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第173話 三崎、何も起きない回こそ強いと言い出す

 何も起きない夜が、二回続いた。


 春日悠真は、朝の通勤電車の中で、そのことを考えていた。


 一回目は、普通のミルクティーの日。


 少し遅れて来たしらいさんが、いつもの部屋でミルクティーを飲み、コンビニのプリンを食べた。


 重い話はなかった。


 泣くこともなかった。


 大きな告白も、劇的な変化もなかった。


 二回目は、もっと静かだった。


 プリンもない。


 特別な差し入れもない。


 紗季の撮影で得た「何も起きない夜」の話を少しして、あとはミルクティーを飲んだだけ。


 それでも、春日の中には残っていた。


 何も起きない夜は、何も変わらない夜じゃなかった。


 しらいさんの一文。


 その言葉が、朝になっても残っている。


 春日は電車の窓に映る自分の顔を見た。


 何も起きない夜を、物語としてどう見るべきなのか。


 これまでなら、事件が起きたほうが分かりやすいと思っていた。


 誰かが来る。


 誰かが泣く。


 何かを言う。


 何かが壊れる。


 何かが直る。


 そういう場面のほうが、読者を引っ張りやすい。


 アクセス狙いとしても、強い。


 それは間違っていない。


 けれど、何も起きない夜が二回続いたことで、春日は少し考えを変え始めていた。


 何も起きないのに、読者が読みたいと思うなら。


 それは、事件ではなく人を追っているということだ。


 その人が何を食べるのか。

 何を言えないのか。

 どんな沈黙を持て余すのか。

 どんなふうにカップを置くのか。


 そこに興味を持っている。


 それは、かなり強いことなのではないか。


 そう考えていると、昼休みが来た。


 そして、こういうときに限って、三崎がいる。


    ◇


 三崎は、唐揚げ弁当の蓋を開ける前から妙に得意そうだった。


「春日」


「何だ」


「今日は、何も起きない回について語る」


「開幕宣言があるのか」


「ある。重要だからな」


 三崎は唐揚げ弁当を机に置き、箸を割った。


 そして、まだ食べずに春日を見る。


「派手な事件がない回で読ませられる作品は強い」


 春日は、箸を持つ手を止めた。


「いきなり本題だな」


「回り道いらないだろ」


「唐揚げは?」


「今日は後だ」


「珍しいな」


「何も起きない回の話だからな。唐揚げすら少し待つ」


「それは何か違う気がする」


 三崎は気にせず続けた。


「読者ってさ、事件だけを読んでるわけじゃないんだよ」


「うん」


「もちろん事件は大事。引きも大事。爆弾も大事」


「爆弾」


「物語上の爆弾な」


「分かってる」


「でも、長く追ってる読者は、事件より温度を見るようになる」


 春日は、少しだけ身を乗り出した。


「温度」


「そう。変化の温度」


 三崎は、唐揚げを一つつまみ上げた。


 結局、食べるらしい。


「たとえば、前ならすぐスマホを伏せてた人が、伏せなくなった」


「うん」


「前なら理由がないと会えなかった人が、理由がなくても来ようとする」


「うん」


「前なら沈黙に耐えられなかった二人が、少しだけ沈黙できる」


「うん」


「事件じゃない。でも変化だろ」


 春日は、ゆっくり頷いた。


 しらいさんの一文が、そのまま三崎の言葉に重なる。


 何も起きない夜は、何も変わらない夜じゃなかった。


「何も起きない回って、信頼がないと読まれないんだよ」


 三崎は唐揚げを食べてから、さらに続ける。


「読者がそのキャラを見たいと思ってるから読む」


「うん」


「その二人が同じ部屋にいて、特に大事件もなくミルクティー飲んでるだけでも、読みたいと思う」


 春日は、思わず三崎を見た。


「ミルクティー?」


 三崎は一瞬だけ止まった。


 それから、咳払いした。


「一般論として」


「一般論でミルクティーが出るか」


「出るときは出る」


「外側の番人、今日も出勤してるな」


「皆勤だぞ」


 三崎は堂々と言った。


「とにかく、何も起きない回で読まれるなら、その二人を読者が見たいってことなんだよ」


「うん」


「事件で読ませるのも強い。でも、人で読ませるのはもっと強い」


 春日は、その言葉を胸の中で受け取った。


 人で読ませる。


 それは、アクセス狙いとしても大事な考え方だった。


 強い引きだけではなく、読者が「この二人をもう少し見たい」と思えること。


 その状態まで持っていければ、何も起きない夜も、読ませる力になる。


「三崎」


「何個?」


「今日は二十一個」


「大台超え維持!」


「かなりいい」


「現物は?」


「心の中で」


「そこは何も起きないのかよ」


「何も起きない唐揚げ回」


「読ませる力ゼロだぞ」


 春日は笑った。


 三崎も笑いながら、ようやく唐揚げを本格的に食べ始めた。


    ◇


 午後、春日は仕事の合間に、三崎の言葉をメモに残した。


『何も起きない回で読まれるなら、そこに人がいるから』


 書いてから、少しだけ言い換える。


『何も起きない夜を読んでもらえるなら、そこに人がいるからだ。』


 このほうが、しらいさんに届きやすい気がした。


 けれど、すぐには送らなかった。


 今日は、しらいさんが撮影中だ。


 急いで伝えたい言葉ではある。


 でも、今すぐ送る必要はない。


 待つ。


 ここでもまた、待つ。


 春日はスマホを伏せずに置いた。


 見張らない。


 でも、言葉は消さない。


    ◇


 その日の撮影は、美緒の出番が少しだけあった。


 水曜のあと。


 美緒は二度目の誘いをまだ送らない。


 けれど、それは次の回の中心になる。


 今日は、その前段階として、彼女がスマホを開き、紗季とのやり取りを見て、閉じるだけの短いカットだった。


 白瀬アカリは、自分の出番の合間にそれを見ていた。


 高瀬菜央の美緒は、スマホを見る。


『ごめん』


『うん』


 そこから先は、ない。


 美緒は返信欄を開かない。


 何かを送ろうともしない。


 ただ、見て、閉じる。


 それだけ。


 カット後、高瀬は少しだけ息を吐いた。


 しらいさんは、近づいて声をかける。


「短い場面でしたね」


「短いのに、妙に疲れました」


「分かります」


「何もしてないんですけど」


「何もしてないわけじゃないです」


 高瀬は少し笑った。


「白瀬さん、最近それよく言いますね」


「春日くんと三崎さんの影響です」


「納得です」


 高瀬は、自分のスマホ型小道具を見ながら言った。


「何も送らない美緒を撮るだけなのに、ちゃんと意味がある気がするんですよね」


「はい」


「水曜のあとだから」


「はい」


「紗季が何も送ってないから」


「はい」


「でも、やり取りは消えてないから」


「はい」


「何も起きない時間にも、前の出来事が残ってる」


 しらいさんは頷いた。


 何も起きない時間には、何もないわけではない。


 その前の出来事が、残っている。


 それが温度になっている。


「高瀬さん」


「はい」


「何も起きない回、強いかもしれません」


「急に編集者ですね」


「春日くんの影響です」


「伝染してます」


 二人で少し笑った。


    ◇


 撮影後、しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日の一文は、自分の中でも少し迷った。


 紗季の夜。


 美緒の短い沈黙。


 春日くんの部屋での普通のミルクティー。


 プリンがあった夜。


 プリンがなかった夜。


 何も起きない時間が、少しずつ関係を作っている。


 そこへ春日くんからメッセージが届いた。


『三崎が言っていました』


 続けて送られてくる。


『派手な事件がない回で読ませられる作品は強い』


『読者は事件だけでなく、変化の温度を追っている』


『何も起きない回で読まれるなら、その二人を読者が見たいということ』


 しらいさんは、画面を見ながら少しだけ笑った。


 三崎さん。


 今日も、外側から大事なことを言っている。


 さらに春日くんから、もう一文届く。


『何も起きない夜を読んでもらえるなら、そこに人がいるからだ』


 その言葉を読んだ瞬間、しらいさんは少しだけ胸が熱くなった。


 そこに人がいるから。


 事件ではなく。


 展開ではなく。


 台詞の派手さでもなく。


 そこにいる人を、読者が見てくれている。


 しらいさんはノートにペンを置いた。


 そして書いた。


『何も起きない夜を読んでもらえるなら、そこに人がいるからだ。』


 春日くんの言葉を、ほとんどそのまま書いた。


 写真を撮って送る。


 すぐ既読。


『採用されました』


 しらいさんは返す。


『今日は春日くんの一文』


『元は三崎です』


『唐揚げ何個?』


『二十一個です』


『現物は?』


『心の中です』


『そこは何も起きない回』


『三崎が怒ります』


『読ませる力は?』


『ゼロです』


 しらいさんは控室で声を出さないように笑った。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 今日は、普通のミルクティーというより、少しだけ話したい夜だった。


 けれど、重い話ではない。


 何も起きない夜が続いたことについて、話したかった。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 このやり取りは、もうかなり馴染んできた。


 部屋に入る。


 ローテーブルには、いつものもの。


 本が一冊。

 ペンが一本。

 少し斜めのクッション。


 白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


「今日はプリンなし?」


「なしです」


「二回連続なし?」


「何も起きない夜の継続です」


「プリンがあると起きることになる?」


「少しだけ」


「プリン、意外と事件性あるね」


「ありますね」


 二人で笑った。


 春日くんがミルクティーを作る。


 蜂蜜は普通。


 カップが置かれる。


 ことん。


 今日は、何も起きない回が強いかもしれない音だった。


    ◇


 しらいさんは、カップを両手で包みながら言った。


「春日くん」


「はい」


「三崎さんの話、聞きたい」


「はい」


「何も起きない回」


 春日くんは頷いた。


「三崎は、派手な事件がない回で読ませられる作品は強い、と言っていました」


「うん」


「読者は事件だけではなく、変化の温度を追っている、と」


「変化の温度」


「はい」


「いい言葉」


「三崎の言葉です」


「三崎さん、たまにすごい」


「たまに」


「たまに」


 二人で少し笑う。


 春日くんは続けた。


「何も起きない回で読まれるなら、その二人を読者が見たいということだと」


 しらいさんは、ミルクティーを飲む手を止めた。


「それ、少し照れる」


「はい」


「私たちの何も起きない夜も?」


「はい」


「読者が見たいと思ってくれてる?」


「物語としては、そういう状態を目指したいです」


「アクセス狙いとして?」


「かなり大事です」


「事件だけじゃなくて、人で読ませる」


「はい」


 しらいさんは、カップの中を見た。


 ミルクティーの表面が、ほんの少しだけ揺れている。


「人で読ませるって、怖いね」


「はい」


「何かが起きれば、そっちを見てもらえる」


「はい」


「でも、何も起きない夜は、人そのものを見られる」


「はい」


「雑にできない」


「できません」


「でも、強い」


「はい」


 しらいさんは、少しだけ息を吐いた。


「春日くん」


「はい」


「今日、かなり編集者」


「すみません」


「謝らないで。今日は必要」


    ◇


 青灰色のノートを開く。


 今日の一文を見せる。


『何も起きない夜を読んでもらえるなら、そこに人がいるからだ。』


 春日くんは、少し照れたように目を伏せた。


「自分の言葉がノートにあると、かなり照れます」


「私も、自分の言葉を送ると照れる」


「はい」


「でも、今日はこの一文がよかった」


「ありがとうございます」


「出た」


「出ます」


 しらいさんはノートを閉じた。


「この一文、紗季さんにも美緒さんにも合う」


「はい」


「何も送らない紗季さん」


「はい」


「何も送らない美緒さん」


「はい」


「何も起きない部屋」


「はい」


「でも、そこに人がいる」


「はい」


「だから見ていられる」


 春日くんは頷いた。


「そう思います」


「私たちも?」


 聞いてから、しらいさんは少しだけ照れた。


 春日くんも、少しだけ動きを止めた。


「はい」


 短く答えた。


「短い」


「はい」


「でも、今日の“はい”は?」


「かなり本当です」


 しらいさんは、笑ってしまった。


「春日くん、ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


    ◇


 そのあとの会話は、また少し普通だった。


 三崎の唐揚げ現物支給問題。


 何も起きない回にプリンは事件かどうか。


 青灰色のノートが開かれるだけで、もう少し何かが起きているのではないかという疑惑。


 春日くんが「ノートは準事件です」と言い、しらいさんが「何その分類」と笑った。


 何も起きないと言いながら、細かいことは少しずつ起きている。


 でも、それは大事件ではない。


 人がそこにいることで生まれる、小さな揺れだった。


 しらいさんは、それが少し好きだと思った。


 大きな出来事ではなくても。


 会話が横道にそれても。


 何の役にも立たない話でも。


 その時間があることで、次の重い日にも戻ってこられる気がする。


    ◇


 帰る時間になった。


 今日は、マグカップだけを二人で片づけた。


 水の音。

 布巾の音。

 棚に戻す音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞いた。


「九割九分」


「高いですね」


「何も起きない回が強いかもしれないって分かったから」


「はい」


「残り一分は?」


「そこに人がいるって言葉が、少し照れた分」


「俺も照れました」


「春日くんの一文」


「はい」


「三崎さんの唐揚げから生まれた」


「正確には唐揚げ前です」


「細かい」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「何も起きない夜を、また読んでもらえるように」


「はい」


「ちゃんと、そこにいようね」


 春日くんは、静かに頷いた。


「はい。ここにいます」


「便利だけど、今日は合ってる」


「はい」


 しらいさんは笑った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「理由があっても、なくても」


「ここにいます」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。


 何も起きない夜を読んでもらえるなら、そこに人がいるからだ。


 事件がなくても。


 大きな台詞がなくても。


 ただ、そこにいる人を見たいと思ってもらえるなら。


 それは、きっと強い。


 春日はスマホを開き、三崎へ短く送った。


『今日の唐揚げ、二十一個』


 すぐに返事が来た。


『現物は?』


 春日は少し迷ってから、返した。


『次回検討』


 すぐに返る。


『何も起きない回にするな』


 春日は笑った。


 何も起きない夜にも、少しだけ何かは起きている。


 それでいいのだと思った。

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