第37話 練習のつもりで向き合ったら、普通の俺たちが少しだけ見えた
しらいさんが来る日は、部屋の片づけ方が難しい。
春日悠真はローテーブルの上を見下ろして、三度目のため息をついた。
散らかっているわけではない。
仕事の書類は鞄にしまったし、脱ぎっぱなしの上着もない。洗い物も済ませた。床に転がっていた充電ケーブルも、壁際に寄せてある。
けれど、片づきすぎても落ち着かない。
彼女は以前、この部屋の「春日くんの部屋っぽさ」が落ち着くと言っていた。
だから、生活感を全部消すのは違う。
でも、恋人が来るのにだらしない部屋を見せるのも違う。
結果、テーブルの上には二枚のコースターと、リモコンと、読みかけの文庫本だけが残った。
棚の上には二つのマグカップ。
しらいさんのカップは、いつもの場所にある。
悠真はそれを見て、ようやく少しだけ落ち着いた。
インターフォンが鳴ったのは、それから五分後だった。
玄関を開けると、しらいさんが立っていた。
黒いキャップに、薄いベージュのパーカー。肩には小さめのバッグ。
仕事帰りではなく、少しだけ気を抜いた日の格好だった。
「……来た」
「来てくれてよかったです」
「それ、最近ちょっと定番になってる」
「便利なので」
「便利なんだ」
「はい」
彼女は小さく笑ってから、靴を脱いだ。
「お邪魔します」
「どうぞ」
部屋に入ると、彼女はまずテーブルを見た。
それから棚のマグカップを見る。
「ある」
「あります」
「ずれてない」
「ずらしてません」
「よし」
「今日も採点ですか」
「今日は入室確認」
「何ですか、それ」
「私の場所があるか確認するやつ」
「ありますよ」
「……うん」
しらいさんは少しだけ満足そうに頷いた。
その仕草を見ると、悠真はいつも思う。
ただのマグカップとコースターなのに、彼女にとっては本当に小さな目印なのだと。
「ミルクティーでいいですか」
「うん」
「温かいほう?」
「今日は温かいほう」
「分かりました」
悠真がキッチンへ向かうと、彼女はローテーブルの前に座った。
クッションを少し引き寄せ、膝をそろえて、バッグを横に置く。
その動きがもう少しずつこの部屋に馴染んできていることに、胸の奥が静かに温かくなる。
ミルクティーを淹れて戻ると、彼女は文庫本を手に取っていた。
「これ、読んでるの?」
「一応」
「一応?」
「最近あまり進んでません」
「私のせい?」
「半分くらい」
「半分なんだ」
「残り半分は仕事です」
「じゃあ、私は悪くない」
「いや、半分は」
「聞こえない」
しらいさんは本を戻して、差し出されたマグカップを受け取った。
自分のコースターの上へ置く。
ことん、と小さな音がした。
「この音、やっぱりいい」
「カップ置く音ですか」
「うん。帰ってきた感じがする」
「それならよかった」
「出た」
「今日は早めに出ました」
「便利」
彼女はミルクティーを一口飲み、ほっと息を吐いた。
それだけなら、いつもの部屋の夜だった。
けれど今日は、いつもより少しだけ空気の中に緊張が混じっている。
理由は分かっていた。
相沢理沙さんに会うかもしれない。
まだ日程は決まっていない。
けれど、もう完全な遠い話ではなくなっている。
しらいさんもそれを分かっているのだろう。
マグカップを両手で包んだまま、少しだけ視線を泳がせた。
「春日くん」
「はい」
「練習、する?」
「……やっぱりします?」
「しない?」
「したほうがいいとは思います」
「じゃあ、する」
「でも」
「でも?」
「しらいさんが相沢さん役をやると、途中で絶対しらいさんに戻りますよね」
「戻ると思う」
「練習になりますか」
「半分くらい」
「半分か」
「残り半分は、私が春日くんの反応を見たい」
「そっちが本音では」
「少し」
彼女は悪びれずに言った。
悠真は少しだけ笑って、向かいに座り直す。
「じゃあ、お願いします」
「うん」
しらいさんはマグカップをコースターの上に置き、背筋を少し伸ばした。
目元の雰囲気が、すっと変わる。
あ、と悠真は思う。
これは女優の顔だ。
さっきまでミルクティーを飲んでいたしらいさんではなく、役に入る前の白瀬アカリ。
部屋の空気まで少し引き締まった気がして、悠真は思わず姿勢を正した。
「春日悠真さん」
「はい」
「白瀬アカリとは、どういう関係ですか」
昨日の電話より、ずっと緊張した。
目の前にいるのは、しらいさんだ。
分かっている。
でも、声の調子と視線が少し変わっただけで、こんなに違う。
「……お付き合いしています」
「いつから?」
「少し前からです」
「曖昧ですね」
「……はい」
「なぜ付き合うことになったんですか」
悠真は返事に詰まった。
なぜ。
そんな一言で説明できるものではない。
河川敷で出会った。
本人じゃないと言い張る彼女と話した。
何度も会って、外でも会って、途中でも呼ばれて、好きになった。
コースターとマグカップが部屋に増えた。
でも、それを全部相沢理沙さんに話すのか。
話せるのか。
しらいさんは、理沙役の顔のまま待っている。
「……最初は、河川敷で会いました」
「はい」
「仕事帰りに、偶然」
「あなたは、彼女が白瀬アカリだと気づいていましたか」
「気づいていました」
「その時点で、彼女は認めた?」
「認めませんでした」
「でしょうね」
そこで、しらいさんが少しだけ素に戻りかけた。
「今の、理沙さんっぽい?」
「分かりません」
「ちょっと似てると思う」
「自画自賛」
「続けます」
また表情が戻る。
「気づいていたのに、なぜ誰にも言わなかったのですか」
「……言ったら、彼女の場所が壊れると思ったからです」
「場所?」
「河川敷です」
「……」
「そこでは、彼女は白瀬アカリじゃなくて、しらいさんとしていたかったんだと思います」
「それは彼女から聞いたのですか」
「最初から聞いたわけではありません」
「では、あなたの想像ですか」
「はい。でも、たぶん間違っていません」
言ってから、自分でも少し驚いた。
いつもなら「たぶん」と濁してしまうところだ。
でもそこだけは、間違っていないと思った。
しらいさんの目が、少しだけ揺れた。
けれどまだ役のままだった。
「どうしてそう思いますか」
「彼女が、そこでだけ少し息を抜いていたからです」
「……」
「笑うのに疲れたって言ったことがありました」
「……」
「だから、そこでは騒がずに、ただ隣に座っていたかったんです」
しらいさんは黙った。
数秒だけ、役の顔と本人の顔が混ざったような表情になる。
「春日くん」
「はい」
「今のは、理沙さんに言ったらたぶん刺さる」
「悪い意味で?」
「分からない。でも、軽い人ではないって思うかも」
「ならよかったです」
「私にも刺さった」
「それは」
「うれしいほう」
「ならよかった」
「出た」
彼女は少しだけ笑って、ミルクティーを飲んだ。
「続ける?」
「はい」
「大丈夫?」
「かなり緊張してますけど」
「それも練習」
「厳しい」
しらいさんは今度、少しだけ理沙さんのような落ち着いた低さを声に混ぜた。
「春日さん。あなたは、彼女の立場を理解していますか」
「……全部は理解していません」
「なぜ?」
「俺は、その世界の人間ではないからです」
「では、どうするつもりですか」
「理解したふりはしないようにします」
「……」
「でも、分からないから関係ないとは思いたくないです」
「……」
「分からないことは聞きます。気をつけるべきことは一緒に考えます。会えない日があっても、勝手に遠くならないようにします」
「……」
「それから」
「はい」
「彼女が白瀬アカリとして頑張って戻ってきたとき、ちゃんとしらいさんとして休める場所を残しておきたいです」
言い終わってから、悠真は少しだけ息を吐いた。
部屋が静かになる。
しらいさんは、もう完全に理沙役ではいられなくなっていた。
マグカップを持つ手を膝の上に置き、少しだけ俯いている。
「……それ」
「はい」
「かなりだめ」
「だめでしたか」
「だめじゃない」
「うれしいほう?」
「うん」
「じゃあ練習としては」
「一回中断」
「やっぱり」
「無理。私が照れる」
彼女は両手で顔を覆った。
悠真も少しだけ肩の力が抜ける。
「しらいさん、女優なのに」
「仕事ならできる」
「今は?」
「仕事じゃない」
「確かに」
「春日くんが春日くんの言葉で私のこと言うの、役で受け止めるの難しい」
「そういうものですか」
「そういうもの」
しらいさんは顔から手を離し、少しだけ赤い目元でこちらを見た。
「春日くん」
「はい」
「たぶん、今のままでいい」
「本当に?」
「うん」
「でも、俺、緊張するともっと変になるかもしれません」
「それも春日くんでしょ」
「まあ」
「じゃあいい」
「いいんですか」
「いい。理沙さん、完璧な人より嘘がない人のほうを見ると思う」
「嘘がない」
「うん」
「それは、難しいですね」
「でも春日くんは、たぶんできる」
「何で」
「私に対して、そうだから」
その言葉は、静かに胸の奥へ落ちた。
悠真は少し黙ってから、ゆっくり頷く。
「努力します」
「努力じゃなくて」
「はい」
「いつもの春日くんでいて」
「……」
「それが一番難しいかもしれないけど」
「はい」
「でも、それが一番いい」
しらいさんは、マグカップを手に取ってまた一口飲んだ。
少し冷めているはずなのに、表情は穏やかだった。
「ねえ」
「はい」
「今度、理沙さんに会う日が決まったら」
「はい」
「この部屋で一回、普通にご飯食べよう」
「……ご飯?」
「うん」
「練習ではなく?」
「練習ではなく」
「何で」
「ちゃんと普通に戻ってから会いたいから」
「……」
「理沙さんに会うための私たち、になりすぎると変でしょ」
「それは、そうですね」
「だから、普通にご飯食べて、ミルクティー飲んで、コースター確認して」
「そこは確認するんだ」
「する」
「はい」
「それから会う」
「いいですね」
「でしょ」
しらいさんは少しだけ得意そうに笑った。
その顔を見て、悠真は不思議と安心した。
マネージャーに会うかもしれない現実は消えない。
でも、それに飲み込まれずに、自分たちの普通を持っていけばいい。
普通。
今までは曖昧な言葉だった。
でも今の二人にとっては、かなり具体的だ。
河川敷で並んで座ること。
しらいさんがカップをコースターに置く音。
温かいミルクティー。
少し冷めたコーヒー。
照れたら「だめ」と言って、うれしいときには「知ってる」と返すこと。
その全部を、忘れないまま会えばいい。
「春日くん」
「はい」
「何か、今ちょっと顔が楽になった」
「そうですか」
「うん」
「しらいさんのおかげです」
「そういうの、自然に言うようになったね」
「慣れてきました」
「私に?」
「好きって言うことに」
「……」
「何ですか」
「今の、急に来た」
「すみません」
「謝らないで。もう一回」
「もう一回?」
「嘘。やっぱり今は無理」
「どっちですか」
「心の準備が」
彼女が照れているのを見て、悠真は少し笑ってしまった。
「何笑ってるの」
「いや、理沙さん役をやってた人とは思えなくて」
「失礼だなあ」
「でも、こっちのほうがしらいさんです」
「……そういうこと言う」
「本音なので」
「知ってる」
部屋の空気が、ようやくいつもの柔らかさに戻った。
そのあとは、本当に少しだけ普通に過ごした。
しらいさんは持ってきた小さな焼き菓子をテーブルに置き、悠真は皿を出した。
二人で分けて食べる。
仕事の話を少し。
悠真の会社の話を少し。
三崎が相変わらず余計なところで鋭い話をしたら、しらいさんは思ったより楽しそうに笑った。
「三崎さん、やっぱり会ってみたい」
「やめたほうがいいです」
「でも、春日くんのことよく見てる」
「見すぎです」
「いい人?」
「たぶん」
「たぶん?」
「うるさいけど、悪い人ではないです」
「じゃあ、いつか」
「いつかでお願いします」
「うん。いつか」
その“いつか”が、理沙さんの“いつか”とは少し違う響きで、悠真は少しだけ安心した。
帰る時間になって、しらいさんはマグカップを洗った。
前より手慣れている。
棚に戻す場所も迷わない。
「……よし」
「何点ですか」
「今日は九十二点」
「細かい」
「練習したから加点」
「八点足りない理由は」
「春日くんが緊張しすぎ」
「まだ減点されるんだ」
「伸びしろ」
しらいさんはそう言って笑った。
玄関で靴を履く前、彼女は一度だけ部屋を振り返った。
「ここ、やっぱり戻る場所だね」
「はい」
「練習しても、照れても、ちゃんと戻れる」
「……よかった」
「出た」
「今日は出ます」
「うん。出していい」
彼女は少しだけ手を伸ばした。
悠真も自然にその手を取る。
短い時間だけ、玄関先で手をつなぐ。
「春日くん」
「はい」
「理沙さんに会うの、まだ怖い?」
「怖いです」
「うん」
「でも、前より少しだけ大丈夫そうです」
「そっか」
「はい」
「私も」
それで十分だった。




