表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/33

第30話 画面の中の君が、昨日この部屋にいた人と同じだと知っている

 昼休みの会社は、どこか気が抜けている。


 午前中の電話やメールの応酬がひと段落し、午後の会議や修正依頼がまだ本格的に押し寄せてこない、ほんの短い隙間。

 休憩スペースには、コンビニ弁当を広げる社員や、スマホを眺めながら無言でパンを齧る人たちが散らばっていた。


 春日悠真も、窓際の席でコンビニのおにぎりを食べていた。


 片手にはスマホ。

 画面には、動画サイトのインタビュー映像が映っている。


 白瀬アカリ。

 新作映画の公開に合わせた、短いインタビュー動画だった。


 薄いブルーのブラウスに、落ち着いた白のスカート。

 髪はゆるく巻かれていて、照明の当たり方まで完璧だった。

 画面の中の彼女は、穏やかに笑いながら、主演映画について語っている。


『今回の役は、自分の弱さを隠してしまう女性で――』


 声は、よく知っている声だった。


 でも同時に、少し遠い声でもあった。


 昨夜、電話越しに「コースター、ずらさないで」と少しだけ拗ねたように言っていた人。

 春日悠真の部屋にマグカップとコースターを置き、「そこ、私の場所だから」と照れ隠しみたいに言った人。

 疲れた夜に「春日くんの声、思ったより安心する」と漏らした人。


 その人が、今は画面の中で完璧な女優として笑っている。


 同じ人だ。

 同じ人なのに、まるで違う。


 悠真は動画を止めずに見続けた。


 インタビュアーが質問する。

 彼女は少し考える仕草をしてから、丁寧に答える。

 言葉の選び方はきれいで、姿勢も崩れない。

 笑うタイミングも、相槌を打つ角度も、すべてが自然に見える。


 けれど、悠真には分かった。


 彼女は、少し疲れている。


 目の奥が、ほんの一瞬だけ遅れている。

 笑う前に、指先が膝の上で小さく動く。

 何でもないように見える仕草。

 たぶん、普通に見ている人なら気づかない。


 でも悠真は、それを知っていた。


 河川敷で同じように指先を動かしてから、彼女が「今日、笑うの疲れた」と言った夜を知っている。

 部屋でカップを両手で包みながら、息を抜く瞬間を知っている。

 外では完璧に整えている表情の奥に、帰りたい場所を探している彼女がいることを知っている。


「……春日?」


 背後から声をかけられ、悠真は反射的にスマホの音量を下げた。


 三崎だった。

 購買で買ったらしいパンと紙パックのコーヒーを持って、こちらを覗き込んでいる。


「何見てんの」

「別に」

「別にって顔じゃないな」


 三崎は勝手に隣へ座った。

 画面をちらりと見る。


「あ、白瀬アカリじゃん」

「……まあ」

「珍しいな。春日が芸能人の動画なんて見るの」

「たまたま流れてきただけだ」

「たまたま、ねえ」


 その言い方がやけに含みがあって、悠真はスマホを伏せた。


「何だよ」

「いや、別に」

「その別に、絶対別にじゃないだろ」

「春日ってさ」

「何」

「白瀬アカリ、好きなの?」


 心臓が、一拍だけ変な動きをした。


 好き。

 その言葉自体は間違っていない。

 ただし、三崎の言っている“好き”とは種類が違いすぎる。


 悠真はできるだけ平静を装って、お茶のペットボトルを取った。


「すごい人だとは思う」

「おお、無難」

「何が」

「いや、春日が芸能人を“すごい人”って言うの、なんか珍しくて」

「そうか?」

「お前、基本的にテレビとか流行りものに薄いじゃん」

「それは否定しない」

「なのに、さっきの顔はちょっと違った」

「どんな顔だよ」

「知り合い見てる顔」


 悠真は、お茶を飲む手を止めかけた。


 三崎はパンを齧りながら、軽い調子で続ける。


「まあ、こんな有名人が知り合いなわけないけど」

「……当たり前だろ」

「だよな。でも何か、画面の向こうの人を見る顔じゃなかった」

「気のせいだ」

「そうか?」

「そうだ」

「ふーん」


 三崎はそれ以上追及しなかった。

 けれど、その“ふーん”が少しだけ長かった。


 悠真は内心で息を吐く。


 危ない。

 そう思った。


 別に何も言っていない。

 何もバレていない。

 それでも、表情一つで何かを拾われかけた。


 しらいさんが外で誰かに気づかれる危うさとは別に、悠真にも気をつけるべきことがあるのだと、今さらながら実感する。


 彼女のことを知っている。

 それは、うれしい。

 でも、知っていることを顔に出しすぎてはいけない。


 画面の中の白瀬アカリは、世間の人のものだ。

 少なくとも、表向きには。


 しらいさんは、悠真の大事な人だ。

 でも、そのことはまだ誰にでも話せるものではない。


「春日」

「何」

「でも、もし白瀬アカリ好きなら、映画見に行けば?」

「……映画」

「今度公開のやつ。結構話題だぞ」

「そうだな」

「その反応も珍しいな」

「何が」

「行くか迷ってる顔」

「……」

「当たり?」

「うるさい」


 三崎は笑った。


「まあ、たまにはいいんじゃね。デートで映画とか」

「何でそうなる」

「いや、彼女いるんだろ」

「……」

「おい、そこ否定しなくなったな」

「仕事戻れ」

「昼休みだし」

「心の仕事に戻れ」

「何だそれ」


 三崎はまた笑って、紙パックのコーヒーを飲んだ。


 悠真はスマホの画面を伏せたまま、さっきの動画の続きを思い出す。

 映画。

 白瀬アカリの主演作。


 しらいさんは、それを自分と一緒に見るのだろうか。

 それとも、見ないほうがいいのだろうか。


 画面の中の彼女を恋人として見ること。

 白瀬アカリとして演じている彼女を、春日悠真として見に行くこと。


 考えるだけで、少しだけ胸が落ち着かない。


    ◇


 午後の仕事は、いつもより少しだけ手につかなかった。


 いや、手は動いている。

 メールも返した。資料の修正もした。上司に確認も取った。

 社会人としての最低限はこなしている。


 けれど、頭の隅にはずっと画面の中の彼女がいた。


 照明の下で笑う白瀬アカリ。

 同じ人物が、悠真の部屋に置いたコースターを気にしている。

 戻る場所があると言ったら、「今日それ、かなり効く」と返してきた。


 その落差が、どうにも眩しかった。


 夕方、少しだけ手が空いたタイミングで、悠真はスマホを開いた。


 しらいさんから新しいメッセージは来ていない。

 今日は彼女の仕事が詰まっている。

 それは分かっている。


 それでも、短く一つだけ送った。


『昼にインタビュー動画を見ました』


 送ってから、少し迷う。

 忙しいなら今は読めないだろう。

 返事を求めるつもりはない。


 少しして、既読がついた。


 思ったより早かった。


『どれ?』


 悠真は動画のリンクを送る。

 少し間が空いて、返事。


『それ、朝から三本目の取材のあと』


『疲れてました?』


 既読。

 また少し間。


『分かった?』


『少し』


『どこで?』


 悠真は、会社のデスクで少しだけ考えた。


『笑う前に、指が少し動いてました』


『あと、質問を聞いてるときに、目が少し遅れてました』


 送ってから、自分でも少し気恥ずかしくなった。

 どれだけ見ているんだ、と思われるかもしれない。


 返事はしばらく来なかった。


 そして、数分後。


『春日くんには、分かるんだね』


 その一文は、責めているようにも、驚いているようにも、少し安心しているようにも見えた。


 悠真はゆっくり打つ。


『全部は分かりません』


『でも、少しは分かるようになりたいです』


 既読がつく。

 今度の返信は早かった。


『今日それ、かなりだめ』


『だめですか』


『うれしいほう』


 悠真は、少しだけ笑った。


 デスクの上には仕事の書類が山ほどある。

 隣の席では先輩が電話をしている。

 向こう側ではプリンターが紙を吐き出している。


 それでも、その数行だけで、空気が少しだけやわらかくなった。


『今、控室?』


『移動中』


『次も取材』


『長いですね』


『長い』


 その短さに、彼女の疲れが滲む。


 悠真は少し考えてから送った。


『帰ったら、コースターの写真送ります』


 すぐに既読。


『今じゃだめ?』


 悠真は思わず笑いそうになった。

 仕事中なのに。


『今は会社です』


『じゃあ帰ったら』


『はい』


『ちゃんと』


『ちゃんと』


 そこでやり取りは途切れた。


 悠真はスマホを伏せ、仕事に戻る。


 少しだけ、彼女に会いたくなった。

 いや、かなり。


    ◇


 その夜、家に帰った悠真は、部屋に入ると最初にローテーブルを見た。


 コースターは、朝と同じ場所にある。

 しらいさんのマグカップも、棚の上にちゃんとある。


 手を洗い、部屋着に着替えてから、写真を撮った。


 今度は朝より少しだけ丁寧に。

 ローテーブルの上に、しらいさんのコースター。

 その隣に自分のコースター。

 棚の上に二つのマグカップが写る角度。


 送信。


 数分後、既読。


『ずれてない』


『ずれてません』


『よし』


『今日も採点制なんですね』


『大事だから』


『知ってます』


 少し間が空く。


『春日くん』


『はい』


『今日、画面の中の私どうだった?』


 悠真は、すぐには返せなかった。


 どうだった。

 その言葉は、思ったより難しい。


 綺麗だった。

 完璧だった。

 ちゃんと笑っていた。

 疲れていた。

 遠かった。

 でも、同じ人だった。


 どれも本当だ。


 悠真は時間をかけて打った。


『綺麗でした』


 送る。

 すぐに既読。


 そのあと、もう一文。


『でも、少し遠かったです』


 さらに続ける。


『それで、同じ人なんだなって改めて思いました』


 既読がついたまま、返事がしばらく来なかった。


 少し言いすぎたかもしれない。

 遠かった、という言葉は、彼女を不安にさせただろうか。


 スマホを握ったまま待つ。


 やがて、返信が来た。


『遠かった?』


 悠真は正直に返す。


『少し』


『でも、嫌な遠さではないです』


『白瀬アカリとして立ってるしらいさんは、やっぱりすごい人なんだと思いました』


『それを知ってるうえで、部屋にコースターがあるのが、少し不思議で、かなりうれしいです』


 送ってから、胸が少しうるさくなる。


 長い。

 重い。

 でも、今はこれくらいちゃんと言ったほうがいい気がした。


 しばらくして、彼女から返ってきた。


『今の、すごく効いた』


 続いて、


『遠いって言われて少し怖かったけど』


『嫌な遠さじゃないって言ってくれて安心した』


 さらに、


『画面の私と、春日くんの部屋にコースター置いた私が、同じでもいい?』


 悠真は息を止めた。


 その問いは、たぶん彼女にとってとても大事なものだ。


 白瀬アカリとしての自分。

 しらいさんとしての自分。

 春日悠真の部屋にコースターを置いて、戻る場所を作り始めた自分。


 それらが、バラバラではなく同じでいいのか。


 悠真は、ほとんど迷わず打った。


『同じでいいです』


『むしろ、同じ人だから好きです』


 送信。


 既読がつく。


 返事はしばらく来なかった。


 その代わり、着信が来た。


 しらいさんからだった。


 悠真は一度深呼吸して、通話に出る。


「もしもし」

「……春日くん」

「はい」

「今の、電話したくなる」

「電話来るかなと思いました」

「分かるの?」

「少し」

「……そっか」


 声は疲れていた。

 でも、少しだけやわらかかった。


「今日、画面の中の私、遠かったんだ」

「少し」

「うん」

「でも、嫌な遠さじゃないです」

「うん」

「ちゃんと仕事してるしらいさんを見た感じでした」

「……それ」

「はい」

「白瀬アカリじゃなくて?」

「白瀬アカリとして仕事してるしらいさん、です」

「……」

「何ですか」

「今日、それいちばんだめ」

「だめ?」

「うれしいほう」


 電話の向こうで、彼女が小さく息を吐く。


「私ね」

「はい」

「たまに分からなくなる」

「何が」

「白瀬アカリとしてちゃんと笑ってる私と、春日くんの部屋でコースター気にしてる私が、ちゃんと同じでいいのか」

「……」

「仕事の顔が抜けない日もあるし、逆に春日くんの前で気を抜きすぎて仕事に戻るのが怖い日もある」

「……」

「でも今日、動画見た春日くんが、同じ人だから好きって言ってくれて」

「はい」

「少しだけ、楽になった」


 悠真は、ローテーブルのコースターを見る。


 部屋の中にある、小さな居場所。

 それは、河川敷のしらいさんだけのものではない。

 画面の中で笑う白瀬アカリも、取材で疲れた彼女も、全部含めて帰ってきていい場所なのだ。


「しらいさん」

「何」

「どの顔で来てもいいです」

「……」

「白瀬アカリの顔が残ってても」

「うん」

「河川敷のしらいさんでも」

「うん」

「仕事で疲れて、何も喋れない日でも」

「……」

「コースターは同じ場所に置いておきます」

「……春日くん」

「はい」

「今日、ちょっと強い」

「そうですか」

「うん。かなり」

「じゃあ、強い日です」

「何それ」

「そういう日です」

「便利」

「便利です」


 彼女が小さく笑った。

 その笑い声は、画面の中では聞けない種類のものだった。


「明日」

 彼女が言う。

「はい」

「行けたら、部屋に寄りたい」

「来てください」

「即答」

「来てほしいので」

「……うん」

「コースター、あります」

「知ってる」

「マグカップも」

「知ってる」

「俺もいます」

「……それ、今日かなり効く」

「ならよかった」

「出た」

「口癖なので」

「知ってる」


 しばらく、電話の向こうで小さな沈黙があった。

 でも、その沈黙はもう遠くなかった。


「春日くん」

「はい」

「画面の中の私も、ちゃんと見てくれてありがとう」

「はい」

「でも」

「うん」

「次に部屋に行ったら、画面じゃない私でいたい」

「もちろんです」

「うん」

「待ってます」

「知ってる」


 通話はそのあと、少しだけ他愛ない話に移った。


 今日食べた楽屋弁当が少し味が濃かったこと。

 三本目の取材の椅子が硬かったこと。

 控室の紙コップが小さすぎたこと。

 明日、もし行けたらミルクティーが飲みたいこと。


 そういう話を、悠真は聞いた。


 画面の中の彼女とは違う。

 でも同じ人。


 その当たり前を、今日は少しだけ深く知った気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ