第35話 いつか会わせて、と言われた夜に、俺はただの春日悠真でいられるのか
スマホの画面に表示された文字を、春日悠真はしばらく見つめていた。
『いつか会わせてって言われた』
それは、たった一文だった。
けれど、その一文は仕事帰りの疲れた頭に、ずいぶん深く沈んできた。
マネージャーの相沢理沙さん。
悠真は、まだその人の顔を知らない。
声も知らない。
どんな話し方をするのかも、どんなふうにしらいさんを見ているのかも知らない。
ただ、分かっていることはある。
その人は、白瀬アカリを守ってきた人だ。
しらいさんが白瀬アカリとして、画面の中で笑い、映画に出て、取材を受けて、世間の前に立つために、きっとずっと近くで支えてきた人だ。
その人に、いつか会う。
そう思った瞬間、悠真は会社の廊下で足を止めてしまった。
「春日?」
後ろから三崎の声がした。
悠真は慌ててスマホを伏せる。
「何」
「いや、こっちの台詞。廊下の真ん中で固まってたぞ」
「……ちょっと考え事」
「彼女?」
「何でそうなる」
「その顔で仕事のこと考えてるとは思えないから」
三崎は手にした缶コーヒーを軽く振った。
相変わらず余計なところだけ鋭い。
「何かあった?」
「……まあ」
「喧嘩?」
「違う」
「じゃあ、親に会うとか?」
「近いようで遠い」
「何だそれ」
「俺にも分からない」
自分で言って、本当にそうだと思った。
彼女のマネージャーに会う。
それは、恋人の家族に会うのとは違う。
仕事仲間に会うのとも違う。
ただの知人紹介でもない。
相沢理沙さんにとって、悠真はたぶん“白瀬アカリに近づいた一般人”だ。
悪い意味で言えば、リスク。
良い意味に変えるためには、ちゃんと信用されなければならない。
三崎は、悠真の顔を少し見てから、ふざけた調子を少しだけ引っ込めた。
「何か知らんけど、ちゃんとしようとしすぎて変なこと言うなよ」
「……どういう意味だ」
「お前、たぶん真面目に考えすぎるタイプだろ」
「普通だと思うけど」
「普通のやつは廊下でスマホ見て固まらない」
「それは」
「まあ、頑張れ」
三崎は軽く手を上げて、自席のほうへ戻っていった。
何も知らないくせに。
そう思う一方で、言われたことは少しだけ刺さっていた。
ちゃんとしようとしすぎて、変なことを言うな。
たぶん、それはかなりあり得る。
◇
家に帰ると、部屋はいつものように静かだった。
ローテーブルの上には、しらいさんのコースターがある。
棚には、彼女のマグカップがある。
そこだけは、もうただの一人暮らしの部屋ではなかった。
悠真は鞄を置き、手を洗い、部屋着に着替えた。
それから湯を沸かして、いつものマグカップにコーヒーを淹れる。
しらいさんのマグカップには触れなかった。
でも、目に入る。
いつか会わせて。
その言葉を思い出すたび、胸の奥が少し重くなる。
自分は何者として会えばいいのだろう。
白瀬アカリの恋人。
しらいさんの彼氏。
春日悠真。
どれも自分だ。
でも、どの顔を前に出せばいいのか分からない。
スマホが震えた。
しらいさんからだった。
『今、帰った』
悠真はすぐに返す。
『おつかれさまです』
『電話、少しできる?』
『できます』
すぐに着信が来た。
悠真は一度だけ息を整えて、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「……春日くん」
「はい」
「声、ちょっと固い」
「分かります?」
「分かるよ」
「……すみません」
「謝るところじゃない」
電話の向こうで、しらいさんが小さく笑った。
その声は疲れていた。
けれど、昼に送られてきたメッセージよりは少し落ち着いている。
「理沙さんのこと、気にしてる?」
「かなり」
「正直」
「正直です」
「そっか」
「はい」
少し沈黙があった。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
お互いに、どこから話せばいいかを探している沈黙だった。
「春日くん」
「はい」
「怖い?」
「……怖いです」
「うん」
「俺、しらいさんの仕事のこと、全部分かってるわけじゃないので」
「うん」
「マネージャーさんから見たら、俺ってかなり怪しいというか」
「うん」
「普通の会社員が、人気女優と付き合ってますって」
「……」
「どう考えても、警戒される側だなって」
言葉にしてみると、想像以上に自分の立場が頼りなく聞こえた。
しらいさんは否定しなかった。
それが逆にありがたかった。
「理沙さんは、警戒すると思う」
「はい」
「でも、それは春日くんを嫌うためじゃない」
「……」
「私を守るため」
「分かってます」
「うん」
「分かってるから、余計に緊張します」
「……そっか」
電話の向こうで、布が擦れるような音がした。
たぶん、彼女がソファかベッドに座り直したのだろう。
「今日ね」
「はい」
「理沙さん、すごく現実的だった」
「……はい」
「会う場所とか、時間とか、連絡とか、写真とか」
「うん」
「そういう話をされた」
「……」
「ちょっと、胸が痛かった」
「……」
「春日くんとの時間が、急に危ないものみたいに並べられるの、少し嫌だった」
悠真は黙って聞いた。
それは、彼女にとってつらいことだと思った。
コースターやマグカップや河川敷のベンチ。
自分たちにとって大切なものが、誰かから見れば“注意すべき項目”になる。
でも、それも現実だ。
「でも」
しらいさんは続けた。
「理沙さん、ちゃんと聞いてくれた」
「はい」
「春日くんがどういう人か」
「……」
「私が、どうして信じてるのか」
「何て言ったんですか」
「写真を撮らなかった人」
「……」
「外で見かけても、話しかけなかった人」
「……」
「疲れてるときに、無理に励まさない人」
「……」
「私が白瀬アカリの顔のままでも、同じ人だから好きだって言ってくれた人」
悠真は、スマホを持つ手に少しだけ力が入った。
そんなふうに話してくれたのか。
相沢理沙さんに。
彼女の仕事の世界で。
自分のことを。
「……ありがとうございます」
「またお礼」
「言いたくなります」
「春日くんらしい」
「そうですか」
「うん」
しらいさんの声が、少しだけ柔らかくなる。
「理沙さん、いつか会わせてって言った」
「はい」
「すぐじゃなくていいって」
「……」
「でも、いつか」
「はい」
その“いつか”が、遠いようで近い。
「春日くん」
「はい」
「無理しなくていいからね」
「……」
「すぐに完璧な答え出さなくていい」
「でも、ちゃんと会いたいです」
「うん」
「緊張しますけど」
「うん」
「怖いですけど」
「うん」
「でも、しらいさんを守ってる人なら、ちゃんと向き合いたいです」
電話の向こうが、少し静かになった。
「春日くん」
「はい」
「それ、今日かなりほしかった」
「……ならよかった」
「出た」
「口癖なので」
「知ってる」
しらいさんが小さく笑う。
その笑い声だけで、部屋の空気が少しだけほどけた。
「でも」
悠真は言った。
「はい」
「もし会うことになったら、俺、何を話せばいいんでしょう」
「普通に」
「普通にが一番難しいです」
「そう?」
「相手はマネージャーさんですよ」
「うん」
「しらいさんを仕事で支えてきた人で」
「うん」
「多分、俺の何倍も現実的で、ちゃんとしていて」
「うん」
「俺は、社会人一年目で」
「うん」
「河川敷で缶チューハイ飲んでた人気女優に話しかけられて、付き合うことになった普通の男です」
「そこだけ聞くと、変だね」
「かなり変です」
「でも、春日くんは春日くんで来て」
「……」
「それ以外だと困る」
「困る?」
「うん」
「何で」
「私が好きになったの、ちゃんとしようとして別人みたいになる春日くんじゃないから」
「……」
「河川敷で唐揚げくれた春日くん」
「そこからですか」
「大事」
「はい」
「私が疲れてるとき、変に飾らないで隣にいてくれる春日くん」
「……」
「コースターの位置をちゃんと守ってくれる春日くん」
「……」
「だから、理沙さんに会うときも、春日くんは春日くんでいて」
「……」
「それが一番、ちゃんとしてると思う」
悠真は、すぐには返せなかった。
胸の奥にあった変な力みが、少しずつ抜けていく。
自分を大きく見せる必要はない。
彼女の世界に合わせて、別の誰かになる必要もない。
ただ、春日悠真として会う。
それが簡単ではないことも分かっている。
でも、少しだけ道が見えた気がした。
「……分かりました」
「うん」
「春日悠真として行きます」
「うん」
「かなり緊張してる春日悠真かもしれませんけど」
「それはそれで見たい」
「見世物じゃないです」
「ごめん。ちょっと見たい」
「ひどい」
「でも、たぶん私も緊張する」
「しらいさんも?」
「するよ」
「意外です」
「理沙さんに春日くんを会わせるって、私にとってもかなり大きい」
「……」
「大事な人を、大事な人に会わせるから」
その言葉は、まっすぐだった。
悠真はまた、少し言葉に詰まる。
「……そう言われると」
「うん」
「ますます緊張します」
「ごめん」
「でも、うれしいです」
「……そっか」
「はい」
「じゃあ、半分ずつ」
「何をですか」
「緊張」
「半分にできますかね」
「できなくても、そういうことにする」
「雑だなあ」
「便利でしょ」
「便利ですね」
いつものやり取りに戻って、二人とも少し笑った。
通話の向こうで、しらいさんが小さく息を吐く。
「春日くん」
「はい」
「今日、少しだけ部屋の写真見たい」
「コースターですか」
「うん。あとマグカップ」
「分かりました」
「ずれてない?」
「ずれてません」
「ほんとに?」
「今から送ります」
「うん」
悠真は通話をつないだまま、カメラを起動した。
ローテーブルの上のコースター。
棚の上のマグカップ。
自分のマグカップも隣に入るように撮る。
送信。
電話の向こうで、しらいさんが少し笑った。
「ちゃんとある」
「あります」
「何か、落ち着く」
「それならよかった」
「出た」
「何度でも出ます」
「知ってる」
それから、しばらく二人は大したことのない話をした。
しらいさんが今日食べた弁当の卵焼きが甘かったこと。
悠真の会社のコピー機がまた紙詰まりを起こしたこと。
三崎が「彼女のものでも増えた?」とやたら鋭いことを言ってきたこと。
「三崎さん、すごいね」
「無駄に勘がいいだけです」
「いつか会うのかな」
「三崎にですか?」
「うん」
「……どうでしょう」
「春日くんの友達でしょ」
「友達というか、うるさい同僚です」
「でも、春日くんのこと見てる人」
「それはまあ」
「じゃあ、ちょっと気になる」
「会わせたら絶対うるさいですよ」
「それは少し見たい」
「やめたほうがいいです」
「考えとく」
そんな話をしているうちに、重かった空気が少しずつ薄れていく。
けれど、相沢理沙さんの存在が消えたわけではない。
むしろ、ちゃんとこの先にあるものとして置かれた感じがした。
「春日くん」
「はい」
「もし理沙さんに会うことになっても」
「はい」
「私も一緒にいるから」
「……」
「春日くん一人で向き合うわけじゃない」
「……はい」
「そこ、忘れないで」
「分かりました」
「ほんとに?」
「はい」
「じゃあ、よし」
「採点制ですか」
「今日はそう」
「何点ですか」
「八十五点」
「微妙に現実的」
「緊張しすぎだから減点」
「そこは許してください」
「でも、ちゃんと会うって言ったから加点」
「なら百点で」
「甘い」
「しらいさんには甘くていいって言われたいです」
「……」
「何ですか」
「今の、急に彼氏っぽい」
「彼氏なので」
「……それも電話だとまだ慣れない」
「俺も言うの慣れてません」
「でも言って」
「注文が細かい」
「細かいよ」
笑い声が重なる。
通話を切る少し前、しらいさんが静かに言った。
「春日くん」
「はい」
「今日、話せてよかった」
「俺もです」
「理沙さんに会うの、まだ先かもしれないけど」
「はい」
「その時は、ちゃんと二人で行こう」
「……はい」
「私も、隣にいる」
「心強いです」
「うん。私もたぶん、春日くんが隣にいたら少し心強い」
「……」
「何で黙るの」
「今の、かなりうれしかったので」
「そっか」
そのあとの沈黙は、短いけれどやさしかった。
「おやすみ、春日くん」
「おやすみなさい」
通話が切れる。
部屋に静けさが戻る。
悠真はスマホを置き、ローテーブルの上を見る。
コースターは、変わらずそこにある。
マグカップも、棚に並んでいる。
いつか、相沢理沙さんに会う日が来る。
そのとき自分は、きっとかなり緊張する。
何を言えばいいのか迷うだろうし、自分で大丈夫なのかとまた思うかもしれない。
でも、そのときは一人ではない。
しらいさんが隣にいる。
白瀬アカリとしてではなく、しらいさんとして。
そして自分も、ただの春日悠真としてそこに立つ。
そう考えると、怖さはまだ残っているのに、少しだけ呼吸がしやすくなった。




