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第165話 普通のミルクティーが、いちばん難しい

金曜が近づいていた。


 それだけのことなのに、しらいさんは朝から少し落ち着かなかった。


 撮影が重い日なら、春日くんの部屋へ行く理由がある。


 声を戻すため。

 紗季さんの沈黙を置くため。

 青灰色のノートを見せるため。

 ミルクティーを飲んで、撮影現場から自分へ帰ってくるため。


 でも、金曜は違う。


 普通のミルクティー。


 ただ、それだけ。


 その「ただ」が、妙に怖かった。


 理由がない。


 理由がないのに行く。


 誰かの部屋へ、ただ会いに行く。


 しらいさんは、楽屋の鏡の前で髪を直しながら、ふと自分の顔を見た。


「……普通って、何?」


 小さく呟いた声は、鏡の向こうの自分にだけ届いた。


 普通に行く。


 普通に座る。


 普通にミルクティーを飲む。


 普通に話す。


 考えれば考えるほど、普通から遠ざかる。


 普通は、準備すればするほど普通ではなくなる気がした。


 昨日の水曜は、来られなかった約束だった。


 でも、消えなかった。


 駅の反対側まで来た。

 ごめんを送った。

 うんが返ってきた。


 予定通りではなかった。


 でも、何もなかったわけではなかった。


 では、金曜はどうなるのだろう。


 来られたら、それは普通なのか。


 来られなかったら、また消えない約束になるのか。


 しらいさんはスマホを開いた。


 カレンダーには、金曜の予定がある。


『普通のミルクティー』


 その文字を見た瞬間、胸の奥が少しだけ鳴った。


 嬉しい。


 怖い。


 その二つが、同じ場所にあった。


    ◇


 春日悠真も、朝から落ち着かなかった。


 ローテーブルを見ているだけで、いろいろなことが気になる。


 白いマグカップ。


 青灰色のコースター。


 蜂蜜。


 少し離れたスプーン。


 いつもと同じにすればいい。


 そう分かっている。


 だが、いつもと同じにしようと考えた瞬間、いつもと同じではなくなる。


 コースターは最初から出しておくべきか。


 マグカップは棚に入れておくべきか。


 蜂蜜は出すと気合いが入りすぎている気がする。


 でも、出していないと準備していないようにも見える。


 春日は、棚の前で小さく息を吐いた。


「普通とは」


 また、その問いに戻ってしまう。


 普通のミルクティー。


 普通の日。


 普通に待つ。


 言葉にすればするほど、難しい。


 重い撮影のあとなら、何をすればいいか分かる。


 まず迎える。

 ミルクティーを出す。

 話したければ聞く。

 話せなければ黙る。

 ノートがあれば読む。


 でも、普通の日には役割が少ない。


 役割が少ないから、自分で余計な役割を作りそうになる。


 迎賓館にしてはいけない。


 しらいさんに言われた言葉を思い出す。


 普通でいい。


 でも、待ってて。


 春日はローテーブルに置きかけた蜂蜜を、いったん棚に戻した。


 まだ早い。


 そう思ってから、また棚を見た。


 戻したことすら、意識しすぎている。


「……本当に難しいな」


 春日は、ひとりで苦笑した。


    ◇


 昼休み、三崎は唐揚げ弁当を開けながら、春日の顔を見るなり言った。


「お前、普通に負けてる顔してるぞ」


「また新しい顔を作るな」


「今作った」


「毎日作るな」


 三崎は唐揚げを一つつまみ、しばらく春日を観察した。


「何でもない約束が近いな」


 春日は味噌汁の蓋を開ける手を止めた。


「なぜ分かる」


「分かるだろ、その顔は」


「どんな顔だ」


「特別な日より普通の日のほうが緊張してる顔」


 春日は黙った。


 当たっている。


 悔しいほど当たっている。


 三崎は得意げに笑い、唐揚げを食べた。


「普通の日ってさ、案外怖いよな」


「お前にもそういうことあるのか」


「あるよ。めちゃくちゃある」


「意外だな」


「失礼だな」


 三崎は少しだけ口を尖らせる。


「特別な日は、特別だから多少ぎこちなくても許されるんだよ」


「うん」


「でも、普通の日でぎこちなくなると、普通になれなかった感じがする」


 春日は、その言葉をゆっくり受け取った。


 普通になれなかった感じ。


 それは、まさに今の不安だった。


「失敗したら、普通になれない気がするんだよな」


 三崎は続けた。


「うん」


「普通の約束って、実はかなり高難度だぞ」


「そうだな」


「何も起きないことに耐える力がいる」


「何も起きないことに耐える力」


「そう。ドラマチックなことがあれば、そっちに乗れる。でも何もないと、自分たちの間だけが残る」


 春日は箸を止めた。


 自分たちの間だけが残る。


 普通のミルクティーとは、たぶんそれだ。


 撮影の話も、ノートも、紗季の重さもない。


 それでも一緒にいられるのか。


 その時間に耐えられるのか。


「三崎」


「何個?」


「今日は二十個」


「大台維持だな」


「かなり核心だった」


「現物は?」


「心の中で」


「普通にくれよ」


「普通が難しいって話をした直後に、普通に要求するな」


「それとこれとは別だろ」


 三崎は笑った。


 そして、少し真面目に言った。


「でも、お前が普通にしたいなら、やりすぎるなよ」


「分かってる」


「分かってる奴が一番やりすぎる」


「……否定できない」


「普通って、何も準備しないことじゃないぞ」


「うん」


「でも、準備したことを相手に背負わせないことだと思う」


 春日は、その言葉に小さく頷いた。


 今日も三崎は外さない。


 いや、外側の番人だから、外にいるくせに外さない。


    ◇


 その日の撮影は、比較的穏やかだった。


 紗季の場面も少ない。


 水曜が終わったあとの静かな余韻を、少しだけ置く日。


 撮影の合間、しらいさんは理沙さんに声をかけられた。


「金曜のことを考えている顔ね」


 しらいさんは、一瞬だけ固まった。


「そんなに分かります?」


「分かるわ」


「隠してたつもりなんですけど」


「隠せていないわね」


 理沙さんは当然のように言い、紙コップのコーヒーを持った。


「普通の約束が怖い?」


 しらいさんは、少しだけ目を伏せた。


「怖いです」


「どうして?」


「理由がないから」


「ええ」


「理由がないのに行くのって、なんか……」


「自分の気持ちが見える?」


 しらいさんは、返事に詰まった。


 理沙さんは、静かに続ける。


「重い撮影のあとなら、春日さんの部屋に行く理由がある」


「はい」


「でも、普通のミルクティーは違う」


「はい」


「ただ会いに行く」


「……はい」


「理由がないと行けない関係から、理由がなくても行ける関係になる途中ね」


 しらいさんは、胸の奥を突かれたような気がした。


 途中。


 それなら、まだ完成していなくていい。


 普通にできなくてもいい。


 今は、その途中。


「理沙さん」


「何?」


「普通って、難しいですね」


「難しいわよ」


 即答だった。


「でも、普通が増えたら強いわ」


「強い?」


「特別な救いだけの関係は、救いが必要なときしか会えない」


「はい」


「でも、普通の日にも会えるなら」


「はい」


「関係の足場が増える」


 関係の足場。


 しらいさんは、その言葉を胸にしまった。


    ◇


 夕方、しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日は、紗季の一文ではない。


 自分の一文かもしれない。


 でも、この物語に必要な一文でもある。


 ペンを持ち、少し迷ってから書いた。


『普通に行く約束は、戻るために行く約束より少し怖い。』


 書いた瞬間、胸の奥にあった言葉が形になった。


 写真を撮って、春日くんへ送る。


 すぐ既読。


『読みました』


『かなり分かります』


 しらいさんは返す。


『うん』


『三崎がかなり近いことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『特別な日より、普通の日のほうが緊張することがある』


『失敗したら、普通になれない気がするから、と』


 しらいさんは、小さく息を吐いた。


 三崎さん。


 本当に、今日も必要なところにいる。


『三崎さん』


『今日は唐揚げ二十個?』


 春日くんの返事は早かった。


『はい』


『現物は?』


『心の中です』


『普通にあげて』


『普通が難しいので』


 しらいさんは、控室で少し笑ってしまった。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 金曜ではない。


 でも、金曜の前に、この怖さを少しだけ置いておきたかった。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 部屋に入る。


 ローテーブルは、いつも通りだった。


 白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 迎賓館ではない。


 でも、乱れてもいない。


 いつもの場所。


 しらいさんは、それを見て少しだけ安心した。


「普通」


「はい」


「頑張った?」


「頑張らないように頑張りました」


「それ、だいぶ春日くん」


「自覚しています」


 春日くんがミルクティーを作る。


 蜂蜜は普通。


 カップが置かれる。


 ことん。


 今日は、普通が怖い音だった。


「春日くん」


「はい」


「普通のミルクティー、怖いね」


「はい」


「重い日より怖いかもしれない」


「俺もそう思います」


「どうして?」


「重い日には、支える理由があります」


「うん」


「普通の日には、理由が少ない」


「うん」


「理由が少ないぶん、自分たちの間だけが残ります」


 しらいさんは、カップを持つ手を止めた。


「三崎さん?」


「少し」


「でも、春日くんの言葉でもある」


「はい」


「自分たちの間だけが残る」


「はい」


「それ、怖い」


「はい」


「でも、ちょっと嬉しい」


「はい」


 二人は少しだけ黙った。


 その沈黙は、悪くなかった。


 少しぎこちない。


 でも、重くはない。


 しらいさんはミルクティーを一口飲んだ。


「今日、理沙さんに言われた」


「はい」


「理由がないと行けない関係から、理由がなくても行ける関係になる途中だって」


 春日くんは、静かに聞いていた。


「途中」


「うん」


「いいですね」


「うん。途中なら、普通が下手でもいい気がした」


「はい」


「完成してなくていい」


「はい」


「金曜、たぶん普通が下手」


「俺も下手です」


「じゃあ、下手同士」


「はい」


「それはそれで、少し安心」


    ◇


 しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日の一文を見せる。


『普通に行く約束は、戻るために行く約束より少し怖い。』


 春日くんは、ゆっくり読んだ。


「いい一文です」


「うん」


「これは、この章の入口ですね」


「春日くん、編集者」


「すみません」


「謝らないで。今日は聞きたい」


 春日くんは少し考えてから言った。


「水曜は、来られなかったけれど消えなかった約束でした」


「はい」


「金曜は、普通に来るかもしれない約束」


「はい」


「どちらも、約束の形を描いています」


「うん」


「アクセス狙いとしても、かなり引っ張れると思います」


「どうして?」


「読者が、水曜で“行けなかったけど消えなかった”を見たあとに、金曜はどうなるのか気になるからです」


「うん」


「しかも金曜は大事件ではなく普通の日なので、二人の関係そのものが試される」


 しらいさんは頷いた。


 物語として、確かに強い。


 紗季と美緒の水曜。


 春日としらいさんの金曜。


 行けなかった約束のあとに、普通の約束が来る。


 そこに読者は、何かを見たくなる。


「春日くん」


「はい」


「金曜、試験みたいにしないで」


「はい」


「普通ができたかどうか、採点しないで」


「しません」


「私もしない」


「はい」


「でも、普通が下手だったら笑って」


「笑っていいんですか」


「優しく」


「難しいですね」


「かなり」


 二人は笑った。


    ◇


 少しして、春日くんが言った。


「しらいさん」


「はい」


「金曜、何も話すことがなくてもいいですか」


 しらいさんは、少し驚いて春日くんを見た。


「何も?」


「はい」


「沈黙?」


「はい」


「気まずくなったら?」


「気まずいですね、と言います」


 しらいさんは、思わず笑った。


「それ、普通?」


「たぶん、かなり普通です」


「普通の気まずさ」


「はい」


「いいね」


「はい」


「何も話すことがなくても、ミルクティーは飲める」


「はい」


「それ、普通かも」


 しらいさんは少し安心した。


 普通の日だからといって、普通に話し続けなければいけないわけではない。


 何も話せない時間も、普通の中に入れていい。


「春日くん」


「はい」


「金曜、何も起きなくてもいい?」


「はい」


「本当に?」


「はい」


「退屈しない?」


「たぶん、少しします」


「正直」


「でも、それも普通かもしれません」


「かなりいい」


 しらいさんは笑った。


 退屈もできる関係。


 それは、少し先の場所のように思えた。


    ◇


 帰る時間になった。


 今日は、しらいさんがマグカップを洗った。


「普通の日の練習なので」


「洗い物も普通ですか」


「普通」


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割九分」


「高いですね」


「普通が下手でもいいって分かったから」


「はい」


「残り一分は?」


「金曜の本番……じゃなくて、金曜の普通」


「本番と言いかけましたね」


「言いかけた」


「試験にしない約束です」


「うん」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「金曜、何も起きなくてもいい」


「はい」


「話すことがなくてもいい」


「はい」


「普通が下手でもいい」


「はい」


「でも、待ってて」


「もちろんです」


「普通に?」


「普通に。たぶん下手ですが」


「私も下手」


 二人で笑った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「金曜なら」


「普通のミルクティーで」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、ローテーブルを見た。


 普通に行く約束は、戻るために行く約束より少し怖い。


 普通は、簡単そうな顔をしている。


 でも、その中にはいくつもの難しさがある。


 理由がないこと。

 役割が少ないこと。

 何も起きない時間に耐えること。

 自分たちの間だけが残ること。


 春日はスマホのカレンダーを開いた。


 金曜。


『普通のミルクティー』


 予定は消えていない。


 普通が下手でもいい。


 そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。

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