第170話 普通のミルクティーの日、しらいさんは少し照れくさかった
普通のミルクティーは、思っていたより難しかった。
カップは、いつも通り青灰色のコースターの上にある。
蜂蜜も、いつもの量。
部屋も、いつもの部屋。
本が一冊。
ペンが一本。
少し斜めのクッション。
春日くんが意識しすぎた結果、意識しないようにした部屋。
それなのに、しらいさんは妙にそわそわしていた。
遅れて来たからではない。
いや、それも少しある。
けれど、一番の理由はそこではなかった。
今日は、特別な話をしなくていい。
それが、落ち着かない。
重い撮影の余韻を置く必要もない。
紗季さんの沈黙を春日くんに預ける必要もない。
青灰色のノートをすぐ開かなくてもいい。
ただ、座っている。
ただ、ミルクティーを飲んでいる。
ただ、春日くんの部屋にいる。
それだけなのに、何だか落ち着かない。
しらいさんはカップを両手で包み、少しだけ視線を下げた。
「春日くん」
「はい」
「普通って、間があるね」
「間、ですか」
「うん。重い話があると、そこに向かって話せる」
「はい」
「ノートがあると、ノートを開ける」
「はい」
「撮影が大変だった日は、大変だったって言える」
「はい」
「でも、今日は」
しらいさんはカップの中を見る。
ミルクティーの表面が、少しだけ揺れている。
「何話したらいいか、分からない」
春日くんは、すぐに答えなかった。
その沈黙が、少し怖くて、でも少し助かった。
急いで埋められない沈黙。
普通の沈黙。
やがて春日くんが言った。
「俺もです」
しらいさんは顔を上げた。
「春日くんも?」
「はい」
「いつもは?」
「だいたい、しらいさんが大変な話を持ってきます」
「それ、私が毎回大変みたい」
「かなり」
「否定して」
「否定は難しいです」
「そこは嘘でも否定して」
「すみません」
「謝らないで」
言ってから、しらいさんは笑った。
春日くんも、少しだけ笑った。
その笑いは、派手ではない。
でも、部屋の空気を少し柔らかくした。
◇
沈黙はまだあった。
けれど、さっきより少し軽かった。
しらいさんは、カップに口をつける。
ミルクティーは少し冷めて、飲みやすくなっていた。
「春日くん」
「はい」
「今日、撮影の話、しなくてもいい?」
「もちろんです」
「でも、したくなったらしていい?」
「もちろんです」
「ノートも、開かなくてもいい?」
「はい」
「でも、書きたくなったら書いていい?」
「もちろんです」
「何でももちろんって言う」
「今のは全部、本当にもちろんです」
「便利な人」
「褒めていますか」
「少し」
「少しですか」
「かなり」
春日くんは、少しだけ目元を緩めた。
分かりにくいけれど、照れている。
しらいさんには、もう少しだけ分かるようになっていた。
「春日くん」
「はい」
「普通の日って、自由すぎる」
「はい」
「何してもいいって言われると、逆に困る」
「分かります」
「春日くんも?」
「はい。何をすれば普通なのか考えてしまいます」
「今日の部屋も?」
「かなり考えました」
「クッション?」
「もう触らないことにしました」
「えらい」
「ありがとうございます」
「出た」
「出ます」
二人はまた笑った。
笑うたびに、普通の部屋が少しずつ普通に戻っていく気がした。
◇
しばらくして、春日くんが立ち上がった。
「少し待っていてください」
「何?」
「何も起きない夜用のものを取ってきます」
「何それ」
春日くんは返事をせず、キッチンのほうへ行った。
しらいさんは首を傾げて待つ。
戻ってきた春日くんの手には、小さな袋があった。
コンビニのプリンが二つ。
しらいさんは、それを見て目を丸くした。
「プリン」
「はい」
「普通のミルクティーの日に?」
「何も起きない夜には、プリンくらいあってもいいかと」
「なにその理屈」
「すみません」
「謝らないで。嫌じゃない」
春日くんは、少し安心したようにプリンをローテーブルへ置いた。
プラスチックのスプーンも二つ。
しらいさんはプリンを見つめた。
「買ってたんだ」
「はい」
「いつ?」
「仕事帰りです」
「コンビニ寄ったの?」
「はい」
「待ち場所を守る話は?」
「帰宅前なのでセーフです」
「春日くん、ルールの隙間を突いてくる」
「普通の日の余白です」
「便利な言葉」
しらいさんは笑った。
でも、少し嬉しかった。
特別なケーキではない。
高いスイーツでもない。
コンビニのプリン。
普通の日に置ける、ちょうどいい甘さ。
「春日くん」
「はい」
「これ、かなり普通」
「よかったです」
「普通だけど、少し嬉しい」
「それが一番いいです」
「出た」
「出ます」
プリンの蓋を開ける音が、ぺり、と小さく響いた。
その音まで、今日は少し照れくさかった。
◇
プリンを食べながら、二人はたいした話をしなかった。
今日の天気。
駅の混み方。
コンビニのプリンの種類が増えすぎている話。
春日くんが、三崎に唐揚げをまだ現物支給していない話。
「三崎さん、そろそろ本当に怒るんじゃない?」
「怒っていると思います」
「じゃああげればいいのに」
「一度あげたので」
「一度で済ませる気?」
「奇跡は何度も起こらないので」
「ひどい」
「心の中では毎回あげています」
「心の中の唐揚げ、だいぶ在庫すごいね」
「二十個が続いていますから」
「三崎さん、心だけ太る」
「外側の番人なので大丈夫です」
「便利に使いすぎ」
しらいさんは笑った。
プリンを一口食べる。
甘い。
普通に甘い。
でも、今日の普通にはちょうどよかった。
春日くんは、プリンを食べる速度が少し遅い。
しらいさんが見ていることに気づいたのか、春日くんが言った。
「何でしょう」
「春日くん、プリン食べるの慎重」
「普通の日なので」
「それ関係ある?」
「あるような気がします」
「ないと思う」
「ないですか」
「うん」
また笑った。
何も起きていない。
でも、ちゃんと時間が進んでいる。
しらいさんは、それに少し驚いていた。
重い話をしなくても、時間は進む。
何かを解決しなくても、部屋にいられる。
ただミルクティーを飲んで、プリンを食べて、どうでもいい話をしている。
そのことが、少しだけ怖くて、少しだけ嬉しかった。
◇
しらいさんは、ふと窓のほうを見た。
夜の外は静かだった。
車の音が遠くに少しだけ聞こえる。
春日くんの部屋の中には、ミルクティーの香りと、プリンの甘さと、少しだけ洗剤の匂いがある。
いつもの部屋。
今日は、そこに重い役目がない。
「春日くん」
「はい」
「今日、何も起きないね」
「はい」
「本当に何も起きない」
「はい」
「これ、物語として大丈夫?」
春日くんは、少しだけ考えた。
「大丈夫だと思います」
「アクセス狙いとして?」
「はい」
「何も起きないのに?」
「何も起きないことが、今日は起きています」
しらいさんは、カップを持つ手を止めた。
「なにそれ」
「すみません」
「いや、ちょっと分かる」
春日くんは、少しだけ言葉を選びながら続けた。
「ここまで、しらいさんは重い撮影のあとに来ることが多かったです」
「うん」
「ノートの一文も、戻るために必要でした」
「うん」
「でも今日は、何かを戻すためではなく、ただ来た」
「はい」
「それで、何も起きない時間を過ごせている」
「うん」
「それ自体が、変化だと思います」
しらいさんは黙った。
何も起きないことが、今日は起きている。
それは変な言葉だけれど、今の部屋には合っていた。
「春日くん」
「はい」
「今日、かなり編集者」
「すみません」
「謝らないで。今日は、いい」
◇
しらいさんは鞄を少しだけ見た。
青灰色のノートは入っている。
今日は開かなくてもいいと思っていた。
でも、やっぱり書きたくなった。
「一文だけ、書いていい?」
「もちろんです」
「今日は、ノートなしでもよかったんだけど」
「はい」
「でも、書きたい」
「はい」
春日くんは、それ以上何も言わなかった。
しらいさんはノートを開く。
ペンを持つ。
少しだけ考えてから、書いた。
『普通のミルクティーは、思ったより照れくさかった。』
書いた瞬間、自分で少し笑ってしまった。
照れくさい。
今日の全部が、そこに入っている気がした。
春日くんに見せる。
春日くんは、ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「短い」
「短いからいいです」
「美緒さんの“うん”みたい?」
「はい」
「届いた?」
「届きました」
しらいさんは、少しだけ照れた。
「春日くん」
「はい」
「届きました、便利」
「便利です」
「乱用注意」
「はい」
二人でまた笑った。
◇
そのあと、少しだけ沈黙があった。
今度の沈黙は、さっきよりさらに軽かった。
しらいさんはプリンの空き容器を見て、春日くんはミルクティーを飲んでいる。
何も話していない。
でも、帰りたいとは思わなかった。
居づらくもない。
ただ、少し照れくさい。
しらいさんは、ふと思った。
普通の関係というのは、照れくさい沈黙を何度も越えていくことなのかもしれない。
かっこよくもない。
劇的でもない。
でも、そこにいられる。
そこにいることを、少しずつ許していく。
「春日くん」
「はい」
「今日、来てよかった」
言ってから、しらいさんは自分で少し驚いた。
今日の言葉は、思ったより自然に出た。
春日くんも、少し驚いた顔をした。
でも、すぐに言った。
「来てくれて嬉しいです」
「今日、三回目くらい?」
「はい」
「多い」
「すみません」
「でも、今日のはいい」
しらいさんは、カップの底に残ったミルクティーを飲み干した。
温度はぬるくなっていた。
でも、それも悪くなかった。
◇
帰る時間になった。
今日は、マグカップとプリンの空き容器を片づける。
しらいさんがカップを洗い、春日くんが空き容器をまとめた。
「普通の共同作業」
「はい」
「大げさに言うと変」
「でも、少し楽しいです」
「うん。少し」
水の音。
カップを拭く音。
空き容器を袋に入れる音。
棚にカップを戻す音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割九分」
「高いですね」
「何も起きなかったから」
「何も起きなかったのに?」
「うん。何も起きなかったのに、帰りたくないほどではなかった」
「はい」
「でも、帰れる」
「はい」
「それ、いい」
春日くんは頷いた。
「よかったです」
「出た」
「出ます」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「普通のミルクティー、できたね」
「少しできました」
「少し?」
「はい」
「じゃあ、また練習?」
「はい」
「次もプリン?」
「考えておきます」
「考えすぎないで」
「はい」
「でも、少し楽しみにしてる」
「分かりました」
しらいさんは少し笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「理由があっても、なくても」
「ここにいます」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、ローテーブルを見た。
プリンの甘さはもうない。
ミルクティーのカップも棚に戻っている。
でも、今日の照れくさい普通は、部屋に残っていた。
普通のミルクティーは、思ったより照れくさかった。
春日は、その一文を思い出して少し笑った。
普通は簡単ではない。
でも、少しできた。
それだけで、今日の金曜は十分だった。




