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第57話 普通のお客さんとして来てほしいのに、普通でいられる気がしない

 舞台挨拶の当選メールを何度も見返している自分に気づいて、春日悠真はスマホを伏せた。


 もう結果は変わらない。

 当たった。

 行ける。

 客席から、白瀬アカリを見る。


 それだけのことなのに、確認しないと落ち着かなかった。


 ローテーブルの上には、しらいさんのマグカップがある。

 青灰色のコースターの上に、いつもの角度で置かれている。


 舞台挨拶の日まで、あと数日。


 それだけで、部屋の空気まで少し違って感じる。


 悠真はクローゼットを開けた。

 仕事用のシャツ。

 休日用のパーカー。

 少しきれいめのジャケット。

 あまり履いていない黒のパンツ。

 学生時代から着ている、少しよれた服。


 並べてみると、自分の服の少なさに少しだけため息が出た。


 普通のお客さんとして行く。


 しらいさんはそう言った。

 理沙さんも、きっとそう思っているだろう。

 目立たないこと。

 変に構えないこと。

 会場で妙な行動をしないこと。


 それは分かっている。


 けれど、“普通”が一番難しい。


 気合いを入れすぎると不自然だ。

 だからといって、いつもの会社帰りみたいな格好で行くのも違う気がする。


 舞台の上に立つ白瀬アカリを、客席から見る日。

 その日に、あまりにも自分が適当すぎるのは嫌だった。


 悠真は黒のジャケットを手に取り、鏡の前で合わせてみた。


 悪くない。

 ただ、少し硬い。


 次に、明るめのシャツを合わせる。

 今度は少し仕事っぽい。


 スマホが震えた。


 しらいさんからだった。


『今、何してる?』


 悠真は鏡の前で少し固まった。


 そのまま正直に返す。


『当日の服を考えています』


 すぐ既読。


『早い』


『かなり悩んでます』


『普通でいいよ』


 それが来るだろうとは思っていた。


 でも、その普通が難しいのだ。


『普通が一番難しいです』


 既読。


 少し間が空いて、


『春日くんらしい』


 続けて、


『写真送って』


 悠真はジャケットを持ったまま固まった。


『服の?』


『うん』


『それはかなり恥ずかしいです』


『私、舞台で何百人に見られるんだけど』


『それとこれは違います』


『違うけど見たい』


 悠真は少し迷った。

 迷ってから、結局ジャケットとシャツをベッドの上に並べて撮った。


『これだと硬いですか』


 送る。


 少しして返事。


『硬い』


 やっぱり。


『じゃあ、こっちは?』


 今度はシンプルなニットと黒のパンツを並べる。


『こっちのほうが春日くん』


『そうですか』


『うん』


『でも少しだけきれいめにして』


『難しい注文ですね』


『普通のお客さん。でも春日くん』


 悠真は、その文をしばらく見つめた。


 普通のお客さん。

 でも春日くん。


 たぶん、彼女が言いたいのはそこなのだろう。

 背伸びして別人みたいになる必要はない。

 けれど、適当でいいわけでもない。


 春日悠真として、客席に座る。


『分かりました』


『たぶん』


 既読。


『たぶん』


『そこは、はいって言って』


『はい』


『よし』


 いつものやり取りに、少しだけ笑ってしまう。


 すると、さらにメッセージが来た。


『でも本当は、私も普通でいられる気がしない』


 悠真の手が止まる。


『しらいさんが?』


『うん』


『舞台挨拶は慣れてるんじゃないですか』


『慣れてる』


『でも春日くんが客席にいるのは初めて』


 その文字で、胸の奥が少し鳴った。


 悠真だけではない。

 彼女も、普通ではいられない。


『探さない約束です』


『探さない』


『たぶん』


『そこは、はいって言ってください』


『はい』


 少し間。


『でも、いるんだなって思う』


 悠真はローテーブルのマグカップを見る。


『俺も、舞台にいるんだなって思います』


『白瀬アカリとして』


『はい』


『でも、しらいさんとしても』


 既読。


 返事はしばらく来なかった。


 やがて、


『それ、当日まで保存』


 と届いた。


    ◇


 翌日、会社の昼休み。


 悠真は弁当を食べながら、当日の持ち物をスマホのメモに書き出していた。


 チケット確認用のメール。

 本人確認書類。

 スマホの充電。

 ハンカチ。

 映画を見るための小さな心の準備。


 最後の一行は、書いてから自分で消した。


「春日」


 向かいから三崎の声がした。


「何」


「今、遠足の持ち物リスト作ってる?」


「違う」


「じゃあ舞台挨拶の持ち物?」


「……」


「当たりかよ」


 三崎は楽しそうに笑った。


「チケット、本人確認いるんだろ。身分証忘れるなよ」


「分かってる」


「あとハンカチ」


「それも入れた」


「泣く気?」


「映画で泣くかもしれない」


「白瀬アカリの映画、そんな泣ける系なの?」


「たぶん」


「お前、だいぶ本気だな」


 その言い方には茶化しが混じっていたが、嫌な感じではなかった。


 悠真は少しだけ考えてから言う。


「ちゃんと見たいからな」


 三崎は箸を止めた。


「ちゃんと、ね」


「何だよ」


「いや。いいんじゃね」


「軽いな」


「重く言うとお前が逃げるから」


「逃げない」


「逃げる顔してる」


「してない」


 三崎は笑ったあと、少しだけ真面目な声になった。


「服、迷ってる?」


「……何で分かる」


「顔が服で迷ってる」


「お前の顔診断、最近雑じゃないか」


「当たってるからいいだろ」


 悠真は諦めて、スマホのメモを閉じた。


「目立たない格好がいいんだろうけど、適当でも嫌だし」


「黒っぽくて普通のやつでいいんじゃね」


「普通が難しい」


「出た。お前の面倒なところ」


「うるさい」


「でも、行く目的は服じゃないだろ」


「……」


「ちゃんと見るために行くんだろ。だったら、自分が落ち着く格好でいいんじゃね」


 悠真は、少し黙った。


 三崎は知らない。

 何も知らない。

 しらいさんのことも、部屋のマグカップのことも、カードケースのことも。


 それでも、時々必要なことだけを言う。


「……そうだな」


「また素直」


「今日だけだ」


「毎回それだな」


 三崎は笑って、唐揚げを食べた。


 そのあと、ふとテレビのほうを見る。

 休憩スペースのテレビでは、また映画の宣伝映像が流れていた。

 ほんの一瞬、白瀬アカリの姿が映る。


 悠真は反射的に見てしまった。


 三崎も見ていた。


「やっぱ、きれいだな」


 その何気ない一言に、悠真の胸が少しだけざわついた。


 当たり前だ。

 白瀬アカリは人気女優なのだから。

 テレビを見た人が、きれいだと言うのは普通のことだ。


 でも、悠真にとっては普通ではない。


 昨夜、服の写真を見て「こっちのほうが春日くん」と言った人。

 部屋で「ただいま」と言った人。

 マグカップを洗って、コースターを整える人。


 その人が、テレビの中では誰かに「きれい」と言われる。


 遠い。

 でも、それも彼女だ。


「……そうだな」


 悠真は答えた。


 三崎は少しだけこちらを見たが、何も言わなかった。


    ◇


 その夜、しらいさんは部屋に来た。


 舞台挨拶前の忙しさはあるが、短い時間なら大丈夫だと理沙さんから許可が出たらしい。


 インターフォンが鳴り、玄関を開けると、彼女はいつものように少しだけ肩をすくめて立っていた。


「来た」


「おかえりなさい」


「……ただいま」


 もう、かなり自然な声だった。


 部屋に入り、ローテーブルを確認する。

 マグカップ、コースター、喉コーナー。

 そして、今日はベッドの上に置かれた服を見て、少しだけ目を丸くした。


「本当に悩んでる」


「はい」


「真面目」


「真面目です」


「知ってる」


 彼女はコートを脱いで、ローテーブルの前に座る。

 悠真はミルクティーを淹れた。


 カップがコースターに置かれる。


 ことん。


「帰ってきた音」


 しらいさんが言う。


「はい」


「当日、この音ないんだね」


「会場ですからね」


「うん」


 彼女は少しだけミルクティーを見つめた。


「でも、心の中ではあるかも」


「カップの音が?」


「うん。舞台に立つ前、これ思い出す」


「緊張しませんか」


「する」


「じゃあ」


「でも、落ち着くほうの緊張」


 彼女は少し笑った。


「春日くんが客席にいるって思ったら、たぶん緊張する。でも、この音を思い出したら、戻る場所もあるって思える」


 悠真は、自分のカップを持ったまま静かに頷いた。


「当日、カードケースも持っていくんですよね」


「うん」


 しらいさんは鞄から青灰色のカードケースを取り出した。


「これ、たぶん控室で見る」


「はい」


「でも、見すぎると泣きそうになるから一回だけ」


「理沙さんに止められますね」


「止められる」


「正しいです」


「春日くん、最近ほんと理沙さん側」


「舞台挨拶前なので」


「彼氏側は?」


 その問いに、悠真は少し考えた。


 彼氏側。


 これまでも何度も聞かれた。

 そのたびに、答えは少しずつ変わってきた気がする。


「彼氏側も、泣かずにちゃんと立ってほしいです」


 しらいさんは少し目を丸くした。


「泣いてほしいんじゃないの?」


「泣いてもいいです」


「うん」


「でも、白瀬アカリとして立ちたいなら、ちゃんと立ってほしいです」


「……」


「それで、終わったあとに戻ってきてくれたらいいです」


 しらいさんは、しばらく黙っていた。


 それから、少しだけ目元を赤くして笑う。


「春日くん、そういうこと言うようになった」


「前なら言えなかったです」


「うん」


「たぶん、引き止めることばかり考えてました」


「今は?」


「送り出すことも、少し覚えました」


 しらいさんはミルクティーのカップを両手で包む。


「それ、かなり大きい」


「そうですか」


「うん。私には大きい」


 彼女はカップを置いた。


 ことん。


「私も、春日くんを客席に送り出さなきゃ」


「客席に?」


「うん」


「どういうことですか」


「春日くん、たぶん当日、近さと遠さで混乱するでしょ」


「……すると思います」


「だから、普通のお客さんとして来てって言わなきゃいけない」


「はい」


「でも本当は、春日くんとして来てほしい」


「……」


「普通のお客さん。でも春日くん」


 昨日のメッセージと同じ言葉。


 悠真は、ゆっくり頷いた。


「分かりました」


「本当に?」


「はい」


「会場で変に探さない?」


「探しません」


「私がどこにいるかは舞台を見れば分かります」


「そうでした」


「逆に、私も探さない」


「お願いします」


「でも、いるとは思う」


「俺も、舞台にいると思います」


「うん」


 そこで二人とも黙った。


 沈黙の中に、数日後の会場の空気が少しだけ混じったような気がした。


    ◇


 服は、最終的にシンプルなニットと黒のパンツ、上に落ち着いたジャケットを羽織ることになった。


 しらいさんが、何度か悠真に合わせながら言った。


「これ」


「硬くないですか」


「硬すぎない」


「普通ですか」


「普通。でもちゃんとしてる」


「それは合格?」


「百点」


「採点早いですね」


「当日これで来て」


「分かりました」


「靴は?」


「そこまで見ます?」


「見る」


 結局、靴まで確認された。


 悠真は少し恥ずかしくなったが、しらいさんはかなり真剣だった。


「変に目立たないけど、ちゃんとしてる春日くん」


「注文が細かい」


「大事」


「はい」


「当日、私が見つけるわけじゃないけど」


「はい」


「でも、春日くんがそれで客席にいるって思えるの、ちょっと安心する」


 悠真は、服をハンガーにかけながら言った。


「俺も、この服で行くと思うと少し落ち着きました」


「よかった」


「出ましたね」


「出た」


 二人で少し笑った。


 そのあと、しらいさんは鞄から小さなハンカチを取り出した。


 青灰色に近い色の、端に白い刺繍が入ったもの。


「あれ、買ったんですか」


 以前、雑貨屋で少し迷っていたハンカチだった。


「買った」


「いつの間に」


「カードケース買ったあと、やっぱり気になって」


「春日くん用?」


「これは、私用」


「そうなんですか」


「でも、春日くんの部屋のコースターを思い出す用」


「それは結局かなり俺寄りでは」


「うん」


 しらいさんは少し照れたように笑った。


「舞台挨拶の日、これ持っていく」


「泣く用ですか」


「泣かない用」


「どういうことですか」


「これ持ってたら、泣かずに済むかもしれない」


「お守りみたいな」


「うん。お守り」


 悠真は、青灰色のハンカチを見つめた。


 マグカップ。

 コースター。

 カードケース。

 そして、ハンカチ。


 小さなものばかりが、二人を少しずつ繋いでいる。


「俺もハンカチ持っていきます」


「泣く用?」


「泣くかもしれない用」


「素直」


「映画なので」


「舞台挨拶でも?」


「そこは耐えます」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶん」


 二人でまた笑った。


    ◇


 帰る時間が近づいて、しらいさんはマグカップを洗った。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に戻す音。

 コースターを整える音。


 いつもの小さな儀式。


 それがあるだけで、舞台挨拶の緊張が少しだけ遠のく。


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「当日、普通のお客さんとして来て」


「はい」


「でも、春日くんとして来て」


「はい」


「変に背伸びしないで」


「はい」


「でも、適当にはしないで」


「注文が細かいですね」


「大事だから」


「分かっています」


 彼女は少しだけ笑った。


「私も、白瀬アカリとして立つ」


「はい」


「でも、心の中にしらいさんも連れていく」


「……はい」


「それでいい?」


「それがいいです」


 しらいさんは、少しだけ安心したように息を吐いた。


「じゃあ、今日は帰る」


「送ります」


「途中まで」


「はい」


 夜道を少しだけ一緒に歩く。


 人通りが少ない道で、しらいさんは小さく言った。


「普通でいるのって、難しいね」


「はい」


「でも、春日くんが客席に普通に座ってくれて」


「はい」


「私が舞台に普通に立てたら」


「はい」


「それ、かなりすごいことかも」


「そうですね」


「うん」


 彼女は鞄の中に手を入れ、カードケースのあたりに触れた。


「大丈夫」


「はい」


「たぶん」


「そこは、はいって言ってください」


「はい」


 しらいさんは少し笑った。


 分かれ道で、彼女は立ち止まる。


「明日の朝も写真」


「送ります」


「マグカップ」


「コースターの上」


「服も?」


「服もですか」


「一回だけ」


「分かりました」


「採点する」


「お願いします」


「知ってる」


 彼女は手を振って、夜の道へ歩いていった。


 悠真はその背中を見送りながら、胸の中で当日の客席を思い浮かべた。


 普通のお客さんとして。

 でも、春日悠真として。


 舞台の上には白瀬アカリ。

 心の中には、ただいまと言うしらいさん。


 普通でいるのは、きっと難しい。


 けれど、その難しさごと抱えて行こうと思った。

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