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河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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22/85

エピソード22 画面の向こうの彼女を近くで見る夜は、少し誇らしくて、少しだけ遠い

 その話をしらいさんが持ち出したのは、前の夜から三日後のことだった。


 河川敷のベンチ。

 風は少し冷たくなっていて、缶チューハイより温かい飲み物のほうが似合う季節が近づいている。

 しらいさんは今日は珍しく、最初から缶ではなくホットのカフェラテを持っていた。


「春日くん」

「はい」

「今週末、空いてる?」

「空いてます」

「早い」

「嫌じゃないので」

「……知ってる」


 そのやり取りも、もう少しだけ落ち着いてきた。

 付き合いたてのころみたいに一つ一つで心臓が跳ねるわけではない。

 でも、完全に慣れたわけでもない。

 たぶん今の自分たちは、その中間にいる。


「日曜の夕方」

 しらいさんが続ける。

「うん」

「少しだけ、私のほうの世界に近いとこ来る?」

「……」

「何その顔」

「いや」

「何」

「思ったより、急に来たなと」

「……だめ?」

「だめじゃないです」

「じゃあいい」

「何ですか、どういう感じですか」

「イベントとかじゃない」

「うん」

「新作のトーク付き上映」

「……」

「私、舞台挨拶じゃなくて、上映後に少しだけ登壇するだけ」

「……」

「だから、普通に見に来る分には、そんなに目立たない」

「……」

「で、春日くんが嫌じゃなければ」


 悠真は少しだけ息を止めた。


 ついに来た、と思う。

 しらいさんの向こう側――白瀬アカリの世界を、自分がもう少し近くで見る話。

 前にも広告や雑誌、駅前の大型ビジョンで見たことはある。

 でもそれは、遠くから眺めるだけの“商品”だった。


 今回は違う。

 彼女自身が、そこへ来ていいと自分に言っている。


「嫌じゃないです」

 悠真は言った。

「……」

「むしろ、うれしいです」

「……そっか」

「はい」

「でも」

「うん」

「少しだけ、距離はあるから」

「分かってます」

「終わったあと、すぐ会えるとかじゃないかもしれない」

「うん」

「ちゃんと見に来てもらって、ちゃんと帰ってもらう感じかも」

「……」

「それでも?」

「行きますよ」

「……」

「しらいさんのそういうところも、知りたいので」

「……それ」

「何ですか」

「今日のはかなり効く」

「最近、更新忙しいですね」

「忙しいよ。春日くんがそういうこと言うから」


 彼女はそう言って、カフェラテの缶を両手で持ち直した。

 少しだけ視線を落として、それから小さく言う。


「ほんとはね」

「うん」

「ちょっと迷った」

「……」

「春日くんに見せたい気持ちと、見せるの怖い気持ちが半分ずつあった」

「……そっか」

「でも、最近の春日くん見てたら」

「うん」

「ちゃんとこっち側も、知った上で好きでいてくれそうだなって思った」


 その言葉は、うれしかった。

 好きだと言われたこととは少し違う、信頼に近い重さがある。


「それなら」

 悠真は静かに言う。

「うん」

「ちゃんと見ます」

「……」

「変に幻想持たないで」

「……」

「でも、しらいさんがそこにいるのは、たぶんちゃんとうれしいので」

「……」

「そのまま見ます」


 しらいさんはしばらく黙っていた。

 それから、ふっと息を吐いて笑う。


「春日くん」

「はい」

「そういうとこ、本当にだめ」

「だめなんですか」

「うれしいほうで」

「ならいいです」

「よくない。今日ちょっと甘やかされすぎる」


 その言い方が少し可愛くて、悠真は思わず笑った。


    ◇


 日曜の夕方、悠真は映画館のある複合施設の前に立っていた。


 都心というほどではないが、人は多い。

 ただ、休日の大型商業施設らしい賑わいに紛れてしまえば、特別不自然でもない。

 しらいさんが選んだのは、そういう場所だった。


 上映されるのは、彼女が脇役として出ている少し静かな恋愛映画らしい。

 派手な宣伝はしていないが、登壇回だけはチケットがやや埋まっていると聞いていた。


 悠真は少し早めに着いて、館内のロビーで人の流れを見ていた。

 ポスターが並んでいる。

 その中の一枚に、白瀬アカリの顔があった。


 ちゃんとしたメイク。

 少し憂いを含んだ横顔。

 河川敷で見るしらいさんとはやはり違う。

 でも、もう完全な別人には見えなかった。


 スマホが震える。


『着いた?』


 しらいさんから。


『着いてます』


『じゃあ、正面ロビーの右側見ないで』


 悠真は思わず吹き出しそうになった。


『見ないほうがいいんですか』


『まだ早いから』


『分かりました』


 素直に返しつつ、悠真は正面ロビーの右側を見ないようにした。

 たぶん、スタッフ導線か何かがあるのだろう。

 こういう細かい配慮が、今の自分たちには大事なのだと分かる。


 上映が始まる。

 悠真は指定された席に座り、映画を観た。


 作品自体は静かで、台詞の少ないシーンが多い。

 白瀬アカリ――しらいさんは、主人公の姉役だった。

 出番は多くない。

 でも、目線の動きや、一歩引いた立ち位置の演技が妙に印象に残る。


 画面の向こうにいる彼女は、河川敷でカフェラテを持って「知ってる」と言う人ではない。

 でも、そこに宿っている感情の置き方や、言葉の前に少しだけ黙る感じが、知っている彼女の延長線にあるようにも思えた。


 上映が終わると、客席前方の舞台にライトが点いた。

 司会者が出てきて、数人の登壇者が呼ばれる。


 最後に、白瀬アカリの名前が呼ばれた。


 拍手が起きる。


 彼女が舞台へ出てくる。


 悠真は、その瞬間少しだけ息を止めた。


 知っているはずだった。

 広告でも雑誌でも、動画でも見てきた。

 でも、生で見るとやはり違う。


 照明の中に立つ彼女は、姿勢がすっと伸びていて、笑う角度まで計算されているように見える。

 声も、河川敷で聞くそれより少し高く、少し明るい。

 “白瀬アカリ”としての完成度があまりにも高くて、少しだけ遠い。


 それでも、遠いだけではなかった。


 司会者からの質問に答える前、一拍だけ目を伏せる癖。

 共演者が話し終えたあと、ほんの少しだけ口元で呼吸を整える癖。

 そういう小さな仕草の中に、しらいさんがいる。


 悠真は、気づけば少しだけ誇らしい気持ちになっていた。


 すごいな、と思う。

 単純に。

 ちゃんとここで立って、これだけ多くの人に見られて、それでも崩れない。

 あの人は、こういうことを日常として生きているのだ。


 トークは二十分ほどで終わった。

 映画の撮影裏話。作品への思い。印象に残ったシーン。

 どれも、きれいに整っていた。

 でもその整い方の向こうに、少しだけ疲れや緊張を想像できる自分がいる。


 それはたぶん、もう以前とは違う見方だった。


    ◇


 終演後、悠真はすぐにはロビーを出なかった。


 人の流れが落ち着くまで待つ。

 しらいさんが“今日はすぐ会えないかもしれない”と言っていた意味が、今ならよく分かる。

 裏動線もあるだろうし、スタッフもいる。ここで何かできることはない。


 そのまま外へ出て、少し離れたベンチに座る。

 夕方から夜へ変わる時間で、商業施設の外壁に明かりがつき始めていた。


 スマホが震えたのは、それから十五分後だった。


『まだいる?』


 悠真は、少しだけ笑って返信する。


『います』


 数秒後。


『裏の搬入口の横に、小さい通路あるの分かる?』


『分かります』


『そこまで来れる?』


『行きます』


 夜の施設裏は、人がほとんどいなかった。

 搬入口の明かりは白くて少し冷たい。

 その横の細い通路に、黒いマスクとキャップ姿のしらいさんが立っていた。


 さっきまで舞台の上にいた人とは思えないくらい、すでに“しらいさん”に戻りかけている。

 でも完全には戻りきっていない。

 メイクの名残りと、姿勢の緊張がまだ少し残っていた。


「……来た」

 彼女が言う。

「行きますよ」

「知ってる」

「今日は見てもよかったんですね」

「もう見られたあとだから」

「なるほど」


 近づくと、彼女は小さく息を吐いた。


「どうだった?」

「映画ですか」

「それも」

「それも?」

「……私」

「……」


 その問いかけに、悠真は少しだけ言葉を選ぶ。


「すごかったです」

「……」

「何か、ちゃんと」

「ちゃんと?」

「白瀬アカリだった」

「……」

「でも」

「うん」

「ちゃんとしらいさんでもありました」

「……何その言い方」

「本音です」

「……」

「やっぱり遠いなって思う瞬間はありました」

「うん」

「でも、遠いだけじゃなかった」

「……」

「知ってる顔も、知ってる呼吸も、少しだけ見えた気がした」

「……」

「だから」

「うん」

「思ってたより、安心しました」


 しらいさんは、しばらく何も言わなかった。

 それから、マスクの奥でたぶん少しだけ笑った。


「春日くん」

「はい」

「それ、かなりうれしい」

「ならよかった」

「知ってる」

「最近それ万能すぎません?」

「便利なんだってば」


 少しだけ空気がゆるむ。


「正直ね」

 彼女が言う。

「うん」

「終わったあと、少しだけ怖かった」

「……」

「春日くんが見たあと、どう思うかなって」

「……」

「やっぱり遠いとか、別世界とか、そういうの強くなったらどうしようって」

「……そっか」

「でも、今の聞いて、ちょっと安心した」

「……」

「春日くん、ちゃんと両方見てくれたんだなって」


 その言葉に、悠真は静かにうなずく。


「見たいから」

「……」

「しらいさんの世界」

「……」

「全部一気には無理でも」

「……」

「少しずつ知りたいです」

「……」


 彼女は壁にもたれたまま、数秒だけ目を閉じるみたいにして、それから小さく言った。


「今日、呼んでよかった」

「俺もです」

「うん。……でも、ちょっと疲れた」

「ですよね」

「こういう日は、やっぱり河川敷のほうが向いてる」

「じゃあ行きます?」

「今から?」

「嫌じゃないなら」

「……」


 しらいさんは少しだけ考えてから、頷いた。


「少しだけ」

「行きます」

「知ってる」


 その返しに、悠真は少し笑った。


    ◇


 河川敷に着くころには、夜はすっかり深くなっていた。


 いつものベンチ。

 いつもの風。

 いつもの暗さ。


 しらいさんはベンチに腰かけると、大きく息を吐く。

 キャップを少しだけ深くかぶり直して、やっと完全にこちら側へ戻ってきた感じがした。


「……やっぱり落ち着く」

「それはよかった」

「うん」


 悠真はコンビニで買ってきた温かいレモンを渡す。

 彼女はそれを受け取って、両手で包む。


「春日くん」

「はい」

「今日の私、どうだった?」

「さっき言いましたよ」

「もう一回」

「……」

「何その顔」

「いや」

「何」

「誇らしかったです」

「……」

「かなり」

「……それ」

「何ですか」

「だめ」

「だめなんですか」

「うれしすぎるほうで」


 彼女はそう言って、少しだけうつむいた。

 河川敷の暗さが、その表情をちょうどよく隠してくれる。


「でも、遠かった?」

 小さく聞く。

「少しは」

「……」

「でも、そのあとここに来て」

「うん」

「ちゃんとしらいさん見たら、ちょうどよくなりました」

「ちょうどよく?」

「はい」

「遠いほうも、本当」

「うん」

「ここにいるほうも、本当」

「……」

「それでいいんだなって、今日ちょっと分かりました」


 しらいさんは、その言葉をゆっくり受け止めるみたいに黙っていた。

 そして、そっと悠真の手の甲に触れる。


「春日くん」

「はい」

「私ね」

「うん」

「こういう日、たぶんこれからもある」

「……」

「白瀬アカリの日」

「うん」

「で、そのあと、しらいさんに戻る日」

「うん」

「そのあいだで、ちょっと変になったりするかも」

「……」

「でも」

「うん」

「そのたびに、今日みたいにちゃんと見てくれたら、たぶん大丈夫」

「……」


 悠真は、触れられた手に少しだけ力を返した。


「見ますよ」

「うん」

「かなり」

「……知ってる」


 その“知ってる”は、今日いちばんやわらかかった。

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