エピソード18 会えるやり方を考える夜は、前より少しだけ大人で、ちゃんと甘い
前の夜、河川敷で「前より少しだけ、ちゃんと考える」と約束してから、春日悠真はその言葉を何度も思い返していた。
考える。
外で会う場所。時間。人の目。
しらいさんが“しらいさん”でいられる余白と、白瀬アカリとして持っている現実の境目。
それは、付き合う前には見えていなかったものだ。
いや、見えてはいたのかもしれない。
ただ、好きだと認めて、実際に一緒にいたいと思うようになってから、急に重みを持って迫ってきた。
でも、不思議と重苦しくはなかった。
たぶん、しらいさんが「危ないから会わないほうに倒したくない」と言ってくれたからだ。
あの言葉が、悠真の中でずっと静かに残っている。
だったら、自分も同じ方向で考えたい。
無理を押し通すんじゃなくて、会えるやり方を探したい。
金曜の昼休み、スマホに短いメッセージが届いた。
『明日、昼なら動きやすいかも』
しらいさんからだった。
悠真はすぐに返信する。
『空いてます』
数秒後。
『人の少ない場所で、少しだけ』
それを読んで、自然に口元が緩んだ。
少しだけ。
でも会う。
そういう言い方が、今の二人にはちょうどいい気がした。
『どこがいいですか』
少し間があってから返ってきた。
『駅から二つ先の、小さい公園の温室みたいなとこ知ってる?』
悠真は少し考えて、すぐに思い当たった。
市営の植物園だ。
規模は大きくない。駅から少し歩くし、休日でも家族連れが中心で、都心の有名スポットみたいに人が密集することはない。温室や散策路があって、ベンチも多い。
『分かります』
『そこなら、少し歩いても目立ちにくいと思う』
その一文を見て、悠真はまた少しだけ胸が熱くなる。
彼女もちゃんと考えている。
会うことをやめないために、会える場所を探してくれている。
『いいですね』
『じゃあ明日、十三時。入口の券売機の前』
『行きます』
『知ってる』
最後のそれを見て、悠真は小さく笑った。
◇
土曜はよく晴れた。
植物園へ向かう電車の窓から見える空は高く、夏の色が完全に抜けて、秋の明るさに変わり始めていた。
昼間に会う約束は何度かした。
でも今日は少し違う。
“安全に会うための外”として、初めて選んだ場所だからだ。
悠真は、頑張りすぎない服を意識した。
黒のパンツに、薄いベージュのシャツ。上にライトグレーの軽いジャケット。
どこに出してもおかしくない。
でも、しらいさんが隣にいても浮かない。
たぶん、そのくらい。
植物園の最寄り駅は、中心部から少し外れた住宅街にあった。
改札を出ると、人通りはかなり穏やかで、ファミリーや年配の夫婦が少し歩いている程度だ。
駅から植物園までは五分ほど。道沿いには小さな花屋とパン屋があり、休日の昼らしいやわらかい匂いがする。
入口が見えてきた。
白い看板。
小さな券売機。
その前に、しらいさんがいた。
今日は薄いカーキのキャップに、アイボリーのシャツブラウス、くすんだネイビーのロングスカート。マスクはしているが、河川敷より少しきれいめで、休日の外らしい格好だ。
でも、日曜の待ち合わせや夜ごはんのときよりも、ちゃんと“人に紛れる”ことを意識しているのが分かった。
悠真が近づくと、彼女はすぐに気づいて目を細める。
「……来た」
「行きますよ」
「知ってる」
「最近その返し固定ですね」
「便利だから」
「便利だなあ」
そこまで言って、二人とも少しだけ笑う。
「今日」
しらいさんが言う。
「はい」
「ちょっとちゃんとしてる」
「何が」
「春日くん」
「それ、この前も言われましたよ」
「前より今日のほうが、もう少し」
「褒めてます?」
「一応」
「一応なんだ」
「でも、ちゃんとよかった」
「ならよかった」
「うん。……それ、口癖だけど今日はちょっと効く」
彼女はそう言って、券売機の前を少しだけ離れた。
悠真もその隣に立つ。
「じゃあ、入ります?」
「うん」
「チケット買います」
「半分出す」
「いいですよ」
「だめ」
「何で」
「前にごはん払ってもらってないし」
「いや、あれは次って話に」
「次はまた別」
「きっちりしてるなあ」
「こういうのはね」
結局、二人でそれぞれ自分の分を買った。
そういうところも、しらいさんらしい。
園内に入ると、空気が少し変わる。
木が多いせいか、街中より少しだけ涼しい。
砂利道の音。葉擦れ。遠くで子どもの笑う声。
人はいる。
でも、誰も他人をちゃんと見ていない。
「ここ、いいね」
しらいさんが小さく言う。
「思ったより」
「うん」
「人はいるけど、多くない」
「見られてる感じもしない」
「ですね」
「……春日くん」
「はい」
「今日、少しだけほっとしてる」
「よかった」
「うん。そういう意味の“よかった”」
それが何だか妙にうれしかった。
二人で温室のほうへ向かう。
背の低い木々に囲まれた小道を歩く。
並んで歩いても不自然じゃない。
でも、街中ほど近すぎる必要もない。
「こういうの、初めてかも」
悠真が言う。
「何が」
「“人の少ない外で会うために場所を選ぶ”っていうの」
「……」
「前は、会えるだけでよかったので」
「うん」
「でも今日は、ちゃんと考えてここに来た感じがする」
「……うん」
「それが何か、悪くないですね」
「悪くない?」
「はい。面倒ではありますけど」
「うん」
「その面倒ごと会うのも、付き合ってる感じする」
「……」
しらいさんは、それを聞いて少しだけうつむいた。
マスクの上からでも分かるくらい、目元がやわらぐ。
「今の」
「はい」
「かなり好き」
「最近その順位更新多いですね」
「だってちゃんと更新されてるから」
「そういうものなんだ」
「そういうもの」
温室の中は、外より少し湿っていた。
ガラス越しの光が白くやわらかい。
大きな葉を持つ植物や、色の濃い花が静かに並んでいて、話し声も自然と小さくなる。
二人はゆっくり見て回った。
植物の名前を読んで、どちらからともなく「へえ」と言う。
似たような葉っぱを見て「違い分からないですね」と笑う。
そういう、何でもない時間が心地いい。
「春日くん」
「はい」
「今日、河川敷と全然違うね」
「うん」
「でも、変じゃない」
「変じゃないですね」
「ちゃんと外なのに」
「人の少なさがいいのかも」
「うん。あと、春日くんが落ち着いてる」
「そうですか?」
「河川敷以外だと、たまに固い」
「……」
「何で黙るの」
「自覚あるので」
「今日はあんまりない」
「それは」
「うん」
「しらいさんが先に、ここなら大丈夫そうって言ってくれたからかも」
「……」
「その時点で、かなり安心しました」
「……そっか」
彼女はそこで少しだけ立ち止まり、大きな観葉植物の前でこちらを見た。
「私も」
「うん」
「春日くんが、考えるなら会えるやり方を考えたいって言ってくれたの、かなり残ってる」
「……」
「だから今日、ちょっと安心してる」
「……よかった」
「知ってる」
温室を出たあと、園内の奥にある小さなベンチで一度休むことにした。
近くに売店があり、二人で缶の紅茶とコーヒーを買う。
木陰のベンチは少し冷たく、でも座るにはちょうどいい。
「ねえ」
しらいさんが言う。
「はい」
「今日みたいなの、増やしてもいいかも」
「こういう場所ですか」
「うん。ちゃんと考えて、でもちゃんと会うやつ」
「いいですね」
「河川敷は河川敷で好きだけど」
「うん」
「外でも、こういう会い方ならちゃんと呼吸できる」
「……」
「春日くんは」
「俺も」
「うん」
「今までの“会えたらうれしい”とは少し違う感じします」
「違う?」
「はい」
「何ていうか」
「うん」
「付き合ってる二人が、ちゃんと会うために場所を選んでる感じ」
「……」
「それが妙にうれしいです」
「……それ」
「何ですか」
「今日、いちばんちょっとやばい」
「やばいんだ」
「うれしいって意味で」
しらいさんは缶の紅茶を両手で持ちながら、小さく笑った。
「春日くん」
「はい」
「私たぶん、前より安心して好きって思えてる」
「……」
「何か、危ないこともちゃんと考えたうえで、それでも会ってるから」
「うん」
「前より軽くない」
「……」
「だから、前より好きがちゃんとする」
「……」
その言葉を聞いて、悠真はしばらく何も返せなかった。
好きがちゃんとする。
それはたぶん、すごく大事なことだ。
「俺もです」
悠真はようやく言った。
「うん」
「前より、ちゃんと好きです」
「……」
「会いたいだけじゃなくて」
「うん」
「どうやって会うかも考えて、それでも会いたいって思ってるので」
「……」
「だから前より、ちゃんとしてる気がします」
「……そっか」
彼女はほんの少しだけ目を伏せて、それからまたこちらを見た。
「春日くん」
「はい」
「今日、手」
「手?」
「いい?」
「……はい」
今度は、河川敷ではなく、昼の外だ。
周りには人もいる。
でも少し離れたベンチで、誰もこちらを気にしていない。
彼女はそっと手を伸ばしてきた。
悠真も、それを自然に受ける。
前より落ち着いている。
それでも、少しだけ心臓はうるさい。
「どう?」
しらいさんが小さく聞く。
「何が」
「今日の感じ」
「……かなりいいです」
「かなり?」
「かなり」
「……よかった」
その“よかった”は、今日は彼女のほうが言った。
二人で少しのあいだ、何も言わずに座っていた。
葉擦れの音。
遠くで子どもが走る足音。
外なのに、ちゃんと静かだ。
悠真はふと思う。
こういう時間を、前は想像できなかった。
河川敷の夜だけが、自分たちのための場所だと思っていた。
でも今は違う。
工夫すれば、考えれば、ちゃんと会える場所がある。
それが、少しだけ未来みたいに感じた。
「ねえ」
しらいさんが言う。
「はい」
「また探そうか」
「何を」
「こういう場所」
「いいですね」
「人が少なくて、でも不自然じゃなくて」
「うん」
「ちゃんと外の二人でいられるとこ」
「……」
「春日くんと」
「……はい」
その“はい”には、自然に力がこもった。
しらいさんは少しだけうれしそうに目を細める。
「じゃあ、次は春日くんも一個考えて」
「場所ですか」
「うん」
「分かりました」
「ちゃんと」
「ちゃんと考えます」
「うん。……そういうの、好き」
結局、植物園には一時間半ほどいた。
長すぎず、短すぎず。
無理をしない。でも足りなくもない。
それもまた、今の二人にちょうどよかった。
帰り道、駅まで並んで歩く。
「今日、どうだった?」
悠真が聞く。
「かなりよかった」
「かなり」
「うん。危ない感じより、安心のほうが大きかった」
「よかった」
「知ってる」
「便利だなあ」
「便利なんだってば」
少しだけ笑う。
そのあと、彼女はふと真面目な声で言った。
「春日くん」
「はい」
「今日ので、ちょっと自信ついた」
「何に」
「会えるやり方、ちゃんと増やせるかもって」
「……」
「河川敷だけでも、外だけでもなくて」
「うん」
「私たちなりの会い方」
「……いいですね」
「うん」
「それ、かなりいいです」
「……そっか」
駅の改札前で立ち止まる。
人はいる。
でも前みたいに、そこが怖いだけの場所ではなくなっていた。
「また連絡する」
しらいさんが言う。
「はい」
「河川敷も行く」
「うん」
「でも、こういうのもやめない」
「待ってます」
「知ってる」
彼女は少しだけ迷ってから、最後に言った。
「今日、来てくれてありがとう」
「行きますよ」
「うん」
「これからも」
「……うん」
その“これからも”の響きが、やけにやわらかかった。




