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河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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エピソード21 しらいさんの世界は、思っていたより近くて、思っていたより遠い

 その週の金曜日、春日悠真は午後の会議を半分ほど上の空でやり過ごしていた。


 もちろん、完全に意識を飛ばしていたわけではない。

 資料をめくるタイミングも、相槌を打つタイミングも、必要最低限はちゃんと合わせている。

 ただ、頭の片隅にずっと別のことが居座っていただけだ。


 昼過ぎに、しらいさんからメッセージが来ていた。


『今日、河川敷行けると思う』


 それに対して悠真は、


『行けます』


 と返している。

 すぐに既読がついて、そのあともう一通だけ来た。


『でも、少し遅くなるかも』


 たったそれだけ。

 なのに今日は、その一文の意味が妙に気になっていた。


 少し遅くなる。

 仕事だろうか。

 それとも、付き合いか。

 最近は少しずつ、“しらいさん側の世界”が現実味を持ってきているせいで、以前なら気にしなかった曖昧な一言にいちいち想像がついてしまう。


「春日」

 三崎の声で、悠真はようやく我に返った。

「何」

「お前、今ちょっと別の人生生きてただろ」

「失礼だな」

「会議中にその顔してるとバレるぞ」

「どんな顔だよ」

「今日は早く終わらせたいです顔」

「……」

「図星」

「うるさい」

「金曜だもんな」

「それだけじゃない」

「へえ、認めるんだ」

「最近お前に隠しても面倒なだけだって分かってきた」

「成長したなあ」


 三崎はそう言って笑ってから、紙コップのコーヒーをひと口飲んだ。


「で、今日は?」

「何が」

「会えるんだろ」

「たぶん」

「たぶん、か」

「少し遅くなるらしい」

「じゃあ待つ顔してるわけだ」

「……」

「お前、分かりやすくなったな」

「付き合う前からお前には全部バレてた気がするけど」

「まあな」

「最悪だな」

「でも」

「何」

「その顔、前よりいいぞ」

「またそれか」

「前は“会いたいけどどうしていいか分かんない顔”だったけど」

「そんな顔してた?」

「してたしてた。今は“待つのも込みで会いたい顔”」

「……」

「何その、ちょっと刺さった顔」

「うるさい」

「図星なんだな」

「うるさいって」


 けれど、その言葉は少しだけ胸に残った。


 待つのも込みで会いたい。

 たしかにそうかもしれない。

 しらいさんと付き合うということは、ただ“会える”だけじゃなくて、“会えない時間を含めて好きでいる”ことなのかもしれない。


    ◇


 夜、会社を出たのは二十時半を少し回ったころだった。


 今週最後の修正依頼を片付け、パソコンを落とし、ようやくオフィスの外に出る。

 駅前の空気はまだ少し蒸していて、秋の入口なのに完全には涼しくならない。


 しらいさんから追加の連絡はない。

 少し遅くなるかも、のまま。

 それでも悠真は、いつものコンビニに寄って、小さな袋のミックスナッツと温かいカフェラテを買った。


 河川敷へ続く坂道を下りる。

 見慣れた夜の景色。

 でも今日は、どこか落ち着かなかった。


 ベンチには、まだ彼女はいない。


 悠真はその少し手前で立ち止まって、川のほうを見た。

 前なら、こういう時に少しだけ不安になっていた。

 でも今は、焦りというより、“待っている時間も二人のものかもしれない”と思える余裕が少しだけある。


 ベンチに座る。

 買ってきたカフェラテの缶はまだ温かい。

 コンビニ袋が夜風に少しだけ鳴る。


 五分ほどして、土手の上から足音が近づいてきた。


 顔を上げる。

 そこにいたのは、しらいさんだった。


 でも、いつもと少し違う。


 キャップはかぶっている。マスクもしている。

 ただ、パーカーではなく、黒に近いネイビーの細身のコート。中は白っぽいブラウスで、足元もスニーカーではなく低めのパンプスだった。

 それは“河川敷のしらいさん”というより、“仕事帰りの白瀬アカリ側に近い服装”に見えた。


 悠真は思わず立ち上がる。


「……こんばんは」

 しらいさんが少しだけ息を吐きながら言う。

「こんばんは」

「待った?」

「少しだけ」

「……ごめん」

「いや、それはいいんですけど」

「うん」

「今日は、何か」

「何か?」

「ちょっと違いますね」

「……」


 彼女は数秒だけ黙ってから、苦笑するみたいに言った。


「そう見えるよね」

「仕事帰りですか」

「うん」

「そのまま?」

「そのまま来た」


 その一言で、悠真は少しだけ空気の違いを理解した。


 今日は彼女の“向こう側”を、かなりそのまま引きずってきているのだ。


「座ります?」

「うん」

「カフェラテあります」

「……何で分かったの」

「今日はそういう感じかなって」

「春日くん、たまに本当に怖い」

「悪い意味ですか」

「悪い意味じゃない。かなり助かる意味」


 ベンチに並んで座る。

 彼女はマスクを外さず、カフェラテだけを受け取った。

 缶を両手で包むように持って、しばらく黙る。


 悠真は無理に話しかけなかった。

 こういう沈黙の意味は、もう少し分かるようになってきている。

 言葉が必要な沈黙と、まずは隣にいることが必要な沈黙がある。

 今はたぶん、後者だ。


 やがて、しらいさんがぽつりと口を開いた。


「今日、取材だった」

「……」

「雑誌と、動画のやつ」

「うん」

「終わったあと、ちょっとだけ業界の人たちと話して」

「うん」

「そのまま帰るの、しんどくて」

「……」

「で、着替える元気なくて、そのまま来た」


 悠真は静かにうなずく。


「来てくれてうれしいです」

「……そういうの、今日はかなり効く」

「ならよかった」

「知ってる」


 けれど、その“知ってる”の声はいつもより少しだけ低かった。

 疲れているのだろう。

 それだけじゃなく、今日はきっと、彼女が普段生きている場所の空気もまだ身体にまとわりついている。


「春日くん」

「はい」

「今日ね」

「うん」

「私、ちょっとだけ変な気分だった」

「変な気分?」

「取材で、恋愛観とか理想の相手とか聞かれて」

「……」

「もちろん、仕事用の答えはした」

「うん」

「でも、そのあとすぐ春日くんに会いに来るの、何か変だなって思って」


 その感覚は、少し想像できた。

 仕事で作った言葉と、ここで本当に会いたい相手に会うことのあいだにある、微妙な段差。


「どう変だったんですか」

「うーん……」

 しらいさんは少しだけ首を傾げる。

「向こうで話してる私は、たぶん“みんなが見たい白瀬アカリ”なんだよね」

「……」

「でも、終わったあとに真っ先に会いたいのは、春日くんで」

「……」

「その差が、今日は妙に近かった」

「……そっか」


 彼女はカフェラテをひと口飲んで、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。


「春日くん、怖くない?」

「何が」

「こういうの」

「こういうの?」

「私の、そっち側」


 その問いかけは、意外なほどまっすぐだった。


 悠真は少しだけ考える。


 怖くない、と言い切るのは嘘だ。

 前に一度、駅で声をかけられた話を聞いたとき、胸の奥が少し冷えたことを思い出す。

 彼女の世界は、自分の日常よりずっと人の目に近い。

 そこに自分がどう関わっていくのか、正直まだ分からない部分も多い。


「少しは、あります」

 悠真は正直に言った。

「……」

「遠いなって思うこともあるし」

「うん」

「俺の知らないところがたくさんあるなって思うこともあります」

「……」

「でも」

「うん」

「今日みたいに、そのまま来てくれると」

「……」

「遠いだけじゃないんだなって、ちゃんと分かる」

「……」


 しらいさんは、それを聞いてすぐには返事をしなかった。

 しばらく川のほうを見て、それから小さく笑う。


「春日くん」

「はい」

「今の、かなり救われた」

「……」

「遠いだけじゃない、って言われるの」

「……本音です」

「うん。分かる」


 夜風が少し吹く。

 彼女のコートの裾が揺れる。


「私ね」

「うん」

「春日くんには、できれば“しらいさん”でいたい」

「……」

「でも白瀬アカリでいる時間が消えるわけじゃない」

「うん」

「だから、その二つが近づく日はちょっと怖い」

「……」

「今日がそうだった」

「……そっか」

「うん。でも」

「うん」

「春日くんが、ちゃんとそのままでいてくれるなら」

「……」

「そこも少しずつ見せてもいいのかもって、今思った」


 その言葉は、告白のときとはまた違う重さがあった。


 好きだと言われたこともうれしかった。

 でも今のは、もっと生活に近い。

 彼女が自分の現実の一部を、少しずつでもこちらに渡してもいいと思ってくれたこと。それが、妙に胸に響いた。


「……うれしいです」

 悠真が言う。

「うん」

「全部は分からないと思います」

「うん」

「でも、知っていきたいです」

「……」

「しらいさんの世界」

「……それ」

「何ですか」

「かなりだめ」

「だめなんですか」

「うれしいほうで」

「なるほど」

「今日、そういうの多い」


 しらいさんは少しだけ笑ってから、ようやくマスクをずらした。

 その横顔は、河川敷で見るには少しだけきれいに整いすぎていて、だからこそ逆に現実感があった。


「春日くん」

「はい」

「もし今度、急にこっち側の都合で会えなくなっても」

「うん」

「“あっちの世界に取られた”って思わないで」

「……」

「ちゃんと戻ってくるから」

「……」

「ここに」


 悠真は、その言葉に静かにうなずいた。


「分かりました」

「うん」

「でも」

「何」

「たまには、ちゃんと寂しいって言いますよ」

「……」

「何ですか」

「そういうの、少し好き」

「なら言います」

「うん。私も、ちゃんと帰ってきたくなる」


 その返しが妙にやさしくて、悠真は少しだけ笑った。


「今日は」

 彼女が言う。

「はい」

「少しだけ、手」

「……いいですよ」

「うん」


 差し出された手を取る。

 今日は少しだけ冷たかった。

 仕事帰りの緊張がまだ抜けきっていないのかもしれない。


「どう?」

 しらいさんが聞く。

「何が」

「今日の私」

「……」

「何その顔」

「いや」

「何」

「ちょっと遠いけど、ちゃんとしらいさんです」

「……そっか」

「うん」

「それなら、よかった」


 その“よかった”は、今までより少し大人しい響きだった。


 しばらく、二人で何も言わずに手をつないだまま川を見た。


 河川敷の夜はいつも通り静かだ。

 でも今日は、そこに別の世界の残り香が少しだけ混じっている。

 白瀬アカリとして過ごした時間の疲れ。

 取材で話した恋愛観。

 人に見られる側の緊張。


 それでも彼女はここに来て、自分の隣に座っている。


 それがうれしかった。


 帰り際、土手の上でしらいさんは少しだけ立ち止まり、珍しくまっすぐこちらを見た。


「春日くん」

「はい」

「今日、来てよかった」

「俺もです」

「うん」

「あと」

「何」

「今度、もしそういう日があったら」

「うん」

「もう少しだけ早めに言う」

「……」

「“今日はしらいさんより、白瀬アカリ寄りです”って」

「何ですかその報告」

「大事でしょ」

「……大事かも」

「でしょ」

「じゃあ俺も」

「何」

「“今日はかなり寂しくなりそうなので覚悟してます”って言います」

「……それ」

「何ですか」

「かなりかわいい」

「またそれだ」

「今日の春日くん、そういう日だから」

「便利だなあ」

「便利なんだってば」


 最後に、彼女は少しだけ目を細めて笑った。

 その笑い方は、河川敷のしらいさんと、もう一つの世界の白瀬アカリが、ほんの少しだけ重なって見えた。

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