第33話 彼女を守る人の名前が、夜の帰り道に落ちてきた
駅へ向かう道は、さっきまでより少しだけ静かに感じた。
実際には、何も変わっていない。
車は通るし、遠くの信号は青から赤へ変わるし、駅前へ近づくにつれて人の声も増えていく。
けれど、しらいさんのスマホに表示された名前を見てから、空気の温度が少し変わった気がした。
相沢理沙。
悠真は、その名前を知らない。
けれど、知らないままでも分かることはある。
たぶん、彼女をずっと仕事の現場で守ってきた人だ。
白瀬アカリという存在が、ちゃんと白瀬アカリとして立っていられるように、近くで支えてきた人。
その人が、彼女に「話したいことがある」と連絡してきた。
偶然とは思えなかった。
しらいさんは隣を歩きながら、少しだけ視線を落としていた。
さっきまで悠真の部屋で、マグカップを洗って、コースターを整えて、「元気な日にも来る」と言っていた人と同じ人なのに、今は少しだけ別の顔をしている。
「……寒くないですか」
悠真は、少し迷ってからそう聞いた。
何か気の利いたことを言おうとしても、たぶん今はうまくいかない。
だから、いちばん普通の言葉にした。
しらいさんは小さく首を横に振る。
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。今日はそれ、ほんと」
「今日は?」
「いつもはちょっと盛るときある」
「言うんだ」
「言った」
少しだけ笑う。
でもすぐに、その笑みは薄くなった。
「春日くん」
「はい」
「理沙さん、怖い人じゃないよ」
「……」
「たぶん、そこは先に言っておきたい」
悠真はうなずいた。
「分かりました」
「仕事には厳しいけど。言い方きついときもあるし、すごく現実的だし」
「はい」
「でも、私を商品としてだけ見てる人じゃない」
「……」
「ちゃんと、人としても見てくれてる」
「いい人なんですね」
「うん。いい人」
「なら」
「うん」
「余計に、ごまかせないですね」
しらいさんは、少しだけ驚いたように悠真を見た。
それから、困ったように笑った。
「春日くん、たまにすぐそこ行くよね」
「どこですか」
「私が見ないようにしてるところ」
「……すみません」
「怒ってない」
「はい」
「むしろ、今のは合ってる」
彼女は歩く速度を少し落とした。
駅までは、もうすぐだ。
けれど二人とも、急いで改札まで行きたい気分ではなかった。
「理沙さん、たぶん気づいてる」
「最近、変わったことに?」
「うん」
「……」
「仕事場で、私が少し柔らかくなったって言われた」
「柔らかく」
「表情とか、休憩中の感じとか」
「いいことでは?」
「いいことなんだけど」
「はい」
「理沙さんは、そういう変化にすぐ気づく人だから」
しらいさんは、バッグの持ち手を少し握り直した。
「最近、誰かいるの? って聞かれるかも」
「……」
「聞かれたら、どうしようって考えてた」
「答えを?」
「うん」
「……俺のこと、言いにくいですか」
「言いにくい」
彼女は、逃げなかった。
その一言が、思ったより胸に刺さる。
けれど、嘘をつかれなかったことのほうが大きかった。
しらいさんはすぐに続けた。
「言いたくないんじゃない」
「……はい」
「春日くんを隠したいわけでもない」
「はい」
「でも、簡単に言ったら、それで春日くんの生活まで変わるかもしれない」
「……」
「理沙さんは、悪いようにはしないと思う。でも、私の仕事のことを考えたら、相手が誰なのか、どんな人なのか、どう会ってるのか、全部気にする」
「……」
「それは、たぶん正しい」
正しい。
その言葉に、悠真は何も言えなかった。
恋人としては、少し寂しい。
でも彼女を守る側としては、たぶん正しい。
相沢理沙という人は、しらいさんを疑っているのではなく、白瀬アカリを守るために動く。
その中に、悠真が入ってくる。
ただの春日悠真が。
「俺」
悠真は言いかけて、少し言葉を探した。
「うん」
「正直、ちょっと怖いです」
「……」
「知らない世界の人に、自分のことを見られるのが」
「うん」
「それで、しらいさんにとって大丈夫な相手なのかって判断されるかもしれないのが」
「……」
「怖いです」
しらいさんは、すぐには返事をしなかった。
夜道の脇を、自転車が一台通り過ぎていく。
その音が遠ざかってから、彼女は静かに言った。
「そうだよね」
「はい」
「春日くんは、急に巻き込まれる側だもんね」
「巻き込まれるって言い方は」
「でも、そうだよ」
「……」
「私が白瀬アカリじゃなかったら、たぶんこんなことで悩ませない」
「それは」
「うん」
「でも、それもしらいさんなので」
彼女が顔を上げる。
悠真は、うまく笑えなかった。
でも、できるだけ真っ直ぐ言った。
「河川敷のしらいさんも、部屋でミルクティー飲むしらいさんも、白瀬アカリとして仕事してるしらいさんも、同じ人だって言ったので」
「……」
「だったら、その周りにあるものだけ、別扱いにはできないです」
「……春日くん」
「はい」
「今日、また強い」
「本当は、ちょっと怖いです」
「うん」
「でも、怖いからって、なかったことにはしたくないです」
「……」
しらいさんは、しばらく悠真を見ていた。
それから、少しだけ目元をゆるめる。
「そういうところ」
「はい」
「私、かなり好き」
「……」
「今のは普通に言った」
「普通に言われると、やっぱり困ります」
「困って」
「ひどい」
「ちょっと見たい」
いつもの調子が少し戻って、悠真はようやく少し笑えた。
駅前の明かりが近づいてくる。
人の数が増えた。
ここから先は、彼女が少しだけ白瀬アカリ側の世界に戻る場所でもある。
しらいさんは足を止めた。
「春日くん」
「はい」
「明日、理沙さんと話す」
「はい」
「まだ、全部は言えないかもしれない」
「……」
「春日くんの名前も、すぐには言わないかもしれない」
「はい」
「でも、嘘だけはつかない」
「……」
「誰か大事な人がいるのかって聞かれたら」
「はい」
「いるって言う」
それは、告白に近いくらいの重さがあった。
悠真は、胸の奥が熱くなるのを感じる。
同時に、少しだけ痛い。
大事な人がいる。
その言葉の中に自分が入る。
けれどまだ、名前はない。
それでも、十分すぎるくらい大きな一歩だった。
「ありがとうございます」
悠真は言った。
しらいさんは少しだけ目を丸くする。
「お礼なの?」
「はい」
「変なの」
「そうですか」
「うん。でも、春日くんらしい」
彼女は少し笑って、すぐに真面目な顔に戻る。
「隠すためじゃなくて、守るために話す」
「……はい」
「まだ、私もそこ上手く分けられてないけど」
「うん」
「でも、ちゃんと分けたい」
「俺も」
「春日くんも?」
「隠されるのは、少し寂しいです」
「……」
「でも、守るためなら一緒に考えたいです」
「……」
「だから、何が寂しくて、何なら大丈夫か、俺もちゃんと言います」
「……春日くん」
「はい」
「今の、かなり必要だった」
「ならよかった」
「出た」
「口癖なので」
「知ってる」
しらいさんは、少しだけ安心したように息を吐いた。
改札まではあと少しだった。
けれど、彼女はその場で一度だけ悠真の手に触れた。
人がいるから、つなぐのではなく、本当に一瞬だけ。
それでも、十分だった。
「明日」
「はい」
「終わったら連絡する」
「待ってます」
「知ってる」
「……無理しないでください」
「無理は少しすると思う」
「そこは正直ですね」
「でも、戻ってくる」
「……はい」
「春日くんのところにも、部屋にも」
「待ってます」
「うん」
彼女は改札のほうへ歩き出した。
数歩進んで、振り返る。
「春日くん」
「はい」
「今日、送ってくれてありがとう」
「送りますよ」
「知ってる」
「便利ですね」
「うん。便利」
そのあと、彼女は人の流れに紛れていった。
悠真はしばらくその場に立っていた。
相沢理沙という名前が、まだ胸の中に残っている。
彼女を守る人。
こちらの世界にはまだいない人。
でも、たぶんこれから避けては通れない人。
怖い。
それは本当だ。
けれど、しらいさんが「大事な人がいる」と言うつもりでいてくれる。
その事実が、怖さの下に静かに根を張っていた。
悠真はゆっくり息を吐き、家路についた。
部屋には、彼女のマグカップがある。
コースターもある。
戻るための場所がある。
なら、自分もそこにちゃんと立っていなければならない。




