第40話 まっすぐ帰る夜に、君の居場所をもう一度たしかめる
相沢理沙の背中がタクシー乗り場のほうへ消えていったあと、しらいさんはしばらく何も言わなかった。
駅から少し離れた通りは、夜の湿り気を残していた。
雨上がりの舗道が街灯をぼんやり返し、足元の影がいつもより濃く見える。
春日悠真も、すぐには歩き出せなかった。
緊張が、まだ体の中に残っている。
喫茶店の奥の席。
向かいに座った理沙さんの目。
落ち着いた声。
投げかけられた質問。
あなたは、彼女の立場をどこまで理解していますか。
それでも?
ひとつひとつは丁寧だった。
責めるための言葉ではなかった。
けれど、どれも軽くはなかった。
その重さが、店を出た今も肩に残っている。
「春日くん」
しらいさんが、小さく呼んだ。
「はい」
「ごめんね」
その声があまりに自然に落ちてきたので、悠真は少しだけ返事に遅れた。
「何がですか」
「巻き込んだ」
「それ、何回も言わなくていいです」
「でも、言いたくなる」
「じゃあ、何回でも違うって言います」
しらいさんは少しだけ目を伏せた。
「違う?」
「はい」
悠真は、濡れた路面を一度見てから、彼女に視線を戻した。
「俺が行くって決めました」
「……うん」
「しらいさんが大事にしてる人に、ちゃんと会いたいと思いました」
「うん」
「だから、巻き込まれたんじゃなくて、俺が行ったんです」
しらいさんは黙った。
それから、息を吐くように笑った。
「春日くん、今日ずっと強いね」
「かなり無理してます」
「言うんだ」
「言います。さすがに疲れました」
「私も」
二人で、少しだけ笑った。
その笑いは大きくはなかった。
けれど、ようやく喫茶店の緊張から少しだけ抜け出せた気がした。
駅へ向かって歩き出す。
しらいさんは、隣で少しだけ肩を丸めていた。
黒いコートの袖口から覗く指先が、何かを探すように一瞬だけ動く。
悠真はそれに気づいたが、人通りのある道で手を取ることはしなかった。
代わりに、歩く速度を彼女に合わせた。
「理沙さん」
悠真が言う。
「はい」
「怖い人ではなかったです」
「うん」
「でも、すごい人でした」
「そうでしょ」
「はい。何というか……ちゃんと見てる人でした」
「うん。そうなの」
しらいさんの声に、少しだけ誇らしさが混じった。
「理沙さん、昔からああいう人?」
「うん。言い方きついときもあるけど、見てないふりはしない人」
「それは分かりました」
「春日くんのことも、ちゃんと見てた」
「かなり見られてました」
「緊張した?」
「しました」
「顔、ちょっと固かった」
「たぶん肩も四角かったです」
「四角い?」
「三崎に言われました」
「ああ、うるさい同僚さん」
「その覚え方なんですね」
「だって、うるさいんでしょ」
「うるさいですけど、今日は少し助けられました」
「へえ」
しらいさんが、少しだけ楽しそうな顔をする。
「何て?」
「ちゃんとしようとしすぎて変なこと言うなって」
「三崎さん、かなり当たってる」
「腹立つんですけどね」
「でも、いい人そう」
「たぶん」
「いつか会ってみたい」
「それはまた別の緊張があります」
「春日くん、緊張すること増えたね」
「しらいさんと付き合ってから、わりと」
「ごめん」
「謝るところじゃないです」
「じゃあ、ありがとう?」
「それも違う気がします」
「難しいなあ」
いつもの調子に戻りかけて、二人とも少し安心した。
駅の明かりが近づいてくる。
改札前には、帰宅する人たちが流れている。
しらいさんは、少しだけ足を緩めた。
「本当はね」
「はい」
「今日、春日くんの部屋に行きたかった」
悠真の胸が、小さく鳴った。
「……はい」
「ミルクティー飲んで、カップ置いて、ちょっとだけ何も考えたくなかった」
「俺も、来てほしかったです」
「でも」
「理沙さんに、まっすぐ帰るように言われました」
「うん」
しらいさんは、少し悔しそうに笑った。
「寄り道禁止」
「守りましょう」
「春日くん、真面目」
「今日くらいは」
「今日だけ?」
「いえ。たぶん、これからも」
言ってから、悠真は少しだけ息を整えた。
「理沙さんに言われたから、というより」
「うん」
「約束を守ることが、しらいさんを守ることになるなら、守りたいです」
「……」
「部屋に来てほしい気持ちはあります。でも、今日それを優先したら、たぶん違う気がします」
しらいさんは、黙ったまま悠真を見た。
人の流れの端で、二人だけが少しだけ立ち止まっている。
「春日くん」
「はい」
「今の、かなり大事にする」
「……はい」
「今日、部屋に行けないの残念だけど」
「はい」
「そう言ってくれたから、ちょっと大丈夫」
「ならよかった」
「出た」
「出ますよ」
「うん。今日は出ていい」
しらいさんは、小さく笑った。
改札前まで来ると、そこで本当に別れなければならなかった。
いつもなら、もう少し歩くこともできた。
部屋へ向かうこともできた。
河川敷に寄ることもできた。
けれど今日は、まっすぐ帰る。
たぶん、それが今日の二人に必要なことだった。
「春日くん」
「はい」
「帰ったら、写真ちょうだい」
「コースターですか」
「うん。マグカップも」
「分かりました」
「ずれてない?」
「ずれてません」
「本当に?」
「帰ったら確認して送ります」
「うん」
しらいさんは満足そうに頷いた。
それから、少しだけ声を落とす。
「今日、隣にいてくれてありがとう」
「俺のほうこそ」
「お礼合戦になる」
「なりますね」
「じゃあ、今日は引き分け」
「分かりました」
「また連絡する」
「待ってます」
「知ってる」
その言葉を残して、しらいさんは改札へ向かった。
数歩進んで、一度だけ振り返る。
マスク越しでも、少し笑っているのが分かった。
悠真は小さく頷いた。
彼女も頷き返して、人の流れの向こうへ消えていく。
残された悠真は、しばらくその場に立っていた。
今日は、会えた。
大事な人に会った。
認められたわけではない。
全部が解決したわけでもない。
それでも、何かが一つ進んだ。
それはたぶん、派手な前進ではない。
でも、ちゃんとした一歩だった。
◇
部屋に戻ると、いつもより静かに感じた。
靴を脱ぎ、上着をかけ、手を洗う。
そのままローテーブルの前に座った。
青灰色のコースターは、いつもの場所にある。
棚の上には、しらいさんのマグカップ。
悠真は、しばらくそれを見ていた。
今日、彼女はここへ来なかった。
来たかったけれど、来なかった。
約束を守るために。
そのことが、逆にこの部屋に彼女の気配を強く残していた。
悠真はスマホを取り出し、写真を撮る。
コースター。
マグカップ。
少し角度を変えて、ローテーブルの上が分かるように。
送信。
すぐに既読がついた。
『ずれてない』
『ずれてません』
『よし』
『今日も採点ですか』
『今日は百点』
悠真は少し笑った。
『高いですね』
『まっすぐ帰ったから』
『理沙さんの言いつけを守ったので?』
『それもある』
少し間が空く。
『でも、春日くんが守ろうって言ってくれたから』
その文を見て、胸の奥が温かくなる。
『俺も、本当は来てほしかったです』
『知ってる』
『でも、今日はこれでよかったと思います』
『うん』
『私もそう思う』
しらいさんの返信は、いつもより少しゆっくりだった。
疲れているのだろう。
それでも、一つひとつ言葉を選んでいる感じがした。
『春日くん』
『はい』
『理沙さん、怖かった?』
悠真は、少し考えてから返す。
『少し』
『でも、嫌な怖さではなかったです』
『ちゃんと見られている怖さでした』
既読がつく。
少しして、返事。
『分かる』
『理沙さん、そういう人』
『はい』
『しらいさんを大事にしてる人だと思いました』
今度は、返事が少し遅れた。
『うん』
『私も、そう思う』
また少し間が空いて、
『春日くんのことも、ちゃんと見てくれたと思う』
悠真はスマホを握り直した。
『そうだといいです』
『見てたよ』
『緊張してた春日くんも』
『それはあまり見られたくなかったです』
『でも、それも春日くん』
その言葉に、悠真は思わず息を吐いた。
喫茶店で、しらいさんが理沙さんに言ってくれた言葉と同じだ。
緊張しているところも含めて、春日くん。
それを、今もう一度送ってくれた。
『ありがとうございます』
『またお礼』
『言いたくなるので』
『知ってる』
しばらくメッセージが止まった。
悠真は、ローテーブルの上にスマホを置いて、しらいさんのコースターを見る。
今日はカップが乗っていない。
でも、そこは空いているだけで消えてはいない。
空いている場所が、次を待っている。
そう思うと、少しだけ落ち着いた。
着信が来たのは、その数分後だった。
しらいさんから。
悠真はすぐに出た。
「もしもし」
「……春日くん」
「はい」
「声、近い」
「電話なので」
「そうだけど」
彼女の声は少し眠そうだった。
でも、さっきのメッセージよりも近い。
「おつかれさまでした」
「春日くんも」
「今日は本当に」
「うん」
「頑張りましたね、俺たち」
「……うん。頑張った」
その“俺たち”が、思っていたよりうれしかったのか、彼女の声が少し柔らかくなった。
「理沙さん、最後に何て言ってたっけ」
「この子は放っておくと寄り道します」
「そこじゃない」
「アカリをよろしくお願いします」
「……うん」
「重かったです」
「ごめん」
「謝らないでください。うれしかったので」
「……そっか」
「はい」
「私も、あれ聞いてちょっと泣きそうだった」
「泣いてませんでしたよ」
「仕事の顔だったから」
「そうでしたね」
「でも、中身はちょっと危なかった」
しらいさんは小さく笑った。
「春日くん」
「はい」
「理沙さんに会わせてよかった」
「本当ですか」
「うん」
「俺、変なこと言ってませんでしたか」
「言ってない」
「固くなってましたよね」
「なってた」
「やっぱり」
「でも、ちゃんと春日くんだった」
「……」
「それがよかった」
悠真は、すぐには返せなかった。
言葉を探していると、しらいさんが先に続ける。
「私ね、今日ちょっと分かった」
「何をですか」
「春日くんを理沙さんに会わせるの、怖かったけど」
「はい」
「会わせたら、春日くんが遠くなるわけじゃなかった」
「……」
「むしろ、ちゃんと私の隣にいる人なんだって、少しはっきりした」
部屋の静けさの中で、その言葉はゆっくり染みた。
「俺も」
「うん」
「相沢さんに会ったら、しらいさんが遠くなるかもって少し思ってました」
「うん」
「でも、違いました」
「うん」
「白瀬アカリのマネージャーさんと話しても、しらいさんはしらいさんでした」
「……」
「俺の隣にいてくれたので」
電話の向こうで、しらいさんが黙った。
少し長い沈黙。
でも、悪いものではない。
「春日くん」
「はい」
「今日、部屋行かなくてよかったかも」
「え」
「行きたかったけど」
「はい」
「今、電話でこうやって話してるの、ちょうどいい気がする」
「……」
「ちゃんと約束守って、でも戻る場所はあるって確認して」
「はい」
「それで、今日は終われる」
悠真は、コースターを見る。
空いている場所。
彼女のマグカップ。
写真で送った、帰ってくる目印。
「そうですね」
「うん」
「今日は、これでよかったです」
「うん」
「でも、次は来てください」
「行く」
「即答」
「行きたいから」
今度は悠真が黙る番だった。
「春日くん?」
「……今の、かなり効きました」
「ならよかった」
「しらいさんが言った」
「言ってみた」
「いいですね」
「いい?」
「はい。かなり」
電話の向こうで、彼女が少し笑った。
「じゃあ、次に行ったら」
「はい」
「ミルクティー」
「用意します」
「スープも」
「また作ります」
「簡単なのでいいよ」
「簡単なのしか作れません」
「知ってる」
「知ってましたか」
「うん。でも、それがいい」
そんな他愛ないやり取りをしていると、今日の緊張が少しずつほどけていった。
理沙さんに言われたことは重い。
守るべき約束も増えた。
軽率には会えない。
写真も、時間も、場所も、これからもっと気をつける必要がある。
けれど、それは二人を遠ざけるだけのものではなかった。
守るための約束。
続けるための注意。
会うことを諦めないための線引き。
そう思えば、少しだけ前向きに受け止められる。
「春日くん」
「はい」
「今日は、もう寝たほうがいいかも」
「しらいさんも」
「うん。かなり眠い」
「でしょうね」
「でも、声聞けてよかった」
「俺もです」
「コースター」
「はい」
「そのまま?」
「そのままです」
「マグカップ」
「棚にあります」
「春日くん」
「います」
「……うん」
彼女は、安心したように小さく息を吐いた。
「おやすみ、春日くん」
「おやすみなさい」
「今日は、本当にありがとう」
「こちらこそ」
「また、お礼合戦になる」
「じゃあ、今日は引き分けで」
「うん。引き分け」
通話が切れた。
部屋に静けさが戻る。
悠真はスマホを置き、ローテーブルの上のコースターに指先で少しだけ触れた。
今日は、彼女はここへ来なかった。
でも、この場所はちゃんと彼女のままだった。
そして自分も、少しだけ変わった気がする。
ただ会いたいだけではなく、会い続けるために約束を守る。
ただ隣にいたいだけではなく、彼女を守る人たちとも向き合う。
それは簡単ではない。
でも、できないとは思わなかった。
次に彼女がこの部屋へ来たら、いつものようにミルクティーを出そう。
カップをコースターに置く音を聞こう。
今日のことを、少しずつ話そう。
そのための場所は、ちゃんとここにある。




