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河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第38話 会う日が決まると、練習では済まなくなる

 朝から、雨が細く降っていた。


 傘を差すほどではない。

 けれど、何も差さずに歩けば髪や肩にじわじわ染みてくる、いちばん判断に困る雨だった。


 春日悠真は駅前のコンビニでビニール傘を買うか迷い、結局買わずに会社へ向かった。

 信号待ちのあいだ、肩に落ちた雨粒を軽く払う。

 そのとき、ふと昨夜のことを思い出した。


 しらいさんが玄関先で言った。


「練習しても、照れても、ちゃんと戻れる」


 その言葉は、部屋の空気ごとまだ胸に残っている。


 マグカップ。

 コースター。

 温かいミルクティー。

 理沙さん役をしていたはずなのに途中で照れてしまったしらいさん。


 思い出すと、少しだけ気持ちが軽くなる。


 けれど、同時に分かっていた。


 あれは練習だ。

 練習だから笑えた。

 練習だから途中でやめられた。


 本当に相沢理沙さんに会う日が来たら、途中で「しらいさんに戻った」と笑って逃げることはできない。


 エレベーターでオフィス階へ上がり、自分の席に着く。

 パソコンを立ち上げたところで、三崎がコーヒーを片手にやってきた。


「春日」

「何」

「今日、顔が雨」

「何だその表現」

「晴れてはないけど、土砂降りでもない」

「天気予報みたいに人の顔を見るな」

「何かあるだろ」

「仕事だよ」

「仕事でそんな細かい雨みたいな顔になるか?」

「なるだろ、普通」

「お前の場合、恋愛が絡むともっと分かりやすい」


 悠真は返事をしなかった。


 三崎は勝手に椅子を引き寄せ、隣に座る。


「彼女関係?」

「……」

「その沈黙、はいだな」

「うるさい」

「何。喧嘩?」

「違う」

「じゃあ、また何か進展?」

「進展、なのかは分からない」

「面倒な言い方するなあ」

「本当に分からないんだよ」


 三崎は少しだけ眉を上げた。

 いつものように茶化すかと思ったが、今日はそうしなかった。


「まあ、話せないならいいけど」

「最初からそうしてくれ」

「でも一個だけ」

「何」

「進展か分からないことって、大体あとから進展だったって分かるぞ」

「漫画か?」

「今回は人生観」

「急に薄くなったな」

「うるせ」


 三崎は笑って立ち上がった。


「ま、固まりすぎるなよ。お前、ちゃんとしようとすると肩が四角くなるから」

「四角く?」

「うん。今ちょっと四角い」


 そう言い残して戻っていく。


 腹立たしい。

 でも、たぶん少し当たっている。


 悠真は自分の肩を軽く回して、仕事に向かった。


    ◇


 昼を少し過ぎたころ、スマホが震えた。


 しらいさんからだった。


『理沙さんから連絡来た』


 その一文を見ただけで、指先が少し止まる。


 続けて、もう一通。


『来週の水曜の夜、少し時間取れるかって』


 会う日だ。


 画面の文字を見た瞬間、悠真の中で、昨夜までまだ少し遠くにあったものが急に目の前へ来た。


 来週の水曜。

 夜。

 少し時間。


 具体的になるだけで、こんなにも違う。


 悠真は、何度か文字を打ち直してから送った。


『行けます』


 すぐに既読がついた。


『早い』


『行くと決めていたので』


 少し間があって、返信。


『私も一緒に行く』


 悠真はその文を見て、少し息を吐いた。


『はい』


『場所は、理沙さんが選ぶって』


『たぶん事務所じゃなくて、人目の少ない店』


『分かりました』


 送ってから、心臓が少しうるさくなる。


 店。

 相沢理沙さん。

 しらいさんと一緒に。


 頭の中で、その場面が勝手に組み立てられていく。

 知らない大人の女性が、こちらを見る。

 穏やかだけれど、逃げ場のない目で。


 あなたは白瀬アカリとどういう関係ですか。

 彼女の立場を理解していますか。

 利用しませんか。


 昨夜の練習の言葉が、急に本物の重さを持ち始める。


 スマホがまた震えた。


『春日くん』


『はい』


『今、かなり緊張してる?』


 悠真は、少しだけ迷ってから正直に返す。


『かなり』


 すぐに返ってくる。


『私も』


 その三文字で、少しだけ救われた。


 自分だけじゃない。

 彼女も緊張している。


『今日、会えますか』


 そう送ると、しらいさんからの返事は少し遅れた。


『仕事終わったら、部屋に行きたい』


 悠真はすぐに返した。


『来てください』


『知ってる』


 そのいつもの言葉で、ようやく少しだけ呼吸が戻った。


    ◇


 その日の仕事は、手元の作業が妙に細かく感じられた。


 数字を確認していても、誤字を直していても、頭のどこかで水曜の夜のことを考えてしまう。

 そのたびに、悠真は意識して深く息を吸った。


 まだ今日ではない。

 まだ来週だ。

 今日は、まずしらいさんと話す。


 そうやって何度も自分に言い聞かせた。


 会社を出たのは、いつもより少し早い時間だった。

 駅前のスーパーで、簡単に食べられるものを買う。

 しらいさんが来るなら、ちゃんとした食事というほどではなくても、何か温かいものがあったほうがいい。


 迷った末に、野菜スープの材料と、惣菜の小さな鶏団子を買った。

 料理と呼べるほどではない。

 鍋に入れて温めるだけだ。

 でも、コンビニの袋をそのまま開けるよりは少しだけ“部屋で待つ”感じがした。


 家に着くと、最初にローテーブルを確認する。


 コースターはそのまま。

 マグカップも、棚にある。


 悠真は手を洗い、上着を脱ぎ、スープを温め始めた。

 鍋から湯気が上がる。

 狭い部屋に、少しだけ生活の匂いが広がっていく。


 インターフォンが鳴ったのは、スープがちょうど温まったころだった。


 ドアを開けると、しらいさんが立っていた。


 今日はキャップを深めにかぶり、黒いマスクをしている。

 ベージュのニットに、長めのコート。

 外は雨がまだ細く降っていたらしく、肩に小さな水滴が残っていた。


「……来た」

「おかえり、でいいですか」

「……それ、今ちょっとだめ」

「だめでしたか」

「うれしいほう」

「ならよかった」

「早い」


 彼女は靴を脱ぎ、部屋に上がった。


 そしてやはり、最初にコースターを見る。

 次に、棚のマグカップ。


「ある」

「あります」

「今日は、ちゃんと見たい日だった」

「見てください」

「うん」


 しらいさんはコートを脱ぎ、丁寧に畳んで椅子の背にかけた。

 その動作がいつもより少しだけゆっくりで、彼女もかなり緊張しているのが分かった。


「何か温かいもの作りました」

「え」

「作ったというか、温めただけですけど」

「春日くんが?」

「そこまで驚きます?」

「驚く」

「失礼だな」

「でも、かなりうれしい」


 しらいさんはローテーブルの前に座り、少しだけ肩を落とした。


 悠真はスープを器によそい、二人分を運ぶ。

 しらいさんの前には、いつものコースターの横へそっと置いた。


「いただきます」

 彼女が小さく言う。

「どうぞ」

「春日くんは?」

「いただきます」


 二人でスープを飲む。


 鶏団子と野菜だけの簡単なものだったが、しらいさんは一口飲んで、少しだけ目元を緩めた。


「おいしい」

「本当に?」

「本当に」

「ならよかった」

「今日は、それかなり効く」

「そういう日ですか」

「そういう日」


 しばらく、食事の音だけが続いた。


 スプーンが器に触れる音。

 湯気。

 雨の音。

 部屋の外を通る車の気配。


 妙に落ち着く。

 けれど、その下に緊張が沈んでいる。


「春日くん」

「はい」

「水曜」

「はい」

「大丈夫?」

「……大丈夫ではないです」

「正直」

「かなり緊張してます」

「うん」

「でも、行きます」

「知ってる」

「……」

「何で黙るの」

「その返し、今日はいつもより安心します」

「……そっか」

「はい」


 しらいさんはスープの器を少しだけ両手で包んだ。


「場所、理沙さんからさっき来た」

「どこですか」

「事務所の近くじゃなくて、少し離れた小さい喫茶店」

「喫茶店」

「夜は予約制の個室っぽい席があるところ。人目はかなり少ないって」

「……分かりました」

「水曜の十九時半」

「行けます」

「会社は?」

「定時で出れば」

「無理しないで」

「水曜は、意地でも定時で出ます」

「……春日くん、たまにそういうとこ強い」

「今日は強くしておきます」

「じゃあ、私は少し安心する」

「少し?」

「かなり」


 しらいさんは、そう言って少し笑った。


 でもすぐに、その笑みは薄くなる。


「理沙さん、たぶん厳しいことも聞くと思う」

「はい」

「でも、怒ってるわけじゃない」

「はい」

「春日くんを困らせたいわけでもない」

「分かっています」

「うん」

「それでも困るとは思います」

「……ごめん」

「謝らないでください」

「でも」

「しらいさんの大事な人に会うんですから、困るくらいが普通です」

「……」

「困らないほうが、たぶん不自然です」

「春日くん」

「はい」

「今の、すごく春日くん」

「どういう意味ですか」

「分からないけど、すごくそう思った」


 彼女は少しだけ笑った。

 その笑いで、部屋の空気がほんの少し戻る。


 食事を終えたあと、しらいさんは自分のマグカップでミルクティーを飲んだ。

 コースターの上にカップを置く音がする。


 ことん。


 その音を聞いて、彼女は小さく息を吐いた。


「やっぱり、ここに来てよかった」

「何か落ち着きました?」

「少し」

「よかった」

「出た」

「出ますよ」

「うん。今日は出して」


 彼女はマグカップを見つめる。


「水曜の前に、ここでご飯食べられてよかった」

「まだ水曜ではないですけど」

「うん。でも、決まった日にここへ来られたから」

「……」

「練習じゃなくて、普通にスープ飲めたから」

「はい」

「たぶん、大丈夫って思える」

「……俺もです」


 悠真も、自分のコーヒーを手に取った。


「俺、相沢さんに会うとき、うまく話せるかは分かりません」

「うん」

「でも、ここでしらいさんとこうしてることは、本当なので」

「うん」

「それだけは、ちゃんと持っていきます」

「……」

「マグカップとか、コースターとか、スープとか」

「理沙さんにスープの話するの?」

「しないかもしれません」

「しないんだ」

「でも、気持ちとしては持っていきます」

「……うん」


 しらいさんは少しだけ目を細めた。


「それでいいと思う」

「はい」

「春日くんが、私との時間をちゃんと大事にしてるって伝われば」

「……」

「たぶん、理沙さんにも少しは伝わる」

「そうだといいです」

「伝わるよ」

「なぜ」

「私が伝わってるから」

「……」

「何で黙るの」

「今の、かなり効いたので」

「ならよかった」

「しらいさんが言うと新鮮ですね」

「たまには言う」


 そう言って、彼女は少し得意そうにミルクティーを飲んだ。


 雨はまだ細く降っていた。


 その音を聞きながら、二人は水曜のことを少しずつ確認した。

 待ち合わせ場所。

 店までの行き方。

 もし悠真が仕事で遅れそうになった場合の連絡。

 会ったあと、帰りはどうするか。


 ひとつひとつ確認していくと、不安は完全には消えないが、輪郭だけは見えてくる。


 見えないものは怖い。

 見え始めたものも怖い。

 けれど、対処はできる。


「春日くん」

「はい」

「当日、私たぶん少し白瀬アカリ寄りになると思う」

「……はい」

「理沙さんの前だから」

「分かります」

「でも」

「うん」

「隣にいるのは、しらいさんでもある」

「……」

「そこ、忘れないで」

「忘れません」

「ほんとに?」

「はい」

「じゃあ、よし」


 彼女は小さく頷いた。


 帰る前、しらいさんはマグカップを洗った。

 もう、この部屋での小さな習慣になりつつある。


 棚に戻すとき、彼女はいつもより少し丁寧にカップの向きを揃えた。


「気合い入ってますね」

「水曜前だから」

「カップの向きも関係あるんですか」

「ある」

「そうですか」

「私の中ではあるの」

「じゃあありますね」


 しらいさんは笑った。


 玄関で靴を履く前、彼女はまた部屋を振り返る。


「春日くん」

「はい」

「水曜、怖いけど」

「はい」

「私、春日くんを会わせたいって思ってる」

「……」

「理沙さんに」

「はい」

「春日くんは、私が大事にしてる人だって」

「……」

「ちゃんと、そこにいてほしい」

「……行きます」

「うん」

「ちゃんと、います」

「……うん」


 彼女はそれを聞いて、少しだけ安心したように笑った。


「じゃあ、今日は帰る」

「送ります」

「雨だよ」

「傘あります」

「じゃあ、少しだけ」

「はい」


 二人で玄関を出る。


 雨は細いままだった。

 傘を差すと、二人の距離は自然に近くなる。


 水曜のことを思うと、まだ緊張する。

 それでも今、同じ傘の下で歩いていると、不思議と怖さだけではなくなっていた。


 ちゃんと会いに行く。


 彼女の隣で。

 ただの春日悠真として。


 その覚悟は、まだ小さい。

 でも、確かに胸の中にあった。

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