エピソード15 日曜、やっと名前をつける
日曜の午後は、朝からずっと落ち着かなかった。
春日悠真は、昼を少し過ぎたあたりから何度も部屋の時計を見ていた。
掃除をしてみる。
洗い物を済ませる。
洗濯物を畳む。
どれも普段より丁寧にやっているくせに、意識の半分以上は別のところにある。
今日、しらいさんと会う。
夕方。
河川敷じゃない場所で。
そして、たぶんもうごまかさない。
そこまで分かっている約束は、これまでのどの待ち合わせとも違った。
最初のころは、河川敷へ行けば“会えるかもしれない”だった。
少し進んでからは、“また会う”が増えた。
今は違う。
今日の約束には、最初から意味がある。
何を話すか、何を言うか、その輪郭まで半分くらい見えている。
だからこそ、落ち着かない。
服も何度か着替えた。
最終的には、黒のパンツに白いシャツ、その上に薄いネイビーのカーディガン。
頑張りすぎていない。
でも、どうでもいいとも思っていない。
たぶん今の自分には、そのくらいがちょうどいい。
待ち合わせ場所は、以前しらいさんと歩いた川沿いの遊歩道の、少し奥にある小さな橋の手前だった。
駅前の人混みから少し離れていて、でも河川敷ほど“逃げ場”ではない場所。
静かに話すにはちょうどいい。
約束の時間より十五分早く家を出た。
早い。
でも、今日は遅れるという選択肢が最初からなかった。
遊歩道に着くころには、空はまだ明るさを残していた。
夕方から夜へ移る途中の色。
青と橙のあいだで、どちらにも完全には寄っていない。
今日の自分たちみたいだ、と悠真は思う。
まだ“その先”に行っていないのに、もう後戻りもしない。
小さな橋が見えてきた。
その手前に、人影がある。
しらいさんだった。
今日はキャップもマスクもしていない。
髪は肩のあたりでやわらかく下ろされていて、淡いグレージュのワンピースに薄いカーディガン。足元は白いスニーカー。
派手じゃない。
でも、今まででいちばん、“隠していない”感じがした。
悠真は、数歩手前で息を止める。
彼女もこちらに気づき、少しだけ目を細めた。
「……来た」
しらいさんが言う。
「行きますよ」
悠真が返す。
「知ってる」
「……」
「何」
「いや」
「何」
「今日は、ほんとに」
「うん」
「隠してないなって」
「……今日は、そういう日だから」
その言い方は、静かだった。
でも、まっすぐだった。
悠真は小さくうなずく。
「こんばんは」
「こんばんは」
短い挨拶が、いつもより重く、でもやさしく聞こえた。
二人で並んで歩き出す。
遊歩道には人がまばらで、遠くにジョギングの人影が二つ見えるだけだった。
風は少し涼しい。
水の流れる音が、小さく続いている。
すぐには、どちらも本題を言わなかった。
歩幅を合わせて、何でもないように歩く。
でも、その“何でもないように”が、もう演技だとお互い分かっていた。
「春日くん」
「はい」
「今日、早かった?」
「……少し」
「少し?」
「かなり、かもしれません」
「……そっか」
「しらいさんは」
「私も」
「かなり?」
「かなり」
二人とも少しだけ笑う。
その笑い方が、少しだけ救いになる。
「ねえ」
しらいさんが言う。
「はい」
「今日、たぶん遠回りしないほうがいいよね」
「……そうですね」
「うん。私もそう思う」
「……」
橋の手前で、二人は自然に立ち止まった。
街灯がひとつ、少し離れた場所から光を落としている。
河川敷よりは明るい。
でも明るすぎず、表情の細かい揺れは少しだけ夜に守られている。
しらいさんは、少しのあいだ何も言わなかった。
言葉を探しているというより、ちゃんと決めているような沈黙だった。
「春日くん」
「はい」
「私ね」
「うん」
「最初は、本当に河川敷だけでよかったの」
「……」
「誰にもならなくていい場所があって、そこで少しだけ息ができれば、それで十分だと思ってた」
「うん」
「だから、春日くんに会ったときも、最初は“ちょっと話せる人”くらいでいようと思ってた」
「……」
「でも無理だった」
彼女はそこまで言って、少しだけ笑った。
困ったような、でもどこか観念した笑い方だった。
「春日くん、思ってたよりずっとちゃんと見てくるし」
「……」
「優しいし、変なとこで引かないし」
「……」
「河川敷の外でも会いたくなったし、平日の途中でも顔見たくなったし」
「……」
「会えないと落ち着かなくなった」
そこまで言葉が並ぶと、もうごまかしようがなかった。
悠真は、何も急がずに彼女の言葉を受け止める。
途中で口を挟まない。
ちゃんと最後まで聞く。
「それで」
彼女は続けた。
「私、たぶんじゃなくて、ちゃんと」
「うん」
「春日くんのこと、好き」
風が吹いた。
髪が少し揺れる。
でも、その言葉だけは揺れずにまっすぐ届いた。
好き。
それはもう、曖昧さの中に置いておける言葉じゃない。
ちゃんと名前がある。
ちゃんと意味がある。
悠真は、一度だけゆっくり息を吸った。
不思議と、頭は静かだった。
驚きもある。うれしさもある。
でも何より、「やっとだ」と思った。
「……何で黙るの」
しらいさんが、少しだけ困ったように言う。
「いや」
「いや?」
「うれしくて」
「……」
「うれしくて、ちゃんと返したかったので」
「……そっか」
少しだけ、彼女の肩の力が抜ける。
悠真はまっすぐ彼女を見る。
「俺も」
「……うん」
「しらいさんのこと、好きです」
「……」
「最初は、何なんだろうって思ってました」
「うん」
「河川敷で会う地味なお姉さんで、どう見ても人気女優なのに認めなくて」
「うん」
「でも会うたびに、もっと会いたくなって」
「……」
「河川敷だけじゃ足りなくなって」
「……」
「途中で呼ばれたらうれしくて、外で会えるのが楽しみで」
「……」
「たぶんずっと前から、かなり好きだったんだと思います」
しらいさんは、返事をしなかった。
でも、目元が少しずつやわらいでいくのが分かる。
そして、ほんの少しだけうつむいて、笑った。
「……両想い、なんだ」
「……みたいですね」
「みたい、なんだ」
「いや、かなり確定かと」
「そうだね」
「はい」
二人とも少しだけ笑う。
その笑いは、今までのどの笑い方とも少し違っていた。
軽くない。
でも重すぎもしない。
ちゃんと届いたあとに、ようやく息ができるようになった人の笑い方だった。
しらいさんは少しだけ視線を逸らし、また戻す。
「春日くん」
「はい」
「今、すごく変な感じ」
「どんな」
「安心したのに、余計に緊張する」
「分かります」
「分かる?」
「はい。今日ここ来るまでより、今のほうが緊張してます」
「……」
「何ですか」
「それ、ちょっとかわいい」
「今言います?」
「今だから言う」
彼女はそう言って、小さく笑った。
「ねえ」
「はい」
「これで、もう偶然っぽい顔しなくていいんだね」
「……そうですね」
「ちゃんと会いたい、って言っていい」
「言ってください」
「外でも、途中でも、河川敷でも」
「はい」
「春日くんも?」
「言いますよ」
「……うん」
しらいさんはそこで少しだけ迷ってから、言った。
「じゃあ」
「うん」
「これからも、ちゃんと会ってくれる?」
「会います」
「即答」
「好きなので」
「……それ、今かなりだめ」
「だめなんですか」
「だめじゃない」
「ならいいです」
「よくない。心臓に悪い」
「お互いさまです」
「……確かに」
橋の向こうを、自転車が一台ゆっくり通り過ぎていく。
遠ざかる音が消えるまで、二人とも少し黙っていた。
言葉にしてしまったあとの世界は、もっと劇的に変わるのかと思っていた。
でも実際は少し違う。
空気は同じ夜のまま。
風も同じ。
ただ、もう隠さなくてよくなったぶん、呼吸がしやすい。
「春日くん」
「はい」
「一個、確認していい?」
「何ですか」
「今の私、ちゃんとしらいさん?」
「……」
「何その顔」
「いや」
「何」
「むしろ、今まででいちばんそうです」
「……」
「河川敷でも、外でも、途中でも、全部含めて」
「……」
「今のしらいさんが、たぶんいちばんしらいさんです」
「……それ」
「はい」
「今日いちばん、好きかも」
「順番更新された」
「した」
そう言って笑う彼女は、河川敷で缶チューハイを飲んでいた地味なお姉さんでもあり、休日の昼に靴を選んでいた人でもあり、平日の途中で疲れた顔のまま呼んでくれた人でもあった。
そして今は、ちゃんと“好きな人”だ。
「少し歩く?」
悠真が聞く。
「うん」
「帰るにはまだ早いですか」
「うん。今日は、もう少し一緒にいたい」
「……俺もです」
二人は橋を渡って、その先の遊歩道をゆっくり歩いた。
前より距離は近い。
でもまだ、急には触れない。
それでよかった。
会話は途切れ途切れだった。
でも、何を言っても今は全部少しだけ甘い。
「春日くん」
「はい」
「今後も、芋系は持ってきていいよ」
「付き合った初手の確認がそれなんだ」
「大事でしょ」
「大事ですね」
「あと、途中で呼ぶのもやめない」
「待ってます」
「河川敷も」
「行きます」
「うん。……好きな人として」
「……はい」
「それ、いいね」
「何が」
「春日くんがちゃんと照れるの」
「しらいさんだって」
「私はいいの」
「ずるいなあ」
「知ってる」
遊歩道の終わり近くまで歩いたところで、二人は引き返した。
帰り道のほうが、少しだけゆっくりだった。
別れ際、しらいさんは前みたいに少し迷うような顔をしなかった。
代わりに、ちゃんとこちらを見て言う。
「また連絡する」
「はい」
「次も、ちゃんと来て」
「行きます」
「知ってる」
その一言の意味は、もう前と違う。
知ってる。
来るって。
好きだって。
ちゃんと会いたいって。
彼女は少しだけ目を細めてから、静かに言った。
「じゃあね、春日くん」
「また」
「うん。……またね」
歩き出す後ろ姿を見送りながら、悠真は胸の奥の静かな熱を確かめる。
名前をつけたから終わるわけじゃない。
むしろ、ここからちゃんと始まる。
河川敷の夜も、途中の寄り道も、外での待ち合わせも。
全部そのままに、少しずつ意味が変わっていくのだろう。
それが、うれしかった。




