エピソード28 コースターを置いたら、君の居場所がもう少しだけ増えた
しらいさんのマグカップが部屋に置かれてから、春日悠真の夜は少しだけ変わった。
帰宅して、手を洗って、上着を脱いで、台所の棚を開ける。
そこに淡いグリーンのマグカップがある。
自分の淡いグレーのマグカップの隣に、当然みたいな顔をして並んでいる。
その光景を見るたびに、少しだけ気持ちが落ち着いた。
会えない夜でも、彼女の気配がある。
直接話せない時間でも、次に来る理由がちゃんと残っている。
それは思っていた以上に、生活の中へ静かに入り込んできた。
金曜日の昼休み、スマホが震えた。
『今日、少しだけ寄ってもいい?』
しらいさんからだった。
悠真は会社の休憩スペースで、食べかけのサンドイッチを持ったまま少し固まった。
『もちろんです』
送ると、すぐ既読がつく。
『カップの件で』
カップの件。
何かあったのだろうか。割れたわけでもない。いや、彼女は自分の部屋にいるわけではないから、割れようがない。
『何かありました?』
少し間が空いてから、返事が来る。
『カップだけだと、ちょっと足りない気がして』
悠真は首を傾げた。
『足りない?』
『うん』
『何がですか』
『居場所感』
その四文字に、悠真は思わずスマホを見つめた。
居場所感。
しらいさんらしいような、らしくないような。
でも、言いたいことは何となく分かる。
『何か持ってくるんですか』
『小さいもの』
『気になります』
『気にしてて』
そこで一度会話が切れた。
休憩スペースの向かい側から、三崎が紙パックのジュースをくわえたままこちらを見ていた。
「春日」
「何」
「今、“恋人が部屋にまた何か置くことになった顔”してる」
「……」
「うわ、当たった」
「お前、最近本当に怖いぞ」
「で、今度は何? 歯ブラシ?」
「違う」
「じゃあ、部屋着?」
「違う」
「スリッパ?」
「知らない」
「知らないんだ」
「小さいものらしい」
「なるほど。小さいものほど効くぞ」
「何が」
「生活に入り込む感じが」
「……」
「ほら、刺さった」
「お前、たまに妙にまともなこと言うな」
「俺はいつもまともだぞ」
「それはない」
「即答すんな」
三崎は笑いながら席へ戻っていった。
小さいものほど効く。
その言葉は、少しだけ悠真の中に残った。
◇
その日の仕事は、金曜らしく最後まで細かかった。
月曜の朝一番に必要な資料。
先方から戻ってきた赤字修正。
上司の「これだけ先に見ておいて」が二つ。
それでも、今日の悠真はかなり集中していた。
部屋にしらいさんが来る。
しかも、何か“小さいもの”を持ってくる。
気にならないわけがない。
会社を出たのは二十時過ぎ。
駅前のスーパーで牛乳と茶葉、ついでに小さなクッキーを買う。
マグカップがあるから、自然に飲み物のことを考えるようになっていた。
帰宅してから、軽く部屋を整える。
もう何度か来ているのに、やはり少しだけ掃除してしまう。
ローテーブルを拭き、クッションを直し、棚のマグカップを確認する。
淡いグリーンと淡いグレー。
ちゃんと並んでいる。
それだけで、少しだけ背筋が伸びた。
チャイムが鳴ったのは、二十一時少し前だった。
玄関を開けると、しらいさんが立っていた。
黒いキャップに白いマスク。薄手のニットとロングスカート。手には小さな紙袋。
「……来た」
「どうぞ」
「今日は“知ってる”じゃないんだ」
「俺の部屋なので」
「前も言ってた」
「便利なので」
「真似した」
「はい」
しらいさんは目元だけで笑って、部屋へ上がった。
「お邪魔します」
「どうぞ」
「今日もちゃんとしてる」
「一応」
「掃除した?」
「少し」
「正直」
「隠しても仕方ないので」
「そういうとこ好き」
さらっと言われるのには、まだ慣れない。
悠真が少しだけ黙ると、しらいさんは楽しそうに目を細めた。
「効いた?」
「効きました」
「よし」
「何の確認ですか」
「元気確認」
「俺の?」
「うん」
彼女はローテーブルの前に座ると、持っていた紙袋を大事そうに膝の上に置いた。
「それですか」
悠真が聞く。
「うん」
「小さいもの」
「小さいもの」
「開けても?」
「私が開ける」
しらいさんは少しだけ緊張したように紙袋の口を開いた。
中から出てきたのは、小さな布製の包み。
さらにそれを開くと、丸いコースターが二枚出てきた。
一枚は淡いグリーン。
もう一枚は淡いグレー。
マグカップと似た色だった。
「……コースター?」
「うん」
「買ってきたんですか」
「買ってきた」
「同じ色」
「うん」
しらいさんは、少しだけ照れたように視線を落とした。
「カップを置く場所が、ちゃんと欲しくて」
「……」
「テーブルに直接置くのも別にいいんだけど」
「うん」
「何か、それだとまだ仮置きみたいで」
「……」
「だから、ここに置くなら、ちゃんと場所も作りたかった」
その言葉を聞いて、悠真はすぐには返せなかった。
マグカップの場所。
コースター。
ただの小物なのに、そこに込められた意味があまりにも分かりやすくて、胸の奥が静かに熱くなる。
「春日くん」
「はい」
「何その顔」
「いや」
「何」
「かなりうれしいです」
「……」
「カップの場所まで作ってくれるの」
「……そっか」
「はい」
「よかった」
「でも、これはしらいさんが買ったんですか」
「うん」
「俺の分も?」
「うん」
「いいんですか」
「いい」
「何で」
「春日くんのカップも、私のカップの隣にあるから」
「……」
「片方だけだと変でしょ」
「……そうですね」
「だから二枚」
しらいさんはグリーンのコースターをテーブルの右側に、グレーのコースターをその隣に置いた。
何でもない動作なのに、妙に丁寧だった。
「ここ?」
「いいと思います」
「ほんとに?」
「はい」
「じゃあ、ここ」
そして彼女は台所の棚を見る。
「カップ、出していい?」
「もちろん」
しらいさんは立ち上がり、自分の淡いグリーンのマグカップと、悠真の淡いグレーのマグカップを取り出した。
それをコースターの上に置く。
淡いグリーンのカップが、淡いグリーンのコースターの上に。
淡いグレーのカップが、淡いグレーのコースターの上に。
二つ並んだ。
前に見たときより、少しだけ“そこにあるべきもの”に見えた。
「……かなりいいですね」
悠真が言う。
「かなり?」
「かなり」
「よかった」
「しらいさんが“よかった”って言った」
「今日は私の番」
「そういう日なんだ」
「そういう日」
彼女は満足そうに笑った。
◇
その日は、二人でミルクティーを淹れた。
正確には、悠真が鍋を温め、しらいさんが砂糖の量に口を出した。
「もう少し」
「かなり甘くなりますよ」
「今日はいい」
「元気なんですか」
「元気だけど、甘いのがいい日」
「なるほど」
「春日くんも甘めにする?」
「少しだけ」
「少し?」
「かなりの一個手前よりは少なく」
「細かいなあ」
「しらいさんの影響です」
「……それ、ちょっと好き」
ミルクティーを二つのカップに注ぐ。
湯気が立つ。
それを、それぞれのコースターの上に戻す。
カップだけだったときより、さらに部屋の中に“二人分”の感じが生まれた。
しらいさんはそれを見て、小さく息を吐く。
「……置いた」
「置きましたね」
「私のカップと、私のコースター」
「はい」
「春日くんのも」
「はい」
「何か、増えた」
「増えました」
「居場所感」
「かなり」
「……よかった」
しらいさんはグリーンのマグカップを両手で持ち上げた。
ひと口飲む。
「おいしい」
「甘さ、大丈夫でした?」
「かなりいい」
「ならよかった」
「知ってる」
いつものやり取り。
でも、今日はテーブルの上に二枚のコースターがある。
それだけで少し違う。
「春日くん」
「はい」
「今日のこれ」
「うん」
「重い?」
「コースターが?」
「意味が」
「……」
「こういうの、少しずつ置いていくの」
「……」
悠真は少し考えた。
重いかどうか。
たぶん、軽くはない。
マグカップ、コースター。
部屋に置かれる彼女のものは、ただの小物ではない。
それはこの先もまた来るという約束で、ここに彼女の場所を作っていくことだからだ。
「軽くはないです」
悠真は正直に言った。
「……」
「でも、嫌な重さじゃない」
「……」
「むしろ、ちゃんと重みがあるからうれしいです」
「……」
「しらいさんが、適当に置いてるんじゃないって分かるので」
「……」
「だから、かなりうれしいです」
「……春日くん」
しらいさんはマグカップを持ったまま、少しだけうつむいた。
「それ、今日いちばんほしかったやつ」
「……そっか」
「うん」
「言えてよかったです」
「ほんとに」
「はい」
「私ね」
「うん」
「これ置くの、少し迷った」
「迷ったんですか」
「うん。カップだけでも結構大きかったから」
「……」
「また何か置くって、ちょっと押しつけっぽいかなって」
「そんなことないです」
「でも、ちょっと考えた」
「うん」
「でも、春日くんの部屋であのカップ使ったら」
「はい」
「やっぱり、ちゃんと場所がほしくなった」
彼女はグリーンのコースターを指先でそっと撫でる。
「ここに置く、って決められる場所」
「……」
「私のカップが帰る場所」
「……」
「そういうのがほしかった」
その言い方が、胸に深く届いた。
カップが帰る場所。
それは、しらいさん自身の話にも聞こえた。
外で白瀬アカリとして立つ日があっても。
河川敷で弱いまま座る日があっても。
この部屋に来たとき、彼女のカップが戻る場所がある。
それはきっと、ほんの小さな安心なのだ。
「しらいさん」
「何」
「ここ、ちゃんと置いておきます」
「……」
「カップも、コースターも」
「うん」
「帰る場所として」
「……」
彼女は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目元をやわらげた。
「春日くん」
「はい」
「それ、かなり好き」
「……」
「かなり」
「二回言った」
「大事だから」
二人で少しだけ笑う。
そのあと、クッキーを食べながら他愛ない話をした。
仕事の話。
マグカップの色に合うコースターを探すのが意外と難しかった話。
店員に「贈り物ですか」と聞かれて、しらいさんが少しだけ詰まった話。
「何て答えたんですか」
悠真が聞く。
「自分用です、って」
「間違ってないですね」
「間違ってないけど、半分違う」
「半分?」
「私用だけど、春日くんの部屋用」
「……」
「何」
「その言い方、かなり効きます」
「知ってる」
しらいさんは少しだけ得意そうだった。
◇
帰る前、しらいさんはコースターの位置をもう一度確認した。
「ここでいい?」
「はい」
「ずれたら直して」
「分かりました」
「コーヒーこぼしたら?」
「すぐ拭きます」
「ちゃんとしてる」
「大事なものなので」
「……」
「何ですか」
「今のも、かなり好き」
「今日は多いですね」
「今日はコースター記念日なので」
「何ですか、それ」
「今決めた」
「しらいさんらしい」
彼女は笑って、玄関へ向かった。
靴を履く前に、ふと振り返る。
「春日くん」
「はい」
「また一個、置いてもいい?」
「え」
「今すぐじゃないよ」
「ああ」
「でも、そのうち」
「……」
「だめ?」
「だめじゃないです」
「早い」
「嫌じゃないので」
「知ってる」
しらいさんは少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、また考える」
「何を置くか?」
「うん」
「楽しみにしてます」
「……その言い方」
「はい」
「かなり危ない」
「危ない?」
「私、ほんとに増やすよ」
「いいですよ」
「……」
「何ですか」
「春日くん、たまに受け止めすぎ」
「だめですか」
「だめじゃない」
「なら」
「うれしいけど、少し照れる」
玄関の明かりの下で、彼女は少しだけうつむいた。
「じゃあ、また」
「送ります」
「駅まで?」
「はい」
「うん」
外へ出ると、夜風が冷たかった。
でも手をつなぐと、少しだけ温かい。
駅までの道、二人はゆっくり歩いた。
「春日くん」
「はい」
「今日の部屋、前より好きだった」
「コースターが増えたから?」
「うん。それもある」
「他には?」
「私の場所が、前よりちゃんとあったから」
「……」
「でも、春日くんの部屋のままだった」
「……」
「そこがよかった」
「……そっか」
その言葉は、悠真にとっても大事だった。
彼女のものが増えても、部屋が変わりすぎるわけではない。
でも彼女の場所はちゃんと増えていく。
それが今の二人にはちょうどいい。
「また来てください」
「行く」
「知ってます」
「便利」
「便利ですね」
「でも、ちゃんと行く」
しらいさんは手に少しだけ力を込めた。
駅の手前で別れたあと、悠真は部屋へ戻った。
ローテーブルの上には、二枚のコースター。
棚には、二つのマグカップ。
ただそれだけ。
でも、その“ただそれだけ”が、部屋の中に確かな約束として残っていた。
しらいさんの居場所が、また少し増えた。
それが、とても静かにうれしかった。




