エピソード25 マグカップを選ぶだけなのに、君の居場所が増えていく
しらいさんが「今度はマグカップ持ってくる」と言った翌日から、春日悠真の部屋の台所まわりは妙に気になる場所になった。
もともと、悠真の部屋にあるマグカップは二つだけだった。
一つは入社祝いに実家から送られてきた、妙に丈夫そうな白いマグカップ。
もう一つは大学時代にコンビニのくじで当てた、少しだけ絵柄の入った黒いマグカップ。
どちらも使える。
使えるのだが、しらいさんが置くには何か違う気がした。
いや、別に自分が決めることではない。
彼女が選ぶと言ったのだから、彼女が好きなものを置けばいい。
そう分かっているのに、朝にコーヒーを淹れるときも、帰宅して水を飲むときも、棚の中のマグカップを見るたびに妙な気持ちになる。
ここに、しらいさんのカップが増える。
それは、ただ食器が一つ増えるだけではない。
彼女がまた来る前提が、部屋の中に置かれるということだった。
月曜日の昼休み、スマホが震えた。
『マグカップ、いつ選びに行く?』
しらいさんからだった。
悠真はサンドイッチを持ったまま、少しだけ固まる。
昨日の今日で、もう具体的な話になっている。
『本当に置くんですね』
送ると、すぐに既読がついた。
『置くって言った』
『言いましたね』
『彼女なので』
その文字を見た瞬間、悠真は危うく休憩スペースで声を出しそうになった。
最近のしらいさんは、この言葉の使い方を完全に覚えたらしい。
いや、覚えただけではない。たぶん、こちらが照れるのを分かって使っている。
『便利に使ってませんか、それ』
『便利』
『便利なんだ』
『かなり』
悠真は小さく息を吐いて、それでも笑ってしまう。
『では、今週の水曜か木曜なら行けます』
『水曜』
『了解です』
『駅前の雑貨屋さん。二十時くらい』
『行きます』
『知ってる』
最後の一文を見て、悠真はまた少しだけ笑った。
その様子を、斜め向かいの席に座っていた三崎が見逃すはずもなかった。
「春日」
「何」
「今の顔、完全に生活が増える顔」
「何だよ、それ」
「恋人の私物が部屋に増えるとか、そういうやつ」
「……」
「うわ、当たった」
「お前、怖いな」
「いや、分かりやすいだろ。お前最近、顔に出すぎ」
「そんなにか」
「かなり」
「その言い方やめろ」
「お、誰かの口癖か?」
「黙れ」
三崎はけらけら笑ってから、なぜか少しだけ真面目な顔になる。
「でも、いいじゃん」
「何が」
「部屋に相手のもの増えるの。結構でかいぞ」
「漫画で見たのか」
「漫画でも見たし、現実でもそうだろ」
「珍しく現実の話をした」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「漫画知識で恋愛を語る同僚」
「だいたい合ってる」
三崎はそう言って、自分のデスクへ戻っていった。
部屋に相手のものが増える。
その言葉は、思っていたより胸に残った。
◇
水曜日の夜、駅前の雑貨屋は平日らしくほどよく空いていた。
大きな店ではない。
食器、文具、アロマ、ちょっとしたインテリア小物が並ぶ、女性客が多そうな店だった。
悠真が一人なら、おそらく入ることのない場所だ。
入口脇で待っていると、しらいさんが少し遅れてやって来た。
黒いキャップ。白いマスク。
淡いグレーのニットに、黒のロングスカート。肩には小さなバッグ。
今日は河川敷ほど地味ではないが、外で目立ちすぎない程度に抑えた格好だった。
「……来た」
「行きますよ」
「知ってる」
「今日は元気そうですね」
「今日は元気」
「それはよかった」
「だから今日は、ちゃんと選ぶ」
「マグカップを?」
「マグカップを」
しらいさんは目元だけで笑って、店内へ入った。
悠真も隣に並ぶ。
入ってすぐに、陶器の食器が並ぶ棚があった。白、紺、ベージュ、淡いピンク、くすんだ緑。
同じマグカップと言っても、形も大きさも手触りも違う。
「いっぱいありますね」
「あるね」
「こういうの、普段選びます?」
「自分用はあんまり」
「そうなんですか」
「仕事で使うものは、だいたい見た目より機能優先」
「マグカップも?」
「家では適当」
「意外です」
「そう?」
「しらいさん、こういうのちゃんと選びそうなのに」
「自分だけで使うものは、意外と雑」
「……」
「何」
「何か、分かる気がします」
「何が」
「人に見られるところはちゃんとして、自分だけのところは少し雑な感じ」
「……春日くん」
「はい」
「そういうの、だいぶ分かってきてるね」
「付き合ってますので」
「……」
言ってから、自分で少し照れた。
しらいさんも一瞬だけ黙る。
「今の、私が言うやつ」
「たまには俺も」
「……いいと思う」
「ならよかった」
「知ってる」
二人で少しだけ笑う。
食器棚の前で、しらいさんは真剣にカップを見始めた。
最初に手に取ったのは、淡い黄色の丸いマグ。
次に、深い青の少し大きめのもの。
その次に、マットな白のシンプルなもの。
「春日くん」
「はい」
「どれがいいと思う?」
「俺がですか」
「うん。春日くんの部屋に置くから」
「……」
「何その顔」
「いや」
「何」
「俺の部屋に置くから、って言われるとまだ少し」
「まだ照れる?」
「かなり」
「かなり」
「はい」
「……よし」
何が“よし”なのか分からないが、しらいさんは少しだけ満足そうだった。
「で、どれ?」
「そうですね……」
悠真は棚のカップを見比べる。
黄色は可愛い。青は少し落ち着きすぎている。白は無難だが、彼女のためのものとしては少しだけそっけない気もする。
ふと、棚の少し奥に、淡いグリーンのマグカップがあるのに気づいた。
形はシンプルで、持ち手が少し大きめ。内側は白。外側は少しくすんだ薄緑で、派手ではないが、やわらかい。
「これ、しらいさんっぽいかも」
「え」
彼女はそのカップを手に取った。
「どこが?」
「派手ではないけど、ちゃんと目に入る感じ」
「……」
「あと、温かいもの似合いそうです」
「何それ」
「いや、よく温かい飲み物持ってるので」
「それは春日くんが買ってくるからでしょ」
「そうでした」
「でも」
「はい」
「……ちょっと好き」
しらいさんは、カップを両手で包むように持った。
その仕草があまりにも自然で、悠真はすぐに分かった。
たぶん、これだ。
「春日くん」
「はい」
「これにする」
「即決ですね」
「今ので決まった」
「今の?」
「春日くんが、しらいさんっぽいって言ったから」
「……」
「何」
「それで決めていいんですか」
「いい」
「そんなに?」
「うん。だって春日くんの部屋に置くものだから」
「……」
「春日くんが、私っぽいって思うものがいい」
その言葉は、不意打ちだった。
マグカップひとつ選ぶだけなのに、こんなに胸に来ることがあるのかと思う。
「しらいさん」
「何」
「今の、かなり」
「かなり?」
「かなりうれしいです」
「……そっか」
「はい」
「じゃあ、なおさらこれ」
しらいさんはカップを大事そうに持って、レジへ向かおうとした。
悠真はその横で、ふと別の棚に目を向ける。
同じシリーズの、色違いがあった。
淡いグレーのマグカップ。
形は同じ。色だけが違う。
「……これ」
「え?」
「俺も、同じやつ買おうかな」
「……」
「何ですか」
「春日くん」
「はい」
「それ、自分で意味分かってる?」
「たぶん」
「本当に?」
「おそろい、というやつでは」
「……」
「何で黙るんですか」
「春日くんが自分から言うと思わなかった」
「俺も少し思ってませんでした」
「……でも、いい」
「いいんだ」
「かなり」
しらいさんは目元だけで笑った。
少しだけ照れている。
でも、すごくうれしそうだった。
「じゃあ」
悠真が言う。
「はい」
「二つ買いましょう」
「うん」
「しらいさんの分は、俺が」
「だめ」
「だめですか」
「自分で買う」
「でも俺の部屋に置くんですよ」
「だから自分で買う」
「何で」
「春日くんの部屋に置かせてもらう、私のものだから」
「……」
「ちゃんと、自分で選んで、自分で買って、置く」
「……そっか」
その言い方が、やけにしっくり来た。
ただプレゼントとして置くのではない。
彼女が、自分の意思で、悠真の部屋に自分の居場所を作る。
だから、自分で買う。
「じゃあ、俺は自分の分を買います」
「うん」
「おそろいですね」
「……言い方」
「だめでした?」
「だめじゃない」
「なら」
「でも心臓に悪い」
「お互いさまです」
二人で小さく笑いながら、レジへ向かった。
◇
雑貨屋を出るころには、外の空気が少し冷えていた。
紙袋が二つ。
しらいさんは自分の淡いグリーンのマグカップを、悠真は淡いグレーのマグカップを持っている。
駅前の通りを、二人でゆっくり歩いた。
「今日、このまま置きに行く?」
しらいさんが言った。
「……え」
「何その反応」
「いや、今日ですか」
「だめ?」
「だめじゃないです」
「じゃあ」
「でも、もう遅いですよ」
「少しだけ」
「……少しだけなら」
「うん。マグカップ置くだけ」
「本当に置くだけ?」
「春日くん、今ちょっと意地悪」
「すみません」
「でも嫌いじゃない」
そのまま、二人は悠真の部屋へ向かった。
この前よりは緊張しなかった。
でも、まったく平気というわけでもない。
マグカップを置くという目的があるせいか、前より少しだけ“生活”の気配が強い。
部屋に入ると、しらいさんは小さく「お邪魔します」と言った。
前と同じなのに、今日は少しだけ自然だった。
キッチンの棚を開ける。
白いマグ。黒いマグ。
そして今日買った、グリーンとグレーのマグ。
「……増えた」
しらいさんが呟く。
「増えましたね」
「何か」
「はい」
「本当に置いたんだなって」
「置きましたね」
「春日くんの部屋に」
「はい」
「私のカップ」
「はい」
「……すごいね」
「すごいですか」
「うん。かなり」
彼女は棚の中をしばらく眺めていた。
その横顔は、元気な日なのに少しだけ静かだった。
「春日くん」
「はい」
「今度来たとき、これで飲む」
「何を」
「ミルクティー」
「了解です」
「春日くんは?」
「コーヒーですかね」
「じゃあ、そのとき二つ並ぶ」
「……」
「何」
「今想像しました」
「どうだった?」
「かなりいいです」
「……そっか」
しらいさんは少しだけ満足そうに笑った。
そのまま帰るつもりだったのだろう。
でも、玄関へ向かう前に、彼女はふと立ち止まった。
「春日くん」
「はい」
「今日、少しだけ手」
「……はい」
自然に手をつなぐ。
部屋の中でつなぐ手は、外や河川敷とはまた違っていた。
逃げ場がないぶん、少しだけ近い。
「どうしました?」
「ううん」
「うん?」
「私のものが、春日くんの部屋にあるの」
「はい」
「それが、思ったよりうれしかった」
「……」
「だから、ちょっとだけ」
「うん」
「好きって思った」
悠真は握った手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「俺もです」
「知ってる」
「今日は言われる前に」
「うん。……知ってる」
しらいさんはそう言って、少しだけ笑った。
棚の中には、まだ使われていない二つのマグカップ。
それはただの食器なのに、二人のこれからがそこに少しだけ置かれたように見えた。




