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第168話 普通の日に限って、撮影は少し押した

 金曜は、朝から少しだけ落ち着かなかった。


 大きな理由があったわけではない。


 天気が荒れているわけでもない。

 体調が悪いわけでもない。

 台本が急に変わったわけでもない。


 ただ、金曜だった。


 普通のミルクティーの日。


 それだけで、しらいさんはいつもより少し早く目が覚めた。


 ベッドの上でスマホを手に取り、カレンダーを見る。


『普通のミルクティー』


 その予定は、まだそこにあった。


 消していない。


 消したくなかった。


 昨日、春日くんと話したことを思い出す。


 理由を探していた。

 でも、本当はただ会いに行きたかった。


 その一文を送ったあと、春日くんは少し重いけれど嬉しいと言った。


 重い。


 でも、嬉しい。


 その両方を、ちゃんと言ってくれた。


 だから、少しだけ怖さが減った。


 少しだけ。


 全部ではない。


 しらいさんは、起き上がって鏡の前に立った。


 服を選ぶ。


 疲れない服。


 少しだけかわいい服。


 春日くんが言った言葉と、自分で言った言葉が混ざる。


 気合いを入れすぎない。

 でも、どうでもいい感じにはしない。

 普通を作りすぎない。

 でも、いつもの自分を消さない。


 選んだのは、柔らかい色のニットと、動きやすいスカートだった。


 派手ではない。


 けれど、いつもより少しだけ丁寧。


 鏡の前で一度止まる。


「……少しだけ、かわいい」


 自分で言って、少し照れた。


 その照れも、今日は消さないことにした。


    ◇


 撮影は、午前中までは順調だった。


 紗季の部屋。


 水曜のあと、何も起きない数日の中で、スマホを伏せずに置く短い場面。


 美緒から新しいメッセージは来ていない。


 紗季も送っていない。


 ただ、水曜のやり取りを消さずに、いつもの生活を続けている。


 大きな感情の爆発はない。


 泣きもしない。


 前向きに笑いもしない。


 ただ、消さない。


 今日の紗季は静かだった。


 しらいさんも、その静けさに合わせて呼吸できていた。


 昼過ぎ、監督がモニターを確認しながら頷いた。


「いいですね。ここはこのままいきましょう」


「はい」


 順調。


 その言葉が、心のどこかで小さく灯った。


 このままなら、予定通りに終わる。


 普通のミルクティーに、普通に行ける。


 そう思った。


 思ってしまった。


    ◇


 午後、撮影は少し押した。


 大きなトラブルではない。


 照明の微調整。

 スタッフ間の確認。

 同じ場面の角度違い。

 音声の入り直し。


 現場ではよくあることだった。


 二十分。


 その程度。


 誰も焦っていない。


 怒っている人もいない。


 ただ、予定より少し遅れている。


 けれど、しらいさんの胸の中では、その「少し」が大きくなっていった。


 普通の日に限って。


 普通の約束の日に限って。


 普通に行きたい日に限って。


 撮影が押す。


 しらいさんは、自分の出番を待ちながら、スマホを見た。


 春日くんとの約束の時間までは、まだ余裕がある。


 間に合わないわけではない。


 でも、ぎりぎりになるかもしれない。


 普通のミルクティーなのに、最初から遅れるかもしれない。


 謝るところから始めたくない。


 でも、何も言わないのも違う。


 しらいさんは返信欄を開いた。


『少し遅れるかも』


 打つ。


 止まる。


 かも。


 便利な言葉。


 でも、少し逃げている。


 消す。


『撮影が押してる』


 打つ。


 事実だ。


 でも、それだけだと理由の報告になる。


 春日くんの部屋へ行く気持ちが見えない。


 消す。


『遅れる。ごめん』


 打つ。


 それも違う。


 ごめん、で始めると、春日くんはきっと受け取りすぎる。


 しらいさんは、目を閉じた。


 理由で隠れすぎない。


 でも、状況は伝える。


 普通を消さない。


 約束を消さない。


 しらいさんは、もう一度打った。


『少し遅れる。でも行く』


 短い。


 けれど、今の自分にはそれがいちばん近かった。


 遅れる。


 でも行く。


 遅れの報告と、約束を消さない言葉が同じ画面にある。


 しらいさんは、少しだけ息を吸って、送信した。


    ◇


 春日悠真は、そのメッセージを自宅で受け取った。


 金曜。


 普通のミルクティーの日。


 春日は、予定より少し早く部屋へ戻っていた。


 もちろん、早く戻った理由はある。


 仕事が片づいたから。


 寄り道する理由がなかったから。


 普通の部屋を守るために、余計な買い物をしないと決めていたから。


 理由はいくつかある。


 でも一番は、待ちたかったからだ。


 ローテーブルには、まだ何も出していない。


 マグカップも棚の中。


 蜂蜜も棚の中。


 コースターもいつもの場所。


 お湯だけ、すぐ沸かせるようにしてある。


 春日は、スマホが震えた瞬間、少しだけ背筋を伸ばした。


 画面を見る。


『少し遅れる。でも行く』


 その文を読んだ瞬間、胸の奥がゆるんだ。


 遅れる。


 でも行く。


 どちらかだけではない。


 遅れることを隠していない。


 でも、約束を消していない。


 春日は返信欄を開いた。


『大丈夫です』


 打って、止まった。


 いつもの言葉。


 便利な言葉。


 でも、今日は少し違う。


 大丈夫です、と返すと、しらいさんは「遅れても問題ない」と受け取るかもしれない。


 もちろん問題にしたいわけではない。


 でも、遅れることを簡単に片づけたいわけでもない。


 次に打った。


『急がなくていいです』


 止まる。


 それは優しい。


 でも、何度も話した。


 急がなくていい、が相手の足を止めることもある。


 消す。


 春日は、昨日決めた言葉を思い出した。


 十五分過ぎたら。


 ここにいます。


 でも、今はまだ十五分前でも、過ぎてもいない。


 しらいさんは、行くと言っている。


 なら、待ち場所を知らせればいい。


 春日は打った。


『ここにいます』


 少し考えて、もう一文加えた。


『ミルクティーはまだ淹れません』


 送る。


 すぐ既読がついた。


 しばらくして、しらいさんから返事が来た。


『それ、助かる』


 春日は、スマホを見たまま小さく息を吐いた。


 助かる。


 その一言で、自分の返事が今日の正解に近かったのだと分かった。


    ◇


 しらいさんは、控室で春日くんからの返事を読んだ。


『ここにいます』


『ミルクティーはまだ淹れません』


 それだけで、少し笑いそうになった。


 ここにいます。


 待ち場所を守ってくれている言葉。


 ミルクティーはまだ淹れません。


 急がせない。


 でも、待っている。


 その温度がちょうどよかった。


 理沙さんが隣から覗き込むようにして言った。


「いい返事ね」


 しらいさんは驚いてスマホを胸に引き寄せた。


「見ないでください」


「見えてないわよ。顔で分かるだけ」


「顔に出すぎですか」


「かなり」


 理沙さんは少し笑った。


「遅れる。でも行く、と送れた?」


「はい」


「上出来ね」


「上出来ですか」


「ええ。遅れを言い訳にしなかった。約束も消さなかった」


 しらいさんは、スマホを見つめた。


 そう言われると、少しだけ胸が温かくなる。


「春日くんは、ここにいますって」


「いいじゃない」


「ミルクティーはまだ淹れませんって」


 理沙さんが、少しだけ本当に笑った。


「かなりいいわね」


「はい」


「普通の約束に、普通じゃないくらい丁寧に向き合ってる」


「それ、普通じゃないのでは」


「普通になる途中なのよ」


 また、途中。


 しらいさんは小さく頷いた。


 途中なら、今日の遅れも、約束の一部にできるのかもしれない。


    ◇


 撮影は、それから二十分ほどで終わった。


 予定より遅れた。


 でも、大きく崩れたわけではない。


 しらいさんは衣装を戻し、メイクを軽く直して、鞄を持つ。


 走らない。


 急ぎすぎない。


 でも、だらだらもしない。


 春日くんは、ここにいる。


 ミルクティーはまだ淹れていない。


 その二文が、足元にちょうどいい線を引いてくれていた。


 急がなくていい、とは言われていない。


 でも、急がされてもいない。


 しらいさんは、駅へ向かう車の中でスマホを見た。


 春日くんから追加のメッセージはない。


 それも助かった。


 見張られていない。


 でも、待たれている。


 その違いを、今日はちゃんと感じることができた。


    ◇


 春日悠真は、部屋で待っていた。


 動かない。


 まず、動かず待つ。


 昨日決めた通りだ。


 駅まで迎えに行きたい気持ちはあった。


 マンションの下まで降りようかとも思った。


 コンビニへ行って、何か甘いものを買ってこようかとも思った。


 でも、今日はやめた。


 しらいさんは、行くと言った。


 春日も、ここにいますと返した。


 なら、ここにいる。


 湯は沸かした。


 でも、ミルクティーはまだ淹れない。


 早すぎると冷める。


 遅すぎると、玄関で迎えたあとにバタバタする。


 だから、湯だけを用意しておく。


 それが、今日の待ち方だった。


 ローテーブルの上には、本が一冊。


 ペンが一本。


 少し斜めのクッション。


 いつもの場所。


 消さない場所。


 春日はスマホを伏せずに置き、深く息を吐いた。


 待つことは、何もしないことではない。


 何度も聞いた言葉を、自分の中で繰り返す。


 今、春日は待っている。


 不安を動かさずに。


 場所を守りながら。


    ◇


 しらいさんから、マンションに着いたというメッセージは来なかった。


 それでよかった。


 連絡のたびに、約束が少しずつ確認事項になってしまう気がしたから。


 呼び鈴が鳴ったのは、予定より少し遅れた時間だった。


 春日は立ち上がる。


 扉へ向かう。


 開ける前に、ほんの少しだけ息を整えた。


 普通のミルクティーの日。


 予定より少し遅れたけれど、消えなかった日。


 ドアを開ける。


 しらいさんが立っていた。


 少しだけ息が上がっている。


 走ったわけではないのだろう。


 でも、少し急いだのが分かる。


 柔らかい色のニット。

 動きやすそうなスカート。

 疲れなさそうで、少しだけかわいい服。


 春日は、一瞬言葉を失いかけた。


 でも、言うべき言葉は決めていない。


 決めすぎないようにしていた。


 だから、今出る言葉を出した。


「おかえりなさい」


 しらいさんは、少しだけ目を細めた。


「ただいま」


 それから、少し遅れて言う。


「遅れた」


 謝る直前の声だった。


 春日は、受け取りすぎないように、でも流さないように答えた。


「来てくれて嬉しいです」


 しらいさんは、少しだけ固まった。


 それから、ふっと力を抜いた。


「それ、今日助かる」


「よかったです」


「出た」


「出ます」


 いつものやり取り。


 それが出たことで、玄関の空気が少しだけ普通になった。


    ◇


 部屋に入ると、ローテーブルはいつものままだった。


 本が一冊。


 ペンが一本。


 少し斜めのクッション。


 マグカップは、まだ棚の中。


 蜂蜜も、まだ棚の中。


 しらいさんは、それを見て言った。


「ミルクティー、まだだった」


「はい」


「約束通り」


「はい」


「助かる」


 春日くんは、少しだけ笑ってキッチンへ向かった。


 湯は、ちょうどいい温度で待っていた。


 茶葉を入れる。


 ミルクを温める。


 蜂蜜を出す。


 いつもの蜂蜜。


 しらいさんは、ローテーブルの前に座りながら、その動きを見ていた。


「春日くん」


「はい」


「今日、ちょっと急いだ」


「はい」


「走ってはない」


「はい」


「でも、少し急いだ」


「はい」


「だから、少し息が上がってる」


「はい」


「でも、来た」


「はい」


 春日くんは、ミルクティーを置いた。


 カップを青灰色のコースターへ。


 ことん。


 今日は、遅れたけれど消えなかった音だった。


「来てくれて嬉しいです」


 春日くんがもう一度言った。


 しらいさんは、少しだけ照れた顔で言う。


「二回目」


「はい」


「一回でいい」


「すみません」


「でも、嫌じゃない」


 ミルクティーを一口飲む。


 温かい。


 少しだけ甘い。


 いや、普通の甘さ。


 でも、今日は特別に感じた。


「普通のミルクティーだ」


「はい」


「普通?」


「たぶん」


「少し遅れたけど」


「はい」


「普通の中に入る?」


「入ると思います」


 しらいさんは、カップを両手で包んだ。


「よかった」


    ◇


 今日は、すぐにノートを開かなかった。


 撮影の話もしなかった。


 少しだけ、沈黙があった。


 しらいさんは部屋を見て、春日くんはミルクティーを飲んでいた。


 沈黙は、少しぎこちない。


 けれど、悪くない。


 しらいさんが先に言った。


「理由がないと、変な感じ」


 春日くんが頷く。


「はい」


「今日は、撮影が押したから理由ができた」


「はい」


「でも、それだけじゃない」


「はい」


「普通のミルクティーに来た」


「はい」


「ちょっと照れる」


「かなり照れます」


「春日くんも?」


「はい」


「分かりにくい」


「すみません」


「謝らないで」


 二人は少し笑った。


 普通の笑いだった。


 その普通さが、少しくすぐったい。


「春日くん」


「はい」


「理由がない日を増やしたい、って前に言った?」


「言いました」


「もう一回言って」


 春日くんは、少しだけ驚いた顔をした。


 でも、すぐに言った。


「理由がない日を増やしたいです」


 しらいさんは、ゆっくり頷いた。


「うん」


「でも、理由がある日もあっていいです」


「今日みたいに?」


「はい」


「遅れたから」


「はい」


「でも、行く」


「はい」


「それも、普通の中に入れていい?」


「いいと思います」


 しらいさんは、ミルクティーを飲んだ。


 胸の中にあった小さな緊張が、少し溶けた。


    ◇


 青灰色のノートは、しばらくしてから開いた。


 今日は開かなくてもいいと思っていた。


 でも、一文だけ書きたくなった。


 しらいさんはペンを持つ。


 春日くんは、何も言わずに待っていた。


 しらいさんは書いた。


『遅れる、でも行く。初めて、約束を消さずに遅れを伝えた。』


 書いてから、少しだけ笑った。


「今日の一文」


 春日くんに見せる。


 彼は、ゆっくり読んだ。


「いい一文です」


「うん」


「遅れる、と、でも行く、が両方あるのがいいです」


「そう」


「遅れたことだけじゃない」


「はい」


「行くことも消していない」


「はい」


「今日、かなり大事でした」


「うん」


「春日くんの“ここにいます”も助かった」


「よかったです」


「ミルクティーはまだ淹れません、も」


「余計だったかと思いました」


「余計じゃなかった」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


「急がせないけど、待ってる感じがした」


「はい」


「見張られてないけど、場所がある感じ」


「それを目指しました」


「成功」


 春日くんは、少しだけ安心した顔をした。


「ありがとうございます」


「出た」


「出ます」


    ◇


 帰る時間になった。


 普通のミルクティーの日は、思ったより短く感じた。


 大きな話はしていない。


 泣いていない。


 重い相談もしていない。


 でも、来た。


 少し遅れたけれど、来た。


 それだけで、今日は十分だった。


 しらいさんはマグカップを洗い、春日くんが拭いた。


 水の音。


 布巾の音。


 棚に戻す音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割九分」


「高いですね」


「普通のミルクティー、できたから」


「はい」


「残り一分は?」


「照れ」


「それは残りますね」


「うん」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「少し遅れたけど」


「はい」


「来た」


「はい」


「普通の中に入れて」


「もちろんです」


「次も、理由があるかもしれない」


「はい」


「なくても、来るかもしれない」


「はい」


「でも、今日は来た」


「はい」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「理由があっても、なくても」


「ここにいます」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、ローテーブルを見た。


 普通のミルクティーの日は、少し遅れて始まった。


 でも、消えなかった。


 遅れる、でも行く。


 ここにいます。


 ミルクティーはまだ淹れません。


 来てくれて嬉しいです。


 どれも短い言葉だった。


 でも、その短い言葉が、今日の普通を支えていた。


 春日は、スマホのメモを開く。


『普通のミルクティー、できた』


 そう書いてから、少し照れて消した。


 代わりに、こう書いた。


『普通のミルクティー、少しできた』


 それくらいが、今日にはちょうどよかった。

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