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河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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エピソード26 初めて並んだマグカップは、ただの食器なのに少しだけ照れる

 マグカップを買ってから三日間、春日悠真は自分でも少し呆れるくらい、台所の棚を見る回数が増えた。


 朝、コーヒーを淹れる前。

 夜、帰宅して水を飲むとき。

 寝る前、何となく部屋を片づけるとき。


 棚を開ければ、そこに二つの新しいマグカップが並んでいる。


 淡いグレーの、自分のカップ。

 淡いグリーンの、しらいさんのカップ。


 まだ一度も使っていない。

 買って、洗って、乾かして、棚に置いただけだ。

 それなのに、その二つが並んでいるだけで、部屋の景色が少し変わったように見えた。


 しらいさんのものがある。

 次に来る理由がある。

 この部屋に、彼女の居場所が少しだけできた。


 それは、付き合っているという言葉よりも、もっと生活に近い実感だった。


 木曜の昼休み、スマホが震える。


『今日、マグカップ使いに行っていい?』


 悠真はサンドイッチを食べる手を止めた。


 その言い方が、もう少しだけおかしい。

 会いに行く、ではなく、マグカップを使いに行く。

 でも、それが今の二人には妙にしっくり来る。


『もちろんです』


 すぐに既読がつく。


『ミルクティー飲みたい』


『用意しておきます』


『甘いやつ』


『了解です』


『春日くんはコーヒー?』


『たぶん』


『じゃあ、二つ並ぶね』


 その一文を見て、悠真は思わず口元を押さえた。


 二つ並ぶ。

 たったそれだけなのに、妙に効く。


『そうですね』


『今、照れた?』


 図星だった。


『少し』


『かわいい』


『昼休みにやめてください』


『じゃあ夜言う』


『もっとだめです』


『知ってる』


 悠真はスマホを伏せ、少しだけ息を吐いた。


 隣の席にいた三崎が、いつものように目ざとくこちらを見る。


「春日」

「何」

「今、部屋に誰か来る顔してる」

「お前、最近そればっかりだな」

「でも当たってるだろ」

「……」

「当たってるんだな」

「うるさい」

「お前の沈黙、本当に便利だな」


 三崎は楽しそうに笑ってから、紙パックのカフェオレを飲んだ。


「前のマグカップのやつ?」

「何でそこまで覚えてるんだよ」

「お前が分かりやすかったから」

「そんな話したか?」

「してない。顔でしてた」

「怖いな、お前」

「まあでも、そういうのいいじゃん。初めて使う日って、何かあるだろ」

「何かって何だよ」

「生活が始まる感じ」

「……」

「刺さったな」

「黙れ」

「図星」


 三崎はまた笑った。

 腹立たしいのに、今日ばかりはあまり否定できなかった。


 生活が始まる感じ。

 たしかに、そうかもしれない。


    ◇


 その日の仕事は、妙に手早く片づいた。


 いや、実際には仕事量が少なかったわけではない。

 修正依頼もあったし、確認待ちもあったし、上司の「これだけ先に」もあった。

 それでも、終わったあとにしらいさんが部屋に来ると思うと、余計な疲れ方をしない。

 むしろ早く片づけたいという気持ちが、少しだけ集中力を引っ張ってくれた。


 会社を出たのは二十時前。

 駅前のスーパーに寄って、ミルクティー用の茶葉と牛乳、ついでに小さな焼き菓子を買う。

 粉末のミルクティーでもよかったが、今日は少しだけちゃんとしたかった。


 自分で自分に少し笑ってしまう。

 マグカップを初めて使うだけなのに、何をそんなに気合いを入れているのか。


 でも、そういう日なのだ。


 部屋に帰ってすぐ、軽く掃除をする。

 ローテーブルを拭いて、クッションの位置を直して、台所のシンクに何も残っていないか確認する。

 棚を開け、二つのマグカップを一度取り出して、また置く。


 淡いグリーン。

 淡いグレー。


 並んでいるだけで、少しだけ恥ずかしい。


 チャイムが鳴ったのは、二十一時少し前だった。


 悠真は一度だけ深呼吸してから、玄関へ向かう。


「はい」

 ドアを開けると、しらいさんが立っていた。


 黒いキャップ。白いマスク。

 今日は淡いブラウンのニットに、黒のロングスカート。手には小さな紙袋。

 外では目立たないようにしているのに、やっぱり目を引く。


「……来た」

「どうぞ」

「知ってるって言うとこじゃないの?」

「今日は俺の部屋なので」

「そっか」

「はい」

「お邪魔します」


 しらいさんは小さく頭を下げて、靴を揃えて上がった。

 この前より少しだけ自然だ。

 それでも、部屋の中に彼女がいることにはまだ慣れない。


「何か、前より部屋がちゃんとしてる」

「気のせいです」

「絶対掃除した」

「しました」

「正直」

「隠しても仕方ないので」

「そういうとこ好き」


 いきなり言われて、悠真は少しだけ固まる。


「……今の、玄関で言います?」

「元気なので」

「便利ですね、それ」

「便利」


 しらいさんは楽しそうに笑って、部屋の中へ進んだ。


 ローテーブルの前に座る前に、彼女はまっすぐ台所の棚を見る。


「……ある」

「ありますよ」

「私のカップ」

「はい」

「ちゃんと置いてある」

「置きましたから」

「……」


 しらいさんは少しだけ近づいて、棚の中を眺めた。

 ただマグカップが一つ置いてあるだけなのに、彼女の表情は妙に真剣だった。


「何か」

 彼女が小さく言う。

「はい」

「本当に居場所できたみたい」

「……」

「食器棚の一角だけなのにね」

「でも、ちゃんとあります」

「うん」

「しらいさんの場所」

「……」


 彼女は、少しだけこちらを見た。


「春日くん」

「はい」

「今の、かなり好き」

「……」

「何でそっちが黙るの」

「いや、今日は最初から強いなと」

「元気なので」

「万能だ」

「万能」


 しらいさんは笑って、紙袋をテーブルに置いた。


「これ」

「何ですか」

「お菓子」

「俺も買いました」

「え」

「焼き菓子」

「かぶった」

「かぶりましたね」

「でもいい」

「そうですね」

「甘いもの多い夜、かなりいい」


 その言い方があまりに彼女らしくて、悠真は少し笑った。


    ◇


 ミルクティーを淹れる準備をする。


 小さな鍋に牛乳を入れて温める。

 茶葉を加える。

 甘さはどうするか聞くと、しらいさんは「今日は少し甘め」と言った。


「少し?」

「少し」

「かなりじゃなくて?」

「かなりの一個手前」

「細かいなあ」

「春日くん、もう分かるでしょ」

「だいぶ」

「じゃあ任せる」

「責任重大ですね」

「彼氏なので」

「……」

「今の効いた?」

「効きました」

「よし」


 何が“よし”なのか分からない。

 でも、彼女が楽しそうなのでそれでいい。


 マグカップを取り出す。

 グリーンとグレー。

 並べてローテーブルの上に置いた瞬間、二人とも少しだけ黙った。


「……並んだ」

 しらいさんが言う。

「並びましたね」

「何か、思ったより」

「はい」

「照れる」

「分かります」

「マグカップなのに」

「マグカップなのに」

「ただの食器なのに」

「ただの食器なのに」

「でも、違うよね」

「違いますね」


 悠真は鍋の火を止め、ミルクティーをゆっくり注いだ。

 淡いグリーンのカップに、甘めのミルクティー。

 淡いグレーのカップに、少し濃いめのコーヒー。


 湯気が二つ並んで立ち上る。


 それを見た瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。


「はい」

 悠真がカップを差し出す。

「……ありがとう」


 しらいさんは両手で受け取った。

 いつも河川敷で温かい飲み物を受け取るときと同じ仕草。

 でも、今日は自分のカップだ。


 彼女はしばらくそれを見つめてから、そっと一口飲んだ。


「……おいしい」

「甘さ大丈夫ですか」

「かなりいい」

「ならよかった」

「うん。……これ、私のカップで飲んでるんだね」

「そうですね」

「春日くんの部屋で」

「はい」

「……すごい」

「すごいですか」

「すごいよ。かなり」


 彼女の声は、少しだけ静かだった。


 元気な日のわがままな感じとは違う。

 でも弱っているわけでもない。

 何か大事なものを、ゆっくり確かめているみたいだった。


 悠真も自分のカップでコーヒーを飲む。

 普段と同じようなコーヒーなのに、カップが違うだけで少しだけ味まで違う気がする。


「春日くん」

「はい」

「このカップ、ここに置いていいって言ってくれて、ありがとう」

「……」

「何か、改めて」

「こちらこそ」

「こちらこそ?」

「置いてくれて、うれしいです」

「……」

「俺の部屋に、しらいさんのものがあるの」

「……」

「かなり」

「かなり?」

「かなりうれしいです」

「……そっか」


 しらいさんは、カップを持ったまま少しだけうつむいた。


「今の、ちゃんと覚えとく」

「はい」

「次来たときも、使う」

「もちろん」

「春日くんも、そのカップ使って」

「使います」

「二つ並べる」

「はい」

「……いいね」

「いいですね」


 ただそれだけの約束が、妙に幸せだった。


 テーブルの上には、二人分のカップ。

 しらいさんが持ってきた焼き菓子と、悠真が買ってきた焼き菓子。

 少しかぶった甘いもの。

 狭い部屋。

 夜。


 派手なことは何もない。

 でも、これまでのどの外の待ち合わせよりも、生活に近い。


「ねえ」

 しらいさんが言う。

「はい」

「今日、普通だね」

「普通ですか」

「うん。普通に部屋でお茶してる」

「そうですね」

「でも」

「はい」

「今まででかなり恋人っぽい」

「……」

「何その顔」

「いや」

「何」

「同じこと思ってました」

「そっか」

「はい」

「じゃあ、合ってる」

「合ってますね」


 しらいさんは満足そうに笑った。


    ◇


 しばらく、二人でゆっくり話した。


 仕事のこと。

 この前の撮影のこと。

 スーパーのプリンが意外と侮れない話。

 マグカップの色をグリーンにしてよかった話。

 次はコースターも欲しいかもしれない、という話。


「コースターまで置くんですか」

 悠真が聞く。

「だめ?」

「だめじゃないです」

「じゃあ置く」

「増えていきますね」

「少しずつ」

「しらいさんのものが?」

「うん」

「……」

「何」

「いや」

「何」

「うれしいなって」

「……」

「部屋が侵略されていくというより、増えていく感じが」

「春日くん」

「はい」

「そういう言い方、ずるい」

「本音なので」

「知ってる」


 しらいさんはミルクティーを飲み干し、空になったカップを少しだけ名残惜しそうに見た。


「洗います」

 悠真が言うと、彼女はすぐに首を振った。

「自分で洗う」

「いいですよ」

「だめ。私のだから」

「……」

「今日、初めて使ったから」

「……はい」


 彼女は立ち上がり、キッチンで自分のカップを丁寧に洗った。

 その後ろ姿を見て、悠真は不思議な気持ちになる。


 しらいさんが自分の部屋で、マグカップを洗っている。


 それだけなのに、胸がやけに静かに満たされる。


「何見てるの」

 振り返らずに彼女が言う。

「いや」

「何」

「しらいさんが俺の部屋で洗い物してるの、すごいなと」

「すごい?」

「はい」

「……変なの」

「変かもしれません」

「でも、ちょっと分かる」


 彼女はカップを水切りかごに置いた。

 淡いグリーンのカップが、台所にある。

 それだけで、やっぱり部屋が少し違って見えた。


 帰る時間になり、しらいさんは玄関で靴を履いた。


「送ります」

「駅まで」

「はい」

「今日は」

「はい」

「マグカップ、ちゃんと置いて帰る」

「持って帰らなくていいんですか」

「置くために来たから」

「そうですね」

「うん。……置いて帰るの、ちょっと変な感じ」

「寂しいですか」

「少し」

「マグカップが?」

「私のものが、春日くんの部屋に残るから」

「……」

「でも、うれしい」

「俺もです」

「知ってる」


 彼女はそう言って、小さく笑った。


 駅までの道、二人は自然に手をつないだ。

 もうそれは特別な確認をしなくてもできるようになりつつある。

 それでも、毎回少しだけうれしい。


「春日くん」

「はい」

「次来たとき、ちゃんとあのカップ使ってね」

「はい」

「私がいないときも、棚見て思い出していいよ」

「……」

「何」

「それは、かなりします」

「するんだ」

「します」

「……そっか」


 しらいさんは少しだけ照れたように、手に力を込めた。


「私も」

「はい」

「春日くんの部屋にカップ置いたこと、たぶん何回も思い出す」

「……」

「今日のミルクティーの味も」

「……」

「かなり」

「……ならよかった」

「知ってる」


 駅の手前で別れるとき、しらいさんは少しだけ立ち止まった。


「また来る」

「待ってます」

「知ってる」

「便利ですね」

「便利」

「……でも」

「うん」

「今日は、本当に待ってます」

「……」

「カップもあるので」

「……うん」


 その“うん”は、今日いちばんやわらかかった。


 彼女が改札へ消えたあと、悠真は部屋へ戻った。


 台所の水切りかごに、淡いグリーンのマグカップが伏せてある。

 ただそれだけなのに、部屋の中が少しだけ明るく見えた。


 これから、彼女はまたここに来る。

 あのカップを使う。

 たぶんコースターも増える。

 もしかしたら、他のものも少しずつ。


 そうやって、彼女の居場所が少しずつ増えていく。


 それが、どうしようもなくうれしかった。

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