第169話 春日、待つ場所を動かなかった
春日悠真は、湯気を見ていた。
やかんの口から、細く白い湯気が上がっている。
火はもう止めてある。
湯は沸いている。
けれど、ミルクティーはまだ淹れない。
しらいさんから届いたメッセージを、春日は何度も読み返していた。
『少し遅れる。でも行く』
遅れる。
でも行く。
その二つが同じ画面にあることが、春日にはありがたかった。
遅れるだけなら、不安になる。
行く、だけなら、遅れを隠しているようにも見える。
でも、その両方があった。
だから、春日はここで待つと決めた。
ここにいます、と返した。
ミルクティーはまだ淹れません、と送った。
それで、待ち場所は決まった。
この部屋。
ローテーブルの前。
白いマグカップは棚の中。
青灰色のコースターは、いつもの場所。
蜂蜜も棚の中。
本が一冊、テーブルの端にある。
ペンが一本。
少し斜めのクッション。
迎賓館ではない。
モデルルームでもない。
いつもの場所。
しらいさんが来ると言った場所。
春日は、窓の外を見る。
駅まで迎えに行きたかった。
正直に言えば、今すぐ行きたかった。
マンションの下まで降りるだけでもいい。
コンビニの前まで行って、偶然を装って待つこともできる。
いや、偶然ではない。
完全に待ち伏せだ。
春日は自分でその考えに少し呆れ、首を横に振った。
動かない。
まず、動かず待つ。
必要なら動く。
でも、自分の不安だけで動かない。
昨日、しらいさんと決めたことだ。
春日はスマホを見る。
追加のメッセージはない。
それでいい。
しらいさんは「行く」と言った。
なら、ここにいる。
ここにいれば、来たときに迎えられる。
ここを離れたら、しらいさんが来たとき、ここに誰もいない。
待ち場所を守る。
その言葉が、今日はやけに重かった。
◇
昼間、三崎からはメッセージが来ていた。
『今日だろ』
短い。
あまりにも短い。
春日は昼休みにそれを読んで、すぐ返した。
『何が』
『普通のミルクティー』
『なぜ知っている』
『顔』
『今日は会ってないだろ』
『昨日までの顔の蓄積』
春日は、スマホを見ながら少し笑った。
蓄積で読まれるのは、もはや避けようがない。
『待つ場所を守れ』
三崎から続けて届いた。
『あと蜂蜜を増やすな』
春日は吹き出しそうになった。
『増やさない』
『茶葉も増やすな』
『増やさない』
『部屋を内覧会にするな』
『しない』
『クッションの角度で十五分悩むな』
『もう悩んだ』
『手遅れじゃねえか』
そこでやり取りは終わった。
最後に、三崎からもう一通だけ来た。
『相手が来るって言ったなら、まずそこにいろ』
春日は、その一文を何度も読んだ。
ふざけた文のあとに、急に必要な言葉を置いてくる。
三崎は、そういうことをする。
相手が来るって言ったなら、まずそこにいろ。
それは今日、春日にとって一番の指示だった。
◇
湯気が少し弱くなってきた。
春日は、もう一度湯を沸かすか迷った。
今淹れるには早い。
けれど、到着してから沸かし直すと、待たせるかもしれない。
いや、ミルクティーを淹れる時間くらい、待たせてもいい。
普通のミルクティーなのだから。
でも、遅れて来るしらいさんをさらに待たせるのはどうなのか。
春日は、やかんの前で固まった。
結局、火をつけない。
湯はまだ十分温かい。
必要なら、来てからもう一度沸かせばいい。
春日はローテーブルへ戻る。
座る。
立ち上がる。
また座る。
落ち着かない。
待つというのは、やはり難しい。
何かをしているほうが楽だ。
掃除をする。
買い物に行く。
メッセージを送る。
玄関まで何度も見に行く。
お茶を淹れる。
何かをしていれば、自分が待っていることを忘れられる。
でも、それは待ち場所を守ることとは少し違う。
春日は、スマホのメモを開いた。
『まず、動かず待つ』
昨日書いた言葉。
その下に、もう一文足す。
『不安を作業に変えすぎない』
書いてから、少し苦笑した。
まさに今の自分だ。
不安を作業に変えようとしている。
湯を沸かす。
クッションを直す。
玄関を見る。
全部、不安の形を変えただけかもしれない。
春日はスマホを伏せずに置いた。
見張らない。
でも、隠さない。
部屋の時計を見る。
約束の時間は少し過ぎている。
けれど、しらいさんからは「少し遅れる。でも行く」と来ている。
まだ、待つ時間だ。
◇
呼び鈴は、思っていたより静かに鳴った。
春日は、反射的に立ち上がりかけて、一瞬だけ止まった。
慌てすぎない。
でも、待たせすぎない。
普通に玄関へ向かう。
それだけのことに、なぜこんなに意識が必要なのか。
自分で少し笑いそうになりながら、春日はドアへ向かった。
扉を開ける。
しらいさんが立っていた。
少しだけ息を切らしている。
柔らかい色のニット。
動きやすそうなスカート。
疲れない服。
少しだけかわいい服。
春日は、また一瞬だけ言葉を失いそうになった。
でも、今日の言葉は決めていない。
決めすぎると普通ではなくなる。
だから、今出る言葉をそのまま出した。
「おかえりなさい」
しらいさんは、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「ただいま」
それから、すぐに言いかける。
「遅れ――」
春日は、その言葉を全部謝罪にさせる前に、静かに言った。
「来てくれて嬉しいです」
しらいさんは、言葉を止めた。
そして、小さく息を吐いた。
「それ、今日助かる」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
「でも、今日は本当に助かる」
しらいさんは靴を脱ぎながら、少し笑った。
「春日くん、動かなかった?」
「はい」
「駅まで迎えに来ようとしなかった?」
「したくなりました」
「正直」
「はい」
「マンションの下は?」
「行きたくなりました」
「コンビニは?」
「かなり」
「でも?」
「ここにいました」
しらいさんは、玄関の途中で少しだけ春日を見た。
「待ち場所、守ったんだ」
「練習中です」
「えらい」
「ありがとうございます」
「出た」
「出ます」
そのやり取りで、部屋に入る前の緊張が少しだけ解けた。
◇
ローテーブルの上には、まだミルクティーはなかった。
しらいさんは、それを見て少し安心した顔をした。
「まだ淹れてない」
「はい」
「約束通り」
「はい」
「助かる」
「よかったです」
春日はキッチンへ行き、湯をもう一度温めた。
その背中に、しらいさんが言う。
「春日くん」
「はい」
「待つの、大変だった?」
春日は、少しだけ考えた。
「大変でした」
「正直」
「はい」
「何が?」
「何かしたくなることです」
「うん」
「何もしない自分に耐えるのが、難しかったです」
「三崎さんの言葉」
「はい」
「本当にそうだった?」
「本当にそうでした」
しらいさんは、ローテーブルの前に座った。
本が一冊。
ペンが一本。
少し斜めのクッション。
いつもの場所。
そのいつもの場所が、今日はちゃんと守られていた。
「私も、来るまで少し大変だった」
「はい」
「撮影が押したから、理由はできた」
「はい」
「でも、理由に隠れすぎないようにした」
「はい」
「遅れる。でも行く」
「はい」
「送るの、ちょっと怖かった」
「でも、かなり助かりました」
「本当?」
「はい」
「遅れるだけじゃなくて、行くって書いてくれたので」
しらいさんは、少しだけ目を伏せた。
「それ、書いてよかった」
「はい」
春日はミルクティーを淹れる。
茶葉の香りが立つ。
ミルクを入れる。
蜂蜜を少し。
いつもの蜂蜜。
特別すぎない甘さ。
カップを置く。
青灰色のコースターの上に、ことん、と音がした。
今日は、待ち場所を守った音だった。
◇
しらいさんは、ミルクティーを一口飲んだ。
「普通の味」
「はい」
「少し安心する」
「よかったです」
「待たせたのに、冷めてない」
「まだ淹れていなかったので」
「それ、すごく助かった」
「はい」
「急がされてないけど、待ってくれてる感じだった」
「それを目指しました」
「成功」
春日は少しだけ照れた。
「ありがとうございます」
「出た」
「出ます」
二人は笑った。
普通の笑いだった。
少しぎこちないけれど、確かにそこにある笑い。
しらいさんはカップを両手で包んだ。
「今日、来るまでに何度か考えた」
「はい」
「やっぱり今日はやめようかなって」
春日は、少しだけ胸が締まった。
でも、表情を変えすぎないようにした。
「はい」
「でも、送ったから」
「はい」
「少し遅れる。でも行くって」
「はい」
「自分で送ったから、消したくなかった」
「はい」
「あと、春日くんがここにいますって返してくれたから」
「はい」
「来る場所が消えなかった」
春日は、静かに頷いた。
「ここにいてよかったです」
「うん」
「本当に」
「はい」
◇
今日は、すぐにノートを開かなかった。
けれど、しばらくしてから、しらいさんは鞄を開けた。
「一文、書いていい?」
「もちろんです」
青灰色のノートを開く。
ペンを持つ。
少しだけ考えて、書いた。
『待ち場所が消えなかったから、遅れても約束はそこにあった。』
書き終えて、自分で少しだけ頷いた。
今日の言葉だと思った。
春日くんに見せる。
春日くんは、ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「今日は、しらいさんの“遅れる、でも行く”と、俺の“ここにいます”がつながった日ですね」
「うん」
「どちらかだけだと、少し足りなかった」
「はい」
「でも、両方あったから約束が消えなかった」
しらいさんは、カップを見つめた。
「水曜みたい」
「はい」
「来られなかった水曜も、消えなかった」
「はい」
「今日の金曜は、遅れたけど、消えなかった」
「はい」
「約束って、消えるか消えないかが大事なのかも」
春日くんは頷いた。
「予定通りかどうかだけではなく」
「うん」
「そこに残るかどうか」
「はい」
しらいさんはノートを閉じた。
「春日くん」
「はい」
「今日、待っててくれてありがとう」
「こちらこそ、来てくれてありがとうございます」
「出た」
「出ます」
「でも、今日はそれでいい」
◇
帰る時間になった。
今日は、二人でマグカップを洗った。
しらいさんが洗う。
春日くんが拭く。
水の音。
布巾の音。
棚に戻す音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割九分」
「高いですね」
「待ち場所が消えなかったから」
「はい」
「残り一分は?」
「遅れた照れ」
「照れなんですね」
「うん。謝罪じゃなくて照れ」
「いいと思います」
「春日くん」
「はい」
「次に遅れそうなときも、遅れる。でも行く、って送っていい?」
「もちろんです」
「春日くんは?」
「ここにいます、と返します」
「ミルクティーは?」
「まだ淹れません」
「よし」
しらいさんは笑った。
玄関で靴を履く。
振り返る。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「理由があっても、なくても」
「ここにいます」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、ローテーブルを見た。
白いマグカップは棚に戻っている。
青灰色のコースターは、いつもの場所。
湯気はもうない。
でも、今日の待ち時間はちゃんと残っていた。
待ち場所が消えなかったから、遅れても約束はそこにあった。
春日はスマホのメモを開く。
昼間、三崎から来た言葉を見返す。
『相手が来るって言ったなら、まずそこにいろ』
春日は、その下に短く書き足した。
『いた。来た。』
それだけで、少し笑えた。
普通のミルクティーは、少しずつ普通になっていく。
まだ下手だけれど。
それでも、今日も消えなかった。




