エピソード19 安心し始めたころのすれ違いは、小さいのに思ったより刺さる
付き合ってから一週間ほどが過ぎると、春日悠真はようやく、自分たちなりのリズムみたいなものが見え始めていた。
河川敷で会う夜。
途中で呼ばれる平日。
人の少ない外で少しだけ過ごす休日。
全部が毎回同じではない。
でも、会いたいと思ったときに、会うための方法を二人で考えられるようになってきた。
そのこと自体が、前よりずっと安心できる材料になっている。
しらいさんから届く短いメッセージも、前より自然だった。
『今日、ちょっと疲れた』
『河川敷行く?』
『行きます』
『知ってる』
そういうやり取りが、もう少しだけ当たり前になり始めていた。
だからこそ、ほんの少しのズレが思っていた以上に刺さるのだと、悠真はこのときまだ知らなかった。
◇
水曜日の昼休み、悠真は珍しく会社の休憩スペースで一人コーヒーを飲んでいた。
午前中の仕事が少し詰まっていて、外へ買いに行く余裕がなかったのだ。
窓際のカウンター席に紙コップを置き、スマホを見る。
しらいさんから、朝に一通だけメッセージが来ていた。
『今日、ちょっとバタつくかも』
それに対して悠真は、
『了解です。無理しないでください』
と返している。
既読はついていた。
でも、それ以降は何も来ていない。
別におかしなことではない。
仕事が忙しいのだろう。
前なら、それで終わっていた。
でも、付き合ってからの今は少し違う。
“ちょっとバタつく”が、どのくらいなのか。
今日会えるのか。
途中で少しだけでも顔を見られるのか。
そういうことを、つい考えてしまう。
「春日」
三崎が紙パックのジュースを持って現れる。
「何」
「またスマホで静かに人生してる」
「その日本語おかしいだろ」
「で、今日は会えるの?」
「何が」
「もうその返し飽きた」
「知らないよ」
「知らない、なんだ」
「今日は向こうが忙しいらしい」
「ほう」
「ほう、じゃない」
「いや、お前がちゃんとそういう話するようになったなと思って」
「してない」
「してる。かなり」
三崎は隣の席に腰かけた。
「でも」
「何」
「慣れてきたころが一番危ないぞ」
「何の話だ」
「恋愛っぽいやつ全部」
「経験者でもないのに語るな」
「漫画で見た」
「またそれか」
「でもさ、付き合った直後って、何でも確認するだろ」
「……」
「少し慣れると、分かってくれる前提で飛ばすようになる」
「……」
「で、そこで勝手にすれ違う」
悠真は思わず三崎の顔を見た。
「何その、妙にそれっぽい話」
「だから漫画」
「薄いな」
「でも今のお前、ちょっと刺さった顔した」
「してない」
「してる」
三崎はそれだけ言って立ち上がった。
紙パックを振りながら、振り向きもせずに言う。
「まあ、会えたらちゃんと話せよ」
「お前に言われたくない」
「でも当たるときは当たるぞ、俺」
それが少しだけ腹立たしかった。
◇
その日の仕事は、結局かなり押した。
悠真のほうも忙しかった。
夕方以降に修正依頼が二件重なり、上司の確認待ちで一つ止まり、終わったのは二十一時近い。
スマホを見る余裕もなく、ようやく会社を出てから画面を開く。
通知は、ない。
朝の一通だけ。
それ以降、何も来ていない。
少しだけ胸の奥が冷える。
たぶん疲れているだけだ。
仕事が立て込んでいて、連絡できないだけ。
そう分かっているのに、分かっているからこそ妙に落ち着かない。
自分でも面倒くさいなと思う。
でも、一度“ちゃんと会う”ことが当たり前になり始めると、会えない日の無音は思っていたより広く感じる。
駅前のコンビニで水だけ買って、しばらく立ち尽くす。
河川敷へ行くか。
でも、今日は向こうから何も言っていない。
勝手に行っていいのか。
いや、前なら行っていた。
でも今は付き合っている。だからこそ、勝手に押しかけるみたいなのは違う気もする。
結局、悠真はそのまま家へ帰った。
帰宅して、シャワーを浴び、適当に夕飯を済ませても、まだスマホが気になる。
テーブルの上に置いたまま、何度も視界に入る。
二十二時四十分。
ようやく画面が光った。
『ごめん、今終わった』
しらいさんだった。
短い。
でも、その一文だけで一気に安堵が広がる。
同時に、少しだけ苛立ちに似たものも浮く。
心配していた分、その反動みたいなものだ。
悠真はすぐに返す。
『おつかれさまです。大丈夫ですか』
数秒後。
『たぶん』
それだけ。
いつもなら、その曖昧さを“しらいさんらしい”と思って終われたかもしれない。
でも今日の悠真は、少しだけ余裕がなかった。
『今日は会えない感じですか』
送ってから、少しだけ強かったかもしれないと思う。
でももう遅い。
既読がつく。
返信は、少し間が空いた。
『今日は無理かも』
それを見た瞬間、胸の奥がすうっと冷える。
無理かも。
その一言自体は何も悪くない。
悪いのはたぶん、自分が勝手に期待していたことだ。
なのに、指は先に動いた。
『分かりました』
かなりそっけない。
送ってから、それが分かる。
でも、取り消せない。
スマホを伏せる。
テーブルの上の木目を、しばらくぼんやり眺めた。
数分後、また通知が鳴る。
『春日くん』
悠真はすぐには開かなかった。
でも結局、十秒も経たずに開いてしまう。
『怒った?』
その一文を見て、少しだけ息が止まった。
怒った、わけではない。
いや、ほんの少しだけ、そういうものに近かったかもしれない。
でも本質はたぶん違う。
期待して、待って、勝手に少し寂しくなって、それをうまく処理できなかっただけだ。
悠真はしばらく考えてから打つ。
『怒ってはないです』
送る。
すぐ既読がつく。
『じゃあ、ちょっとさみしかった?』
直球だった。
しらいさんはこういうとき、妙にまっすぐだ。
逃げ道を作るくせに、いざとなると核心だけは外さない。
悠真は、観念して打つ。
『……少し』
数秒後。
『私も、返せなくてずっと気になってた』
『今日は本当に、スマホ見る余裕なくて』
『でも春日くんにちゃんと言えてなかった』
そこまで来て、悠真の中の固さが少しずつほどけていく。
自分だけじゃなかった。
向こうも向こうで、気にしていたのだ。
『ごめん』
しらいさんから、さらに続く。
『朝の“バタつく”で済ませたから、春日くん待つよね』
その一文が、三崎の昼の話を思い出させた。
分かってくれる前提で飛ばす。
そこで勝手にすれ違う。
悠真は思わず苦笑した。
腹立たしいが、妙に当たっている。
『俺もごめん』
『勝手に待って、勝手にちょっと拗ねました』
送ると、すぐ返事が来た。
『拗ねたんだ』
『少しだけ』
『……それ、ちょっとかわいい』
その一文に、悠真は思わず顔を覆う。
こういうときまで、その言い方はずるい。
『今はかわいいって言わないでください』
『何で』
『心の整理が追いつかないので』
『じゃあ今度会ったとき言う』
『もっとだめです』
『だめじゃない』
やり取りが少しずついつもの調子に戻る。
でも、そこに今日のすれ違いの手触りはちゃんと残っていた。
『春日くん』
『はい』
『次から、会えないときはちゃんと言う』
『“無理かも”じゃなくて、ちゃんと』
悠真は、それを見て少しだけ息を吐く。
『俺も、勝手に待って勝手にへこむ前に聞きます』
『うん』
『付き合ったんだから、そのへんもちゃんとしよう』
既読がつく。
少し長めの間。
それから返ってきた。
『今の、かなり好き』
『今日それ何回目ですか』
『今日は一回目』
『ならセーフです』
『基準が分からない』
そのあと、少しだけ通話する? という流れになった。
しらいさんからの提案だった。
『声、少しだけ聞く?』
たったそれだけなのに、妙に胸が鳴る。
付き合ってから、通話はまだ一度もしていなかった。
『いいんですか』
『少しだけなら』
すぐに着信が来る。
悠真は、深呼吸してから通話ボタンを押した。
「……もしもし」
最初に聞こえたしらいさんの声は、普段より少しだけ低くて、疲れていた。
「もしもし」
「起きてた」
「それはさすがに」
「そっか」
少しだけ間がある。
メッセージとは違う沈黙だ。
声があるだけで、距離が急に近くなる。
「今日」
しらいさんが言う。
「はい」
「ごめんね」
「……」
「変に気を持たせたわけじゃないんだけど、でもたぶん、持たせたよね」
「少しだけ」
「うん」
「俺も、聞き方ちょっとだめでした」
「どのへん」
「“今日は会えない感じですか”のへん」
「……ちょっとだけ、しゅんとした」
「すみません」
「でも、ちょっとだけだから」
「俺も、返信の“分かりました”でだいぶ固くなりました」
「それは分かった」
「分かるんだ」
「分かるよ。春日くん、文字だとたまに分かりやすすぎる」
その言い方が少しおかしくて、悠真は笑った。
しらいさんも、少し遅れて笑う。
「ねえ」
彼女が言う。
「はい」
「こういうの、たぶんこれからもあると思う」
「……」
「会えない日とか、急に予定変わる日とか」
「うん」
「そのたびに変に遠くなるの、やだ」
「俺もです」
「だから」
「うん」
「今日みたいなの、ちゃんとその日のうちに戻したい」
「……はい」
「春日くんも、拗ねたら言って」
「それ、だいぶ難しいですよ」
「でも今日言った」
「言わされました」
「同じこと」
「ずるいなあ」
「知ってる」
その“知ってる”は、通話だと少しだけ甘かった。
「しらいさん」
「何」
「今、かなり会いたいです」
「……」
「何ですか」
「そういうの、声で言うんだ」
「本音なので」
「……私も」
小さく、でもはっきりそう返ってくる。
「明日」
彼女が言う。
「はい」
「少しだけでも会う?」
「……」
「河川敷、行けると思う」
「行きます」
「知ってる」
「その返し好きですね」
「便利だから」
「便利だなあ」
「便利なんだってば」
そこでまた、二人とも少しだけ笑った。
十分ほどで通話は終わった。
短かった。
でも、切れたあと部屋の空気が少し違って感じられるくらいには、ちゃんと近かった。
スマホを置いて、悠真はひとつ息を吐く。
小さいすれ違いは、思っていたより刺さる。
でも、そのぶんちゃんと戻し方を覚えていけるなら、たぶん悪いことばかりじゃない。
好きでいることは、ただ会ってうれしいだけじゃない。
会えなかった日の沈黙とか、連絡の温度差とか、そういうものまで含めて少しずつ調整していくことなのかもしれない。
それを、今日ちゃんと知れた気がした。




