第31話 しらいさんの声が近くなる夜
インターフォンが鳴った瞬間、春日悠真は思っていたより早く立ち上がっていた。
時計は二十一時を少し回っている。
仕事帰りにしては遅い。けれど、彼女が「寄れそう」と連絡をくれた時点で、悠真の中ではもう今日の予定はそれだけになっていた。
玄関へ向かう途中、ローテーブルの上を見る。
コースターは、ちゃんとある。
棚の上には、彼女のマグカップもある。
ずれていない。片づけていない。
彼女が戻ってきても、すぐに分かる場所にある。
ドアを開けると、しらいさんが立っていた。
黒いキャップ。
薄いマスク。
ゆるいグレーのパーカーに、黒のパンツ。
河川敷で見慣れた格好に近い。けれど、目元の疲れだけは隠しきれていなかった。
「……来た」
彼女が小さく言った。
「来てくれてよかったです」
「それ、こっちが言うやつじゃない?」
「どっちでもいいでしょう」
「……うん。どっちでもいい」
声が、少しだけ遠い。
電話越しではなく、目の前にいるのに、どこか仕事場の空気をまとったままの声だった。
悠真はすぐに脇へ避ける。
「入ってください」
「うん。お邪魔します」
靴を脱ぐ動作も、いつもより少しゆっくりだった。
部屋に上がったしらいさんは、真っ先にローテーブルのほうを見た。
そして、小さく息を吐く。
「……あった」
「ありますよ」
「コースター」
「ずれてません」
「ほんとだ」
「写真でも確認しましたよね」
「実物は違うの」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔で、ようやくほんの少しだけ“しらいさん”が戻ってきた気がした。
悠真はキッチンへ向かう。
「ミルクティーでいいですか」
「うん」
「温かいほう?」
「温かいほう」
「分かりました」
湯を沸かしながら、背中越しに彼女の気配を感じる。
しらいさんはローテーブルの前に座り、膝を抱えるようにしてコースターを見ていた。
部屋に来てすぐ、何か話すわけでもない。
スマホを見るわけでもない。
ただ、自分のために置かれた小さな場所を確かめるように見つめている。
悠真は、棚から彼女のマグカップを取った。
白地に細い青いライン。
そのカップにミルクティーを注ぐ。
自分の分は、いつものマグカップにコーヒー。
二つのカップをローテーブルへ運ぶ。
「はい」
「……ありがとう」
しらいさんは両手でマグカップを受け取った。
そして、迷わず自分のコースターの上に置く。
ことん、と小さな音がした。
ただそれだけの音なのに、悠真にはやけに大きく聞こえた。
「置けた」
彼女が言う。
「置けましたね」
「……何か、ちゃんと帰ってきた感じする」
「ここ、帰る場所ですか」
「言い方」
「嫌でした?」
「嫌じゃない」
「なら」
「……でも、ちょっと効く」
彼女はミルクティーを一口飲んだ。
目元が少しだけやわらぐ。
「温かい」
「よかった」
「それも好き」
「知ってます」
「言われた」
そう言って、彼女は少しだけ笑った。
でも、その笑いは長く続かなかった。
マグカップを両手で包んだまま、視線を落とす。
「今日」
「はい」
「声、ちょっと遠い?」
「……少し」
「やっぱり」
「仕事の顔が、まだ抜けてない感じです」
「うん」
「無理に抜かなくていいですよ」
「……それ、昨日も言われた」
「今日も言います」
「何で」
「大事なので」
彼女はそれを聞いて、何かをこらえるように一度唇を結んだ。
「春日くん」
「はい」
「今日、ちゃんと笑ってた?」
「画面じゃなくて?」
「うん。現場で」
「それは俺には見えないです」
「そっか」
「でも」
「うん」
「今、ちゃんと疲れてるのは分かります」
「……」
「だから、たぶん頑張って笑ってきたんだと思います」
「……それ、ずるい」
「何がですか」
「見てないのに、分かるみたいに言う」
「分かったふりはしたくないです」
「うん」
「でも、しらいさんがそういう顔でここに来るくらいには、頑張ったんだろうなとは思います」
「……」
しらいさんは黙ったまま、マグカップを見つめた。
湯気が薄く立っている。
その向こうで、彼女の目元が少しだけ揺れていた。
「今日ね」
「はい」
「朝からずっと、人がいた」
「うん」
「メイクさん、スタイリストさん、マネージャー、スタッフさん、記者さん、共演者」
「うん」
「一人になる時間がほとんどなくて」
「うん」
「でも、みんな悪い人じゃない」
「……」
「むしろ、ちゃんとしてくれる人たちばかり」
「はい」
「だから余計に、疲れたって言いにくい」
「……」
「みんな仕事してるから」
「……」
「私だけ、疲れましたって顔できない」
その言葉は、静かに部屋へ落ちた。
悠真はすぐに励まさなかった。
それはたぶん違うと思った。
彼女が欲しいのは、「頑張ってますね」という評価ではなく、今この部屋で少しだけ力を抜ける時間なのだ。
「ここでは」
悠真は言う。
「うん」
「疲れたって顔していいですよ」
「……」
「むしろ、してくれたほうが分かりやすいです」
「何それ」
「俺が心配しやすい」
「心配しやすいって」
「心配していい場所なので」
「……」
「ここは」
「……」
しらいさんは、少しだけ俯いた。
「春日くんの部屋、そういう場所なの?」
「しらいさんが嫌じゃなければ」
「……」
「疲れた顔してもいいし、何も話さなくてもいいし」
「うん」
「ミルクティー飲んで、コースターずれてないか確認して、少し休んで帰ってもいい場所」
「……」
「そういう場所にしたいです」
彼女はしばらく何も言わなかった。
やがて、マグカップを一度コースターの上へ置く。
ことん、とまた小さな音がした。
「春日くん」
「はい」
「今日、私、かなり何もできないかも」
「いいですよ」
「会話も、たぶんいつもより下手」
「俺もそんなに上手くないので」
「春日くんは、たまに変なとこで上手い」
「今日は上手くなくていい日です」
「……」
「たぶん」
「……うん」
彼女は小さく息を吐き、肩の力を少し抜いた。
その変化が、部屋の空気ごとやわらげる。
悠真は自分のカップを持ったまま、彼女の向かいに座る。
近すぎず、遠すぎず。
彼女が少し眠くなっても、少し黙っても、そのままでいられる距離。
「テレビ、つけます?」
「つけない」
「音楽は?」
「今日はなくていい」
「分かりました」
「……スマホ見てもいい?」
「もちろん」
「でも、仕事の連絡だったら嫌」
「じゃあ見ないほうが」
「うん。見ない」
しらいさんはバッグから出しかけたスマホを、すぐに戻した。
それから、ブランケットのほうを見る。
「これ」
「はい」
「私用?」
「一応」
「一応?」
「しらいさんが来たとき、寒そうだったので」
「……」
「何ですか」
「今日の春日くん、甘やかしが具体的」
「具体的じゃないと役に立たないので」
「そういうとこ」
「うん」
「かなり好き」
彼女はブランケットを受け取り、膝にかけた。
そのままマグカップを両手で包み直す。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
冷蔵庫の低い音。
外を通る車のかすかな気配。
マグカップから立つ湯気。
それだけが部屋にある。
沈黙は、不思議なくらい穏やかだった。
やがて、しらいさんがぽつりと呟いた。
「何も考えなくていい日って、ほんとにあるんだ」
「今日はそういう日にしましょう」
「うん」
「明日には、また考えればいいです」
「春日くん」
「はい」
「それ、今日かなり効く」
「ならよかった」
「出た」
「出ますよ」
「知ってる」
少し笑って、彼女はマグカップの縁に口をつけた。
そのあと、彼女は本当にあまり話さなかった。
時々、「温かい」とか、「このブランケット、手触りいい」とか、「春日くんの部屋、静かだね」とか、そういう短い言葉を落とすだけ。
悠真も、それに短く返す。
無理に会話を続けない。
彼女を楽しませようとしすぎない。
それが、今日の正解なのだと思った。
しばらくして、しらいさんのまぶたが少し重そうになった。
「眠いですか」
「……少し」
「寝ます?」
「ここで?」
「はい」
「それ、危ない」
「何が」
「安心しすぎる」
「いいと思いますけど」
「よくないかも」
「じゃあ起きてます?」
「……ちょっとだけ、目閉じるだけ」
「分かりました」
「寝たら起こして」
「はい」
「二十分くらい」
「はい」
「ほんとに起こして」
「起こします」
「……春日くん」
「はい」
「コースター、見えるところにある?」
「あります」
「マグカップも?」
「あります」
「春日くんも?」
「います」
「……じゃあ、少しだけ」
彼女はブランケットを少し引き上げ、クッションにもたれた。
完全に横になるわけではない。
それでも、目を閉じた瞬間、表情から力がすっと抜けた。
悠真はその姿を、少しのあいだ黙って見ていた。
画面の中で完璧に笑う白瀬アカリ。
取材で同じことを何度も話す彼女。
ここでマグカップを両手で包み、少しだけ眠るしらいさん。
全部、同じ人だ。
その人が今、自分の部屋で目を閉じている。
コースターとマグカップのある場所で、少しだけ休もうとしている。
それがうれしい。
でも同時に、少しだけ怖いくらい大事だった。
悠真はスマホのタイマーを二十分にセットした。
音量は小さめにする。
そして、自分のコーヒーを一口飲む。
部屋は静かだった。
けれど、昨日までより少しだけ、ちゃんと二人の場所になっていた。




