第32話 安心しすぎる場所は、少しだけ怖い
タイマーが鳴るより先に、しらいさんは目を覚ました。
正確には、起きたというより、浅い眠りの底からふっと浮かび上がってきたような目覚め方だった。
まぶたが少し震えて、次に、彼女の指先がブランケットの端を探る。
それから、ぼんやりした目で部屋を見た。
「……ん」
声になりきらない音が漏れる。
春日悠真は、手にしていた文庫本をそっと閉じた。
読んでいたと言っても、ほとんどページは進んでいない。
しらいさんが眠っているあいだ、物音を立てないようにしていただけだ。
「起きました?」
「……寝た?」
第一声がそれだった。
彼女は体を起こそうとして、ブランケットが膝から滑り落ちかけたのに気づき、慌てて押さえた。
その仕草が少しだけ子どもっぽくて、悠真は笑いそうになるのをこらえる。
「少しだけ」
「どれくらい」
「十八分くらいです」
「細かい」
「タイマーかけてたので」
「起こしてって言ったから?」
「はい」
「……ちゃんとしてる」
しらいさんは、まだ少し眠そうな顔でそう言った。
さっきまでの、仕事の顔が残った硬さはほとんど抜けていた。
その代わり、寝起きの無防備さが残っている。
目元がいつもより柔らかく、声も少し低い。
彼女はそれに自分で気づいたのか、急に背筋を伸ばした。
「……最悪」
「何がですか」
「寝た」
「寝ましたね」
「春日くんの部屋で」
「はい」
「しかも、けっこう普通に」
「かなり普通に」
「言わなくていい」
しらいさんは片手で顔を隠した。
「そんなに嫌でした?」
「嫌じゃないから最悪なの」
「難しいな」
「難しいの」
ブランケットを膝にかけたまま、彼女は少しだけ肩を落とした。
怒っているわけではない。
恥ずかしがっているだけでもない。
もう少し複雑な顔だった。
悠真はテーブルの上のマグカップを見た。
「ミルクティー、少し冷めました」
「飲む」
「温め直しますか」
「このままでいい」
しらいさんはマグカップを取り、両手で包んだ。
コースターからカップが離れるとき、小さな音がした。
彼女はそれに少しだけ目を向ける。
「……ちゃんとここにあった」
「何が」
「カップ」
「ありましたよ」
「コースターも」
「はい」
「春日くんも」
「います」
「……うん」
彼女は冷めかけたミルクティーを一口飲んだ。
その沈黙は、さっきまでの穏やかな沈黙とは少し違った。
眠ったことで気が抜けたぶん、彼女の中の不安が少し顔を出したような感じがした。
「春日くん」
「はい」
「安心しすぎるの、ちょっと怖い」
「……」
「さっき、目閉じたとき、すぐ寝た」
「疲れてたからじゃないですか」
「それもあるけど」
「はい」
「でも、たぶんそれだけじゃない」
しらいさんはマグカップの縁を指でなぞる。
その仕草は、インタビュー動画で見たときの指先の動きとは少し違う。
あちらは緊張をごまかすための動き。
今のは、言葉を探すための動きだった。
「私、どこでもちゃんとしてなきゃって思ってるところあるから」
「うん」
「現場でも、移動中でも、控室でも。休んでいい場所でも、結局どこかで気を張ってる」
「はい」
「なのに、ここだと」
「うん」
「……勝手にほどける」
ほどける。
その言葉が、部屋の空気に静かに落ちた。
「いいことじゃないですか」
悠真は言った。
すると、しらいさんは少しだけ困った顔をした。
「春日くんは、そう言うと思った」
「違いました?」
「違わない。でも、怖い」
「何が」
「戻れなくなりそうで」
声は小さかった。
けれど、その奥にあるものは軽くなかった。
「どこにですか」
「ちゃんとしてる私に」
「……」
「白瀬アカリって、たぶんちゃんとしてる人に見えるでしょ」
「見えます」
「うん。そう見えるようにしてる」
「はい」
「現場でも、遅れない。弱音を吐きすぎない。機嫌を表に出さない。求められたことには、なるべくちゃんと返す」
「うん」
「それが仕事だから」
「はい」
「でも、ここでこんなふうに気を抜きすぎたら、戻るのが下手になりそうで怖い」
悠真はすぐに否定しなかった。
安心できるならいいじゃないですか。
弱くなったっていいじゃないですか。
そう言うのは簡単だ。
でも彼女は、弱くなりたいだけではない。
ちゃんと立っていたい人なのだ。
だからこそ、ここで休むことさえ怖い。
「しらいさん」
「うん」
「戻れなくなる場所じゃなくて」
「……」
「戻るための場所にしたらいいんじゃないですか」
「戻るため?」
「はい」
「……」
「ここで気を抜いたら仕事に戻れなくなるんじゃなくて、ここで休むから戻れる、みたいな」
「……」
「弱い自分を置きっぱなしにする場所じゃなくて、弱くなっても大丈夫なまま、また立ち上がる場所」
「……春日くん」
「はい」
「そういうの、すぐ出てくる?」
「今、考えました」
「ずるい」
「ずるいですか」
「うん。かなり」
彼女は笑おうとして、うまく笑いきれない顔をした。
その顔が、いつもの照れた顔よりずっと胸に刺さる。
悠真は少しだけ姿勢を正した。
「でも、無理にここをそういう場所にしなくてもいいですよ」
「え?」
「しらいさんが怖いなら、少しずつでいいです」
「……」
「毎回ここで眠らなくていいし、毎回全部話さなくていい」
「うん」
「今日はミルクティーだけ、次は少し話すだけ、別の日は何もしないで帰るだけでも」
「うん」
「それでも、ここに来たら少し戻れるなら」
「……」
「それでいいと思います」
しらいさんは黙った。
マグカップを持つ手が、少しだけ緩む。
その表情から、仕事の顔も、さっきの不安も、全部消えたわけではない。
でも、少しだけ呼吸が深くなったように見えた。
「春日くん」
「はい」
「私、たぶん面倒だよ」
「知ってます」
「即答」
「今さらです」
「そこは少し否定して」
「嫌です」
「何で」
「面倒なところも、しらいさんなので」
「……」
「全部大丈夫って軽く言うより、面倒なのは分かった上で一緒にいたいって言うほうがいいかなと」
「……それ、かなりだめ」
「うれしいほうですか」
「うん」
しらいさんは、マグカップをコースターの上に置いた。
ことん、と音がする。
彼女はその音を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「この音、好きかも」
「カップ置く音ですか」
「うん」
「地味ですね」
「地味なお姉さんなので」
「まだ言う」
「言う」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
悠真はほっとして、自分のコーヒーを飲んだ。
すっかり冷めていた。
でも、今日はそれでいい気がした。
「ねえ」
しらいさんが言う。
「はい」
「このカップ」
「はい」
「戻るための目印にしていい?」
「もちろんです」
「コースターも」
「はい」
「ここに置いてあったら、私、戻ってきていいって思っていい?」
「思ってください」
「……」
「というか、戻ってきてほしいです」
「春日くん」
「はい」
「今日、ちょっと強い」
「この前も言われました」
「今日のほうが強い」
「そうですか」
「うん。静かに強い」
「静かに」
「そう」
しらいさんはブランケットを少しだけ握った。
「じゃあ、ここは戻るための場所」
「はい」
「逃げるだけじゃなくて」
「はい」
「休んで、また戻るため」
「はい」
「……うん」
自分に言い聞かせるように、彼女は何度か小さくうなずいた。
そのあと、少しだけ表情が楽になった。
「何か」
彼女が言う。
「はい」
「もう少しだけ、ここにいてもいい?」
「もちろん」
「眠らない」
「無理しなくていいですよ」
「今日は起きてる」
「分かりました」
「でも、話さないかも」
「いいですよ」
「春日くん、本当にそればっかり」
「実際いいので」
「……そっか」
それからしばらく、二人は言葉少なに過ごした。
テレビはつけない。
音楽も流さない。
スマホも見ない。
しらいさんはマグカップを両手で持ち、時々ミルクティーを飲む。
悠真は向かいに座って、たまに彼女の様子を見る。
目が合うと、彼女は少しだけ照れたように視線を外す。
それだけの時間だった。
でも、ただの無言ではなかった。
ここにいていい。
話さなくてもいい。
ちゃんとしなくてもいい。
それを少しずつ確認するための時間だった。
やがて、しらいさんがぽつりと呟いた。
「春日くん」
「はい」
「今日、来てよかった」
「俺もです」
「春日くんは部屋にいただけじゃん」
「しらいさんが来てくれたので」
「……そういう返し」
「何ですか」
「好き」
「……」
「今のは普通に言った」
「普通に言われると余計に困ります」
「困って」
「ひどい」
「でも、ちょっと見たい」
そう言って、彼女は少しだけ笑った。
その笑顔は、仕事の顔ではなかった。
河川敷で少し酔ったときの顔とも違う。
この部屋で、少し休んだあとにだけ出る顔だった。
悠真は、その顔を見て思う。
彼女は戻れなくなるわけではない。
ここで少しほどけて、また戻っていく。
そのための場所に、この部屋がなれたらいい。
大げさなことはできない。
彼女の仕事を代わることも、世間の目を消すこともできない。
でも、コースターを動かさずに置いておくことはできる。
ミルクティーを淹れることはできる。
眠ったらタイマーをかけて、起こすことはできる。
話したいときに聞いて、話したくないときには黙っていることも。
それは小さい。
でも今の二人には、たぶんそれくらいの小ささが必要だった。
「春日くん」
「はい」
「帰る前に、カップ洗う」
「俺が洗いますよ」
「だめ」
「何で」
「私のだから」
「……」
「ここに置くもの、自分でもちゃんと大事にしたい」
「分かりました」
「だから洗う」
「はい」
しらいさんは立ち上がって、マグカップを持ってキッチンへ向かった。
悠真も慌てて立つが、彼女は振り返って少しだけ眉を上げる。
「見張らないで」
「見張ってません」
「でも来た」
「一応」
「座ってて」
「はい」
言われるまま、悠真はローテーブルの前に戻った。
キッチンから水の音がする。
小さなスポンジの音。
カップを洗っているだけなのに、妙に生活感がある。
しらいさんがこの部屋でカップを洗っている。
それだけで、部屋がまた少し彼女のものにもなった気がした。
しばらくして、彼女が戻ってくる。
きちんと拭いたマグカップを棚に戻し、コースターを少しだけ整える。
「……よし」
「採点制ですか」
「今日は自分で採点」
「何点ですか」
「八十点」
「高い」
「寝たから減点」
「そこ減点なんだ」
「でも、戻れたから加点」
「じゃあ百点でいいのに」
「甘い」
「甘くていい日では」
「……そういうところ」
彼女は照れたように少し笑った。
帰る支度をして、玄関へ向かう。
靴を履く前に、彼女は一度だけ部屋を振り返った。
「次」
「はい」
「元気な日にも来る」
「疲れた日だけじゃなくて?」
「うん」
「いいですね」
「疲れてる私だけ置いていくの、何か違うから」
「……」
「元気な私でも、ここに来たい」
「待ってます」
「知ってる」
その“知ってる”は、今日いちばん穏やかだった。
玄関のドアを開けると、外の空気が少し冷たかった。
「送ります」
「駅まで?」
「はい」
「じゃあ少しだけ」
二人で夜道を歩く。
彼女は来たときより少しだけ足取りが軽かった。
完全に元気になったわけではない。
でも、戻るための力を少しだけ取り戻したように見える。
駅に近づいたところで、彼女のスマホが震えた。
しらいさんは画面を見た。
その瞬間、表情が少し固まる。
悠真は気づいた。
彼女はすぐにスマホを伏せようとしたが、画面に表示されていた名前が一瞬見えた。
相沢理沙。
たぶん、マネージャーの名前だ。
「……仕事ですか」
悠真が聞く。
しらいさんは少しだけ迷ってから、うなずいた。
「理沙さん」
「……」
「明日の朝、少し話したいことがあるって」
「大丈夫ですか」
「分からない」
「……」
「でも、たぶん」
「はい」
「気づいてる」
何に、とは聞かなくても分かった。
最近、彼女が変わったこと。
誰かと会っていること。
戻る場所が増えたこと。
しらいさんはスマホをバッグにしまい、少しだけ息を吐いた。
「春日くんのこと、まだ話してない」
「……はい」
「でも、いつか話さなきゃいけないかもしれない」
「……」
「隠すためじゃなくて、守るために」
夜の空気が、ほんの少し変わった。
部屋での穏やかな時間のあとに、外の現実が静かに近づいてくる。
悠真は、すぐに何か答えられなかった。
けれど、彼女の隣にいることだけはやめなかった。




