第30話 画面の中の君が、昨日この部屋にいた人と同じだと知っている
昼休みの会社は、どこか気が抜けている。
午前中の電話やメールの応酬がひと段落し、午後の会議や修正依頼がまだ本格的に押し寄せてこない、ほんの短い隙間。
休憩スペースには、コンビニ弁当を広げる社員や、スマホを眺めながら無言でパンを齧る人たちが散らばっていた。
春日悠真も、窓際の席でコンビニのおにぎりを食べていた。
片手にはスマホ。
画面には、動画サイトのインタビュー映像が映っている。
白瀬アカリ。
新作映画の公開に合わせた、短いインタビュー動画だった。
薄いブルーのブラウスに、落ち着いた白のスカート。
髪はゆるく巻かれていて、照明の当たり方まで完璧だった。
画面の中の彼女は、穏やかに笑いながら、主演映画について語っている。
『今回の役は、自分の弱さを隠してしまう女性で――』
声は、よく知っている声だった。
でも同時に、少し遠い声でもあった。
昨夜、電話越しに「コースター、ずらさないで」と少しだけ拗ねたように言っていた人。
春日悠真の部屋にマグカップとコースターを置き、「そこ、私の場所だから」と照れ隠しみたいに言った人。
疲れた夜に「春日くんの声、思ったより安心する」と漏らした人。
その人が、今は画面の中で完璧な女優として笑っている。
同じ人だ。
同じ人なのに、まるで違う。
悠真は動画を止めずに見続けた。
インタビュアーが質問する。
彼女は少し考える仕草をしてから、丁寧に答える。
言葉の選び方はきれいで、姿勢も崩れない。
笑うタイミングも、相槌を打つ角度も、すべてが自然に見える。
けれど、悠真には分かった。
彼女は、少し疲れている。
目の奥が、ほんの一瞬だけ遅れている。
笑う前に、指先が膝の上で小さく動く。
何でもないように見える仕草。
たぶん、普通に見ている人なら気づかない。
でも悠真は、それを知っていた。
河川敷で同じように指先を動かしてから、彼女が「今日、笑うの疲れた」と言った夜を知っている。
部屋でカップを両手で包みながら、息を抜く瞬間を知っている。
外では完璧に整えている表情の奥に、帰りたい場所を探している彼女がいることを知っている。
「……春日?」
背後から声をかけられ、悠真は反射的にスマホの音量を下げた。
三崎だった。
購買で買ったらしいパンと紙パックのコーヒーを持って、こちらを覗き込んでいる。
「何見てんの」
「別に」
「別にって顔じゃないな」
三崎は勝手に隣へ座った。
画面をちらりと見る。
「あ、白瀬アカリじゃん」
「……まあ」
「珍しいな。春日が芸能人の動画なんて見るの」
「たまたま流れてきただけだ」
「たまたま、ねえ」
その言い方がやけに含みがあって、悠真はスマホを伏せた。
「何だよ」
「いや、別に」
「その別に、絶対別にじゃないだろ」
「春日ってさ」
「何」
「白瀬アカリ、好きなの?」
心臓が、一拍だけ変な動きをした。
好き。
その言葉自体は間違っていない。
ただし、三崎の言っている“好き”とは種類が違いすぎる。
悠真はできるだけ平静を装って、お茶のペットボトルを取った。
「すごい人だとは思う」
「おお、無難」
「何が」
「いや、春日が芸能人を“すごい人”って言うの、なんか珍しくて」
「そうか?」
「お前、基本的にテレビとか流行りものに薄いじゃん」
「それは否定しない」
「なのに、さっきの顔はちょっと違った」
「どんな顔だよ」
「知り合い見てる顔」
悠真は、お茶を飲む手を止めかけた。
三崎はパンを齧りながら、軽い調子で続ける。
「まあ、こんな有名人が知り合いなわけないけど」
「……当たり前だろ」
「だよな。でも何か、画面の向こうの人を見る顔じゃなかった」
「気のせいだ」
「そうか?」
「そうだ」
「ふーん」
三崎はそれ以上追及しなかった。
けれど、その“ふーん”が少しだけ長かった。
悠真は内心で息を吐く。
危ない。
そう思った。
別に何も言っていない。
何もバレていない。
それでも、表情一つで何かを拾われかけた。
しらいさんが外で誰かに気づかれる危うさとは別に、悠真にも気をつけるべきことがあるのだと、今さらながら実感する。
彼女のことを知っている。
それは、うれしい。
でも、知っていることを顔に出しすぎてはいけない。
画面の中の白瀬アカリは、世間の人のものだ。
少なくとも、表向きには。
しらいさんは、悠真の大事な人だ。
でも、そのことはまだ誰にでも話せるものではない。
「春日」
「何」
「でも、もし白瀬アカリ好きなら、映画見に行けば?」
「……映画」
「今度公開のやつ。結構話題だぞ」
「そうだな」
「その反応も珍しいな」
「何が」
「行くか迷ってる顔」
「……」
「当たり?」
「うるさい」
三崎は笑った。
「まあ、たまにはいいんじゃね。デートで映画とか」
「何でそうなる」
「いや、彼女いるんだろ」
「……」
「おい、そこ否定しなくなったな」
「仕事戻れ」
「昼休みだし」
「心の仕事に戻れ」
「何だそれ」
三崎はまた笑って、紙パックのコーヒーを飲んだ。
悠真はスマホの画面を伏せたまま、さっきの動画の続きを思い出す。
映画。
白瀬アカリの主演作。
しらいさんは、それを自分と一緒に見るのだろうか。
それとも、見ないほうがいいのだろうか。
画面の中の彼女を恋人として見ること。
白瀬アカリとして演じている彼女を、春日悠真として見に行くこと。
考えるだけで、少しだけ胸が落ち着かない。
◇
午後の仕事は、いつもより少しだけ手につかなかった。
いや、手は動いている。
メールも返した。資料の修正もした。上司に確認も取った。
社会人としての最低限はこなしている。
けれど、頭の隅にはずっと画面の中の彼女がいた。
照明の下で笑う白瀬アカリ。
同じ人物が、悠真の部屋に置いたコースターを気にしている。
戻る場所があると言ったら、「今日それ、かなり効く」と返してきた。
その落差が、どうにも眩しかった。
夕方、少しだけ手が空いたタイミングで、悠真はスマホを開いた。
しらいさんから新しいメッセージは来ていない。
今日は彼女の仕事が詰まっている。
それは分かっている。
それでも、短く一つだけ送った。
『昼にインタビュー動画を見ました』
送ってから、少し迷う。
忙しいなら今は読めないだろう。
返事を求めるつもりはない。
少しして、既読がついた。
思ったより早かった。
『どれ?』
悠真は動画のリンクを送る。
少し間が空いて、返事。
『それ、朝から三本目の取材のあと』
『疲れてました?』
既読。
また少し間。
『分かった?』
『少し』
『どこで?』
悠真は、会社のデスクで少しだけ考えた。
『笑う前に、指が少し動いてました』
『あと、質問を聞いてるときに、目が少し遅れてました』
送ってから、自分でも少し気恥ずかしくなった。
どれだけ見ているんだ、と思われるかもしれない。
返事はしばらく来なかった。
そして、数分後。
『春日くんには、分かるんだね』
その一文は、責めているようにも、驚いているようにも、少し安心しているようにも見えた。
悠真はゆっくり打つ。
『全部は分かりません』
『でも、少しは分かるようになりたいです』
既読がつく。
今度の返信は早かった。
『今日それ、かなりだめ』
『だめですか』
『うれしいほう』
悠真は、少しだけ笑った。
デスクの上には仕事の書類が山ほどある。
隣の席では先輩が電話をしている。
向こう側ではプリンターが紙を吐き出している。
それでも、その数行だけで、空気が少しだけやわらかくなった。
『今、控室?』
『移動中』
『次も取材』
『長いですね』
『長い』
その短さに、彼女の疲れが滲む。
悠真は少し考えてから送った。
『帰ったら、コースターの写真送ります』
すぐに既読。
『今じゃだめ?』
悠真は思わず笑いそうになった。
仕事中なのに。
『今は会社です』
『じゃあ帰ったら』
『はい』
『ちゃんと』
『ちゃんと』
そこでやり取りは途切れた。
悠真はスマホを伏せ、仕事に戻る。
少しだけ、彼女に会いたくなった。
いや、かなり。
◇
その夜、家に帰った悠真は、部屋に入ると最初にローテーブルを見た。
コースターは、朝と同じ場所にある。
しらいさんのマグカップも、棚の上にちゃんとある。
手を洗い、部屋着に着替えてから、写真を撮った。
今度は朝より少しだけ丁寧に。
ローテーブルの上に、しらいさんのコースター。
その隣に自分のコースター。
棚の上に二つのマグカップが写る角度。
送信。
数分後、既読。
『ずれてない』
『ずれてません』
『よし』
『今日も採点制なんですね』
『大事だから』
『知ってます』
少し間が空く。
『春日くん』
『はい』
『今日、画面の中の私どうだった?』
悠真は、すぐには返せなかった。
どうだった。
その言葉は、思ったより難しい。
綺麗だった。
完璧だった。
ちゃんと笑っていた。
疲れていた。
遠かった。
でも、同じ人だった。
どれも本当だ。
悠真は時間をかけて打った。
『綺麗でした』
送る。
すぐに既読。
そのあと、もう一文。
『でも、少し遠かったです』
さらに続ける。
『それで、同じ人なんだなって改めて思いました』
既読がついたまま、返事がしばらく来なかった。
少し言いすぎたかもしれない。
遠かった、という言葉は、彼女を不安にさせただろうか。
スマホを握ったまま待つ。
やがて、返信が来た。
『遠かった?』
悠真は正直に返す。
『少し』
『でも、嫌な遠さではないです』
『白瀬アカリとして立ってるしらいさんは、やっぱりすごい人なんだと思いました』
『それを知ってるうえで、部屋にコースターがあるのが、少し不思議で、かなりうれしいです』
送ってから、胸が少しうるさくなる。
長い。
重い。
でも、今はこれくらいちゃんと言ったほうがいい気がした。
しばらくして、彼女から返ってきた。
『今の、すごく効いた』
続いて、
『遠いって言われて少し怖かったけど』
『嫌な遠さじゃないって言ってくれて安心した』
さらに、
『画面の私と、春日くんの部屋にコースター置いた私が、同じでもいい?』
悠真は息を止めた。
その問いは、たぶん彼女にとってとても大事なものだ。
白瀬アカリとしての自分。
しらいさんとしての自分。
春日悠真の部屋にコースターを置いて、戻る場所を作り始めた自分。
それらが、バラバラではなく同じでいいのか。
悠真は、ほとんど迷わず打った。
『同じでいいです』
『むしろ、同じ人だから好きです』
送信。
既読がつく。
返事はしばらく来なかった。
その代わり、着信が来た。
しらいさんからだった。
悠真は一度深呼吸して、通話に出る。
「もしもし」
「……春日くん」
「はい」
「今の、電話したくなる」
「電話来るかなと思いました」
「分かるの?」
「少し」
「……そっか」
声は疲れていた。
でも、少しだけやわらかかった。
「今日、画面の中の私、遠かったんだ」
「少し」
「うん」
「でも、嫌な遠さじゃないです」
「うん」
「ちゃんと仕事してるしらいさんを見た感じでした」
「……それ」
「はい」
「白瀬アカリじゃなくて?」
「白瀬アカリとして仕事してるしらいさん、です」
「……」
「何ですか」
「今日、それいちばんだめ」
「だめ?」
「うれしいほう」
電話の向こうで、彼女が小さく息を吐く。
「私ね」
「はい」
「たまに分からなくなる」
「何が」
「白瀬アカリとしてちゃんと笑ってる私と、春日くんの部屋でコースター気にしてる私が、ちゃんと同じでいいのか」
「……」
「仕事の顔が抜けない日もあるし、逆に春日くんの前で気を抜きすぎて仕事に戻るのが怖い日もある」
「……」
「でも今日、動画見た春日くんが、同じ人だから好きって言ってくれて」
「はい」
「少しだけ、楽になった」
悠真は、ローテーブルのコースターを見る。
部屋の中にある、小さな居場所。
それは、河川敷のしらいさんだけのものではない。
画面の中で笑う白瀬アカリも、取材で疲れた彼女も、全部含めて帰ってきていい場所なのだ。
「しらいさん」
「何」
「どの顔で来てもいいです」
「……」
「白瀬アカリの顔が残ってても」
「うん」
「河川敷のしらいさんでも」
「うん」
「仕事で疲れて、何も喋れない日でも」
「……」
「コースターは同じ場所に置いておきます」
「……春日くん」
「はい」
「今日、ちょっと強い」
「そうですか」
「うん。かなり」
「じゃあ、強い日です」
「何それ」
「そういう日です」
「便利」
「便利です」
彼女が小さく笑った。
その笑い声は、画面の中では聞けない種類のものだった。
「明日」
彼女が言う。
「はい」
「行けたら、部屋に寄りたい」
「来てください」
「即答」
「来てほしいので」
「……うん」
「コースター、あります」
「知ってる」
「マグカップも」
「知ってる」
「俺もいます」
「……それ、今日かなり効く」
「ならよかった」
「出た」
「口癖なので」
「知ってる」
しばらく、電話の向こうで小さな沈黙があった。
でも、その沈黙はもう遠くなかった。
「春日くん」
「はい」
「画面の中の私も、ちゃんと見てくれてありがとう」
「はい」
「でも」
「うん」
「次に部屋に行ったら、画面じゃない私でいたい」
「もちろんです」
「うん」
「待ってます」
「知ってる」
通話はそのあと、少しだけ他愛ない話に移った。
今日食べた楽屋弁当が少し味が濃かったこと。
三本目の取材の椅子が硬かったこと。
控室の紙コップが小さすぎたこと。
明日、もし行けたらミルクティーが飲みたいこと。
そういう話を、悠真は聞いた。
画面の中の彼女とは違う。
でも同じ人。
その当たり前を、今日は少しだけ深く知った気がした。




