第34話 大事な人がいる、と言うだけで世界が少し揺れる
朝の控室は、まだ誰の声も染みついていなかった。
白い壁。
細長い鏡。
畳まれた衣装。
テーブルの上に並んだペットボトルと紙コップ。
白瀬アカリ――しらいさんは、鏡の前に座ったまま、膝の上で指先を重ねていた。
メイクはまだ始まっていない。
髪も整えられていない。
けれど鏡の中の自分は、もう半分くらい白瀬アカリの顔をしていた。
仕事場に来ると、自然とそうなる。
背筋が伸びる。
目元が整う。
声の出し方が少し変わる。
ずっとそうしてきた。
けれど最近は、その切り替えが少しだけ難しくなっていた。
戻る場所ができたからだ。
河川敷。
春日くんの部屋。
ローテーブルの上に置かれたコースター。
棚に並んだ自分用のマグカップ。
そういうものを思い出すと、白瀬アカリの顔に戻る前に、ほんの少しだけしらいさんのままでいたくなる。
控室のドアが軽くノックされた。
「入るわね」
返事を待たずに、けれど乱暴ではない手つきでドアが開く。
相沢理沙が入ってきた。
三十代前半。
黒のジャケットに細身のパンツ。髪は後ろでまとめられている。
派手さはないが、部屋に入った瞬間、空気の整理整頓まで始まるような人だった。
「おはよう、アカリ」
「おはようございます」
声は、ちゃんと白瀬アカリのものになった。
理沙は手帳とタブレットをテーブルに置く。
いつもなら、そのまま今日のスケジュール確認に入る。
けれど今日は、少しだけ間があった。
「先に、五分だけ話していい?」
「……はい」
来た。
そう思った瞬間、膝の上の指先に力が入る。
理沙は向かいの椅子に座った。
怒っている顔ではない。
責める顔でもない。
ただ、何かを見逃さない人の顔だった。
「最近、少し変わったわね」
「……そうですか」
「ええ」
短い返事。
そこに逃げ道はない。
しらいさんは、鏡の中ではなく、目の前の理沙を見た。
「悪い変化ではないと思ってる」
「……」
「表情が前よりやわらかい。休憩中の切り替えも前より早い。前なら引きずっていた疲れを、最近は少し戻せている」
「それなら、いいことじゃないですか」
「いいことよ」
理沙は淡々と言った。
「だから気になっているの」
その言葉で、喉の奥が少し詰まる。
しらいさんは笑いそうになった。
悪い変化ではないから気になる。
理沙さんらしい。
「何かあった?」
「……」
「無理に今すべて話せとは言わない。でも、あなたの仕事に影響する可能性があることなら、私は知っておきたい」
言い方は穏やかだった。
でも、そこにはマネージャーとしての責任がある。
この人は、白瀬アカリを守るために聞いている。
そしてたぶん、白瀬アカリではない自分のことも、それなりに心配している。
だからこそ、嘘をつきたくなかった。
「……大事な人がいます」
声は、自分で思っていたより小さかった。
それでも、控室には十分届いた。
理沙はすぐには反応しなかった。
表情も大きく変えない。
ただ、ほんの少しだけ、指先がタブレットの端を叩くのをやめた。
「恋人?」
「……はい」
言った。
言ってしまった。
その瞬間、足元の床がほんの少しだけ揺れたような気がした。
実際には何も揺れていない。
けれど、白瀬アカリの世界の中に、春日くんの存在が初めて言葉として入った。
理沙は小さく息を吐いた。
「そう」
「……驚かないんですか」
「驚いてるわよ」
「全然そう見えません」
「仕事中だから」
その返しが少しだけいつも通りで、しらいさんはほんの少し肩の力が抜けた。
けれど理沙の目は、すぐに現実へ戻る。
「相手は一般の方?」
「はい」
「業界関係者ではない?」
「違います」
「どこで知り合ったの」
「……河川敷です」
「河川敷」
さすがの理沙も、そこだけは少し眉を動かした。
「河川敷で?」
「はい」
「あなたが?」
「はい」
「……缶チューハイでも飲んでいたの?」
「何で分かるんですか」
「分かるわよ。最近、現場のあとに一人で抜けることが何度かあったもの」
しらいさんは思わず黙った。
やっぱり、見られていた。
この人は気づく。
自分が思っているよりずっと細かく。
理沙は少しだけ困ったように額に手を当てた。
「アカリ」
「はい」
「あなた、本当に危なっかしいところがあるわね」
「……すみません」
「怒っているんじゃないの」
「はい」
「ただ、聞いてるだけで心臓に悪い」
それは少しだけ本音に聞こえた。
しらいさんは膝の上の手を握り直す。
「でも、悪い人じゃありません」
「それは、あなたがそう思っているのね」
「はい」
「相手は、あなたが白瀬アカリだと知っている?」
「……知っています」
「最初から?」
「たぶん、最初から」
「認めたの?」
「認めませんでした」
「でしょうね」
理沙があまりにも当然のように言うので、しらいさんは少しだけ目を瞬いた。
「何で」
「あなたが認めるとは思えないから」
「……」
「でも、相手は気づいていた」
「はい」
「それで、今まで口外していない」
「していません」
「写真は?」
「撮られていません」
「連絡は?」
「しています」
「会う場所は?」
「河川敷と、人の少ない場所を選んでいます。あと……」
そこで言葉が止まった。
部屋。
春日くんの部屋。
言うべきか迷う。
理沙はその迷いを見逃さなかった。
「あと?」
「……彼の部屋に行ったことがあります」
「何度?」
「数回です」
「泊まった?」
「泊まってません」
「写真や証拠になるものは?」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
理沙の質問は淡々としていた。
けれど、それが責めるためではないことは分かる。
危険を一つずつ確認しているのだ。
それでも、胸が少し痛かった。
春日くんの部屋のコースター。
マグカップ。
ミルクティー。
少し眠ってしまった夜。
あの時間まで、こうしてリスクの項目として並べなければならないことが、少しだけ悲しかった。
「アカリ」
「はい」
「嫌な聞き方をしている自覚はあるわ」
「……」
「でも、聞かないわけにはいかない」
「分かっています」
「相手を疑っているというより、状況を確認している」
「はい」
理沙はそこで、少しだけ声をやわらげた。
「その人は、あなたを利用しない人?」
「しません」
「どうしてそう言い切れるの」
「……」
「アカリ」
「はい」
「信じている、だけでは足りないの。私の仕事上はね」
その言葉は、痛かった。
けれど正しかった。
しらいさんは、少しだけ息を吸う。
「最初から、騒ぎませんでした」
「……」
「私のことを見ても、写真を撮らなかった。名前を聞き出そうともしなかった。外で見かけても、声をかけませんでした」
「……」
「私が疲れているとき、無理に励まさない人です」
「……」
「それで、ちゃんと心配してくれる人です」
「……」
「私が白瀬アカリの顔のままでも、河川敷のしらいさんでも、同じ人だから好きだって言ってくれました」
言ってから、胸が少し熱くなった。
理沙がじっとこちらを見ている。
その視線は厳しい。
でも、どこかでちゃんと聞いている。
「しらいさん?」
「……私が、そう名乗っています」
「雑ね」
「自分でも思います」
「相手は何と呼ばれているの」
「春日くん」
「名前は」
「……春日悠真さんです」
初めて、その名前を口にした。
控室の中で。
白瀬アカリの世界の中で。
春日悠真。
その音が、思ったよりしっかり響いた。
理沙はタブレットに何かを打ち込むわけでもなく、ただ頷いた。
「年齢は」
「二十二歳です」
「会社員?」
「はい」
「同世代ね」
「はい」
「彼は、自分がどういう立場になるか分かっている?」
「……全部は、まだ」
「そうでしょうね」
「でも、逃げる人ではありません」
「そこも、あなたがそう思っている」
「はい」
「証拠は?」
「……」
しらいさんは少し黙った。
証拠。
そんなものはない。
でも、思い出すことはある。
河川敷で待っていてくれた夜。
すれ違ったあと、通話でちゃんと戻した夜。
自分の部屋に置いたコースターを動かさずにいてくれた朝。
画面の中の白瀬アカリも同じ人だから好きだと言ってくれた夜。
疲れて眠ったあと、戻るための場所にすればいいと言ってくれた声。
それらは、理沙に提出できる証拠ではない。
でも、しらいさんにとっては十分すぎるほどの理由だった。
「証拠は、今はありません」
「……」
「でも、私は信じています」
「……」
「今まで、誰かをこんなふうに信じたいと思ったことはあまりありません」
「アカリ」
「はい」
「それは、危うい言い方でもあるわ」
「分かっています」
「でも」
「はい」
「あなたがそこまで言うなら、軽い相手ではないのね」
その言葉に、少しだけ息が止まった。
許されたわけではない。
認められたわけでもない。
でも、春日くんの存在が、少なくとも“軽いものではない”と受け止められた。
「……はい」
「分かった」
理沙は椅子の背にもたれ、少しだけ考えるように視線を落とした。
「今すぐ別れろとは言わない」
「……」
「そんなことを言っても、あなたは聞かないでしょうし」
「……はい」
「そこは否定しないのね」
「できません」
「でしょうね」
理沙は小さくため息をついた。
「ただし、条件はある」
「はい」
「会う場所、時間、移動方法には今まで以上に気をつけること」
「はい」
「彼の部屋へ行くときも、周囲を確認すること。できれば頻度は抑えること」
「……はい」
「連絡の履歴や写真にも注意して」
「はい」
「彼にも、必要最低限は状況を理解してもらう必要がある」
「……はい」
そして理沙は、少し間を置いた。
「いつか、会わせて」
「……」
「すぐでなくていい。今すぐ会いたいわけではない」
「はい」
「でも、あなたが本当に大事にしている相手なら、私は一度見ておきたい」
「……」
「マネージャーとしても、あなたを長く見てきた人間としても」
その一言で、胸の奥がきゅっとなった。
逃げられない。
でも、完全に拒まれたわけではない。
「分かりました」
「無理に急がなくていい」
「はい」
「ただ、隠し続けるのはよくない」
「……はい」
「隠すことと守ることは違うから」
「……」
昨日、春日くんと似た話をした。
その言葉がまた別の角度から返ってきた気がした。
しらいさんは小さくうなずく。
「私も、そう思います」
「ならいいわ」
理沙は手帳を開いた。
いつもの仕事の顔に戻る。
「じゃあ今日のスケジュール。十時半からメイク、十一時十五分にスタジオ入り。午後は雑誌取材が二本」
「はい」
「あと、昼はちゃんと食べること」
「……はい」
「最近、食事が雑」
「何でそこまで」
「見ていれば分かる」
「……理沙さんにも分かるんですね」
「にも?」
しまった、と思った。
理沙がわずかに目を細める。
「春日さんにも言われるの?」
「……はい」
「そう」
「……」
「そこは少し安心した」
しらいさんは驚いて顔を上げた。
「安心?」
「あなたが食べていないことに気づく人なら、少なくとも見ている場所は悪くない」
その言い方は理沙らしく、少し硬くて、少し分かりにくくて、でもたぶん優しかった。
「ありがとうございます」
「お礼を言う場面かしら」
「言いたくなったので」
「そう」
理沙はそれ以上言わず、タブレットを操作した。
そのあと、メイクスタッフが来るまでの数分間、二人は仕事の話をした。
いつものように。
何事もなかったかのように。
でも何事もなかったわけではない。
白瀬アカリの世界に、春日悠真の名前が入った。
それだけで、朝の控室の空気は少し違っていた。
◇
昼過ぎ、撮影の合間にしらいさんはスマホを開いた。
春日くんからは、まだ何も来ていない。
仕事中だから当然だ。
でも、どうしても自分から送りたかった。
『話した』
送る。
少しして、既読がつく。
『大丈夫でしたか』
春日くんらしい返事だった。
しらいさんは少し考えてから打つ。
『まだ全部じゃない』
『でも、大事な人がいるって言った』
送信。
すぐに既読。
返事は、少し遅れた。
『ありがとうございます』
その一文を見た瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
お礼。
春日くんは、そう返す。
しらいさんは少しだけ笑って、続きを打つ。
『いつか会わせてって言われた』
送ってから、スマホを伏せた。
少し怖かった。
春日くんがどう受け取るのか。
でも、画面はすぐに震えた。
『緊張します』
続いて、
『でも、ちゃんと会います』
さらに、
『しらいさんが大事にしている人なら、俺もちゃんと向き合いたいです』
しらいさんは、控室の隅でスマホを握ったまま、少しだけ目を閉じた。
やっぱり、この人だ。
そう思った。
『今日、声聞きたい』
送る。
返事はすぐだった。
『待ってます』
そして、いつもの言葉。
『知ってますよね』
しらいさんは小さく笑って、返信した。
『知ってる』




