エピソード24 元気な日のしらいさんは、普通の恋人みたいに少しだけわがままになる
次にしらいさんから連絡が来たのは、火曜日の昼休みだった。
春日悠真は会社の休憩スペースで、コンビニのサンドイッチを片手にスマホを見ていた。
午前中は妙に忙しかった。先方から戻ってきた資料に細かい修正が入り、上司からは「春日くん、ちょっとだけ見てくれる?」が三回飛んできて、結局“ちょっと”では済まない作業が山積みになった。
それでも、昼休みにスマホが震えた瞬間、疲れが少しだけ薄くなる。
『今日、元気』
しらいさんからだった。
短い。
でも、いつもの「疲れた」でも「少ししんどい」でもなく、まっすぐな「元気」。
悠真は思わず笑ってしまった。
『それはよかったです』
送ると、すぐ既読がつく。
『今日は甘えに行く日じゃなくて、普通に会いたい日』
その一文を見て、悠真はサンドイッチを持つ手を少し止めた。
普通に会いたい日。
それは、思っていたよりずっと響きがいい。
『会いましょう』
『早い』
『嫌じゃないので』
『知ってる』
いつものやり取り。
でも、今日はその軽さがうれしかった。
『河川敷?』
悠真が送ると、少し間が空いてから返ってきた。
『今日は普通の恋人っぽいことしたい』
普通の恋人。
その文字列だけで、心臓が少しだけ跳ねる。
付き合っているのだから当たり前のはずなのに、二人の関係はいつもどこか少しだけ特殊だった。
河川敷、非常階段、人の少ない植物園、夜の寄り道。
どれも大事な場所だ。
でも、“普通の恋人っぽいこと”という言葉には、また別の甘さがある。
『具体的には?』
『帰りにスーパー寄って、何か買って、春日くんの家でごはん』
その返信を見た瞬間、悠真は飲みかけのコーヒーを吹きそうになった。
家。
自分の家。
しらいさんが。
普通に。
いや、別に変な意味ではない。
そういう意味ではないはずだ。
ただ、外で見られるリスクを考えれば、確かに自宅は安全な場所のひとつではある。
とはいえ、それを“普通の恋人っぽいこと”として提案されると、さすがに心の準備が追いつかない。
『春日くん?』
追加メッセージが来る。
『今、固まってる?』
図星だった。
『少し』
『嫌?』
『嫌じゃないです』
『じゃあ決まり』
即決だった。
悠真はスマホを見つめたまま、しばらく動けなかった。
隣の席に座っていた三崎が、紙パックのジュースを持ちながらにやにやする。
「何その顔」
「何でもない」
「いや、完全に何かある顔だろ」
「ない」
「ある。昼休みにスマホ見て固まるやつはだいたいある」
「うるさい」
「夜の予定?」
「……」
「図星」
「本当に面倒だな、お前」
「家来るの?」
「何で分かるんだよ」
「うわ、当たった」
三崎は本気で驚いた顔をしてから、すぐに楽しそうに笑った。
「お前、今日ちゃんと部屋片づけろよ」
「もうしてある」
「お、えらい」
「うるさい」
「いやでも、大事だぞ。普通の恋人っぽい時間」
「……」
「何だよ」
「何でお前がそこだけまともなんだ」
「漫画で見た」
「薄いなあ」
「でも、ちゃんと楽しめよ」
最後だけ少し真面目に言われて、悠真は返す言葉を失った。
◇
会社を出たのは、いつもより少しだけ早い時間だった。
しらいさんとは駅前の小さなスーパーで待ち合わせることになっていた。
大きな商業施設ではなく、住宅街寄りの地元スーパー。人はそこそこいるが、芸能人を探すような場所ではない。
キャップとマスクをしていれば、たぶんそれなりに紛れられる。
悠真が店の入口に着くと、しらいさんはすでにいた。
黒いキャップに白いマスク。
薄いベージュのカーディガンに、黒のロングスカート。肩には小さめのトートバッグ。
河川敷ほどラフではないけれど、仕事帰りの“白瀬アカリ寄り”でもない。
今日の彼女は、ちょうど中間くらいだった。
「……来た」
「行きますよ」
「知ってる」
「今日は本当に元気そうですね」
「うん。今日は元気」
「それはよかった」
「だから今日は、ちょっとわがまま言う」
「スーパーで?」
「スーパーで」
しらいさんは目元だけで笑って、店内へ入っていく。
悠真も隣に並んだ。
普通のスーパー。
野菜売り場、惣菜コーナー、肉や魚のパック、レジの音。
何でもない日常の景色だ。
なのに、しらいさんと一緒に歩いているだけで、妙に特別に思える。
「何作るんですか」
悠真が聞く。
「作る、ってほどじゃない」
「じゃあ」
「買って並べる」
「潔い」
「今日は普通の恋人っぽいことしたいのであって、家庭的アピールをしたいわけではない」
「言い切りましたね」
「料理できる女優だと思われると困るから」
「誰に」
「春日くんに」
「俺ですか」
「うん」
彼女は惣菜コーナーの前で立ち止まる。
「唐揚げ」
「好きですね」
「好き」
「あと?」
「だし巻き卵」
「居酒屋みたいですね」
「いいでしょ」
「いいです」
「あとサラダ」
「急に健康」
「春日くん、放っておくと野菜食べなさそう」
「そんなことは」
「ある」
「断言」
「彼女なので」
その言葉が、さらっと来た。
彼女なので。
悠真は一瞬、惣菜売り場の前で固まった。
「何」
しらいさんが振り返る。
「いや」
「何」
「今、普通に言いましたね」
「何を」
「彼女なので、って」
「……」
しらいさんは数秒だけ黙った。
それから、マスクの上からでも分かるくらい目元を少し赤くした。
「……言った」
「言いました」
「言ってから気づいた」
「かなり効きました」
「春日くんも言っていいよ」
「ここで?」
「うん」
「いや、スーパーで“彼女”って言うの、意外と難しいですね」
「じゃああとで」
「予約制なんだ」
「予約制」
しらいさんはそう言って、少しだけ得意そうに買い物かごへサラダを入れた。
結局、唐揚げ、だし巻き卵、サラダ、簡単なスープの材料、冷凍うどん、それから小さなプリンを二つ買った。
プリンを手に取ったとき、しらいさんは少しだけ真剣な顔をした。
「これは必要」
「絶対ですか」
「絶対」
「なら入れましょう」
「春日くん、分かってきた」
「だいぶ」
「いい傾向」
会計は、今回は悠真が払うと言った。
しらいさんは少しだけ反論したが、前の食事代のこともあって、最終的には「じゃあ次は私」と言って引いた。
スーパーの袋を持って店を出ると、夜風が少し涼しかった。
「何か」
しらいさんが言う。
「はい」
「普通だね」
「スーパーで買い物しただけですから」
「うん。でも」
「うん」
「普通なのに、すごく普通じゃない」
「分かります」
「分かる?」
「かなり」
「……そっか」
彼女は少しだけうれしそうだった。
◇
悠真の部屋にしらいさんを招くのは、当然ながら初めてだった。
アパートの階段を上がるとき、悠真は妙に緊張していた。
部屋は片づけてある。掃除もした。洗濯物もない。変なものも出していない。
それでも、自分の生活空間に彼女が入るというのは、外で会うのとはまるで違う緊張がある。
「春日くん」
「はい」
「今、かなり緊張してる?」
「してます」
「正直」
「今日は隠せないです」
「……私も、少し」
「少し?」
「かなりの一個手前」
「細かいなあ」
鍵を開けて、部屋に入る。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
しらいさんは小さくそう言って、靴を揃えて上がった。
その仕草がやけに丁寧で、悠真は少しだけ見入ってしまう。
「何」
「いや」
「何」
「しらいさんが俺の部屋にいるの、不思議だなって」
「……私も」
「ですよね」
「でも、嫌じゃない」
「俺もです」
部屋は六畳のワンルーム。
小さなローテーブル、ベッド、棚、テレビ。特別なものはない。
でもしらいさんは、まるで初めて来た友達の部屋を観察するみたいに、少しだけきょろきょろした。
「春日くんの部屋だ」
「そうです」
「ちゃんとしてる」
「一応片づけました」
「普段もこれくらい?」
「……今日は少し増量してちゃんとしてます」
「正直」
「嘘ついても仕方ないので」
「いいと思う」
彼女はローテーブルの前に座り、スーパーの袋を開けた。
「並べよう」
「はい」
「今日は作るより並べる日」
「了解です」
皿を出し、惣菜を移し、スープだけ簡単に温める。
しらいさんは最初は手伝おうとしたが、レンジの位置が分からず少し迷って、結局テーブルで箸や紙ナプキンを並べる係になった。
「私、役に立ってる?」
「かなり」
「本当に?」
「箸の向きが綺麗です」
「そこ?」
「大事です」
「春日くん、褒めるの下手」
「すみません」
「でも好き」
さらっと言われると、まだ慣れない。
悠真は鍋のスープを混ぜながら、少しだけ顔を逸らした。
「今、照れた」
「見ないでください」
「見たい」
「やめてください」
「彼女なので」
「またそれ」
「便利」
「便利にしないでください」
しらいさんは楽しそうだった。
元気な日の彼女は、弱っているときより少しだけわがままだ。
でも、そのわがままが不思議なくらい嫌じゃない。
むしろ、元気でいてくれること自体がうれしい。
テーブルに料理が並ぶ。
唐揚げ、だし巻き卵、サラダ、スープ、締め用のうどん。
スーパーの惣菜中心なのに、二人で並べるとそれなりに食卓らしく見える。
「いただきます」
しらいさんが言う。
「いただきます」
二人で箸を取る。
部屋の中は静かだった。
外の車の音が少しだけ聞こえる。
河川敷の風も、店のざわめきもない。
本当に、ただ二人で部屋でごはんを食べているだけ。
その“だけ”が、思った以上に大きかった。
「おいしい」
しらいさんが唐揚げを食べて言う。
「スーパーですけど」
「でもおいしい」
「ならよかった」
「春日くんの部屋で食べるからかも」
「……」
「何」
「それは、かなり」
「かなり?」
「かなり効きます」
「知ってる」
彼女は満足そうに笑った。
「ねえ」
「はい」
「こういうの、いいね」
「はい」
「外で気をつけて会うのも大事だけど」
「うん」
「こういう、普通にごはん食べるのも」
「うん」
「ちゃんと恋人っぽい」
「……」
「何その顔」
「いや」
「何」
「しらいさんが“恋人っぽい”って言うと、まだ少し心臓に悪いです」
「言いたくなるから仕方ない」
「仕方ないんだ」
「うん。だって、恋人なので」
「……」
「今のは私もちょっと照れた」
「自爆してる」
「うるさいなあ」
二人で笑った。
笑って、食べて、他愛ない話をする。
仕事の話を少し。
スーパーのプリンの種類が意外と多かった話。
悠真の部屋にマグカップが二つしかない話。
しらいさんが「じゃあ、今度一個置いていい?」と言って、悠真が一瞬固まる話。
「置くんですか」
「だめ?」
「だめじゃないです」
「即答」
「それは、むしろ」
「むしろ?」
「かなりうれしいです」
「……そっか」
「はい」
「じゃあ置く」
「決定なんだ」
「決定」
こういう小さな決定が、部屋の中に少しずつ彼女の居場所を作っていく。
それが何だか、信じられないくらいうれしかった。
食後、プリンを食べた。
しらいさんはプリンの蓋を開ける瞬間、今日いちばん真剣な顔をした。
「そこまで真剣ですか」
「大事」
「知ってます」
「分かってきたね」
「かなり」
彼女はひと口食べて、目元をふっと緩めた。
「……おいしい」
「よかった」
「春日くん」
「はい」
「今日、来てよかった」
「俺もです」
「うん」
「しらいさんが元気な日に来てくれて、よかった」
「……」
「何ですか」
「それ、ちょっと分かってくれてる感じがして、うれしい」
「前に言ってたので」
「何を?」
「弱い日にばっかり甘えるのはずるいって」
「……」
「だから、元気な日にも来てくれるの、うれしいです」
「……春日くん」
「はい」
「それ、かなり好き」
「更新されました?」
「更新された」
「忙しいなあ」
「忙しいよ。好きな人が増やしてくるから」
その言葉に、悠真は少しだけ照れて、プリンを食べる手を止めた。
「今、照れた」
「照れますよ」
「かわいい」
「言わないでください」
「言う。元気なので」
元気なので。
その理屈があまりにも彼女らしくて、悠真は笑ってしまった。
しらいさんも笑う。
その笑い声が、自分の部屋にある。
河川敷でも、映画館でも、スーパーでもなく、自分の部屋に。
それだけで、今日の時間は忘れがたいものになった。
◇
帰り際、しらいさんは玄関で少しだけ名残惜しそうに靴を履いた。
「送ります」
「駅まででいい」
「はい」
「……今日は、ちゃんと帰る」
「分かってます」
「何その返し」
「いや」
「何」
「ちょっと名残惜しそうだったので」
「……春日くん、最近たまに意地悪」
「そうですか」
「そう」
「嫌ですか」
「嫌じゃない。ちょっと好き」
外へ出ると、夜風が涼しかった。
駅までの道を、二人で並んで歩く。
スーパーの袋はもうない。手ぶらの彼女と、少しだけ落ち着かない悠真。
でも手は自然に繋いでいた。
「春日くん」
「はい」
「今日、普通の恋人っぽかった?」
「かなり」
「かなり?」
「かなり普通の恋人っぽかったです」
「……そっか」
「でも」
「でも?」
「しらいさんらしかったです」
「……」
「普通だけど、ちゃんとしらいさんとの普通でした」
「……それ」
「はい」
「今日いちばん好き」
「また更新」
「うん」
駅の少し手前で、しらいさんは立ち止まった。
「また来てもいい?」
「はい」
「今度はマグカップ持ってくる」
「本当に?」
「本当に」
「……待ってます」
「知ってる」
彼女はそう言って、小さく笑った。
元気な日のしらいさんは、少しだけわがままで、少しだけ素直で、そして普通の恋人みたいなことをしたがる。
その全部が、悠真にはとても愛おしかった。




