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河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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エピソード29 置いたものが増えた朝、部屋が少しだけ君の気配をしている

 朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。


 春日悠真は、いつもより少しだけ早く目を覚ました。

 目覚ましが鳴る前だった。スマホの画面を見ると、まだ起きるには十分ほど早い。


 もう一度眠るには短すぎる。

 けれど起き上がるには、少しだけ名残惜しい。


 そんな中途半端な朝だった。


 天井を見上げたまま、悠真はぼんやりと昨夜のことを思い出す。


 部屋に置かれた、小さなコースター。

 しらいさんが少しだけ照れた顔で、それをローテーブルの端に置いたときの声。

 「ここに置いていい?」と聞いたくせに、返事を聞く前からもう置く場所を決めていたような手つき。


 彼女らしいと思った。

 遠慮しているようで、変なところだけ大胆で。

 それでいて、本当に大事なところでは少しだけ不安そうになる。


 悠真は布団から起き上がった。


 部屋は、昨日までと同じはずだった。


 六畳のワンルーム。

 小さなローテーブル。

 安い本棚。

 壁際のハンガーラック。

 キッチン横の棚には、いつものマグカップが一つ。


 けれど、同じではなかった。


 ローテーブルの端に、昨日までなかったコースターがある。

 落ち着いた青灰色の、丸いコースター。

 派手ではない。目立つものでもない。

 でも、そこにあるだけで、部屋の空気がほんの少し変わって見えた。


 昨日、しらいさんはそのコースターを置くと、少しだけ満足そうに言った。


「これ、ここに置いておけば、次に来たとき迷わないでしょ」


 次に来たとき。


 何気なく言った言葉だったのかもしれない。

 けれど悠真にとっては、その一言が今もずっと残っている。


 次がある。

 また来るつもりでいる。

 この部屋に、彼女の居場所が少しだけできた。


 それが、たまらなく静かにうれしかった。


 悠真は立ち上がり、洗面所で顔を洗った。

 冷たい水で目が覚める。

 タオルで顔を拭きながら、もう一度部屋を見る。


 コースターは、ちゃんとそこにある。


 ただの小物だ。

 値段だって高くない。

 おそらく、駅ビルの雑貨屋で買ったものだろう。

 それでも今の悠真には、部屋のどんな家具よりも存在感があった。


 キッチンに立ち、湯を沸かす。

 朝はだいたいインスタントコーヒーだ。

 豆を挽くような丁寧な生活はしていないし、そもそも社会人一年目の朝にそんな余裕はあまりない。


 棚から自分のマグカップを取ろうとして、手が止まった。


 隣に、もう一つのマグカップがある。


 しらいさん用に置いたものだった。

 白地に細い青いラインが入った、少しだけ丸みのあるカップ。

 彼女はそれを見て、「春日くん、こういうの選ぶんだ」と笑っていた。


「変でした?」

「変じゃない」

「じゃあ何ですか」

「私用にしては、ちょっとちゃんとしてる」

「ちゃんとしてるのは駄目なんですか」

「駄目じゃない。……ちょっと、うれしい」


 そのやり取りまで、はっきり思い出す。


 悠真は自分のマグカップだけを取った。

 彼女のカップには触れない。


 使わない。

 でも、そこにある。


 それがよかった。


 コーヒーを淹れて、ローテーブルの前に座る。

 いつものようにカップを置こうとして、ふと迷う。


 自分のカップを、自分の古いコースターの上に置く。

 そして隣にある、しらいさんのコースターを見る。


 空いている。


 当たり前だ。

 今ここに彼女はいない。

 けれど、その空いている場所は、ただの空白ではなかった。


 いずれそこに、彼女のカップが置かれる。

 温かいミルクティーか、ほうじ茶か、たまには甘いココアかもしれない。

 彼女は両手でカップを包み、少しだけ肩の力を抜いて、たぶんこう言う。


「春日くんの部屋、落ち着くのちょっと困る」


 その光景が、あまりにも自然に浮かんだ。


 悠真は一口コーヒーを飲んだ。

 少し熱い。

 でも、目が覚めるにはちょうどいい。


 スマホが震えたのは、その直後だった。


 画面を見る。

 しらいさんからのメッセージ。


『起きてる?』


 悠真はすぐに返す。


『起きてます』


 既読はすぐについた。


『コースター、ちゃんとある?』


 悠真は思わず笑った。


『あります』


『ずれてない?』


『ずれてません』


『本当に?』


『本当に』


 数秒置いて、また届く。


『写真』


「そこまで気にするんだ」


 口に出してから、悠真はスマホのカメラを起動した。

 ローテーブルの上にあるコースターを撮る。

 隣に自分のカップがあり、その横にしらいさんのコースターがきちんと置かれている。


 送信。


 すぐに既読がついた。


『よし』


『よし、なんですか』


『ちゃんと置けてる』


『採点制なんですか』


『かなり大事だから』


 その言い方が、彼女らしかった。


 たかがコースター。

 でも彼女にとっても、たぶんこれはただの小物ではないのだろう。


 自分の居場所がちゃんと残っているか。

 勝手に片づけられていないか。

 忘れられていないか。


 そういうことを、彼女はコースターを通して確認している。


 悠真は少し考えてから返信した。


『しらいさんの場所なので、動かしません』


 送ってから、少しだけ照れた。

 文字にすると、やけに真っ直ぐだ。


 既読がつく。

 しばらく返事が来ない。


 少し早かったか。

 朝から重かっただろうか。


 そんなことを考え始めたところで、返信が来た。


『今の、朝からかなりだめ』


『だめでしたか』


『だめじゃない』


『どっちですか』


『うれしいほう』


 悠真はスマホを見つめて、また少し笑ってしまった。


 最近、この人は“だめ”という言葉をよく使う。

 だめじゃないのに、だめ。

 うれしすぎて、照れて、困って、でも拒まないときの言葉。


 悠真にとっても、だいぶ好きな言い方になっていた。


『ならよかった』


『出た』


『口癖なので』


『知ってる』


 いつものやり取り。

 でも、朝の部屋で交わすと少しだけ違う。


 河川敷ではない。

 外でもない。

 通話でもない。

 彼女のコースターが置かれた部屋で、彼女とやり取りしている。


 そのことが、じわじわと胸に広がっていく。


 しばらくして、彼女からもう一通届いた。


『今日、ちょっと大きい仕事がある』


 悠真の指が止まる。


 文面の空気が、少しだけ変わった気がした。


『収録ですか』


『収録と取材』


『長いですか』


『たぶん』


 短い返信。

 その短さが、少しだけ彼女の緊張を伝えてくる。


 悠真はコーヒーを置き、ゆっくり文字を打った。


『無理しないでください』


 送ってから、少しだけ考える。

 それだけでは足りない気がした。

 でも、余計なことを言いすぎるのも違う。


 もう一文、続ける。


『終わったら、少しでも声聞かせてください』


 送信。


 しらいさんからの返事は、少し遅れた。


『私が言おうと思ってた』


 そして続く。


『終わったら、少し声聞きたい』


 悠真は、画面を見ながら小さく息を吐いた。


 こういう瞬間がある。

 自分が思っていることと、彼女が思っていることが、少しだけ重なる瞬間。

 それがたまらなくうれしい。


『待ってます』


『知ってる』


 その短いやり取りで、朝のメッセージは一度途切れた。


 悠真はスマホをテーブルに置く。

 そして、もう一度コースターを見る。


 そこにある。

 ちゃんと、彼女の場所として。


 今日、彼女は大きな仕事に行く。

 白瀬アカリとして、たくさんの人の前に立ち、笑って、言葉を選び、期待される顔をする。

 そのあと、声を聞きたいと言ってくれた。


 この部屋には、彼女のコースターがある。

 マグカップもある。

 まだ毎日ここへ来るわけではない。

 もちろん、一緒に暮らしているわけでもない。


 それでも、彼女が帰ってこられる可能性が、ここにはある。


 そのことが、悠真にはとても大きかった。


    ◇


 会社へ向かう途中、悠真は自分でも少しだけ顔が緩んでいるのを自覚していた。


 駅のホーム。

 通勤電車。

 人混み。

 いつもならただ疲れるだけの朝の景色が、今日は少しだけ違って見える。


 もちろん、仕事が軽くなるわけではない。

 会社に着けば、メールは溜まっているし、上司はいつものように「春日くん、これ確認して」と言うだろうし、先輩の雑な依頼も来るかもしれない。


 でも、部屋に彼女のコースターがある。


 それだけで、今日の始まり方が少し違う。


 オフィスに着くと、三崎がすぐに顔を上げた。


「春日」

「何」

「今日のお前、朝から家に良いこと置いてきた顔してる」

「怖いな、お前」

「当たってる?」

「……」

「当たってるんだ」

「お前、たまに本当に嫌な勘してる」

「褒め言葉として受け取るわ」

「褒めてない」

「で、何。彼女のものでも増えた?」

「……」

「うわ、マジか」


 三崎はにやにや笑う。

 悠真は無言でパソコンを立ち上げた。


「春日」

「仕事しろ」

「いやいや、これは大事な話だろ」

「仕事しろ」

「はいはい。でもよかったな」

「……」

「何か、ちゃんと進んでる感じするじゃん」


 最後の一言だけ、変に真面目だった。


 悠真は画面から目を離さずに、小さく言う。


「まあ、少し」

「少し、ね」

「うるさい」

「でもその“少し”が一番いい時期だぞ」

「漫画で見たのか」

「今回はドラマ」

「薄いな」


 三崎は笑って戻っていった。


 少し。

 たしかに、まだ少しだ。


 コースターが一枚増えただけ。

 マグカップが一つ増えただけ。

 それでもその少しは、二人にとってかなり大きい。


 悠真は仕事用のメールを開きながら、胸の奥に残っている温度を確かめた。


    ◇


 昼休み、スマホを確認すると、しらいさんから一枚だけ写真が届いていた。


 控室らしき場所のテーブル。

 紙コップ。

 ペットボトルの水。

 台本の端らしきもの。

 その写真の隅に、彼女の指先が少しだけ写っている。


 文章はない。


 それでも、何となく伝わってきた。


 今、仕事の場所にいる。

 少し緊張している。

 でも、春日くんに送った。


 悠真は少し考えてから、部屋で撮ったコースターの写真をもう一度送った。

 朝と同じ写真ではない。

 今度は、少し角度を変えて、しらいさんのマグカップも一緒に入るように撮ったものだ。


 メッセージを添える。


『戻る場所、あります』


 送ってから、また少しだけ照れる。


 数分後、既読がついた。


 返信は、短かった。


『今日それ、かなり効く』


 悠真はスマホを握ったまま、少しだけ目を閉じた。


 効くならよかった。

 そう返そうとして、やめた。


 代わりに打つ。


『終わったら、ちゃんと聞きます』


 すぐ返ってきた。


『知ってる』


 その一言で、昼休みのざわめきが少しだけ遠くなった。


    ◇


 夜、彼女から通話が来たのは、二十三時を少し過ぎたころだった。


 悠真はすでに部屋に戻っていて、ローテーブルの前に座っていた。

 もちろん、しらいさんのコースターはそのまま置いてある。


 スマホの画面に表示された名前を見て、すぐに出る。


「もしもし」

「……春日くん」

「はい」

「声、思ったより安心する」

「いきなりですね」

「疲れてるから」

「便利ですね、それ」

「便利なんだってば」


 声は、かなり疲れていた。

 けれど、朝のメッセージのときよりも少しだけ力が抜けている。


「おつかれさまです」

「うん」

「長かったですか」

「長かった」

「ちゃんと食べました?」

「少し」

「少し?」

「ちゃんとではない」

「やっぱり」

「怒る?」

「怒りません。でも次からもう少し食べてください」

「春日くん、そういうとこ彼氏っぽい」

「彼氏なので」

「……」

「何ですか」

「今の、電話で言われるとかなりだめ」

「だめでしたか」

「うれしいほう」

「ならよかった」

「出た」


 彼女が小さく笑う。

 その笑い方だけで、悠真の胸は少し軽くなる。


「今日」

 しらいさんが言う。

「はい」

「途中で送ってくれた写真、何回か見た」

「コースターの?」

「うん」

「そんなに?」

「そんなに」

「……」

「控室で、ちょっとしんどくなったとき見た」

「……」

「部屋に戻る場所あるって思ったら、少しだけ息できた」


 悠真は返事に少し詰まった。


 ただの写真だ。

 コースターとマグカップだけの写真。

 でも、それが彼女にとって少しでも支えになったのなら。


「送ってよかったです」

「うん」

「本当に」

「……春日くん」

「はい」

「その場所、ちゃんと置いといて」

「もちろんです」

「勝手に片づけないで」

「片づけません」

「ずらさないで」

「ずれたら直します」

「……うん」

「次に来るまで、そのままです」

「……それ」

「はい」

「今日いちばん、ほっとした」


 電話の向こうで、彼女が息を吐く音がした。


「しらいさん」

「何」

「今度来たとき、ちゃんとそのコースター使ってください」

「うん」

「マグカップも」

「うん」

「それで、今日は大変だったって話してください」

「……いいの?」

「いいですよ」

「重い話かも」

「聞きます」

「途中で眠くなるかも」

「寝てもいいです」

「春日くんの部屋で?」

「はい」

「……危ないなあ」

「何が」

「安心しすぎる」


 その言葉が、少しだけ胸に残った。


 安心しすぎる。

 それはきっと、彼女にとってうれしさだけではない。

 怖さもある言葉だ。


 でも今は、深く聞きすぎないほうがいい気がした。


「安心していいと思います」

 悠真は言う。

「……」

「少なくとも、俺の部屋では」

「……春日くん」

「はい」

「そういうこと言うと、行きたくなる」

「来てください」

「即答」

「来てほしいので」

「……」

「何ですか」

「今日、電話で春日くん強い」

「そうですか」

「うん。かなり」


 しらいさんは少しだけ黙ってから、ぽつりと続けた。


「明日、少しだけ寄れるかも」

「部屋に?」

「うん」

「来てください」

「知ってる」

「便利だなあ」

「便利なんだってば」


 二人で少し笑う。


 その笑いが途切れたあと、彼女はかなり小さな声で言った。


「春日くん」

「はい」

「コースター置いたら、君の居場所が増えたってタイトルみたい」

「何ですか、それ」

「今ちょっと思っただけ」

「でも、合ってますね」

「うん」

「しらいさんの居場所、少し増えました」

「……」

「俺の部屋に」

「……うん」


 電話の向こうで、彼女が黙る。

 でも、その沈黙は悪いものではなかった。


「じゃあ」

 彼女が言う。

「はい」

「明日、行けそうだったら連絡する」

「待ってます」

「知ってる」

「おやすみなさい」

「……おやすみ、春日くん」


 通話が切れる。


 部屋に静けさが戻る。


 悠真はスマホを置き、ローテーブルの上を見る。

 コースターは、ちゃんとそこにある。

 その隣に、まだ空の場所がある。


 彼女は明日、来るかもしれない。

 来られないかもしれない。

 でもどちらにしても、ここには彼女の場所がある。


 それだけで、この部屋は昨日までより少しだけ広くなった気がした。

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