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第172話 紗季さんにも、何も起きない夜が必要だった

 岸谷紗季の部屋には、何も起きていなかった。


 夜。


 白いカーテンは閉じられている。


 小さなテーブル。

 グレーのマグカップ。

 一人分の椅子。

 畳まれたブランケット。

 テーブルの上には、画面を上にしたまま置かれたスマホ。


 美緒から、新しいメッセージは来ていない。


 紗季も、送っていない。


 水曜のやり取りは残っている。


『水曜なら』


『うん。じゃあ水曜に』


『ごめん』


『うん』


 そこから先は、まだ何もない。


 前に進んでいないように見える。


 でも、戻ってもいない。


 紗季は、台所で湯を沸かした。


 紅茶ではない。


 コーヒーでもない。


 ただの温かいお茶。


 湯気が立つマグカップを両手で包み、テーブルの前に座る。


 スマホはそこにある。


 伏せない。


 手に取らない。


 見張らない。


 削除もしない。


 ただ、そこにある。


 紗季はお茶を一口飲んだ。


 熱い。


 少しだけ、舌先が驚く。


 それでも、飲み込むと、胸の奥まで温かさが降りていった。


 何も起きない夜。


 誰にも会わない夜。


 新しい言葉も出ない夜。


 でも、その夜は、何も変わらない夜ではなかった。


 少なくとも、紗季はスマホを伏せなかった。


 水曜を消さなかった。


 ごめんを消さなかった。


 美緒のうんを、消さなかった。


 それだけで、夜は少しだけ前と違っていた。


    ◇


 控室で台本を読んだ白瀬アカリは、最初に小さく息を吐いた。


「何も起きない夜……」


 その言葉は、昨日の春日くんの部屋を思い出させた。


 ミルクティー。

 一つのプリンを半分。

 会話に困る沈黙。

 何も起きない夜に、少しずつ慣れていきたい、という一文。


 その経験が、今日の紗季に重なりそうになる。


 けれど、重ねすぎてはいけない。


 春日くんの部屋での何も起きない夜は、二人で過ごす夜だった。


 今日の紗季は、一人だ。


 誰かと普通を練習しているわけではない。


 ただ、自分の部屋で、お茶を飲んでいる。


 美緒に新しい言葉を送れないまま。


 水曜を消せないまま。


 それでも、何も起きない夜を過ごしている。


 そこへ理沙さんが入ってきた。


「喉は?」


「九割二分です」


「私の評価では九割二分」


「珍しく一致しました」


「今日は喉が正直なのね」


 理沙さんは椅子に座り、台本を軽く閉じた。


「昨日の普通のミルクティー、残っている顔をしているわ」


「残ってます」


「役に持ち込みすぎないこと」


「はい」


「でも、捨てすぎないこと」


 しらいさんは顔を上げた。


「捨てすぎない?」


「ええ。あなたが知った“何も起きない夜の価値”は、今日の紗季に使える」


「はい」


「でも、春日さんの部屋の温度を、そのまま紗季の部屋へ持ち込まない」


「はい」


「今日の紗季は、一人で何も起きない夜にいる」


 しらいさんは頷いた。


 一人の夜。


 でも、完全に孤独ではない。


 美緒とのやり取りが、スマホの中に残っている。


「今日の目標は?」


 理沙さんが聞く。


 しらいさんは少し考えた。


「停滞に見せないこと」


「続けて」


「でも、進展にしすぎないこと」


「ええ」


「何も起きない。でも、消さなかったものがある」


「そう」


「その静けさを、大事にします」


 理沙さんは、満足そうに小さく頷いた。


「それで行きなさい」


    ◇


 撮影は、紗季の部屋セットで行われた。


 いつもの部屋。


 しかし今日は、いつもよりさらに静かに見えた。


 照明も少し柔らかい。


 スマホの画面の明かりが目立ちすぎないよう調整されている。


 テーブルにはグレーのマグカップ。


 中には温かいお茶。


 湯気が少しだけ上がっている。


 監督が説明する。


「白瀬さん、今日は紗季に大きな感情はありません」


「はい」


「でも、何もないわけでもありません」


「はい」


「美緒へ新しいメッセージは送らない。美緒からも来ない」


「はい」


「ただ、水曜を消さずに夜を過ごす」


 しらいさんは頷いた。


 それは簡単そうで、とても難しい。


 一度目の本番。


 紗季はお茶を淹れる。


 テーブルの前に座る。


 スマホを見る。


 やり取りは残っている。


 お茶を飲む。


 しらいさんは、少しだけ「何かを乗り越えた人」の顔になってしまった。


 カット。


 監督がすぐに言う。


「今のは、紗季が少し分かりすぎています」


「はい」


「何も起きない夜の価値を、紗季自身がもう分かっているように見える」


「はい」


「今日は、視聴者が分かればいいです。紗季はまだ分かりません」


 視聴者が分かればいい。


 また、その構造だった。


 紗季自身は気づいていない。


 でも、見ている人には伝わる。


 何も起きないことが、何も変わらないことではないと。


 二度目。


 今度は淡くしすぎた。


 ただ部屋でお茶を飲んでいる人になってしまう。


 カット。


 監督が少し笑った。


「今度は本当に何も起きていません」


「はい」


「スマホの存在を、もう少しだけ残してください」


「はい」


「見張らない。でも、そこにあることは分かっている」


 三度目。


 紗季は台所で湯を注ぐ。


 湯気。


 グレーのマグカップ。


 テーブルの前に座る。


 スマホは画面を上にして置かれている。


 手には取らない。


 けれど、視線が一度だけそこへ行く。


 美緒からの新しい言葉はない。


 紗季からも送らない。


 でも、水曜のやり取りは消えていない。


 紗季はお茶を一口飲む。


 熱い。


 ほんの少しだけまばたきする。


 それから、もう一口飲む。


 画面を伏せない。


 自分のほうへ引き寄せない。


 見張らない。


 ただ、そこに置いておく。


 そして、夜が少しずつ過ぎていく。


 カット。


 現場が静かになった。


 監督がモニターを見て、少し長く頷いた。


「今のでいきましょう」


 しらいさんは、静かに息を吐いた。


 何も起きなかった。


 でも、紗季さんは水曜を消さずに夜を越えた。


    ◇


 撮影後、高瀬菜央が少し離れた場所から近づいてきた。


 今日は美緒の出番はほとんどない。


 でも、モニターで紗季の部屋の場面を見ていたらしい。


「白瀬さん」


「はい」


「紗季、何も送らなかったですね」


「はい」


「美緒からも何も来なかった」


「はい」


「でも、なんか……よかったです」


 高瀬は、少し言葉を探した。


「よかった、っていうのも変なんですけど」


「分かります」


「何も進んでないのに、終わってない感じがした」


「はい」


「スマホを伏せないだけで、こんなに違うんですね」


「はい」


「美緒、見たら泣くかもしれません」


「美緒さん、最近よく泣きそうになりますね」


「なりますよ。紗季が見えないところで頑張るから」


 二人で少し笑った。


 高瀬は、それから少し真面目な顔になる。


「美緒も、今日は送らないんですよね」


「はい」


「二度目の誘いは、まだ」


「はい」


「言葉の場所を空けるために」


 その先の展開を、高瀬も少し考えている。


 美緒は待つ。

 紗季はまだ送れない。

 でも、消してはいない。


 何も起きない夜は、次の言葉の場所を作る夜なのかもしれない。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は唐揚げ弁当を開けながら、今日は妙に静かだった。


「今日は何だ」


 春日が聞くと、三崎は唐揚げを一つ食べてから言った。


「何も起きない夜について考えてる」


「またか」


「何も起きないって、続くと強いんだよ」


「どういう意味だ」


「一回目の何も起きない夜は、珍しい」


「うん」


「二回目の何も起きない夜は、関係性になる」


 春日は、箸を止めた。


「関係性」


「そう。事件がないと成立しない関係なのか、何もなくてもそこにいられる関係なのかって、二回目以降で分かる」


「うん」


「白瀬アカリの役も、そういう夜が必要なんじゃないかと思ってさ」


 春日は、三崎を見た。


「外側の番人、今日も出勤してるな」


「皆勤だぞ」


「無給で」


「唐揚げ二十個、心の中で」


「自分で言うようになったな」


 三崎は少しだけ笑った。


 それから真面目に続ける。


「何も起きない夜って、何も変わらない夜じゃないんだよな」


 春日は、胸の中でその言葉を繰り返した。


 今日の一文に近い。


 とても近い。


「三崎」


「何個?」


「二十一個」


「増えた!」


「今のはかなりいい」


「現物は?」


「心の中で」


「そこは変わらないのかよ」


 三崎は文句を言いながらも、少し嬉しそうだった。


    ◇


 夕方、しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日の一文は、すぐに出てきた。


『何も起きない夜は、何も変わらない夜じゃなかった。』


 書いた瞬間、胸の奥にすとんと落ちた。


 昨日の自分にも、今日の紗季にも合う一文だった。


 写真を撮って、春日くんへ送る。


 すぐ既読。


『読みました』


『今日の紗季さんですね』


 しらいさんは返す。


『うん』


『昨日の私たちでもある』


 既読。


『はい』


『三崎がかなり近いことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『何も起きない夜は、何も変わらない夜じゃない』


『一回目は珍しい。二回目は関係性になる、と』


 しらいさんは、画面を見て小さく笑った。


『三崎さん』


『今日は唐揚げ二十一個?』


 春日くんの返事はすぐだった。


『当たりです』


『増えた』


『本人も喜んでいました』


『現物は?』


『心の中です』


『安定』


 軽いやり取りが、今日の静かな撮影のあとにはありがたかった。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 部屋に入る。


 いつもの場所。


 本が一冊。

 ペンが一本。

 少し斜めのクッション。


 白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 今日はプリンはない。


 何も特別なものは置かれていない。


 それが、少しだけ安心した。


「今日はプリンなし?」


「はい」


「何も起きない夜、二回目?」


「そうかもしれません」


「三崎さんが言いそう」


「実際、似たことを言っていました」


「やっぱり」


 春日くんがミルクティーを作る。


 蜂蜜は普通。


 カップが置かれる。


 ことん。


 今日は、何も起きない夜の二回目の音だった。


「今日、紗季さんも何も起きない夜だった」


「はい」


「一人でお茶を飲んだだけ」


「はい」


「美緒さんから新しいメッセージは来ない」


「はい」


「紗季さんも送らない」


「はい」


「でも、スマホを伏せなかった」


「はい」


「水曜を消さなかった」


「はい」


 春日くんは、静かに聞いていた。


「昨日、私たちは何も起きない夜を少し持て余した」


「はい」


「今日、紗季さんは一人で何も起きない夜を過ごした」


「はい」


「違うけど、少し似てる」


「はい」


「何も起きない夜って、必要なんだね」


「そう思います」


 しらいさんはミルクティーを飲んだ。


 普通の味。


 それが、今日は前より自然だった。


    ◇


 青灰色のノートを開く。


 今日の一文を見せる。


『何も起きない夜は、何も変わらない夜じゃなかった。』


 春日くんは、ゆっくり読んだ。


「いい一文です」


「うん」


「かなり、この章の中心に近いと思います」


「アクセス狙いとして?」


「はい」


「どうして?」


「派手な展開がなくても、読者が変化を感じられるからです」


「うん」


「何も起きない夜を、変化の夜として読ませられると強いです」


「春日くん、今日も編集者」


「すみません」


「謝らないで。今日は聞きたい」


 春日くんは頷いた。


「紗季さんは、水曜を消さずに一人で夜を越えました」


「はい」


「それは、読者が見ればちゃんと前進です」


「はい」


「本人がまだ前進だと分かっていないところも、強いと思います」


「うん」


「読者だけが知る」


「またそれ」


「はい」


「強いやつ」


「強いやつです」


 二人で少し笑った。


    ◇


 今日は、沈黙も少しあった。


 でも、昨日より少しだけ持て余さなかった。


 プリンがないから、間を埋めるものもない。


 それでも、しらいさんはカップを両手で包み、部屋の音を聞いていた。


 時計の音。


 外の車の音。


 春日くんがカップを置く小さな音。


 ことん。


「春日くん」


「はい」


「昨日より、何も起きない夜に慣れたかも」


「はい」


「少しだけ」


「俺もです」


「でも、まだ下手」


「はい」


「下手なまま続いてる」


「はい」


「それ、悪くない」


「はい」


 春日くんは、少しだけ目元を緩めた。


「何も起きない夜を、またやりましょう」


「言い方」


「変でしたか」


「変。でも、いい」


「はい」


「次は、何も食べない夜?」


「可能性はあります」


「三崎さんの唐揚げを現物で持ってくる夜は?」


「それは特別な夜になりそうです」


「確かに」


 二人で笑った。


 何も起きない夜に、笑いだけは少し起きていた。


    ◇


 帰る時間になった。


 今日は、マグカップだけを片づける。


 プリンの空き容器はない。


 それもまた、少し普通だった。


 しらいさんが洗い、春日くんが拭く。


 水の音。

 布巾の音。

 棚に戻す音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割九分」


「高いですね」


「何も起きない夜、二回目だったから」


「はい」


「残り一分は?」


「何も起きない夜に慣れすぎるのも怖い分」


「それもありますね」


「うん。でも、慣れたい」


「はい」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「何も起きない夜、また来てもいい?」


「もちろんです」


「理由がなくても?」


「もちろんです」


「理由があっても?」


「もちろんです」


「便利」


「本当です」


 しらいさんは笑った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「理由があっても、なくても」


「ここにいます」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、ローテーブルを見た。


 今日はプリンがなかった。


 特別な話もなかった。


 それでも、しらいさんは来て、ミルクティーを飲み、何も起きない夜を少しだけ過ごして帰った。


 何も起きない夜は、何も変わらない夜じゃなかった。


 春日は、その一文を思い出した。


 普通は、少しずつ普通になる。


 一回目ではなく、二回目で。


 二回目でもまだ下手で。


 でも、下手なまま続いていく。


 それが今は、少し嬉しかった。

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