第39話 彼女を守る人と、ただの春日悠真
水曜日は、朝から妙に静かな日だった。
別に会社が静かだったわけではない。
電話は鳴る。メールは届く。上司はいつものように「春日くん、これ確認して」と声をかけてくるし、先輩は昼前になって「悪い、ちょっとだけ」と言いながら、ちょっとでは済まない修正を持ってくる。
それでも、春日悠真の耳には、いつもより遠く聞こえていた。
今日の夜、相沢理沙さんに会う。
その予定が、朝からずっと頭の奥にあった。
何度も確認した。
十九時半。
駅から少し離れた小さな喫茶店。
しらいさんと駅前で合流して、二人で店へ向かう。
ただそれだけのはずなのに、指先が落ち着かなかった。
「春日」
昼休み、三崎が隣の席に座ってきた。
今日は購買のパンではなく、コンビニのサラダチキンを持っている。珍しい。
「何」
「お前、今日いよいよ面接みたいな顔してる」
「……何で分かるんだよ」
「やっぱ面接なの?」
「面接ではない」
「じゃあ何」
「……彼女の関係者に会う」
「うわ、重い」
「言い方」
「いや、でも重いだろ、それ」
三崎は茶化すように言ったが、声は少しだけ真面目だった。
「相手、親?」
「違う」
「じゃあ仕事関係?」
「近い」
「なるほど。めっちゃ緊張するやつだ」
「かなり」
「お前、今日定時で帰る?」
「帰る」
「強いな」
「今日だけは」
「じゃあ、夕方に上から何か飛んできたら俺が少し止めてやる」
「え」
「全部は無理だけど。まあ、煙幕くらいなら」
「……珍しくいいやつだな」
「普段からいいやつだろ」
「それは微妙」
「そこは乗れよ」
三崎は笑った。
そして、少しだけ声を落とす。
「ちゃんと話せばいいんじゃね」
「何を」
「知らん。でも、お前、変に盛ると絶対不自然になるタイプだから」
「……」
「そのまま行け。で、緊張してるなら緊張してますって言えば」
「そんな簡単に」
「簡単じゃないから、言ったほうがいいんだろ」
悠真は返事に詰まった。
三崎は何も知らない。
しらいさんが誰なのかも、相手がどんな立場の人なのかも知らない。
それなのに、時々こうして妙に核心だけを持ってくる。
「……分かった」
「おう」
「ありがとう」
「お、素直」
「今日だけな」
「今日だけでも貴重だわ」
三崎はそう言って席を立った。
悠真は、少しだけ肩の力を抜いた。
◇
定時で会社を出るのは、思っていたより難しかった。
なぜか、こういう日に限って「今日中に」が降ってくる。
それでも悠真は、午前中から少しずつ先回りして仕事を片づけ、十七時半を過ぎたところで、上司に確認を取った。
「今日、予定があるので、残りは明日の朝に回しても大丈夫ですか」
「え、珍しいね。いいよ、急ぎじゃないし」
「ありがとうございます」
あっさり通った。
こんなことなら、もっと早く言えばよかったと思ったが、たぶん今日だから言えたのだ。
会社を出ると、雨は上がっていた。
路面だけが少し濡れていて、街灯をぼんやり反射している。
待ち合わせ場所には、十五分前に着いた。
駅前の時計台の近く。
人通りは多すぎず、少なすぎない。
しらいさんを待つには、少しだけ落ち着かない場所だった。
スマホを見る。
メッセージは来ていない。
その数分後、背後から声がした。
「春日くん」
振り返る。
しらいさんが立っていた。
今日は、少しだけ違った。
黒いロングコート。
髪は後ろで低くまとめられていて、キャップはない。
マスクはしているが、いつもの河川敷の気配より、白瀬アカリに近い。
仕事の場から完全には離れていない顔。
でも、目が合った瞬間だけ、少しだけしらいさんに戻った。
「……来ました」
「来るって知ってた」
「知ってる、じゃないんですね」
「今日はちょっと余裕ない」
「……俺もです」
「うん。顔で分かる」
そう言って、彼女はほんの少し笑った。
「大丈夫?」
「大丈夫ではないです」
「正直」
「かなり緊張してます」
「私も」
「しらいさんも?」
「するよ。何回も言ってるでしょ」
「分かってるんですけど、今日見ると意外で」
「春日くん、私のことたまに強い人だと思いすぎ」
「強い人ではありますよ」
「そう?」
「はい。でも、緊張する人でもある」
「……それ、今日ちょっと安心する」
しらいさんはそう言って、歩き出した。
悠真も隣に並ぶ。
店までは、駅から七分ほどだった。
大通りを避け、少し細い道に入る。
濡れた路面を車のライトが照らし、足元で光が揺れる。
しらいさんは周囲を確認するように、時々さりげなく視線を動かしていた。
悠真はそれを見て、改めて思った。
この人にとって、ただ誰かと店へ行くことさえ、普通ではないのだ。
店は、静かな通りにあった。
古い喫茶店のような外観で、木の扉と小さな看板。
窓には薄いカーテンがかかっていて、外から中はほとんど見えない。
入口の前で、しらいさんが足を止めた。
「春日くん」
「はい」
「何かあったら、私もちゃんと言うから」
「……はい」
「春日くん一人で頑張らなくていい」
「分かりました」
「ほんと?」
「たぶん」
「そこは、はいって言って」
「はい」
「よし」
彼女は小さく頷いた。
それから、一瞬だけ悠真の手に触れた。
つなぐほどではない。
本当に短く、指先が重なっただけ。
でも、それで十分だった。
「行こう」
「はい」
扉を開けると、コーヒーの香りがした。
◇
店内は、思っていたより小さかった。
カウンター席が数席と、奥に仕切られたテーブル席。
客はほとんどいない。
年配の店主らしき男性が、静かに「いらっしゃいませ」と言った。
しらいさんが名前を告げると、店主は頷き、奥の席へ案内した。
そこに、相沢理沙さんはいた。
黒のジャケット。
白いブラウス。
髪はきれいにまとめられている。
派手ではない。
けれど、一目で分かる。
この人は、場の空気を乱さないまま支配できる人だ。
理沙さんは立ち上がり、しらいさんを見る。
「お疲れさま、アカリ」
「お疲れさまです」
その返事は、白瀬アカリの声だった。
けれど、しらいさんはすぐに悠真のほうを見た。
大丈夫、と言うような視線だった。
理沙さんの目が、悠真に向く。
「相沢理沙です。白瀬のマネージャーをしています」
「春日悠真です。本日は、お時間をいただきありがとうございます」
声が少し硬い。
自分でも分かった。
理沙さんはそれを見抜いたように、少しだけ目元を緩めた。
「そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ」
「……はい」
「と言っても、難しいでしょうけど」
「正直、かなり緊張しています」
「そうでしょうね」
あっさり言われて、少しだけ呼吸が戻った。
三人で席に座る。
しらいさんは悠真の隣。
理沙さんは向かい。
店主が飲み物を聞きに来た。
理沙さんはブレンド。
しらいさんはミルクティー。
悠真は迷って、同じくブレンドを頼んだ。
注文が終わり、店主が下がると、テーブルの上に静かな空白ができた。
理沙さんが先に口を開いた。
「今日は、来てくださってありがとうございます」
「こちらこそ」
「本当は、もう少し先でもよかったのですが」
「……はい」
「先延ばしにすると、かえってお互いに構えてしまうと思いまして」
「それは、かなりあります」
「でしょうね」
理沙さんは淡々と言う。
冷たいわけではない。
けれど、言葉に無駄がない。
「まず確認しておきます。私は、あなたを責めるために呼んだわけではありません」
「はい」
「ただ、白瀬アカリのマネージャーとして、そして彼女を近くで見てきた人間として、あなたがどういう方なのかを知っておきたい」
「……はい」
「その上で、必要なことを話したいと思っています」
「分かりました」
理沙さんはそこで、しらいさんを見た。
「アカリ、ここからはあなたも話して」
「はい」
「春日さん一人に背負わせる話ではないから」
「……はい」
しらいさんの手が、膝の上で少しだけ動いた。
悠真はそれに気づいたが、今は触れなかった。
コーヒーとミルクティーが運ばれてくる。
マグカップではない。
白い陶器のカップ。
それでも、しらいさんがミルクティーを両手で包む仕草は、悠真の部屋で見るものと少し似ていた。
そのことに、少しだけ救われる。
「春日さん」
理沙さんが言った。
「はい」
「白瀬とは、どこで知り合ったんですか」
「河川敷です」
「……本当に河川敷なんですね」
「はい」
「アカリからも聞きましたが、改めて聞くと不思議な始まりですね」
「俺もそう思います」
「その時点で、彼女が白瀬アカリだと気づいていましたか」
「気づいていました」
「本人は認めた?」
「認めませんでした」
「そうでしょうね」
理沙さんがしらいさんを見る。
しらいさんは、少しだけ視線を逸らした。
「認めたら終わる気がしたので」
「何が?」
「そこが、ただの逃げ場じゃなくなる気がして」
理沙さんは黙って頷いた。
それから、また悠真を見る。
「気づいていたのに、なぜ何もしなかったんですか」
「何もしないほうがいいと思ったからです」
「どうして?」
「彼女が、そうしてほしそうだったので」
「……」
「白瀬アカリとして見つけられたいわけじゃなくて、ただ疲れて座っていた人に見えました」
「……」
「だから、騒がないほうがいいと思いました」
理沙さんは、少しだけカップに手を伸ばした。
飲まずに、ただ持つ。
「その判断ができる人は、少ないと思います」
「……たまたまです」
「たまたまでも、しなかったことは事実です」
「はい」
「写真も撮らなかった」
「撮っていません」
「誰かに話した?」
「話していません」
「今も?」
「はい」
そこで理沙さんの目が少し細くなる。
「会社の同僚などに、気づかれかけたことは?」
「……あります」
「ありますか」
「はい。俺の反応が分かりやすかったようで」
「誰に?」
「三崎という同僚です」
「彼は白瀬のことを?」
「知りません。芸能人としては知っていると思いますが、俺との関係は何も」
「信用できる方ですか」
「うるさいですが、悪い人ではありません」
「うるさい」
理沙さんが、そこで初めて少しだけ表情を崩した。
しらいさんも小さく笑う。
「春日くん、三崎さんの説明そればっかり」
「事実なので」
「いつか会ってみたい」
「やめたほうが」
「それはまた別の話ね」
理沙さんが静かに戻す。
やはり、この人は場の流れを戻すのがうまい。
「春日さん」
「はい」
「あなたは、彼女の立場をどこまで理解していますか」
来た。
昨夜、練習した問いに近い。
けれど、本物の理沙さんの声で聞くと、重さが違った。
悠真はカップから手を離し、姿勢を正した。
「全部は理解していません」
「……」
「俺はその世界の人間ではないので」
「はい」
「分かっているふりをしたら、たぶん危ないと思っています」
「危ない?」
「はい。大丈夫だと思い込んで、しらいさんに迷惑をかけるかもしれないので」
「……」
理沙さんは、今度は訂正しなかった。
しらいさん、と呼んだことにも触れない。
「続けてください」
「だから、分からないことは聞きます。気をつけなければいけないことは、ちゃんと教えてもらいたいです」
「……」
「会う場所や時間も、俺だけで判断しないようにします」
「……」
「でも」
「はい」
「危ないから会わない、という方向にはしたくありません」
しらいさんが隣で息を止めたのが分かった。
悠真は続ける。
「彼女が大事なので」
「……」
「ちゃんと会えるやり方を、一緒に考えたいです」
言い終えたあと、しばらく誰も話さなかった。
店の奥から、カップを置く小さな音がした。
それだけが聞こえる。
理沙さんは、ゆっくりコーヒーを一口飲んだ。
「アカリ」
「はい」
「あなたから見て、今の言葉はいつもの春日さん?」
「……はい」
「背伸びしている?」
「してます」
「しているのね」
「緊張しているので」
「なるほど」
「でも、嘘ではないです」
「そこは分かるの?」
「分かります」
しらいさんは、はっきり言った。
「春日くんは、緊張すると少し固くなります。でも、嘘は言っていません」
「……そう」
「はい」
その言葉に、悠真は胸の奥が少し熱くなる。
理沙さんは、もう一度悠真を見る。
「春日さん」
「はい」
「白瀬アカリと付き合うということは、普通の恋愛とは違います」
「はい」
「会うだけでも注意が必要です。写真を撮られれば、あなたの生活にも影響が出る可能性があります」
「はい」
「彼女が忙しければ、会えない日も続く。約束が急に消えることもある」
「はい」
「あなたが望む形の恋愛には、ならないかもしれません」
「……はい」
ひとつひとつが、重かった。
でも、逃げたいとは思わなかった。
「それでも?」
理沙さんが聞く。
悠真は、少しだけしらいさんを見た。
彼女は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
不安そうで、でも逃げていない目だった。
「それでも」
悠真は言った。
「はい」
「普通と違うなら、違うなりに一緒に考えます」
「……」
「正直、寂しい日もあると思います」
「……」
「不安になる日もあると思います」
「……」
「でも、それを黙って溜め込まずに話すことは、最近少しずつ覚えました」
「……」
「だから、続けたいです」
「……」
「彼女と」
理沙さんは、目を逸らさなかった。
長い数秒だった。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「思っていたより、正直ですね」
「……」
「もう少し、綺麗な答えを用意してくるかと思いました」
「用意しようとはしました」
「でしょうね」
「でも、たぶん俺には無理でした」
「それは、見れば分かります」
理沙さんの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「私は、あなたをまだ信用したわけではありません」
「はい」
「今日一度会っただけで、安心するほど甘くもありません」
「はい」
「でも、今すぐ離れなさいと言う理由も、今のところありません」
「……ありがとうございます」
お礼が出た。
理沙さんは少しだけ眉を上げた。
「そこでお礼を言うんですね」
「すみません」
「謝らなくていいです。アカリから聞いていた通りですね」
「何を聞いていたんですか」
「春日さんは、変なところで律儀だと」
「……」
しらいさんが横で、少しだけ笑いをこらえている。
「それは言わなくても」
「言ったわ」
「理沙さん」
「事実でしょう」
しらいさんが、少しだけ拗ねた顔をした。
その顔を見て、悠真は思った。
今、彼女は白瀬アカリでもあり、しらいさんでもある。
そしてその両方を、理沙さんはちゃんと見ている。
「春日さん」
「はい」
「いくつか、約束してください」
「はい」
「彼女とのことを、不用意に人へ話さないこと」
「はい」
「会う場所は、しばらく慎重に選ぶこと」
「はい」
「彼女が無理をしていると感じたら、あなたの希望より休むことを優先すること」
「はい」
「そして」
「はい」
「困ったときは、彼女一人に抱えさせないこと」
「……はい」
最後の一つが、いちばん胸に残った。
理沙さんはしらいさんを見た。
「あなたもよ」
「……はい」
「春日さんに心配をかけたくないからと、黙って無理をしない」
「はい」
「会えないなら会えない。疲れているなら疲れている。必要なら、ちゃんと伝える」
「……はい」
「恋愛をするなら、仕事に隠すだけではなく、管理も必要になる」
「分かっています」
「まだ分かってない顔ね」
「……」
「これから分かればいいわ」
その言い方は厳しかった。
でも、どこか優しかった。
話は一時間ほどで終わった。
終盤には、もう少し現実的な確認もあった。
連絡の取り方。
写真を残すときの注意。
外で会うときの場所選び。
もし誰かに見られた場合の対応。
悠真は、それを一つずつ聞いた。
難しいことばかりだった。
でも、聞けてよかったと思った。
知らないまま怖がるより、知ったうえで気をつけるほうがずっといい。
店を出るころには、雨は完全に止んでいた。
理沙さんは店の前で立ち止まり、悠真に向き直った。
「春日さん」
「はい」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「また必要があれば、お話しさせてください」
「はい」
「……アカリを、よろしくお願いします」
その一言で、悠真は少しだけ息を止めた。
認められた、というにはまだ早い。
でも、預ける言葉だった。
悠真は深く頭を下げた。
「はい」
理沙さんはしらいさんを見る。
「今日はまっすぐ帰ること」
「はい」
「寄り道は?」
「……」
「アカリ」
「しません」
「よろしい」
しらいさんが少しだけ不満そうな顔をする。
理沙さんはそれを見て、ほんのわずかに笑った。
「春日さん」
「はい」
「この子は、放っておくと寄り道します」
「知っています」
「でしょうね」
そう言って、理沙さんは先に歩いていった。
タクシーが停まっている場所へ向かう背中は、やはり隙がなかった。
その背中が見えなくなってから、しらいさんは小さく息を吐いた。
「……終わった」
「終わりましたね」
「春日くん」
「はい」
「生きてる?」
「ぎりぎり」
「私も」
二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。
笑った瞬間、ようやく呼吸が戻ってきた気がした。
「春日くん」
「はい」
「ちゃんと春日くんだった」
「……そうでしたか」
「うん」
「かなり緊張してましたけど」
「それも春日くん」
「それもですか」
「それも」
しらいさんは、ほんの少しだけ手を伸ばした。
人通りがあるから、触れるのは一瞬だけ。
指先が重なる。
「ありがとう」
「お礼は俺のほうです」
「またそれ」
「言いたいので」
「……春日くんらしい」
彼女は小さく笑った。
その笑顔は、今日いちばんしらいさんらしかった。




