音がする。
それだけで、部屋の中に彼女の気配が少し増える。
おかしいなと思う。
空のカップを置いただけで、こんなに落ち着くなんて。
でも同時に、少し寂しい。
空のカップは、あくまで空のままだ。
スマホを見る。
しらいさんからの最新メッセージは、夕方のものだった。
『これから収録二本』
それに悠真は、
『終わったらちゃんと食べてください』
と返した。
既読はついている。
返事はない。
忙しいのだろう。
分かっている。
分かっていることと、寂しくないことは、同じではない。
悠真は、空のマグカップを眺めながら、ゆっくり息を吐いた。
そのとき、スマホが震えた。
しらいさんからだった。
『終わった』
時間は二十三時を少し回っていた。
すぐに返信する。
『おつかれさまです。食べましたか』
少しして、
『食べた』
『本当に?』
『少し』
『少しは食べたに入りません』
『春日くんが厳しい』
『心配してます』
既読。
しばらく間が空いて、
『知ってる』
そのあとに、
『声、少しだけ聞きたい』
悠真はすぐに返した。
『電話できます』
すぐ着信が来た。
「もしもし」
「……春日くん」
声が、かなり疲れていた。
「おつかれさまです」
「うん」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないけど、壊れてはいない」
「その表現、少し怖いですね」
「今日は、それくらい」
電話の向こうで、車の走る音がする。
タクシーの中だろうか。
「移動中ですか」
「うん。帰るところ」
「家に?」
「うん。今日はまっすぐ帰る。理沙さんに言われなくても」
「偉いです」
「雑に褒めた」
「本当に偉いと思っています」
「じゃあ、よし」
彼女の声が少しだけ和らぐ。
「春日くん」
「はい」
「コースター、ある?」
「あります」
「マグカップ」
「今、コースターの上に置いてます」
「え」
「空ですけど」
「……何で」
「何となく」
「春日くん」
「はい」
「それ、今日かなりだめ」
「だめでしたか」
「うれしいほう」
電話の向こうで、彼女が小さく息を吐いた。
「見たい」
「写真送ります」
「うん」
悠真は通話をつないだまま、カメラを起動した。
ローテーブルの上に置かれた、彼女のマグカップ。
青灰色のコースター。
隣に自分のカップ。
写真を送る。
「送ったよ」
「見る」
少し沈黙。
「……ほんとに置いてる」
「置いてます」
「私、今日そこにいないのに」
「はい」
「でも、場所ある」
「あります」
「……うん」
その“うん”は、疲れた声の奥で少しだけ震えていた。
「春日くん」
「はい」
「会いたい」
まっすぐだった。
声も小さい。
疲れている。
たぶん、いつもなら少し照れてごまかすところだ。
でも今夜は、そのまま言った。
悠真は、胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。
「俺も会いたいです」
「うん」
「かなり」
「……うん」
「でも、今日は帰って寝てください」
「知ってる」
「会いたいですけど」
「うん」
「寝てほしいです」
「……春日くん」
「はい」
「そういうの、今かなり彼氏っぽい」
「彼氏なので」
「……まだそれ慣れない」
「俺もです」
「でも、聞きたい」
「じゃあ、言います」
「うん」
「彼氏なので、今日は寝てほしいです」
電話の向こうで、しらいさんが小さく笑った。
「何それ」
「自分でも少し恥ずかしいです」
「でも、うれしい」
「ならよかった」
「出た」
「出ますよ」
少しの沈黙。
タクシーの音が遠く流れている。
「春日くん」
「はい」
「会えないの、思ったよりしんどいね」
「はい」
「付き合う前も会えない日はあったのに」
「うん」
「今のほうが、ちゃんと寂しい」
「……分かります」
「ちゃんと寂しいって、変な言い方」
「でも、分かります」
「うん」
彼女は少しだけ息を吸った。
「でも、写真あると少しまし」
「何度でも送ります」
「マグカップ、毎日撮って」
「毎日ですか」
「嫌?」
「嫌じゃないです」
「早い」
「撮ります」
「……ほんとに?」
「はい」
「じゃあ、私も何か送る」
「無理しないでください」
「無理じゃないやつ」
「例えば」
「紙コップとか」
「控室の?」
「うん。私がいる場所」
「いいですね」
「春日くんの部屋と、私の控室」
「交換ですか」
「うん。場所の交換」
場所の交換。
その言葉が、胸に残った。
会えない。
でも、互いのいる場所を少しずつ送り合う。
コースターとマグカップ。
控室の紙コップ。
移動中のペットボトル。
そうやって、会えない時間の中に小さな橋を作る。
「いいですね」
悠真は言った。
「かなり」
「春日くんがかなりって言った」
「使いますよ」
「うれしい」
しらいさんの声が、ほんの少しだけ明るくなった。
「明日も早いですか」
「早い」
「じゃあ、そろそろ」
「うん。切らなきゃ」
「寝てください」
「うん」
「おやすみなさい」
「春日くん」
「はい」
「マグカップ、棚に戻してから寝て」
「分かりました」
「コースターは」
「そのまま」
「よし」
「採点制ですか」
「今日は百点」
「高いですね」
「会えなかったけど、ちゃんとつながったから」
悠真は、少しだけ黙った。
「……そうですね」
「うん」
「明日も写真送ります」
「待ってる」
「知ってます」
「取られた」
「たまには」
電話の向こうで、彼女が笑った。
疲れているのに、少しだけいつもの笑い方だった。
「おやすみ、春日くん」
「おやすみなさい」
通話が切れる。
部屋はまた静かになった。
悠真は、ローテーブルの上のマグカップを見る。
しらいさんのカップは、まだ空のままだ。
それでも、さっきより少し寂しくない。
会えない日は続く。
たぶん、これから何度もある。
仕事が忙しい。
時間が合わない。
外で会うには気をつけなければならない。
でも、会えない時間をただ空白にしない方法を、二人は少しずつ覚え始めている。
悠真はマグカップを棚に戻した。
コースターは、そのままにする。
そこに彼女はいない。
でも、戻ってくる場所はある。
そのことを確かめてから、部屋の明かりを落とした。




