第167話 しらいさん、行く理由を探してしまう
金曜が近づくほど、しらいさんは理由を探すようになった。
春日くんの部屋へ行く理由。
普通のミルクティー。
そう決めたはずなのに、朝起きた瞬間から、頭のどこかで別の理由を探している。
今日の撮影が少し疲れたから。
喉が重いから。
紗季さんの沈黙を持ち帰る場所が必要だから。
青灰色のノートに見せたい一文があるから。
約束したから。
金曜だから。
どれも嘘ではない。
嘘ではないけれど、一番奥にある理由ではない気がした。
しらいさんは、楽屋の鏡の前でリップを塗り直しながら、自分の目を見た。
「……理由、いる?」
小さく呟く。
鏡の中の自分は、答えなかった。
理由があれば楽だった。
撮影が重かったから行く。
声を戻したいから行く。
ノートを見せたいから行く。
そう言えれば、自分の気持ちを見なくて済む。
でも、金曜は違う。
普通のミルクティー。
何かを処理するためではなく、誰かに助けてもらうためだけでもなく、ただ会いに行く日。
その「ただ」が、どうしてこんなに怖いのだろう。
しらいさんはスマホを開いた。
春日くんとのやり取りを見返す。
『金曜なら』
『普通のミルクティーで』
『ここにいます』
短い言葉が並んでいる。
どれも、重すぎない。
でも、軽くもない。
しらいさんは、その画面をしばらく見て、そっと閉じた。
金曜は、まだ来ていない。
でも、もう近くまで来ていた。
◇
その日の撮影は、紗季の静かな場面だった。
水曜が終わったあと。
紗季は、まだ美緒へ新しい言葉を送っていない。
ただ、自分が送った『ごめん』と、美緒から返ってきた『うん』を消さずにいる。
それだけの場面。
しらいさんは、椅子に座って台本を読んでいた。
今日の紗季は、前へ進むわけではない。
でも、戻りもしない。
ただ、水曜を消さずに持っている。
その静けさは、金曜を前にした自分にも少し重なった。
水曜が消えなかったように、金曜も消したくない。
でも、そこへ行く理由をまだ探している。
理沙さんが楽屋に入ってきたのは、そのときだった。
「喉は?」
「九割三分です」
「私の評価では九割二分」
「今日は近いですね」
「喉はね」
「喉は?」
理沙さんは、紙コップのコーヒーを机に置き、しらいさんの顔を見た。
「理由を探している顔をしている」
しらいさんは、一瞬だけ黙った。
「そんなに分かります?」
「分かるわ」
「隠してたんですけど」
「隠せていないわね」
即答だった。
しらいさんは、少しだけ肩を落とした。
「金曜のことですか」
「そうでしょう」
「はい」
「行く理由を探している」
「……はい」
理沙さんは、椅子に座った。
「撮影が疲れたから?」
「それもあります」
「ノートを見せたいから?」
「それもあります」
「喉を戻したいから?」
「それも、少し」
「全部、嘘ではない」
「はい」
「でも、一番の理由ではない」
しらいさんは、台本の端を指でなぞった。
そこを見ていないと、顔に出すぎそうだった。
「一番の理由って、何ですかね」
「自分で分かっているでしょう」
「分かってないふりをしたいです」
「でしょうね」
理沙さんは、少しだけ笑った。
からかう笑いではない。
見透かした上で、逃げ道を少しだけ残してくれる笑いだった。
「ただ会いに行きたい」
その言葉が、静かに置かれた。
しらいさんは、すぐには返事ができなかった。
ただ会いに行きたい。
それは、あまりにも簡単で、あまりにも怖い言葉だった。
「理由がないと行けない関係から」
理沙さんは続けた。
「理由がなくても行ける関係になる途中ね」
昨日も聞いた言葉だった。
でも今日は、もっと近くに刺さった。
「途中、ですか」
「ええ」
「まだ、下手でもいい?」
「当たり前でしょう」
「普通に行くの、下手でも?」
「下手でいいわよ」
理沙さんは、あっさり言った。
「そもそも、普通なんて最初から上手な人のほうが少ないわ」
「理沙さんも?」
「私の話はいいの」
「逃げた」
「逃げたわ」
しらいさんは、少し笑ってしまった。
理沙さんも、ふっと口元を緩めた。
「白瀬さん」
「はい」
「理由を探すこと自体は悪くないわ」
「はい」
「でも、理由で本音を隠しすぎないこと」
「……はい」
「今日は、そこ」
しらいさんは頷いた。
理由を探している。
でも、本当はただ会いに行きたい。
まだ、それを春日くんには言えないかもしれない。
でも、自分の中でだけは、なかったことにしない。
◇
撮影は、紗季の部屋セットで行われた。
夜。
紗季はテーブルの前に座り、スマホを見ている。
『ごめん』
『うん』
そこから先は、まだない。
監督が説明する。
「白瀬さん、今日は何も送らない場面です」
「はい」
「でも、何も始まっていない場面ではありません」
「はい」
「水曜は終わった。でも、消えていない」
「はい」
「紗季は、その続きへ行く理由をまだ持っていません」
しらいさんは、その言葉に少しだけ反応した。
理由。
また出てきた。
監督は続ける。
「でも、続きがないわけではない」
「はい」
「そこを、静かに」
「はい」
一度目の本番。
紗季はスマホを見る。
やり取りを見つめる。
返信欄に指を置きかける。
でも、何も打たない。
しらいさんは、その沈黙に少しだけ意味を込めすぎた。
何かを言いたいけれど言えない人に見えた。
カット。
監督が言う。
「今のは、紗季が続きの言葉を探しすぎています」
「はい」
「まだ、そこまで明確ではありません」
「はい」
「続きがあることすら、本人にはよく分かっていない」
「はい」
二度目。
今度は、淡すぎた。
スマホを見るだけになってしまい、水曜の余韻が消えた。
カット。
監督が少し笑う。
「今度は水曜が軽いですね」
「はい」
「難しいですが、消えていない。でも、動き出してもいない。その間です」
その間。
しらいさんは頷いた。
三度目。
紗季はテーブルの前に座る。
スマホを見る。
『ごめん』
『うん』
短い言葉。
短いまま残っている。
紗季は返信欄に触れない。
けれど、すぐ画面を閉じもしない。
何かを送る理由はまだない。
でも、消す理由もない。
ただ、そのやり取りがそこにあることを確認する。
画面を閉じる。
伏せない。
テーブルに置く。
カット。
監督がモニターを確認し、頷いた。
「今のでいきましょう」
しらいさんは、静かに息を吐いた。
理由がなくても、残っているものがある。
その感覚が、少しだけ体に残った。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は唐揚げ弁当を開けながら、春日の顔をじっと見た。
「お前、今日は理由を聞かれたら困る顔してる」
「また作ったな」
「今作った」
「作るな」
三崎は唐揚げを一つ食べた。
「で、何の理由だ」
「何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「一般論として」
「もうその入り方、信用ゼロだからな」
春日は少しだけ苦笑した。
「理由がないのに会いに行くのって、怖いよな」
三崎は、唐揚げを持ったまま少し目を細めた。
「普通に怖い」
「普通に?」
「うん。だって、理由がないと自分の気持ちが丸出しになるだろ」
春日は箸を止めた。
また、核心に来る。
「仕事のついでとか、相談があるとか、渡すものがあるとか、そういう理由があれば楽なんだよ」
「うん」
「でも、ただ会いたいから行くってなると、逃げ場がない」
「逃げ場」
「そう。自分の好意というか、興味というか、会いたさというか、そういうのが見える」
春日は、しらいさんのことを思った。
彼女もきっと、似た怖さを抱えている。
「三崎」
「何個?」
「今日は二十個」
「安定の大台」
「かなりいい」
「現物は?」
「心の中」
「やっぱり」
三崎はもうあまり期待していない顔で唐揚げを食べた。
「でもさ」
「うん」
「理由を探すのも悪いことじゃないと思うぞ」
「そうか」
「ただ会いたい、をいきなり直視するのが怖いなら、理由を杖にしてもいいだろ」
「杖」
「うん。でも、杖で殴り始めたらだめ」
「どういう意味だ」
「理由を相手に押しつけるなってこと」
春日は少し笑った。
表現は雑だが、言いたいことは分かる。
「理由があるから来た、って言いすぎると」
三崎は続けた。
「相手は、理由がなきゃ来ないんだって思うかもしれない」
春日は、その言葉で笑えなくなった。
これは、しらいさんにも、自分にも必要な言葉だった。
◇
夕方、しらいさんは青灰色のノートを開いた。
今日の一文を書く前に、少しだけ手が止まった。
理由を探していた。
でも、本当はただ会いに行きたかった。
そのまま書くのは、少し怖い。
けれど、今日書かなければ、金曜に持ち越してしまう気がした。
ペンを持つ。
書く。
『理由を探していた。でも、本当はただ会いに行きたかった。』
書いた瞬間、心臓が少しだけ跳ねた。
思っていたより、はっきりした言葉だった。
写真を撮るか迷った。
これは、春日くんに送っていい一文なのか。
送ったら、重くならないか。
春日くんはどう受け取るか。
でも、しらいさんは送った。
既読はすぐについた。
返事は少しだけ遅れた。
その数秒が長かった。
『読みました』
『かなり大事な一文ですね』
しらいさんは、画面を見つめた。
大事。
重い、ではなく。
『重くない?』
送ってから、少しだけ後悔した。
けれど、すぐに返ってきた。
『少し重いです』
しらいさんは、息を止めた。
次の文が続く。
『でも、嬉しいです』
胸の奥が、少し緩んだ。
『三崎が近いことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『理由がないと、自分の気持ちが見えるから怖い』
『でも、理由を探すのも悪いことではない。ただ、理由がなきゃ来ないと思わせすぎないほうがいい、と』
しらいさんは、少し笑った。
『三崎さん』
『今日は唐揚げ二十個?』
『はい』
『現物は?』
『心の中です』
『理由をつけて現物にして』
『理由を探します』
『そこは探して』
春日くんとのやり取りで、少しだけ息が戻った。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
今日の「ただいま」は、少しだけ照れた。
部屋に入る。
ローテーブルには、いつものもの。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
いつもの場所。
消えていない場所。
春日くんがミルクティーを作る。
今日は蜂蜜普通。
「今日は普通?」
「理由を増やしすぎない日なので」
「ちょっと分かる」
カップが置かれる。
ことん。
今日は、理由を置く音だった。
「春日くん」
「はい」
「今日の一文、送るの怖かった」
「はい」
「重いかなって思った」
「少し重かったです」
「正直」
「はい」
「でも、嬉しいって言った」
「はい」
「それ、助かった」
「よかったです」
しらいさんはミルクティーを飲んだ。
少し冷ます前に口をつけてしまい、ほんの少し熱かった。
「理由を探してた」
「はい」
「金曜に行く理由」
「はい」
「撮影が疲れたから」
「はい」
「ノートを見せたいから」
「はい」
「喉が重いから」
「はい」
「約束したから」
「はい」
「金曜だから」
「はい」
「全部嘘じゃない」
「はい」
「でも、一番ではなかった」
春日くんは、静かに聞いていた。
急かさない。
結論を先に言わない。
しらいさんは、カップを両手で包んだ。
「本当は、ただ会いに行きたかった」
言ってしまった。
部屋の中に、その言葉が落ちる。
重い。
でも、思ったより壊れなかった。
春日くんは、すぐには返事をしなかった。
少しだけ目を伏せて、それから言った。
「ありがとうございます」
「出た」
「出ます」
「そこは、来てくれて嬉しいです、じゃないの?」
「言いたいです」
「言ってもいいよ」
「来てくれて嬉しいです」
しらいさんは、少しだけ笑った。
「遅い」
「すみません」
「謝らないで」
「はい」
そのやり取りで、部屋の空気が少し柔らかくなった。
◇
しらいさんは青灰色のノートを開いた。
今日の一文を見せる。
『理由を探していた。でも、本当はただ会いに行きたかった。』
春日くんは、もう一度ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「かなり踏み込んでいます」
「踏み込みすぎ?」
「いえ」
「本当?」
「はい。ただ、受け取る側も少し照れます」
「照れてる?」
「かなり」
「分かりにくい」
「すみません」
「謝らないで」
しらいさんは、ノートを閉じた。
「理沙さんに言われた」
「はい」
「理由がないと行けない関係から、理由がなくても行ける関係になる途中だって」
「はい」
「途中なら、下手でもいいかなって」
「いいと思います」
「春日くんも途中?」
「はい」
「ただ待ちたいって言うの、怖い?」
「怖いです」
「でも、待ちたい?」
「はい」
「理由は?」
春日くんは少し考えた。
「しらいさんが来る場所を消したくないから」
「それ、理由あるじゃん」
「ありますね」
「でも、一番?」
「一番は」
春日くんは、少しだけ言葉を止めた。
「会いたいから、だと思います」
しらいさんは、目を伏せた。
照れた。
かなり。
「春日くん」
「はい」
「今日、ずるい」
「すみません」
「謝らないで」
二人で少し笑った。
理由がなくても会いたい。
その言葉は、思っていたより普通ではなかった。
でも、少しだけ普通に近づいている気もした。
◇
少しして、春日くんが言った。
「理由を持ってきてもいいと思います」
「え?」
「金曜に」
「理由を?」
「はい」
「ただ会いに行く日なのに?」
「はい」
「矛盾しない?」
「しないと思います」
春日くんは、カップを持ったまま続ける。
「ただ会いに来たい気持ちが一番でも、撮影の話をしてもいいです」
「うん」
「ノートを見せてもいいです」
「うん」
「喉が疲れたと言ってもいいです」
「うん」
「理由を全部禁止したら、それも普通じゃなくなる気がします」
しらいさんは、少しだけ驚いた。
確かにそうだった。
普通に行くために、理由を全部捨てなければならないわけではない。
理由があってもいい。
ただ、その後ろにある気持ちを、なかったことにしなければいい。
「春日くん」
「はい」
「今日、かなりいい」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
「でも、今日のは本当に助かる」
しらいさんは、ミルクティーを飲んだ。
今度は、ちょうどいい温度だった。
◇
帰る時間になった。
今日は、春日くんがマグカップを洗った。
「理由を受け取った日なので」
「洗い物の理由としては弱い」
「でも、洗います」
「じゃあ任せる」
水の音。
カップを拭く音。
棚に戻す音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割九分」
「高いですね」
「理由を持って行ってもいいって分かったから」
「はい」
「ただ会いたいも、消さなくていい」
「はい」
「残り一分は?」
「金曜の照れ」
「かなり残りそうですね」
「うん」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「金曜、理由を持って行くかもしれない」
「はい」
「でも、一番はただ会いに行きたい、かもしれない」
「受け取ります」
「重い?」
「少し」
「嬉しい?」
「かなり」
「正直」
「はい」
しらいさんは笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「金曜なら」
「いつもの場所で」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。
理由を探していた。
でも、本当はただ会いに行きたかった。
その一文は、部屋に少し照れくさく残っていた。
理由は、あっていい。
でも、理由だけにしなくてもいい。
春日はスマホのカレンダーを開いた。
金曜。
『普通のミルクティー』
その予定を見ても、前ほど構えなかった。
普通は、理由が何もないことではない。
理由があっても、なくても、会いたい気持ちを消さないこと。
今は、そう思えた。




