第166話 春日、普通の部屋を作ろうとして失敗する
春日悠真は、クッションの角度で十五分悩んでいた。
自分でも、かなりまずいと思っている。
クッションだ。
ただのクッション。
座るためのものでも、背中に当てるためのものでもなく、なんとなく部屋に置いてあるだけの、少し柔らかい布の塊。
それなのに、春日はその布の塊を右へ三センチ動かし、首を傾げ、左へ二センチ戻し、また首を傾げていた。
正面から見ると、きちんとしすぎている。
少し斜めにすると、生活感が出る。
でも、斜めにしたことが分かる斜めは、演出っぽい。
自然な斜め。
自然な生活感。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、春日はクッションを床に置き、両手で顔を覆った。
「自然な生活感って、何だ……」
声に出した瞬間、自分の負けを認めた気がした。
普通の部屋。
普通のミルクティー。
普通に待つ。
そう決めたはずだった。
迎賓館にしない。
高級蜂蜜を買わない。
茶葉を調べすぎない。
マグカップの位置を儀式みたいに決めない。
そのはずだった。
けれど、普通を意識し始めた瞬間、部屋のすべてが不自然に見えてきた。
ローテーブルは拭きすぎると生活感が消える。
でも拭かないのは違う。
本を一冊置くと自然に見える。
でも、置いたことが見えると不自然だ。
ペンは出しておくべきか。
読みかけの本は残すべきか。
ティッシュの箱は正面を向けるべきか。
それとも少しずらすべきか。
春日は、テーブルの上に置いた本を見た。
昨日読みかけていた本だ。
そのまま置いておけば自然。
でも、しらいさんが来る日を意識して「そのまま置いた」時点で、自然ではない気がする。
片づけると、整えすぎている。
置くと、置いた自分が見える。
春日は、本を手に取った。
棚へ戻す。
三秒後、また取り出してテーブルへ置く。
さらに三秒後、少しだけ位置を変える。
そこで、自分の手を見つめた。
「俺は、何をしているんだ」
昨日も似たことを言った気がする。
成長していない。
いや、むしろ悪化している。
金曜はまだ来ていない。
それなのに、春日の部屋はすでに金曜に負け始めていた。
◇
昼休み、三崎は春日の顔を見るなり言った。
「お前、生活感を演出して失敗した顔してるぞ」
「だから顔の種類が細かすぎる」
「今作った」
「作るな」
三崎は唐揚げ弁当の蓋を開けながら、やたら楽しそうだった。
「当たりか」
「……一部」
「一部って顔じゃないな。全面的に当たりだな」
「お前は本当に面倒なところだけ鋭い」
「外側の番人だからな」
「今日は白瀬アカリ関係ない」
「あるだろ」
「何でだ」
「お前が普通の部屋を作ろうとして壊れてるから」
春日は箸を持ったまま黙った。
三崎は唐揚げを一つ食べ、深く頷いた。
「はい当たり」
「……クッションの角度で少し悩んだ」
「少し?」
「十五分」
「重症だな」
「言うな」
「本は?」
「出したり戻したりした」
「ペンは?」
「置いた」
「自然な生活感として?」
「言うな」
三崎は腹を抱えるほどではないが、かなり楽しそうに笑った。
「春日、それはもう普通じゃない」
「分かってる」
「いや、分かってない。自然な生活感を演出し始めた時点で、自然じゃない」
春日は弁当の白米を見つめた。
言い返せない。
まったく言い返せない。
「普通にしたいんだよ」
「知ってる」
「迎賓館にしないようにしてる」
「でも今度はモデルルームになりかけてる」
「やめろ」
「“こちらが日常感のあるリビングです”って案内されそう」
「やめろ」
「白瀬アカリ内覧会」
「やめろ」
三崎は笑いながら唐揚げをもう一つ食べた。
それから、少しだけ真面目な声に戻る。
「でもさ、普通の部屋って、作るもんじゃないだろ」
「うん」
「いつもの部屋を消さないことだろ」
春日は、箸を止めた。
「いつもの部屋を消さない」
「そう。汚くしておけって意味じゃないぞ」
「分かってる」
「でも、相手が来るからって、自分の生活の跡を全部消したら、普通の部屋じゃなくなる」
「うん」
「逆に“生活感あります”って置き直しても、それはそれで普通じゃない」
「刺すな」
「刺すために言ってる」
三崎は、妙にすっきりした顔で味噌汁を飲んだ。
「普通のミルクティーなんだろ?」
「うん」
「なら、いつもの部屋でいいんじゃないの」
「その、いつもの部屋が分からなくなってる」
「重症」
「分かってる」
「じゃあ今日の唐揚げは?」
「二十個」
「大台維持」
「ただし心の中」
「もうそれ聞き飽きた」
「普通に現物は出ない」
「普通にケチだな」
春日は少し笑った。
笑うと、自分がクッションに負けていたことが少し馬鹿らしくなった。
でも、笑えること自体がありがたかった。
◇
春日は帰宅すると、まず何もしなかった。
部屋の入口に立ち、靴を脱いで、鞄を置く。
手を洗う。
水を飲む。
そのあと、ローテーブルの前に座った。
すぐに片づけない。
すぐに整えない。
まず、いつもの部屋を見る。
本が一冊ある。
ペンが一本ある。
クッションは少し斜めになっている。
ティッシュの箱は、少しだけ横を向いている。
マグカップは棚の中。
蜂蜜も棚の中。
コースターはいつもの場所。
完璧ではない。
でも、見苦しいわけでもない。
この部屋で、しらいさんは何度もミルクティーを飲んだ。
ノートを開いた。
笑った。
黙った。
帰ってきた、と言った。
また行ってくる、と言った。
なら、この部屋でいいのかもしれない。
春日は、テーブルの上の本を手に取った。
棚に戻そうとして、やめる。
いや、これは本当に読んでいた本だ。
置いておく。
ペンもそのまま。
クッションも、そのまま。
ただ、テーブルだけ軽く拭いた。
これは演出ではない。
普通に、拭きたかったからだ。
「普通を作るのではなく、いつもの場所を消さない」
春日は、三崎の言葉を少し変えて呟いた。
すると、少しだけ肩の力が抜けた。
◇
その日の夕方、しらいさんからメッセージが届いた。
『撮影終わった』
春日はすぐに返信する。
『おつかれさまでした』
少し迷って、続けた。
『普通の部屋を作ろうとして失敗しました』
既読。
しばらく間があった。
『何をしたの』
春日は、正直に書いた。
クッションの角度で十五分悩んだこと。
本を出したり戻したりしたこと。
ペンを自然な生活感として置こうとしたこと。
三崎に「自然な生活感を演出し始めた時点で自然じゃない」と言われたこと。
返事はすぐに来た。
『春日くん』
『はい』
『かなり春日くん』
『褒めていますか』
『少し』
『少しですか』
『内覧会は困る』
春日は思わず笑った。
三崎の「白瀬アカリ内覧会」を伝えたことを少し後悔した。
『内覧会はしません』
『モデルルームも困る』
『やめます』
『でも、整えようとしてくれたのは少し嬉しい』
その一文で、春日は手を止めた。
少し嬉しい。
でも困る。
しらいさんは、いつも両方を言ってくれる。
春日はそれがありがたかった。
『いつもの場所を消さないようにします』
送る。
既読。
『それ、いいね』
『三崎の言葉からです』
『外側の番人』
『はい』
『今日は唐揚げ二十個?』
『はい』
『現物は?』
『心の中です』
『普通にあげて』
『普通が難しいので』
『便利に使いすぎ』
春日は笑った。
スマホを伏せずに置く。
金曜のことを考えると、まだ少し緊張する。
でも、昨日よりは息がしやすかった。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
金曜ではない。
でも、普通の部屋がどうなったのか見たい、と言っていた。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
しらいさんは部屋に入るなり、ローテーブルを見た。
本が一冊。
ペンが一本。
少し斜めのクッション。
ティッシュの箱は少し横向き。
マグカップは棚の中。
蜂蜜も棚の中。
しらいさんは、しばらく眺めてから頷いた。
「内覧会じゃない」
「はい」
「モデルルームでもない」
「はい」
「普通」
「はい」
「少し頑張った普通」
「……分かりますか」
「分かる」
「やっぱり」
春日くんは少し肩を落とした。
しらいさんは笑った。
「でも、悪くない」
「本当ですか」
「うん。頑張って普通にしすぎてない」
「よかったです」
「でも、本は置いた?」
「本当に読んでいました」
「ペンは?」
「本当に使っていました」
「クッションは?」
「十五分悩んだ末に、もう諦めました」
「そこは春日くん」
しらいさんはローテーブルの前に座った。
春日くんがミルクティーを作る。
今日は蜂蜜普通。
カップを置く。
ことん。
今日は、普通の部屋が少し戻った音だった。
「春日くん」
「はい」
「普通を作るのって、やっぱり変だね」
「はい」
「でも、普通を壊さないようにするのは大事」
「はい」
「いつもの場所を消さない」
「はい」
「今日、それがいいと思った」
春日くんは少しだけ安心した顔をした。
「三崎に感謝です」
「唐揚げ現物出してあげて」
「検討します」
「絶対出ないやつ」
「はい」
「正直」
二人で笑った。
◇
しらいさんは鞄から青灰色のノートを出した。
「今日は、春日くんの回」
「俺の回ですか」
「うん」
ペンを持ち、少しだけ考えてから書く。
『普通を作るのではなく、いつもの場所を消さない。』
それを春日くんに見せる。
彼はゆっくり読んで、少しだけ黙った。
「……かなり刺さります」
「刺した」
「刺されました」
「でも、私にも刺さる」
「はい」
「金曜、普通に行こうとしすぎると、たぶん変になる」
「はい」
「だから、いつもの私を消さない」
「はい」
「撮影の話もしていい」
「はい」
「ノートも開いていい」
「はい」
「でも、それが理由じゃなくてもいい」
「はい」
「普通って、全部を消して何もなくすることじゃないんだね」
春日くんは、静かに頷いた。
「いつものものが、そこにあることかもしれません」
「うん」
「この部屋も、しらいさんも」
「私も?」
「はい」
「いつもの私って、何?」
春日くんは少し考えた。
「来た、と言う」
「うん」
「謝らないで、と言う」
「うん」
「知ってる、と言う」
「うん」
「ミルクティーの蜂蜜の量を確認する」
「かなり見られてる」
「はい」
「それ、消さなくていい?」
「消さないでほしいです」
しらいさんは、少しだけ照れたように目を伏せた。
「春日くん、そういうところ」
「すみません」
「謝らないで」
「はい」
「それも、いつもの」
二人は少し笑った。
普通が、少しだけ部屋に馴染んできた気がした。
◇
ミルクティーを飲みながら、二人は金曜の話をした。
特別にしすぎないこと。
でも、雑にしないこと。
何も話さなくてもいいこと。
でも、話したいことがあれば話していいこと。
ノートを開いてもいい。
開かなくてもいい。
プリンを買ってもいい。
買わなくてもいい。
「春日くん」
「はい」
「普通って、自由度が高すぎて怖いね」
「はい」
「重い日は、ある程度型がある」
「はい」
「普通の日は、選択肢が多い」
「はい」
「だから迷う」
「はい」
「でも、全部決めすぎたら普通じゃない」
「はい」
「面倒くさい」
「かなり」
しらいさんは、ミルクティーを一口飲んだ。
「金曜、普通の予定表は作らないでね」
「作りません」
「何時にミルクティー、何時に沈黙、何時に帰宅とか」
「それはかなり怖いです」
「やってそう」
「少し考えました」
「春日くん」
「すみません」
「謝らないで。でも禁止」
「はい」
二人で笑った。
笑える禁止事項が増えていくのは、少し楽しかった。
◇
帰る時間になった。
今日は、しらいさんがマグカップを洗った。
「いつもの場所を使ったので」
「はい」
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割九分」
「高いですね」
「普通の部屋が、内覧会じゃなかったから」
「よかったです」
「残り一分は?」
「金曜の自由度」
「確かに難しいですね」
「うん。でも、少し楽しみ」
春日くんの目元が少し柔らかくなった。
「俺もです」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「金曜、いつもの場所を消さないで」
「はい」
「私も、いつもの私を消さない」
「はい」
「でも、少しだけかわいくして行くかもしれない」
「楽しみにしています」
「見張らないで」
「はい」
「でも、待ってて」
「もちろんです」
しらいさんは笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「金曜なら」
「いつもの場所で」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、ローテーブルを見た。
本が一冊。
ペンが一本。
少し斜めのクッション。
普通を作るのではなく、いつもの場所を消さない。
その一文は、部屋にすっと馴染んでいた。
春日は、クッションを直そうとして、やめた。
少し斜めのままでいい。
たぶん、それが今日の普通だった。




