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第171話 何も起きない夜を、二人は少し持て余した

 普通のミルクティーの日は、一度で終わらなかった。


 それが、しらいさんには少し不思議だった。


 金曜に春日くんの部屋へ行った。

 少し遅れた。

 でも、行った。

 普通のミルクティーを飲んだ。

 コンビニのプリンを食べた。

 重い話はしなかった。

 泣かなかった。

 ノートは一文だけ書いた。


 それで終わり。


 そう思っていた。


 けれど、翌週の半ば、撮影が予定より早く終わった日、しらいさんは帰りの車の中でスマホを見ていた。


 春日くんに送る理由を探している。


 撮影が早く終わったから。

 喉が少し余っているから。

 前回の普通のミルクティーの続きを話したいから。

 水曜が消えなかった話から、金曜が少し普通になった話を整理したいから。


 理由は、いくつも出てくる。


 でも、一番奥にあるものは、もっと単純だった。


 また行きたい。


 ただ、それだけ。


 しらいさんは、その言葉を心の中で言って、少し照れた。


 送信欄を開く。


『今日、少しだけ行ってもいい?』


 打って、止まる。


 少しだけ。


 便利な言葉。


 でも、今日は嘘ではなかった。


 長くいたいわけではない。

 重い話をしたいわけでもない。

 ただ、少しだけ行きたい。


 しらいさんは送った。


 既読はすぐについた。


『もちろんです』


 それだけだった。


 少しして、もう一通。


『ここにいます』


 しらいさんは、車の中で小さく笑った。


 春日くんは、ちゃんとそこにいる。


    ◇


 春日悠真は、しらいさんからのメッセージを受け取った瞬間、立ち上がりかけた。


 何か買いに行くべきか。


 前回はコンビニプリンだった。


 では今回は何がいいのか。


 シュークリームは少し特別すぎるか。

 ヨーグルトは健康的すぎる。

 クッキーはこぼれる。

 アイスは溶ける。

 ゼリーは季節感が少し違う。


 そこまで考えて、春日は自分で自分に呆れた。


「普通を学習していない」


 声に出してしまった。


 ローテーブルの上には、いつものものがある。


 本が一冊。

 ペンが一本。

 少し斜めのクッション。


 マグカップは棚の中。


 蜂蜜も棚の中。


 今日は、しらいさんから「少しだけ」と来ている。


 なら、迎賓館にしてはいけない。


 菓子折りにしてもいけない。


 春日は、冷蔵庫を開けた。


 昨日買っておいたプリンが一つだけあった。


 前回は二つ。


 今日は一つ。


 それを見て、少し迷った。


 一つしかないのは失礼か。


 でも、半分にすればいい。


 半分。


 それは、それで妙に近い気がする。


 いや、プリンを半分にするだけだ。


 春日は冷蔵庫の扉を閉めた。


 いちいち意味を考えすぎると、プリンに負ける。


 今日は一つのプリンを半分にする。


 それくらいでいい。


    ◇


 しらいさんが来たのは、それから少しあとだった。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 このやり取りが、前より少しだけ滑らかになった気がした。


 しらいさんは靴を脱ぎながら、少しだけ部屋の奥を見る。


「今日も普通?」


「はい。たぶん」


「たぶんがついた」


「普通に自信がないので」


「私も」


 部屋に入る。


 ローテーブルの上は、いつものままだった。


 でも、今日は少しだけ違う。


 中央に、小さなプリンが一つ置いてある。


 スプーンは二つ。


 しらいさんは、それを見て立ち止まった。


「一つ」


「はい」


「二つじゃない」


「はい」


「半分?」


「はい」


 しらいさんは、少しだけ目を細めた。


「春日くん」


「はい」


「今日、ちょっと攻めたね」


「プリン一つでですか」


「一つを半分は、意外と攻めてる」


「すみません」


「謝らないで。嫌じゃない」


 春日は、ほっとしたようにキッチンへ向かった。


 ミルクティーを淹れる。


 今日は蜂蜜普通。


 カップを青灰色のコースターに置く。


 ことん。


 今日は、二つではなく一つのプリンの音だった。


    ◇


 二人はローテーブルの前に向かい合って座った。


 ミルクティーは温かい。


 プリンはまだ開けていない。


 それだけで、少し間ができる。


 しらいさんはカップを持ったまま、少しだけ笑った。


「ねえ」


「はい」


「何話す?」


「……分かりません」


「また?」


「はい」


「いつもは?」


「だいたい、しらいさんが大変な話を持ってきます」


「前もそれ言った」


「言いました」


「成長してない」


「すみません」


「謝らないで。私も成長してない」


 しらいさんは、ミルクティーを一口飲んだ。


「今日、本当に何もない」


「はい」


「撮影も軽かった」


「はい」


「紗季さんも今日は部屋でお茶飲んでただけ」


「はい」


「ノートも……書こうと思えば書けるけど、絶対に書かなきゃいけない感じじゃない」


「はい」


「じゃあ、何話したらいいんだろう」


 春日くんは、真面目な顔で考え込んだ。


 その真面目さが少しおかしくて、しらいさんは笑いそうになる。


「無理に話さなくてもいいと思います」


「でも、無言だと気まずい」


「気まずいですね」


「そこは否定して」


「すみません」


「謝らないで」


 また同じやり取り。


 けれど、今日はそれが少し心地よかった。


 繰り返しなのに、停滞ではない。


 いつもの形が、少しずつ増えている感じがした。


    ◇


 しばらく、二人は本当に何も話さなかった。


 春日くんはミルクティーを飲む。


 しらいさんはカップを両手で包む。


 時計の音が小さく聞こえる。


 外を車が通る。


 部屋の中には、ミルクティーの甘い匂い。


 プリンは、まだ開けていない。


 しらいさんは、沈黙を少し持て余した。


 帰りたいわけではない。


 でも、何をしたらいいか分からない。


 この部屋へ来ることに、少しずつ慣れてきたはずなのに、何も起きないと途端に不安になる。


 自分は、ただここにいるだけでいいのか。


 春日くんは、退屈していないか。


 この時間は、意味があるのか。


 そう考え始めたところで、春日くんが言った。


「プリン、開けますか」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


「沈黙に負けた?」


「少し」


「正直」


「はい」


「じゃあ、開けよう」


 春日くんがプリンの蓋を開ける。


 ぺり、と音がする。


 前回と同じ音。


 でも、今日は一つ。


 春日くんはスプーンを二つ並べた。


 しらいさんは、それを見て言う。


「半分って、どうする?」


「……真ん中から?」


「それ、難しくない?」


「円形なので」


「急に数学」


「すみません」


「謝らないで。端から食べよう」


「はい」


 二人は、同じプリンを端から少しずつ食べた。


 たったそれだけのことなのに、少し照れくさい。


 しらいさんは、スプーンを持ったまま言う。


「これ、物語として大丈夫?」


「またそれですか」


「うん」


「今回は、プリンを半分にしています」


「それで大丈夫?」


「かなり重要です」


「春日くん、編集者として本気で言ってる?」


「半分くらい本気です」


「半分だけに?」


「プリンにかけました」


「今のは減点」


「すみません」


「謝らないで。でも減点」


 春日くんが少しだけ肩を落とす。


 しらいさんは笑った。


 何も起きていない。


 でも、プリンは少しずつ減っている。


 時間も、ちゃんと進んでいる。


    ◇


 プリンを半分ほど食べたところで、しらいさんはふと言った。


「何も起きない夜って、慣れないね」


「はい」


「でも、慣れたい」


「俺もです」


「いつも何か起きてるみたいで疲れるし」


「はい」


「でも、何も起きないと、今度は困る」


「はい」


「人間って面倒くさいね」


「かなり」


 春日くんは少し笑った。


「何も起きない夜にも、練習が必要なんですね」


「普通のミルクティーも練習だった」


「はい」


「沈黙も練習」


「はい」


「プリン半分も?」


「たぶん」


「春日くん、何でも練習にする」


「そうしないと落ち着かないので」


「かなり春日くん」


「自覚しています」


 しらいさんはスプーンを置いた。


「でも、少し分かった」


「何がですか」


「何も起きない夜って、何もしなくていい夜じゃなくて」


「はい」


「何も起きなくても一緒にいられるか試す夜なのかも」


 春日くんは、少しだけ目を伏せた。


「かなり大事ですね」


「出た」


「出ます」


「アクセス狙いとして?」


「強いと思います」


「どうして?」


「読者が二人を見たいと思っていないと、何も起きない夜は読まれません」


「うん」


「でも、ここまで読んできた人は、たぶんこの二人が何も話さなくても気になる」


「はい」


「それは、関係そのものに興味を持っているからです」


 しらいさんは、少しだけ照れた。


「春日くん」


「はい」


「今日はかなり編集者」


「すみません」


「謝らないで。助かる」


    ◇


 そのあと、二人はどうでもいい話をした。


 三崎が唐揚げを現物支給される日は来るのか。


 コンビニのプリンは、どこまでが普通で、どこからが特別なのか。


 春日くんが昔、カラメルだけ先に食べようとして失敗した話。


 しらいさんが撮影現場で差し入れのプリンを選べず、結局最後に残ったものを食べた話。


 どれも、物語の本筋とは関係なさそうな話だった。


 でも、だからこそよかった。


 誰も救わない。


 誰も泣かない。


 何かを解決しない。


 ただ、少し笑う。


 しらいさんは、ふと思った。


 こんな夜が増えたら、自分はどうなるのだろう。


 もっと弱くなるのか。


 それとも、少し強くなるのか。


 まだ分からない。


 でも、悪くはない。


    ◇


 青灰色のノートは、今日は開かないつもりだった。


 けれど、帰る少し前になって、しらいさんはやっぱり鞄から取り出した。


「書くの?」


 春日くんが聞く。


「一文だけ」


「はい」


「今日は書かなくてもよかったんだけど」


「はい」


「書かなくてもよかった、ってことを書きたい」


「少し難しいですね」


「うん」


 しらいさんはペンを持つ。


 少し考えて、書いた。


『何も起きない夜にも、少しずつ慣れていきたい。』


 書いたあと、少しだけ息を吐く。


 春日くんに見せる。


 彼はゆっくり読んだ。


「いい一文です」


「うん」


「かなり静かですが、強いです」


「そう?」


「はい」


「何も起きない夜を、ちゃんと次につなげています」


「春日くん、また編集者」


「すみません」


「謝らないで」


 しらいさんはノートを閉じた。


「今日は、これでいい」


「はい」


「ノートも、書かなくてもいい日があっていい」


「はい」


「でも、今日は書いた」


「はい」


「それも普通?」


「普通だと思います」


「よかった」


    ◇


 帰る時間になった。


 今日は、カップとプリンの空き容器を二人で片づけた。


 前回と似ている。


 でも、同じではない。


 今日は一つのプリンを半分にした。


 それだけで、少し違う夜になった。


 しらいさんがカップを洗い、春日くんが拭く。


 水の音。

 布巾の音。

 空き容器を袋に入れる音。

 棚に戻す音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞いた。


「九割八分」


「少し残っていますね」


「何も起きない夜に、まだ慣れてない二分」


「その二分は?」


「帰り道で持つ」


「はい」


「でも、嫌じゃない」


「よかったです」


「出た」


「出ます」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「何も起きない夜、またやっていい?」


「もちろんです」


「次はプリンじゃないかも」


「はい」


「何も食べないかも」


「はい」


「何も話さないかも」


「はい」


「でも、いてもいい?」


 春日くんは、静かに頷いた。


「いてください」


 しらいさんは、少しだけ目を伏せた。


「それ、今日かなりいい」


「ありがとうございます」


「出た」


「出ます」


 しらいさんは笑った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「理由があっても、なくても」


「ここにいます」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、ローテーブルを見た。


 何も起きない夜は、思っていたより落ち着かなかった。


 でも、嫌ではなかった。


 会話に困った。

 沈黙を持て余した。

 プリンを半分にするだけで少し照れた。


 それでも、しらいさんは「いてもいい?」と聞いた。


 春日は「いてください」と答えた。


 それだけで、今日の夜は消えなかった。


 何も起きない夜にも、少しずつ慣れていきたい。


 春日は、その一文を思い出しながら、少しだけ笑った。


 普通は、まだ下手だ。


 でも、下手なまま続いている。


 それが今は、少し嬉しかった。

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