エピソード27 会えない夜に、君のマグカップだけが部屋にいる
しらいさんがマグカップを置いて帰った翌朝、春日悠真はいつもより少し早く目を覚ました。
目覚ましが鳴る前だった。
カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んで、部屋の床に薄い線を作っている。
布団の中でしばらく天井を見ていたが、どうにも二度寝できそうにない。
理由は分かっていた。
台所に、しらいさんのマグカップがある。
たったそれだけのことが、朝の部屋をいつもと違うものにしていた。
悠真は起き上がり、顔を洗う前に台所へ向かった。
水切りかごの中に、淡いグリーンのマグカップが伏せてある。
昨日、しらいさんが自分で洗って置いて帰ったものだ。
まだ完全には乾ききっていないのか、縁に小さな水滴が残っていた。
ただの食器。
ただのマグカップ。
なのに、そこにあるだけで、部屋に彼女の気配がある。
「……すごいな」
思わず呟いてから、自分で少し笑った。
何がすごいのか。
いや、すごいのだ。
人のものがひとつ部屋に増えるだけで、こんなにも空気が変わるなんて知らなかった。
悠真はグリーンのマグカップをそっと手に取った。
勝手に使うわけではない。
ただ、乾いているか確かめるようなふりをして、少しだけ重さを感じる。
昨日、しらいさんはこのカップでミルクティーを飲んだ。
両手で包んで、「私のカップ」と小さく言った。
それを思い出しただけで、朝から少しだけ胸の奥が温かくなる。
棚を開ける。
自分のグレーのマグカップの隣に、しらいさんのグリーンのマグカップを置く。
二つ並んだ。
それだけで、今日の朝はもう十分だった。
◇
会社に着いてからも、悠真は何度かその光景を思い出した。
グレーとグリーンのマグカップ。
台所の棚の中。
しらいさんの場所。
仕事はいつも通りだった。
メールの確認、資料の修正、電話対応。
上司からは朝一番に「春日くん、悪いんだけどこれ午前中に」と言われ、先輩からは「こっちの数字も一応見といて」と頼まれた。
社会人一年目の便利さは、今日も順調に消費されている。
でも、不思議と気持ちは荒れなかった。
部屋に帰れば、マグカップがある。
しらいさん本人がいるわけではない。
それでも、彼女がまた来る前提のものが、ちゃんとそこにある。
そのことが、思っていた以上に効いていた。
昼休み、スマホが震えた。
『起きたら、カップ思い出した』
しらいさんからだった。
悠真は思わず口元を押さえた。
『俺も朝から見ました』
すぐに既読がつく。
『見たんだ』
『見ますよ』
『棚に置いた?』
『置きました』
『どこ?』
『俺のカップの隣です』
少し間が空いた。
それから返信。
『それ、かなりいい』
悠真は画面を見ながら、小さく息を吐いた。
『写真送ります?』
送ってから、少しだけ照れた。
だが、すぐ返事が来る。
『見たい』
昼休みが終わるまであと五分ほど。
悠真はスマホのカメラロールを開いたが、当然写真はまだ撮っていない。
仕方なく返信する。
『帰ったら撮ります』
『待ってる』
その一文が、妙にうれしかった。
「春日」
横から三崎の声がした。
「何」
「今の顔、絶対に恋人の私物を見てにやけてる顔」
「……」
「うわ、当たった」
「お前、もう怖いというより気持ち悪いな」
「ひどいな。でも当たったんだろ?」
「黙れ」
「何が増えた? 歯ブラシ?」
「違う」
「じゃあマグカップ?」
「……」
「うわ、また当たった」
「本当に何なんだよ」
「いや、生活に入り始めるアイテムとして定番だろ」
三崎は勝ち誇ったように言う。
「でも、いいな」
「何が」
「部屋に相手のマグカップあるの」
「……」
「会えない日も、ちょっといる感じするだろ」
「……」
「お、刺さった」
「お前、たまにまともなこと言うのやめろ」
「褒めてんのか貶してんのか分からん」
三崎は笑って席へ戻っていった。
会えない日も、ちょっといる感じ。
それは、まさに今日の自分が朝から感じていたことだった。
◇
その日の夕方、しらいさんからもう一通連絡が来た。
『今日、会えなさそう』
短い文だった。
ただ、前みたいに曖昧ではない。
ちゃんと会えないと伝えてくれている。
悠真はすぐに返信した。
『分かりました。無理しないでください』
しばらくして、返事が来る。
『寂しい?』
直球だ。
悠真は少しだけ画面を見つめてから、正直に打つ。
『少し』
送ってから、いや、少しではないかもしれないと思う。
でもそこまで言うと重すぎる気がして、少し、にしておいた。
すぐに既読がつく。
『私も少し』
そして、続けてもう一通。
『でもカップあるから、ちょっとまし』
その文を見た瞬間、胸の奥がやわらかくなる。
彼女も同じなのだ。
会えない夜に、あのマグカップを思い出している。
たったそれだけで、距離が少し近くなる。
『帰ったら写真送ります』
『うん』
『あと、今日は俺のカップ使います』
『私の隣のやつ?』
『そうです』
『それ、かなりいい』
またその言い方だ。
でも、今はその“かなり”がとても彼女らしくて、少し笑ってしまう。
結局、仕事が終わったのは二十時半を過ぎたころだった。
帰り道、駅前のスーパーで牛乳と茶葉を買った。
今日はしらいさんはいない。
でも、自分用にミルクティーを淹れてみてもいい気がした。
いつもならコンビニの缶コーヒーで済ませるところを、スーパーで牛乳を買う。
その時点で、もう生活が少し変わっている。
◇
部屋に帰ると、まず棚を開けた。
グレーとグリーンのマグカップが並んでいる。
朝と同じ光景。
でも夜の照明の下だと、また少し違って見えた。
悠真はスマホを取り出して、写真を撮った。
棚の中に並ぶ二つのマグカップ。
特別な構図でも何でもない。
ただ、ちゃんと隣に置かれていることが分かる写真。
それをしらいさんに送る。
『撮りました』
数秒で既読がついた。
『……』
点が三つ。
それから、少し間を置いて。
『思ったよりだめ』
悠真は首を傾げる。
『だめ?』
『うれしすぎるほう』
その返事に、悠真は一人で笑った。
『ちゃんと置いてあります』
『うん』
『この場所、かなりいい』
『俺もそう思います』
『春日くん、今日それ見ながら何飲むの?』
『ミルクティーにします』
すぐに返信。
『私いないのに?』
『カップ見てたら飲みたくなったので』
『それ、かなり好き』
悠真はスマホを置き、台所へ向かった。
鍋に牛乳を入れ、茶葉を加える。
昨日しらいさんに淹れたときほど甘くはしない。
それでも、普段の自分ならまず作らない飲み物だ。
湯気が上がる。
甘い匂いが部屋に広がる。
グレーのマグカップに注ぐ。
隣には、使われていないグリーンのマグカップが棚の中にある。
しらいさんがいないのに、少しだけ彼女がいるような気がした。
ローテーブルの前に座って、ミルクティーを一口飲む。
思ったよりうまい。
というより、たぶん味よりも気分が勝っている。
スマホが鳴る。
『飲んだ?』
『飲みました』
『どう?』
『少し甘いです』
『春日くんには?』
『でも悪くないです』
『今度は私が甘さ見ます』
『お願いします』
『私のカップも使う?』
悠真はその文を見て、少しだけ迷った。
しらいさんのカップは、彼女のものだ。
勝手に使っていいのか。
いや、そもそも彼女から聞いているのだから、使っていいという意味なのだろう。
それでも少し照れる。
『いいんですか』
『いいよ』
『でも洗って戻して』
『当たり前です』
『じゃあ、少しだけ使っていい』
悠真は立ち上がり、棚からグリーンのマグカップを取り出した。
自分のグレーのカップから、少しだけミルクティーを移す。
グリーンのカップに、薄い茶色のミルクティーが入る。
それだけで、妙に緊張した。
写真を撮って送る。
『少しだけ入れました』
すぐに返信。
『それ、かなりだめ』
『だめ?』
『私いないのに、私のカップ使われてるの、変に照れる』
『使っていいって言ったの、しらいさんです』
『言ったけど』
『じゃあ飲みます』
『うん』
悠真はグリーンのマグカップを両手で持ち、少しだけ口をつけた。
味は同じはずなのに、さっきと違う気がした。
いや、違うのは味ではない。
これは、しらいさんのカップだ。
彼女がここに来たときに使うもの。
それを今、自分が少しだけ借りている。
会えない夜に、彼女の不在がカップの形をして部屋にある。
それが少し寂しくて、でもかなりうれしい。
『飲みました』
『どうだった?』
『しらいさんの味がしました』
送ってから、何を書いているのだと思った。
かなり変な文だ。
案の定、少し間が空いた。
『春日くん』
『はい』
『今の、かなり変』
『すみません』
『でも、かなり好き』
悠真はスマホを見ながら、声を出さずに笑った。
しばらくすると、しらいさんから通話の着信が来た。
画面には彼女の名前。
悠真はすぐに出る。
「もしもし」
『もしもし』
「仕事、終わったんですか」
『うん。今、帰るとこ』
「おつかれさまです」
『春日くん、私のカップ使ったんでしょ』
「使っていいって言ったじゃないですか」
『言ったけど、声で言うとまた照れる』
「じゃあ言わないほうが」
『言って』
「どっちですか」
『今日はそういう日』
声の向こうで、少しだけ笑う気配がした。
「今日、会えなくて少し寂しかったです」
悠真は言う。
通話の向こうで、しらいさんが少し黙った。
『……うん』
「でも、カップ見たら少しましでした」
『私も』
「本当に?」
『うん。帰ったら部屋にないけど、春日くんの部屋にあるって思ったら、ちょっとまし』
「……」
『何で黙るの』
「いや」
『何』
「それ、かなりうれしいです」
『知ってる』
その“知ってる”が、電話越しに少しだけ甘く響く。
『ねえ、春日くん』
「はい」
『今度、会えない夜は』
「うん」
『そのカップで飲んでいいよ』
「しらいさんの?」
『うん』
「いいんですか」
『いい。ちゃんと洗って戻すなら』
「洗います」
『あと、写真送って』
「毎回?」
『毎回じゃなくていいけど』
「うん」
『寂しいときは』
「……」
『そのカップ使って、写真送って』
「……」
『私も、少し落ち着くと思う』
悠真は、グリーンのマグカップを見た。
テーブルの上に置かれたそれは、ただ静かにそこにある。
でも今は、それが二人の間の小さな約束になった。
「分かりました」
『うん』
「じゃあ、寂しいときは使います」
『うん』
「しらいさんも、寂しいときは言ってください」
『……』
「何ですか」
『今の、ちょっと効いた』
「本音なので」
『知ってる』
電話の向こうで、駅のアナウンスが小さく聞こえる。
しらいさんはどこかの駅にいるのだろう。
こちらは自分の部屋。
会えてはいない。
でも、思ったより遠くない。
『春日くん』
「はい」
『次、いつ会える?』
「明日でも」
『明日は少し難しいかも』
「じゃあ明後日?」
『明後日、河川敷』
「行きます」
『知ってる』
「それまでカップ預かってます」
『預けてる』
「はい」
『大事にして』
「かなり」
『……うん』
通話は十分ほどで終わった。
切れたあと、悠真はしらいさんのグリーンのマグカップを洗った。
丁寧にすすぎ、布巾で拭き、棚の中に戻す。
自分のグレーのカップの隣。
二つ並ぶ。
その光景を見て、今日何度目か分からないくらい、胸の奥があたたかくなった。
会えない夜でも、距離はゼロじゃない。
彼女のマグカップがここにある。
そして、それを見ている自分を、彼女もきっとどこかで思い出している。
そう思えるだけで、今日の夜は少しだけ寂しくなくなった。




