第36話 ただの春日悠真でいる練習を、君のマグカップの前でする
帰宅して最初に見たものが、最近はコースターになっている。
春日悠真は鞄を床に置き、上着を椅子の背にかけてから、ローテーブルの端を見た。
青灰色の丸いコースター。
その隣に、自分の古いコースター。
棚には二つのマグカップが並んでいる。
一つは自分の。もう一つは、しらいさんのもの。
ただそれだけで、部屋の空気が少し違う。
不思議なものだと思う。
家具が増えたわけでも、部屋が広くなったわけでもない。
それでも、そこに彼女のための場所があるというだけで、一人暮らしの部屋は一人分より少し多く息をしているように見えた。
湯を沸かしながら、悠真は昨夜の通話を思い出していた。
いつか、マネージャーの相沢理沙さんに会うかもしれない。
しらいさんは「私も一緒にいる」と言ってくれた。
それでかなり救われた。
それでも、緊張は消えない。
自分は何を話せばいいのか。
どう振る舞えばいいのか。
白瀬アカリのマネージャーを前にして、ただの春日悠真でいるとはどういうことなのか。
考えれば考えるほど、かえって分からなくなる。
ケトルが湯気を上げた。
悠真は自分のマグカップにコーヒーを淹れようとして、ふと手を止めた。
しらいさんのマグカップを見る。
今日は来る予定ではない。
でも、彼女からは夕方に「あとで少しだけ電話したい」とメッセージが来ていた。
悠真は迷った末に、彼女のマグカップを棚から下ろした。
もちろん、飲み物を淹れるわけではない。
ただ、ローテーブルのコースターの上に置いた。
ことん、と小さな音がする。
それだけで、少し落ち着いた。
彼女がここにいるわけではない。
でも、この部屋には彼女の場所がある。
なら、そこで少しだけ考えてもいい気がした。
スマホが震ったのは、コーヒーを一口飲んだあとだった。
『今、電話してもいい?』
しらいさんからだった。
『大丈夫です』
返してすぐ、着信が来る。
悠真は深呼吸してから通話に出た。
「もしもし」
「春日くん」
「はい」
「声、今日も固い」
「分かります?」
「分かるよ。最近、分かりやすい」
「それはよくないですね」
「悪くはないけど。……理沙さんのこと?」
「はい」
「やっぱり」
電話の向こうで、小さく布の擦れる音がした。
たぶん彼女も家か控室か、どこかで腰を下ろしているのだろう。
「春日くん」
「はい」
「今日、何考えてた?」
「……かなり色々」
「例えば」
「もし会うことになったら、最初に何て挨拶するべきかとか」
「うん」
「服装はどのくらいちゃんとすればいいのかとか」
「うん」
「仕事のことを聞かれたらどこまで話せばいいのかとか」
「うん」
「しらいさんのことを、どの名前で呼べばいいのかとか」
「……そこまで?」
「そこまでです」
「春日くん、真面目だね」
「真面目というか、勝手が分からないだけです」
「うん。そっか」
しらいさんの声が少しだけやわらかくなった。
「でも、たぶん理沙さんに会うとしても、面接じゃないよ」
「面接に近くないですか」
「近いかも」
「ほら」
「でも違う」
「どう違います?」
「理沙さんは、春日くんを落とすために会うんじゃないと思う」
「……」
「私が大事にしてる人を、ちゃんと見たいんだと思う」
「それが緊張するんです」
「うん。分かる」
「本当に?」
「分かるよ。私も、逆なら緊張する」
「逆?」
「春日くんの大事な人に会うってなったら」
悠真は、少しだけ黙った。
三崎の顔が一瞬浮かんで、いや、三崎は“大事な人”というより“うるさい同僚”だと思い直す。
でも、家族や昔からの友人にしらいさんを会わせる日が来たら、たしかに同じように緊張するかもしれない。
「……しらいさんでも緊張しますか」
「するよ」
「意外です」
「何で。私、けっこう緊張するよ」
「でも表に出さなそうなので」
「出さないようにはしてる」
「それがすごいです」
「すごくないよ。仕事で慣れただけ」
「それをすごいと言うのでは」
「……春日くん、そういうところある」
「どういうところですか」
「こっちが普通だと思ってることを、ちゃんと見つけてくるところ」
「それは、しらいさんがすごいので」
「またそういうこと言う」
「本音です」
「知ってる」
いつものやり取りに戻って、悠真は少しだけ肩の力が抜けた。
通話の向こうで、しらいさんが息を吐く。
「ねえ、春日くん」
「はい」
「今、部屋?」
「はい」
「コースターある?」
「あります」
「マグカップは?」
「今、目の前にあります」
「え」
「棚じゃなくて、コースターの上に置いてます」
「何で?」
「落ち着くので」
「……私のマグカップが?」
「はい」
「それ、ちょっとずるい」
「ずるいですか」
「うん。私がそこにいないのに、いるみたいにしてる」
「嫌でした?」
「嫌じゃない」
「なら」
「……むしろ、かなりうれしい」
その声が少しだけ近くなった気がした。
「春日くん」
「はい」
「今日、そっち行けばよかった」
「来ます?」
「今からは無理」
「ですよね」
「でも、行きたいとは思った」
「……」
「何で黙るの」
「うれしかったので」
「そっか」
「はい」
「じゃあ、今度行ったとき、そのマグカップでちゃんと飲む」
「ミルクティーですか」
「たぶん」
「用意しておきます」
「知ってる」
「便利ですね」
「便利なんだってば」
通話の向こうで、彼女が小さく笑った。
その笑い声を聞いていると、相沢理沙さんのことを考えて強張っていた部分が、少しだけほどけていく。
でも、完全には消えない。
しらいさんもそれに気づいたのか、少し間を置いてから静かに言った。
「春日くん」
「はい」
「理沙さんに会うときの練習、する?」
「……練習?」
「うん」
「今?」
「今」
「電話で?」
「電話で」
「何をどう練習するんですか」
「私が理沙さん役」
「それは嫌です」
「即答」
「だって絶対似てないでしょう」
「失礼だなあ。私、女優なんだけど」
「……あ」
「今、忘れてたでしょ」
「忘れてはないです」
「忘れてた顔してる」
「電話なので見えてません」
「分かるよ」
しらいさんは少し楽しそうだった。
それだけで、悠真も少し笑ってしまう。
「でも本当にやるんですか」
「軽く」
「軽くなら」
「じゃあいくね」
「はい」
「春日悠真さん」
「はい」
「あなたは白瀬アカリとどういう関係ですか」
「……」
思ったより直球だった。
「春日くん?」
「待ってください」
「待ちます」
「ええと」
「うん」
「……お付き合いしています」
「硬い」
「いきなり駄目出しですか」
「理沙さんなら硬くてもいいかも。でも春日くんが自分で固まってる」
「そりゃ固まりますよ」
「もう一回」
「もう一回?」
「うん。今度は、私に言うみたいに」
「理沙さんに?」
「違う。私に」
悠真は、少しだけ息を吸った。
「しらいさんのことが好きで、付き合っています」
「……」
「何ですか」
「今の、私が照れた」
「練習になってないじゃないですか」
「なってる。たぶん」
「本当に?」
「少なくとも、私はちょっと安心した」
「相沢さん役ですよね」
「今はしらいさんに戻った」
「戻らないでください」
「戻るよ。私なので」
電話の向こうで、彼女が笑う。
その笑いにつられて、悠真も少し笑った。
練習になっているのかは分からない。
でも、固かった胸のあたりが少し楽になっているのは確かだった。
「じゃあ次」
しらいさんが言う。
「まだやるんですか」
「少しだけ」
「はい」
「あなたは、アカリを利用しませんか」
「……重いですね」
「理沙さんは聞くかもしれない」
「はい」
「どう答える?」
「……利用しません」
「うん」
「でも、それだけだと足りない気がします」
「じゃあ、何を足す?」
「……」
「ゆっくりでいいよ」
悠真は、目の前のマグカップを見る。
しらいさんのマグカップ。
彼女が疲れた夜に両手で包んだもの。
ここへ戻ってきたいと言ってくれた、その小さな目印。
「利用したいと思ったことはありません」
「うん」
「しらいさんが白瀬アカリだから好きになったわけじゃないです」
「……」
「もちろん、すごい人だとは思っています。でも」
「うん」
「俺が好きなのは、河川敷で缶チューハイを飲んで、本人じゃないって言い張って、疲れたらミルクティーを両手で持って、コースターの位置を気にする人です」
「……」
「白瀬アカリとして頑張っているところも含めて、同じ人だから好きです」
「……」
「その人を利用するなんて、考えたくもないです」
電話の向こうが静かになった。
悠真は少し不安になる。
「……重かったですか」
「ううん」
「長かったですか」
「長かった」
「やっぱり」
「でも、かなりよかった」
「本当ですか」
「うん。理沙さんにそのまま言ったら、たぶんちょっと驚く」
「悪い意味で?」
「分からない。でも、少なくとも嘘には聞こえない」
「……ならいいです」
「あと」
「はい」
「私がかなり照れた」
「それは練習としてどうなんですか」
「練習としては失敗」
「駄目じゃないですか」
「でも彼氏としてはかなり成功」
「採点が複雑だ」
しらいさんがまた笑った。
その笑い方は、完全にいつもの彼女だった。
電話越しなのに、ローテーブルの向こうに座っているような気がする。
「春日くん」
「はい」
「たぶん、それでいい」
「……」
「上手く言おうとしなくていい」
「はい」
「変に立派なことを言わなくてもいい」
「はい」
「春日くんが、いつも私に言ってくれるみたいに話せばいい」
「……」
「それで、私は十分」
「相沢さんは?」
「それは分からない」
「分からないんだ」
「うん。でも、理沙さんはたぶん、綺麗な答えより嘘のない答えを見る人だから」
「……」
「春日くんのそれは、たぶん大丈夫」
「……少し安心しました」
「少し?」
「かなり」
「よかった」
「今日はしらいさんが言うんですね」
「言いたくなった」
しばらく二人とも黙った。
沈黙の向こうに、彼女の呼吸が微かに聞こえる。
それだけで、部屋の中の一人分の静けさが、少しだけ二人分になる。
「しらいさん」
「何」
「俺、練習しても緊張はすると思います」
「うん」
「たぶん、相沢さんの前で少し固くなると思います」
「うん」
「でも、背伸びはしないようにします」
「……うん」
「ちゃんと、春日悠真として会います」
「うん」
「しらいさんがそう言ってくれたので」
「……」
「何ですか」
「今の、かなり安心した」
「ならよかった」
「出た」
「今日は出しておきます」
「ずるい」
「ずるいですか」
「うん。でも好き」
さらっと言われて、悠真はマグカップを持つ手を少し止めた。
「……そういうの、電話だとまだ慣れないです」
「慣れて」
「すぐには無理です」
「じゃあ少しずつ」
「はい」
「私も、春日くんに好きって言うの、少しずつ慣れる」
「かなり言ってる気がしますけど」
「まだ慣れてない」
「そうなんですか」
「うん。言うたびに、少し心臓が変になる」
「……俺もです」
「じゃあ一緒」
「一緒ですね」
その言葉が、やけに穏やかに部屋へ落ちた。
話しているうちに、相沢理沙さんへの緊張が完全に消えたわけではない。
でも、緊張を抱えたままでも大丈夫だと思えるくらいには、呼吸が戻っていた。
「春日くん」
「はい」
「次、部屋行くとき」
「はい」
「またその練習しようか」
「またですか」
「うん。今度は対面で」
「しらいさん、途中で照れるじゃないですか」
「春日くんも照れるでしょ」
「します」
「じゃあ、練習にならないね」
「ならないですね」
「でも、したい」
「……」
「何で黙るの」
「いや」
「何」
「それ、練習という名目で会いたいだけでは」
「……ばれた」
「正直ですね」
「春日くんには、ばれるから」
「うれしいです」
「そういう返しする」
「本音なので」
「知ってる」
通話の終わり際、しらいさんは少し眠そうな声になっていた。
「そろそろ寝ます?」
悠真が聞く。
「うん。ちょっと眠い」
「今日はちゃんと寝てください」
「春日くんは?」
「俺もそろそろ」
「マグカップ」
「はい」
「戻しておいて」
「分かりました」
「コースターは?」
「そのままです」
「よし」
「採点制ですか」
「今日は九十点」
「高い」
「練習がんばったから」
「ありがとうございます」
「でも緊張しすぎで十点減点」
「厳しいなあ」
「伸びしろ」
「便利な言葉ですね」
「便利なんだってば」
笑い合ってから、少しだけ沈黙があった。
「おやすみ、春日くん」
「おやすみなさい」
「春日くん」
「はい」
「いつか理沙さんに会うときも、一緒にいるから」
「……はい」
「忘れないで」
「忘れません」
「うん」
通話が切れた。
悠真はしばらくスマホを見つめていた。
それから、ローテーブルの上のマグカップを手に取る。
しらいさんのマグカップを棚に戻す。
コースターはそのまま。
ことん、と棚に置く音がする。
まだ会ったことのない相沢理沙さん。
まだ訪れていない緊張する日。
その全部が怖くないわけではない。
でも、今日の練習で少しだけ分かった。
完璧に見せようとしなくていい。
上手く言おうとしなくていい。
ただ、嘘をつかないこと。
しらいさんを大事に思っていることを、春日悠真の言葉で話すこと。
それなら、たぶんできる。
たぶんではなく、できるようにしたい。




