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河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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エピソード16 付き合ったあとの河川敷は、同じ景色なのに少しだけ世界が違う

 告白をして、気持ちに名前をつけた次の日は、拍子抜けするくらい普通に始まった。


 月曜日。

 朝の満員電車。

 コンビニのレジ前の列。

 会社のビルに入るときの、まだ少し冷たい自動ドアの風。

 何もかもがいつも通りだ。


 なのに、春日悠真の中だけがまるで違っていた。


 スマホの画面を見れば、昨夜のやり取りが残っている。


『帰れた?』


 しらいさんから、別れて三十分もしないうちに届いたメッセージ。


『帰れました』


 悠真が返す。


『私も帰れた』


『よかったです』


『うん。あと』


『はい』


『今日のこと、夢じゃなかったよね』


 その一文を見た瞬間、悠真は部屋の中で一人、かなり長い時間スマホを見つめてしまった。


『夢じゃないです』


『よかった』


 それだけのやり取りだった。

 でも、そのたった数文字で昨日のことが何度でも現実になる。


 付き合った。

 しらいさんと。

 河川敷で缶チューハイを飲んでいた、どう見ても人気女優なのに本人だと認めなかった地味なお姉さんと。

 今はもう、その人が“好きな人”ではなく、“付き合っている相手”になった。


 その事実だけで、世界の見え方が少しだけ変わる。


「春日」

 デスクに座って十分もしないうちに、三崎がやって来た。

「何」

「今日のお前、顔が静かにうるさい」

「意味が分からない」

「いや、浮かれてるやつってもっと分かりやすくふわふわするだろ」

「知らない」

「お前は逆だな。静かに顔面の空気が違う」

「嫌な観察眼してるな」

「で?」

「で?」

「進展あった?」

「……」

「その沈黙は、あったな」

「お前、ほんと面倒だな」

「付き合った?」

「……っ」

「うわ、図星」

「声でかい」

「おめでとう」

「まだ確定で言ってないだろ」

「今の反応で十分だわ」


 三崎は勝手に満足した顔をして、自分の席へ戻っていった。

 腹立たしい。

 でも、怒る気にもなれなかった。


 付き合った、という言葉を他人に向かって初めて意識したせいか、胸の中でその事実がもう一段深く沈んでいく感じがした。


    ◇


 その日一日、悠真は仕事中に何度かぼんやりした。


 もちろん手は動かす。

 メールを返し、資料を修正し、確認を取り、電話にも出る。

 でも、ふとした瞬間に昨夜のことが頭をよぎる。


 橋の手前の遊歩道。

 “好き”という言葉。

 少し照れたしらいさんの顔。

 “好きな人として”と言われたときの、胸の奥に広がった静かな熱。


 昼休みにスマホを見ると、メッセージが一つ届いていた。


『今日、河川敷行く?』


 短い。

 でも、それだけで口元が少しゆるむのが自分でも分かった。


『行きます』


 送ると、すぐに既読がつく。


『私も行く』


 その一文が、昨日までと少し違って見えた。

 会う。

 それがもう“偶然”でも“ついで”でもなく、今はもっとはっきりした約束としてそこにある。


    ◇


 夜。

 会社を出たのは八時を少し回ったころだった。


 駅前のコンビニで、いつものように何かを買おうとして、少し迷う。

 付き合う前と同じように、何か小さなお菓子でも買えばいいのか。

 それとも今日は手ぶらのほうがいいのか。


 結局、しらいさんが好きな小袋のミックスナッツと、自分用の水、それから彼女の分の温かいレモンを一本買った。

 あまり変えすぎるのも違う気がした。

 たぶん、今の自分たちにはそのくらいがちょうどいい。


 河川敷へ続く坂道を下りる。

 夜風は冷たすぎず、でももう夏の終わりを感じる温度だった。


 ベンチが見える。

 そこに、いつものようにしらいさんがいた。


 黒いキャップ。

 黒いパーカー。

 膝の上には缶チューハイ。


 見慣れた光景だ。

 でも、見慣れているのに、今日はやっぱり少し違う。


 悠真が近づくと、彼女は顔を上げて、少しだけ笑った。


「……来た」

「行きますよ」

「知ってる」

「その返し、最近好きですね」

「便利だから」

「便利だなあ」

「便利なんだってば」


 そこまで言って、二人とも少しだけ笑う。


 笑う。

 たったそれだけなのに、昨日までとは少し違う。

 もう“何でもないふり”をするための笑いじゃない。

 ちゃんと好きだと知っている相手に向ける笑い方だ。


「こんばんは」

 悠真が言う。

「こんばんは」

 しらいさんが返す。


 その声のやわらかさが、昨日よりずっと近い。


 悠真はベンチに腰かけた。

 いつもの位置。

 少しだけ距離を空ける。

 でも今日は、その距離が妙に中途半端に感じる。


「……何」

 しらいさんが先に言った。

「何がですか」

「今、距離測ってたでしょ」

「そんなに分かりやすかったですか」

「かなり」

「いや」

「うん」

「付き合ったあと最初の河川敷なので」

「……うん」

「ちょっと、いつも通りの距離感が分からないなと」

「……私も」

「そっちもなんだ」

「そりゃそうでしょ」


 彼女は缶を膝の上で転がしながら、少しだけ視線を逸らした。


「昨日までは」

「うん」

「近いって言っても、まだちょっとごまかせたけど」

「……」

「今日は、近かったら“近い”になるし、遠かったら“遠い”になる」

「難しいですね」

「難しい」

「どうします?」

「……そのままでいいんじゃない」

「そのまま?」

「今、ちょっとぎこちないのも含めて」


 それは確かに、しらいさんらしい答えだった。


「分かりました」

「素直」

「今日はそういう日なので」

「……うん」


 悠真はコンビニ袋を差し出す。


「これ」

「何」

「温かいレモン」

「……」

「何ですか」

「付き合って最初の差し入れがそれなんだ」

「だめでした?」

「だめじゃない」

「ならいいでしょう」

「……むしろ、かなりうれしい」

「ならよかった」

「ほら、またそれ」

「口癖なので」

「知ってる」


 彼女はレモンのボトルを受け取って、両手で包む。

 その仕草は前と同じなのに、今日見ると少しだけ意味が違う。


「春日くん」

「はい」

「今日、一日変だった」

「……」

「仕事してても、ちゃんとできてるのに、どこか浮いてる感じ」

「分かります」

「分かる?」

「かなり」

「……そっか」

「昨日のこと、何回も思い出しました」

「……」

「何ですか」

「今の、地味にうれしい」

「地味に?」

「かなり、の一個手前くらい」

「細かいなあ」

「今日はそういうの細かくなる日」


 風が吹く。

 川面の暗さが少しだけ揺れる。


「ねえ」

 しらいさんが言う。

「はい」

「付き合ったあとって、もっと劇的に変わるのかと思ってた」

「劇的」

「うん。何か、空気が全部違うとか」

「……」

「でも、河川敷は河川敷なんだね」

「そうですね」

「同じベンチで、同じ風で、私が缶持ってて、春日くんが何か差し入れ持ってくる」

「いつも通りだ」

「うん。でも」

「でも?」

「その“いつも通り”が、すごく特別に見える」


 その言葉は、悠真にもよく分かった。


 同じ景色なのに、世界が違う。

 昨日までと何も変わらないものまで、少しだけ意味を持って見える。


「俺もです」

「うん」

「河川敷、変わってないのに」

「うん」

「今日ここ来るの、待ち合わせって感じがもっと強かった」

「……」

「来たら、しらいさんいて」

「うん」

「それだけで、かなりうれしかったです」

「……」


 しらいさんは缶ではなく、温かいレモンのほうに口をつけた。

 ひと口飲んでから、少しだけ目を細める。


「……今の」

「はい」

「かなり」

「かなり?」

「かなり、うれしいやつ」

「ならよかった」

「知ってる」


 二人で小さく笑う。


 沈黙が落ちても、今日は前みたいに“次の言葉を探す沈黙”ではなかった。

 ただ一緒にいることが、そのまま意味になるような静けさだった。


「春日くん」

「はい」

「一個、いい?」

「何ですか」

「……手」


 言ってから、彼女は少しだけうつむく。


「何ですか、それ」

「いや」

「うん」

「付き合ったんだから、こういうのも、たぶんそのうち普通になるんだろうなって思ったら」

「……」

「最初、河川敷がいいかなって」

「……」

「嫌ならいい」

「嫌じゃないです」

「早い」

「それはもういいでしょう」

「……うん」


 悠真は、少しだけ息を整えてから、自分の右手をベンチの上に置いた。

 しらいさんの左手が、少し迷ってから近づいてくる。


 触れる。

 指先が少しだけ触れて、それから、ちゃんと手が重なる。


 握る、というほど強くはない。

 でも、確かに触れている。


 夜風よりも、その温度のほうがずっとはっきり分かった。


「……」

「……」


 二人とも、しばらく何も言えなかった。


「春日くん」

「はい」

「今、心臓うるさい?」

「かなり」

「私も」

「……そっか」

「うん」


 彼女は小さく笑った。

 その笑い方が、河川敷で見るどの笑い方よりも少しだけ甘かった。


「何か」

 悠真が言う。

「うん」

「付き合ったんだなって、今ちょっと実感しました」

「遅い」

「今までは言葉だったので」

「今は?」

「かなり現実です」

「……私も」


 手をつないだまま、しばらく二人で川を見た。

 流れの音はしない。

 でも、夜の気配が静かに続いている。


「ねえ」

 しらいさんが言う。

「はい」

「今までの河川敷、嫌いじゃなかった」

「俺もです」

「うん。でも」

「でも?」

「これからの河川敷、もっと好きになりそう」

「……」

「春日くんといるなら」


 悠真は、握っていた手に少しだけ力を込めた。

 強すぎないように。

 でも、ちゃんと伝わるくらいには。


 しらいさんも、少しだけ握り返してきた。


「俺もです」

「うん」

「これからの河川敷、かなり好きになりそう」

「かなり?」

「かなり」

「……よかった」


 しばらくして、彼女は少しだけ名残惜しそうに手を離した。

 離れた瞬間、夜風がやけに冷たく感じる。


「今日はこれくらいが限界」

「分かります」

「何か、それ以上やると心臓に悪い」

「俺もです」

「……そっか」


 彼女は缶チューハイをようやく開けた。

 ぷし、と軽い音がして、いつもの河川敷の音の一つになる。


「春日くん」

「はい」

「次から、河川敷でも手つなぐ?」

「さらっと聞きますね」

「だって、確認しとかないと」

「……いいですよ」

「即答」

「好きなので」

「……」

「何ですか」

「付き合ったあと、それ言われるの破壊力上がってる」

「そういうものなんですね」

「そういうもの」


 また少し笑う。


 帰る時間が近づいても、今日は妙に落ち着いていた。

 次があると分かっているからだ。

 河川敷も、外も、途中の寄り道も、もう全部続いていく。


 土手の上で別れる前、しらいさんは少しだけこちらを見上げる。


「春日くん」

「はい」

「今日の河川敷、どうだった?」

「かなりよかったです」

「かなり」

「付き合ったあとの最初としては、満点では」

「満点なんだ」

「かなり」

「……そっか」


 彼女は満足そうに、ほんの少しだけ笑った。


「じゃあまた」

「はい」

「次は、もう少し普通にできるかな」

「どうでしょう」

「できない?」

「たぶんしばらくは無理かと」

「……それもいいかも」

「いいんだ」

「春日くんとなら」


 その言葉を残して、彼女は歩いていく。


 同じ夜。

 同じ河川敷。

 同じベンチ。


 なのに、自分の中の世界だけが少しずつ塗り替わっていく。

 そして、それはたぶん彼女の中でも同じなのだろう。

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