第174話 美緒は二度目の誘いをまだ送らなかった
美緒は、スマホの画面を何度も開いた。
開いて、閉じる。
また開いて、閉じる。
紗季とのやり取りは、そこに残っている。
『水曜なら』
『うん。じゃあ水曜に』
『ごめん』
『うん』
短い言葉ばかり。
それなのに、その短さの中に、水曜の全部が残っている気がした。
会えなかったこと。
待ったこと。
駅のどこかにいたかもしれない紗季のこと。
何も聞かずに返した自分の「うん」。
美緒は、その下の返信欄に指を置いた。
何かを送ることはできる。
たとえば。
『また今度、時間ある?』
打って、止まる。
悪い言葉ではない。
むしろ自然だ。
会えなかったのだから、もう一度誘う。
前向きで、優しくて、分かりやすい。
でも、美緒は送れなかった。
今、それを送ったら、紗季はどう思うだろう。
また返さなければならない。
また日付を選ばなければならない。
また、行けるかどうかを考えなければならない。
水曜を越えたばかりの紗季に、それを差し出していいのだろうか。
美緒は、その文字を消した。
次に打つ。
『この前のこと、気にしないで』
これも違った。
気にしないで。
そう言いたい気持ちはある。
でも、水曜を気にしている紗季に、気にしないでと先に言ってしまうことは、紗季が抱えているものを軽く扱うことにならないだろうか。
美緒自身だって、気にしていないわけではない。
責めてはいない。
でも、会えなかったことは残っている。
紗季の「ごめん」も、自分の「うん」も、残っている。
気にしないで、と言って、水曜を薄くすることはできなかった。
消す。
三度目。
『また、駅まででもいいよ』
打った瞬間、美緒は指を止めた。
それは、いちばん優しいように見えた。
紗季の負担を減らす言葉。
食事ではなく、駅まで。
会えなくても、少しだけでいい。
でも、それすら今は違った。
駅まででもいいよ。
そう書いたら、紗季は「駅までなら行けるかどうか」を考え始める。
こちらが優しくしたつもりの小さな扉が、紗季にはまた新しい課題になるかもしれない。
美緒は画面を見つめた。
送れば、自分は楽になる。
二度目の誘いを出せば、止まっていた関係が動いたように見える。
でも、それは本当に紗季のためなのか。
それとも、自分がこの沈黙に耐えられないだけなのか。
美緒は、返信欄の文字を消した。
空になる。
何も打たれていない画面。
けれど、何もないわけではなかった。
紗季の言葉が来るかもしれない場所。
美緒は、その空欄をしばらく見つめた。
今度は、自分が何かを置く場所ではない。
紗季の言葉が、もし来るなら。
来なくても。
その場所を、空けておく。
美緒はスマホを伏せなかった。
でも、もう何も打たなかった。
◇
撮影前、高瀬菜央は控室でスマホ型の小道具を握っていた。
白瀬アカリが入ってくると、高瀬は少し困ったように笑った。
「白瀬さん」
「はい」
「今日、美緒は何もしません」
「はい」
「でも、何もしないわけじゃないんですよね」
「はい」
「この作品、そればっかりです」
高瀬は苦笑した。
しらいさんも笑った。
本当にそうだった。
送らない。
探しに行かない。
伏せない。
消さない。
何もしないように見える動作が、この物語ではずっと意味を持っている。
高瀬は台本を開いた。
「美緒、二度目の誘いを送らないんです」
「はい」
「前なら、怖くて送れない感じだったと思うんです」
「はい」
「でも今日は違う」
「紗季さんの言葉が来る場所を空けるため」
しらいさんが言うと、高瀬はすぐに頷いた。
「それです」
「はい」
「美緒は待ちたいんです。でも、自分から動くことで安心したい気持ちもある」
「はい」
「送れば、美緒は動ける」
「はい」
「でも、紗季はまた答えなきゃいけなくなる」
高瀬は、スマホ型の小道具を見つめた。
「美緒、けっこう我慢してますね」
「かなり」
「出た。春日さんみたい」
「影響です」
二人で少し笑った。
高瀬はそれから、少しだけ真面目な顔に戻る。
「白瀬さん」
「はい」
「紗季としては、美緒が二度目の誘いを送らないの、どうですか」
しらいさんは少し考えた。
「たぶん、助かります」
「はい」
「でも、何も来ないことで不安にもなるかもしれない」
「ですよね」
「でも、その不安も含めて、自分の言葉を探す時間になる気がします」
高瀬は静かに頷いた。
「美緒、そこまで信じられるかな」
「信じたいんだと思います」
「信じるって、難しいですね」
「はい」
「送るより難しい」
「かなり」
その言葉は、そのまま今日の場面の中心だった。
◇
美緒の部屋セット。
夜。
テーブルの上にスマホ。
部屋の照明は柔らかく、少しだけ生活の疲れが残る明るさになっている。
美緒は座り、紗季とのやり取りを開く。
監督が説明する。
「高瀬さん、今日は“送らない”場面です」
「はい」
「ただし、怖くて送れないのではありません」
「はい」
「送れば自分は安心できる。でも、今日は送らない」
「はい」
「紗季の言葉が来る場所を空けるために」
高瀬は頷いた。
「分かりました」
「送らないことを、立派にしすぎないでください」
「はい」
「美緒はまだ迷っています」
「はい」
「送ったほうがいいんじゃないか、と何度も思う」
「はい」
「でも、最後に空欄を残す」
空欄を残す。
高瀬は、その言葉を胸に置くように、小さく息を吸った。
一度目の本番。
美緒はスマホを見る。
『ごめん』
『うん』
返信欄を開く。
『また今度、時間ある?』
打つ。
消す。
『この前のこと、気にしないで』
打つ。
消す。
『また、駅まででもいいよ』
打つ。
消す。
最後にスマホを置く。
高瀬の美緒は、そこで少し大人になりすぎた。
紗季を見守る余裕のある人に見えた。
カット。
監督が言う。
「今のは、美緒がきれいに待てる人になっています」
「はい」
「まだ、そこまではいきません」
「はい」
「送らない選択はできる。でも、送らないことで不安もある」
「はい」
二度目。
今度は、不安が強く出すぎた。
送れない美緒に見えた。
これまでの「待つために送らない」から後退してしまったように映る。
カット。
監督が首を少し横に振る。
「今度は、怖くて送れないように見えます」
「はい」
「今日は、送らないことを選ぶ回です」
「はい」
「でも、その選び方はまだ不完全」
高瀬は目を閉じて、呼吸を整えた。
三度目。
美緒はスマホを見る。
紗季との短いやり取りがある。
返信欄を開く。
『また今度、時間ある?』
美緒の目に、一瞬だけ期待が浮かぶ。
また誘えば、動ける。
でも、消す。
『この前のこと、気にしないで』
優しい言葉。
でも、水曜を薄くする言葉。
消す。
『また、駅まででもいいよ』
小さな扉。
でも、今の紗季には課題になるかもしれない扉。
美緒は、そこで少し長く止まる。
送るかもしれない。
送れば、何かが始まるかもしれない。
けれど、送らない。
文字を消す。
返信欄が空になる。
美緒は、その空欄を見つめる。
何も入っていない。
でも、空っぽではない。
紗季の言葉が来る場所として、空いている。
美緒はスマホを伏せない。
でも、もう打たない。
テーブルに置く。
カット。
現場が静かになった。
監督がモニターを見て、静かに頷く。
「今のでいきましょう」
高瀬菜央は、深く息を吐いた。
しらいさんも、離れた場所で見ていて、胸の奥が少し温かくなった。
美緒さんは、送らなかった。
逃げたのではなく、空けた。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は唐揚げ弁当を開けながら、今日は妙に真面目な顔をしている。
「今日は何だ」
春日が聞くと、三崎は即答した。
「空欄」
「唐揚げ弁当を前にして言う言葉じゃないな」
「空欄は大事だぞ」
「白瀬アカリか」
「たぶん」
「たぶんじゃないだろ」
三崎は唐揚げを一つ食べてから言った。
「メッセージ欄ってさ、こっちが埋めると相手は返さなきゃいけなくなるんだよ」
「うん」
「でも、あえて空けておくと、相手が書ける場所になる」
春日は、箸を止めた。
今日もだ。
今日も、三崎は大事なところを言い当てる。
「送らないって、何もしないみたいに見えるけど」
三崎は続ける。
「実は、相手の言葉の場所を空けてることもあるんだよな」
「うん」
「まあ、毎回それをやるとただの放置だけど」
「そこは大事だな」
「うん。待つと放置は違う」
春日は頷いた。
かなり重要な違いだった。
「三崎」
「何個?」
「二十一個」
「大台超え維持」
「現物は?」
「心の中で」
「唐揚げの場所も空けておいてくれ」
「空欄だけある」
「埋めろよ」
三崎は文句を言いながらも笑った。
「でも、これかなり強いと思うぞ」
「アクセス狙いとして?」
「そう。読者は分かるんだよ。今、送らない意味が変わったって」
「うん」
「前は送れなかった。今は送らない。ここ、めちゃくちゃ大事」
春日は、その言葉をそのまま覚えた。
◇
撮影後、高瀬菜央は控室でぐったりしていた。
しらいさんが隣に座ると、高瀬はスマホ型の小道具を軽く持ち上げた。
「白瀬さん」
「はい」
「送らないって、疲れます」
「はい」
「もう何回も送らない芝居してますけど、毎回違う」
「はい」
「今日は、一番疲れたかもしれません」
「どうしてですか」
「逃げられないからです」
高瀬は小道具を机に置いた。
「怖くて送れないなら、まだ自分の弱さで説明できるんです」
「はい」
「でも、今日は紗季の場所を空けるために送らない」
「はい」
「それって、美緒が自分で選ばなきゃいけない」
「はい」
「だから疲れました」
しらいさんは頷いた。
「美緒さん、かなり進んでます」
「かなり、いただきました」
「春日くん由来です」
「知ってます」
二人で笑った。
高瀬は、少しだけ目を細める。
「紗季、いつか自分から何か送れますかね」
「送れると思います」
「白瀬さんとして?」
「紗季としては、まだ分からないです」
「正直」
「はい」
「でも、物語としては?」
「送れると信じたいです」
高瀬は、ほっとしたように笑った。
「美緒も、たぶん信じたいんです」
「はい」
◇
夕方、しらいさんは青灰色のノートを開いた。
今日の一文は、すぐに決まった。
『美緒さんは二度目の誘いを送らなかった。今度は、紗季さんの言葉が来る場所を空けるために。』
書いたあと、少しだけ胸が軽くなった。
これは、今日の美緒の前進だった。
写真を撮って、春日くんへ送る。
すぐ既読。
『読みました』
『送れなかった、ではなく、送らなかった、ですね』
しらいさんは返す。
『うん』
『三崎がかなり近いことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『前は送れなかった。今は送らない。そこが大事』
『メッセージ欄を空けておくことが、相手の言葉の場所になることもある、と』
しらいさんは、画面を見つめて頷いた。
『三崎さん』
『今日は唐揚げ二十一個?』
『はい』
『現物は?』
『心の中です』
『唐揚げ欄を空けてるだけ?』
『本人が「埋めろ」と言っています』
しらいさんは笑った。
こういう軽さがあるから、送らない場面の疲れから戻ってこられる。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
部屋に入る。
今日はプリンも、特別なものもない。
ローテーブルには、いつものものだけ。
本が一冊。
ペンが一本。
少し斜めのクッション。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
春日くんがミルクティーを作る。
蜂蜜は普通。
カップが置かれる。
ことん。
今日は、空欄を残す音だった。
「美緒さん、送らなかった」
「はい」
「二度目の誘い」
「はい」
「また今度、時間ある? も」
「はい」
「気にしないで、も」
「はい」
「駅まででもいいよ、も」
「はい」
「全部消した」
「はい」
「でも、逃げじゃなかった」
春日くんは頷いた。
「紗季さんの言葉が来る場所を空けたんですね」
「うん」
「かなり大きいです」
「出た」
「出ます」
「今日は本当にそう」
しらいさんはミルクティーを飲んだ。
「送らないことって、いろいろあるね」
「はい」
「怖くて送れない」
「はい」
「相手の足を止めないために送らない」
「はい」
「待ちすぎないために送らない」
「はい」
「言葉の場所を空けるために送らない」
「はい」
「全部違う」
「はい」
「美緒さん、送らないの上級者になりつつある」
「でも、疲れていましたね」
「うん。高瀬さんも疲れてた」
「しらいさんも?」
「少し」
「紗季として?」
「紗季としても、見る側としても」
しらいさんはカップを置いた。
「春日くん」
「はい」
「私も、言葉が来る場所を空けてもらってることある?」
「あると思います」
「春日くんに?」
「はい」
「たとえば?」
「俺が質問を送らない日です」
「うん」
「しらいさんが話したくなったら話せるように」
「うん」
「でも、これは一歩間違えると放置になります」
「そこ大事」
「はい」
「待つと放置は違う」
「三崎も言っていました」
「外側の番人、今日はかなり仕事してる」
「はい」
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文を見せる。
『美緒さんは二度目の誘いを送らなかった。今度は、紗季さんの言葉が来る場所を空けるために。』
春日くんは、ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「今度は、が大事ですね」
「そう?」
「はい。前の送らないとは違うと分かります」
「うん」
「美緒さんの成長が、一文で見えます」
「アクセス狙いとして?」
「かなり強いと思います」
「どうして?」
「読者は、次に紗季さんから何か来るかもしれないと期待します」
「はい」
「でも、まだ来ないかもしれない」
「はい」
「その空欄が、引きになります」
しらいさんは頷いた。
空欄が引きになる。
面白い。
でも、この物語には合っている。
「春日くん」
「はい」
「空欄って、怖いね」
「はい」
「何かで埋めたくなる」
「はい」
「でも、空けておくから来る言葉もある」
「はい」
「私も、春日くんに空欄を残せるようになりたい」
「俺もです」
「でも、放置しない」
「はい」
「見張らないけど、消さない」
「はい」
「また面倒くさい」
「かなり」
二人で笑った。
その笑いも、少しずつ普通の一部になっていた。
◇
帰る時間になった。
今日は、マグカップだけを片づける。
しらいさんが洗い、春日くんが拭く。
水の音。
布巾の音。
棚に戻す音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割八分」
「少し残っていますね」
「空欄の怖さが二分」
「その二分は?」
「帰り道で持つ」
「はい」
「でも、嫌じゃない」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「私の言葉が来る場所、空けてくれてる?」
「はい」
「見張らずに?」
「はい」
「放置せずに?」
「練習中です」
「よし」
しらいさんは笑った。
「私も空ける」
「はい」
「春日くんの言葉が来る場所」
「ありがとうございます」
「出た」
「出ます」
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「理由があっても、なくても」
「ここにいます」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。
美緒さんは二度目の誘いを送らなかった。
今度は、紗季さんの言葉が来る場所を空けるために。
空欄は、ただの空白ではない。
誰かの言葉が入れるように、空けておく場所になる。
春日はスマホを開き、三崎へ送った。
『今日の唐揚げ、二十一個』
すぐ返る。
『現物欄は空欄か?』
春日は少し笑った。
『空欄です』
『埋めろ』
その短いやり取りを見て、春日は思った。
空欄は、たしかに埋めたくなる。
でも、埋めないことで生まれる言葉もある。
今は、少しだけ分かる気がした。




