エピソード17 付き合った最初の危うさは、河川敷の外から静かに近づいてくる
付き合ったあとの最初の数日は、少し不思議なくらい穏やかだった。
春日悠真は、朝起きてスマホを見るたびに、その穏やかさがちゃんと現実なのだと確かめる。
しらいさんから届く短いメッセージ。
昼休みにふいに来る、「今日しんどい」「でも少し元気」「今、甘いの食べたい」といった、他愛ないようでいて以前よりずっと近い言葉たち。
大きな変化はない。
河川敷に行けば会う。
途中で呼ばれれば行く。
外でごはんや寄り道の約束をする。
ただ、その一つ一つに“好きな人と会う”という意味がついた。
だからこそ、少しずつ見えてくるものもある。
それは、うれしさの延長線にある、ほんの少しの危うさだった。
◇
木曜の夜、悠真はいつもより少しだけ早く会社を出られた。
上司の機嫌がよかったのか、先輩の修正が少なかったのか、それとも自分が最近少しだけ仕事に慣れてきたのか。理由ははっきりしない。
でも、時計が八時前を指しているだけで、今日は少し勝った気がする。
スマホを見ると、しらいさんからメッセージが入っていた。
『今日、河川敷行けそう』
『俺も行けます』
送ると、すぐに既読がつく。
『じゃあ、少しだけ早く着くかも』
『分かりました』
それだけで、足取りが少し軽くなる。
駅前のコンビニで、いつものように何か買おうとして、今日は小さなチョコ菓子にした。
河川敷に着く頃には少し冷えているだろう。温かいカフェラテも一本買う。
付き合ったあとも、自分たちのやることは案外変わらない。
それが妙にうれしい。
坂道を下りる。
夜風は少しだけ乾いていて、秋の気配が濃くなってきていた。
ベンチには、しらいさんがいた。
黒いキャップ。
黒いパーカー。
足元にはコンビニ袋。
そして今日は、缶チューハイではなく小さな缶コーヒーを持っている。
「早い」
しらいさんが言う。
「そっちこそ」
「今日は終わるの少し早かった」
「よかったです」
「またそれ言う」
「口癖なので」
「知ってる」
彼女は小さく笑って、ベンチの空いたほうへ視線を向けた。
悠真はその隣に座る。
以前なら少しだけ空けていた距離が、今は自然と狭くなっていた。
意識している。
でも、それをわざわざ調整しなくてもよくなったことが、まだ少しだけくすぐったい。
「これ」
悠真はコンビニ袋を差し出す。
「何」
「チョコ」
「……今日、かわいい」
「何がですか」
「買ってくるもの」
「だめでした?」
「だめじゃない。かなりいい」
「ならよかった」
「だからそれ、好き」
彼女は袋を開けて、チョコを一粒口に入れた。
それから、少しだけ目を細める。
「ねえ」
「はい」
「最近、ちょっとだけ落ち着いてきた気がする」
「何がですか」
「付き合ったあとの感じ」
「……」
「最初の河川敷は心臓うるさかったけど」
「かなり」
「私も」
「うん」
「でも今は、ちゃんとここに戻ってきた感じ」
「分かります」
「うん。好きな人といるのに、ちゃんと河川敷でもある」
「その言い方、いいですね」
「いい?」
「はい。好きな人といるのに、ちゃんと河川敷」
「……それ」
「何ですか」
「今の、かなりよかった」
彼女はそう言って、少しだけ肩を寄せる。
ほんの少し。
でも、それで十分に近い。
「春日くん」
「はい」
「今日、途中でちょっと変なことあった」
「変なこと?」
「うん」
その声の調子で、悠真は少しだけ姿勢を正した。
さっきまでの柔らかい空気が、ほんの少しだけ変わる。
「何かあったんですか」
「仕事終わり、駅のほうで」
「うん」
「“白瀬さんですよね?”って声かけられた」
「……」
「一人の女の子に」
「……大丈夫だったんですか」
「うん。マスクしてたし、“違います”で通した」
「……」
「でもちょっと、びっくりした」
悠真の胸の奥が、少しだけ冷える。
今までだって、分かっていた。
しらいさんは普通の人じゃない。
外で会うときには、ちゃんとそれなりの危うさがある。
でも、こうして具体的な形で近づいてくると、急に現実味を帯びる。
「怖かったですか」
悠真が聞く。
「怖いっていうより」
「うん」
「思ったより近いなって思った」
「近い」
「そう。外で会う場所って、ちょっと間違えると、春日くんが一緒にいるときでも普通に起こるんだなって」
「……」
「それで、少しだけ考えた」
しらいさんは缶コーヒーを両手で持ちながら、前を向いたまま言う。
「私たち、付き合ったけど」
「うん」
「何でも自由に外で会えるわけじゃないんだよね」
「……」
「分かってたけど、ちゃんと実感した」
その言葉は、痛いほどもっともだった。
好きだと認めた。
付き合っている。
それでも、彼女が誰かであることは消えない。
人気女優・白瀬アカリであることも、その人が“しらいさん”でいられる時間が限られていることも、急になくなったりはしない。
「……ごめん」
悠真は、思わずそう言っていた。
「何で春日くんが謝るの」
「いや」
「うん」
「何か、俺……」
「何」
「付き合えたのうれしくて、そのへん少し軽く考えてたかもしれない」
「……」
「外でも会えるとか、途中で呼ばれるとか、それがうれしいほうに引っ張られて」
「……」
「ちゃんと危ないこともあるって、今改めて思いました」
しらいさんはしばらく黙っていた。
それから、小さく笑う。
「春日くん」
「はい」
「そういうとこ、好き」
「……」
「ちゃんとそこで自分のうれしさだけじゃなくなるとこ」
「でも」
「うん」
「少し、甘かったです」
「私もだよ」
「……」
「付き合えたの、うれしかったから」
「……」
「春日くんと、前より自由に会える気がしてた」
「……」
「でも自由ってわけじゃない。そこはちゃんと考えないと」
風が吹く。
河川敷の草が揺れて、少しだけ乾いた音を立てる。
悠真は、しばらく何も言えなかった。
彼女の隣に座っているのに、少しだけ遠さを感じる。
物理的な距離じゃない。
今さら思い知らされる、“住んでいる世界の違い”みたいなものだ。
「春日くん」
しらいさんが言う。
「はい」
「今、変なこと考えたでしょ」
「……」
「何」
「いや」
「何」
「やっぱり、遠いんだなって」
「……」
「そういうの、少し思いました」
「……そっか」
彼女は、少しだけ視線を落とした。
そして、缶コーヒーをベンチの上に置いてから、静かに言う。
「遠いよ」
「……」
「たぶん、そういう意味では普通の子よりめんどくさい」
「……」
「外で会う場所も考えないといけないし、誰かに見られたら困ることもあるし、急に会えなくなる日もあるかもしれない」
「……」
「春日くんが考えた“付き合う”より、少し面倒だと思う」
「……うん」
「でも」
「……」
「それでも、好きなのやめる気ない」
その言葉は、静かだった。
でも、何より強かった。
悠真は息を止める。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「私」
しらいさんは続ける。
「春日くんと会うの、ちゃんと大事だから」
「……」
「だから、危ないことも考える」
「……」
「でも、危ないからって会わないほうに倒したくない」
「……」
「春日くんは?」
問い返されたとき、悠真はもう迷わなかった。
「俺もです」
「……」
「遠いとか、面倒とか、そういうのあるのは今日ちゃんと分かりました」
「うん」
「でも」
「うん」
「それでやめる理由にはならないです」
「……」
「考えるなら、会えるやり方を考えたい」
「……」
「河川敷でも、外でも、途中でも」
「……」
「しらいさんと」
彼女は、そこでようやく少しだけ目元をやわらげた。
「……うん」
「うん」
「今の、かなりちゃんとほしかったやつ」
「ならよかった」
「知ってる」
少しだけ笑う。
でも、さっきまでとは違う笑い方だった。
甘さだけじゃなくて、少しだけ現実を見たあとの笑い方。
「じゃあ」
しらいさんが言う。
「はい」
「約束しよう」
「何を」
「前より少しだけ、ちゃんと考える」
「……」
「外で会う場所も、時間も」
「うん」
「呼ぶときも、前より少しだけ気をつける」
「……」
「でも、ちゃんと会う」
「……」
「逃げない」
悠真は、ゆっくりうなずいた。
「はい」
「うん」
「俺も、ちゃんと考えます」
「うん」
「でも、会うのはやめない」
「……うん」
「しらいさんのこと、好きなので」
「……」
彼女はそれを聞いて、ほんの少しだけ目を閉じるみたいに笑った。
「そういうの」
「うん」
「今は刺さるより、落ち着く」
「……そっか」
「うん。たぶん、ちゃんと一緒に考えてくれるって分かったから」
その言葉で、さっきまで胸の内側にあった冷たさが少しだけほどける。
現実は消えない。
彼女が“しらいさん”でいられる時間に限りがあることも、外に出れば別の顔を持っていることも、これから先ずっとついて回るのだろう。
でも、その現実ごと一緒に考えていけるなら。
それはきっと、ただ遠いだけじゃない。
「春日くん」
「はい」
「今日は、手」
「手?」
「つなぐ」
「……」
「嫌?」
「嫌じゃないです」
「じゃあ」
彼女は、前と同じように静かに手を差し出した。
悠真はその手を取る。
前より、少しだけしっかり。
でも強すぎないくらいに。
「今のほうが、前より落ち着く」
しらいさんが言う。
「何で」
「さっきまで、ちょっと遠かったから」
「……」
「でも今は、ちゃんと春日くん」
「俺もです」
「うん」
河川敷の夜は、相変わらず静かだった。
でも今日は、前より少しだけ大人しい静けさだった。
浮かれているだけでは越えられないものがある。
それを知ったあとで、それでも一緒にいたいと思う。
たぶん、そのほうが少しだけ強い。
「次の外は」
悠真が言う。
「うん」
「人の少ないとこにしましょう」
「うん」
「あと、時間ももう少し考える」
「うん」
「でも、どこか行きたいです」
「……」
「何ですか」
「その“でも”が好き」
「ならよかった」
「知ってる」
二人で少しだけ笑う。
そのあとの河川敷は、前みたいに甘いだけではなかった。
でも、悪くなかった。
むしろ、前よりちゃんと現実の上に立っている感じがして、しらいさんの横顔も前より近く思えた。
帰る前、彼女は手を離したあとで、小さく言う。
「春日くん」
「はい」
「今日、会ってよかった」
「俺もです」
「うん。……ちょっとだけ怖かったから」
「……」
「でも、ちゃんと話せてよかった」
悠真はうなずく。
「次も、ちゃんと話しましょう」
「うん」
「面倒でも」
「うん」
「会うのはやめないで」
「やめません」
「……うん」
その返事に、彼女は少しだけ安心したように笑った。




