表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/70

第37話 練習のつもりで向き合ったら、普通の俺たちが少しだけ見えた

 しらいさんが来る日は、部屋の片づけ方が難しい。


 春日悠真はローテーブルの上を見下ろして、三度目のため息をついた。


 散らかっているわけではない。

 仕事の書類は鞄にしまったし、脱ぎっぱなしの上着もない。洗い物も済ませた。床に転がっていた充電ケーブルも、壁際に寄せてある。


 けれど、片づきすぎても落ち着かない。


 彼女は以前、この部屋の「春日くんの部屋っぽさ」が落ち着くと言っていた。

 だから、生活感を全部消すのは違う。

 でも、恋人が来るのにだらしない部屋を見せるのも違う。


 結果、テーブルの上には二枚のコースターと、リモコンと、読みかけの文庫本だけが残った。


 棚の上には二つのマグカップ。

 しらいさんのカップは、いつもの場所にある。


 悠真はそれを見て、ようやく少しだけ落ち着いた。


 インターフォンが鳴ったのは、それから五分後だった。


 玄関を開けると、しらいさんが立っていた。

 黒いキャップに、薄いベージュのパーカー。肩には小さめのバッグ。

 仕事帰りではなく、少しだけ気を抜いた日の格好だった。


「……来た」

「来てくれてよかったです」

「それ、最近ちょっと定番になってる」

「便利なので」

「便利なんだ」

「はい」


 彼女は小さく笑ってから、靴を脱いだ。


「お邪魔します」

「どうぞ」


 部屋に入ると、彼女はまずテーブルを見た。

 それから棚のマグカップを見る。


「ある」

「あります」

「ずれてない」

「ずらしてません」

「よし」

「今日も採点ですか」

「今日は入室確認」

「何ですか、それ」

「私の場所があるか確認するやつ」

「ありますよ」

「……うん」


 しらいさんは少しだけ満足そうに頷いた。


 その仕草を見ると、悠真はいつも思う。

 ただのマグカップとコースターなのに、彼女にとっては本当に小さな目印なのだと。


「ミルクティーでいいですか」

「うん」

「温かいほう?」

「今日は温かいほう」

「分かりました」


 悠真がキッチンへ向かうと、彼女はローテーブルの前に座った。

 クッションを少し引き寄せ、膝をそろえて、バッグを横に置く。

 その動きがもう少しずつこの部屋に馴染んできていることに、胸の奥が静かに温かくなる。


 ミルクティーを淹れて戻ると、彼女は文庫本を手に取っていた。


「これ、読んでるの?」

「一応」

「一応?」

「最近あまり進んでません」

「私のせい?」

「半分くらい」

「半分なんだ」

「残り半分は仕事です」

「じゃあ、私は悪くない」

「いや、半分は」

「聞こえない」


 しらいさんは本を戻して、差し出されたマグカップを受け取った。

 自分のコースターの上へ置く。


 ことん、と小さな音がした。


「この音、やっぱりいい」

「カップ置く音ですか」

「うん。帰ってきた感じがする」

「それならよかった」

「出た」

「今日は早めに出ました」

「便利」


 彼女はミルクティーを一口飲み、ほっと息を吐いた。


 それだけなら、いつもの部屋の夜だった。

 けれど今日は、いつもより少しだけ空気の中に緊張が混じっている。


 理由は分かっていた。


 相沢理沙さんに会うかもしれない。

 まだ日程は決まっていない。

 けれど、もう完全な遠い話ではなくなっている。


 しらいさんもそれを分かっているのだろう。

 マグカップを両手で包んだまま、少しだけ視線を泳がせた。


「春日くん」

「はい」

「練習、する?」

「……やっぱりします?」

「しない?」

「したほうがいいとは思います」

「じゃあ、する」

「でも」

「でも?」

「しらいさんが相沢さん役をやると、途中で絶対しらいさんに戻りますよね」

「戻ると思う」

「練習になりますか」

「半分くらい」

「半分か」

「残り半分は、私が春日くんの反応を見たい」

「そっちが本音では」

「少し」


 彼女は悪びれずに言った。


 悠真は少しだけ笑って、向かいに座り直す。


「じゃあ、お願いします」

「うん」


 しらいさんはマグカップをコースターの上に置き、背筋を少し伸ばした。

 目元の雰囲気が、すっと変わる。


 あ、と悠真は思う。


 これは女優の顔だ。


 さっきまでミルクティーを飲んでいたしらいさんではなく、役に入る前の白瀬アカリ。

 部屋の空気まで少し引き締まった気がして、悠真は思わず姿勢を正した。


「春日悠真さん」

「はい」

「白瀬アカリとは、どういう関係ですか」


 昨日の電話より、ずっと緊張した。


 目の前にいるのは、しらいさんだ。

 分かっている。

 でも、声の調子と視線が少し変わっただけで、こんなに違う。


「……お付き合いしています」

「いつから?」

「少し前からです」

「曖昧ですね」

「……はい」

「なぜ付き合うことになったんですか」


 悠真は返事に詰まった。


 なぜ。

 そんな一言で説明できるものではない。


 河川敷で出会った。

 本人じゃないと言い張る彼女と話した。

 何度も会って、外でも会って、途中でも呼ばれて、好きになった。

 コースターとマグカップが部屋に増えた。


 でも、それを全部相沢理沙さんに話すのか。

 話せるのか。


 しらいさんは、理沙役の顔のまま待っている。


「……最初は、河川敷で会いました」

「はい」

「仕事帰りに、偶然」

「あなたは、彼女が白瀬アカリだと気づいていましたか」

「気づいていました」

「その時点で、彼女は認めた?」

「認めませんでした」

「でしょうね」


 そこで、しらいさんが少しだけ素に戻りかけた。


「今の、理沙さんっぽい?」

「分かりません」

「ちょっと似てると思う」

「自画自賛」

「続けます」


 また表情が戻る。


「気づいていたのに、なぜ誰にも言わなかったのですか」

「……言ったら、彼女の場所が壊れると思ったからです」

「場所?」

「河川敷です」

「……」

「そこでは、彼女は白瀬アカリじゃなくて、しらいさんとしていたかったんだと思います」

「それは彼女から聞いたのですか」

「最初から聞いたわけではありません」

「では、あなたの想像ですか」

「はい。でも、たぶん間違っていません」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 いつもなら「たぶん」と濁してしまうところだ。

 でもそこだけは、間違っていないと思った。


 しらいさんの目が、少しだけ揺れた。

 けれどまだ役のままだった。


「どうしてそう思いますか」

「彼女が、そこでだけ少し息を抜いていたからです」

「……」

「笑うのに疲れたって言ったことがありました」

「……」

「だから、そこでは騒がずに、ただ隣に座っていたかったんです」


 しらいさんは黙った。


 数秒だけ、役の顔と本人の顔が混ざったような表情になる。


「春日くん」

「はい」

「今のは、理沙さんに言ったらたぶん刺さる」

「悪い意味で?」

「分からない。でも、軽い人ではないって思うかも」

「ならよかったです」

「私にも刺さった」

「それは」

「うれしいほう」

「ならよかった」

「出た」


 彼女は少しだけ笑って、ミルクティーを飲んだ。


「続ける?」

「はい」

「大丈夫?」

「かなり緊張してますけど」

「それも練習」

「厳しい」


 しらいさんは今度、少しだけ理沙さんのような落ち着いた低さを声に混ぜた。


「春日さん。あなたは、彼女の立場を理解していますか」

「……全部は理解していません」

「なぜ?」

「俺は、その世界の人間ではないからです」

「では、どうするつもりですか」

「理解したふりはしないようにします」

「……」

「でも、分からないから関係ないとは思いたくないです」

「……」

「分からないことは聞きます。気をつけるべきことは一緒に考えます。会えない日があっても、勝手に遠くならないようにします」

「……」

「それから」

「はい」

「彼女が白瀬アカリとして頑張って戻ってきたとき、ちゃんとしらいさんとして休める場所を残しておきたいです」


 言い終わってから、悠真は少しだけ息を吐いた。


 部屋が静かになる。


 しらいさんは、もう完全に理沙役ではいられなくなっていた。

 マグカップを持つ手を膝の上に置き、少しだけ俯いている。


「……それ」

「はい」

「かなりだめ」

「だめでしたか」

「だめじゃない」

「うれしいほう?」

「うん」

「じゃあ練習としては」

「一回中断」

「やっぱり」

「無理。私が照れる」


 彼女は両手で顔を覆った。


 悠真も少しだけ肩の力が抜ける。


「しらいさん、女優なのに」

「仕事ならできる」

「今は?」

「仕事じゃない」

「確かに」

「春日くんが春日くんの言葉で私のこと言うの、役で受け止めるの難しい」

「そういうものですか」

「そういうもの」


 しらいさんは顔から手を離し、少しだけ赤い目元でこちらを見た。


「春日くん」

「はい」

「たぶん、今のままでいい」

「本当に?」

「うん」

「でも、俺、緊張するともっと変になるかもしれません」

「それも春日くんでしょ」

「まあ」

「じゃあいい」

「いいんですか」

「いい。理沙さん、完璧な人より嘘がない人のほうを見ると思う」

「嘘がない」

「うん」

「それは、難しいですね」

「でも春日くんは、たぶんできる」

「何で」

「私に対して、そうだから」


 その言葉は、静かに胸の奥へ落ちた。


 悠真は少し黙ってから、ゆっくり頷く。


「努力します」

「努力じゃなくて」

「はい」

「いつもの春日くんでいて」

「……」

「それが一番難しいかもしれないけど」

「はい」

「でも、それが一番いい」


 しらいさんは、マグカップを手に取ってまた一口飲んだ。


 少し冷めているはずなのに、表情は穏やかだった。


「ねえ」

「はい」

「今度、理沙さんに会う日が決まったら」

「はい」

「この部屋で一回、普通にご飯食べよう」

「……ご飯?」

「うん」

「練習ではなく?」

「練習ではなく」

「何で」

「ちゃんと普通に戻ってから会いたいから」

「……」

「理沙さんに会うための私たち、になりすぎると変でしょ」

「それは、そうですね」

「だから、普通にご飯食べて、ミルクティー飲んで、コースター確認して」

「そこは確認するんだ」

「する」

「はい」

「それから会う」

「いいですね」

「でしょ」


 しらいさんは少しだけ得意そうに笑った。


 その顔を見て、悠真は不思議と安心した。

 マネージャーに会うかもしれない現実は消えない。

 でも、それに飲み込まれずに、自分たちの普通を持っていけばいい。


 普通。

 今までは曖昧な言葉だった。

 でも今の二人にとっては、かなり具体的だ。


 河川敷で並んで座ること。

 しらいさんがカップをコースターに置く音。

 温かいミルクティー。

 少し冷めたコーヒー。

 照れたら「だめ」と言って、うれしいときには「知ってる」と返すこと。


 その全部を、忘れないまま会えばいい。


「春日くん」

「はい」

「何か、今ちょっと顔が楽になった」

「そうですか」

「うん」

「しらいさんのおかげです」

「そういうの、自然に言うようになったね」

「慣れてきました」

「私に?」

「好きって言うことに」

「……」

「何ですか」

「今の、急に来た」

「すみません」

「謝らないで。もう一回」

「もう一回?」

「嘘。やっぱり今は無理」

「どっちですか」

「心の準備が」


 彼女が照れているのを見て、悠真は少し笑ってしまった。


「何笑ってるの」

「いや、理沙さん役をやってた人とは思えなくて」

「失礼だなあ」

「でも、こっちのほうがしらいさんです」

「……そういうこと言う」

「本音なので」

「知ってる」


 部屋の空気が、ようやくいつもの柔らかさに戻った。


 そのあとは、本当に少しだけ普通に過ごした。


 しらいさんは持ってきた小さな焼き菓子をテーブルに置き、悠真は皿を出した。

 二人で分けて食べる。

 仕事の話を少し。

 悠真の会社の話を少し。

 三崎が相変わらず余計なところで鋭い話をしたら、しらいさんは思ったより楽しそうに笑った。


「三崎さん、やっぱり会ってみたい」

「やめたほうがいいです」

「でも、春日くんのことよく見てる」

「見すぎです」

「いい人?」

「たぶん」

「たぶん?」

「うるさいけど、悪い人ではないです」

「じゃあ、いつか」

「いつかでお願いします」

「うん。いつか」


 その“いつか”が、理沙さんの“いつか”とは少し違う響きで、悠真は少しだけ安心した。


 帰る時間になって、しらいさんはマグカップを洗った。

 前より手慣れている。

 棚に戻す場所も迷わない。


「……よし」

「何点ですか」

「今日は九十二点」

「細かい」

「練習したから加点」

「八点足りない理由は」

「春日くんが緊張しすぎ」

「まだ減点されるんだ」

「伸びしろ」


 しらいさんはそう言って笑った。


 玄関で靴を履く前、彼女は一度だけ部屋を振り返った。


「ここ、やっぱり戻る場所だね」

「はい」

「練習しても、照れても、ちゃんと戻れる」

「……よかった」

「出た」

「今日は出ます」

「うん。出していい」


 彼女は少しだけ手を伸ばした。

 悠真も自然にその手を取る。


 短い時間だけ、玄関先で手をつなぐ。


「春日くん」

「はい」

「理沙さんに会うの、まだ怖い?」

「怖いです」

「うん」

「でも、前より少しだけ大丈夫そうです」

「そっか」

「はい」

「私も」


 それで十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ