第164話 来られなかった水曜は、消えなかった
水曜は、終わった。
駅の東口で、美緒は紗季を待った。
駅の西口で、紗季は動けなかった。
待ち合わせ場所には行けなかった。
定食屋にも行けなかった。
向かい合って座ることも、温かい食事を前に話すこともできなかった。
けれど、水曜は消えなかった。
紗季は、家に帰ってからもスマホを伏せなかった。
テーブルの上に置いた画面には、美緒とのやり取りが残っている。
『水曜なら』
『うん。じゃあ水曜に』
『ごめん』
『うん』
短い言葉ばかりだった。
どれも説明が足りない。
どれも不器用で、どれも頼りない。
それでも、そこにあった。
紗季は椅子に座ったまま、画面を見つめる。
ごめん、と送った。
美緒は、うん、と返した。
大丈夫だよ、ではなかった。
気にしないで、でもなかった。
また今度にしよう、でもなかった。
うん。
その二文字は、紗季の「ごめん」を片づけなかった。
許されたわけではない。
終わったわけでもない。
なかったことになったわけでもない。
ただ、届いた。
紗季は、それだけで少し息ができた。
もちろん、水曜に行けなかったことは消えない。
東口に行けなかった。
美緒に会えなかった。
定食屋にも行けなかった。
でも、駅の西口までは行った。
ごめん、と送った。
美緒は、うん、と返した。
それも消えない。
紗季は、スマホの画面を閉じた。
伏せなかった。
画面を上にしたまま、テーブルの上に置く。
水曜は、失敗だけではなかった。
まだ、そう言葉にはできない。
けれど、消す気にはなれなかった。
◇
撮影前、白瀬アカリは台本を開いたまま、少し長く黙っていた。
今日の場面は、駅ではない。
水曜の後。
紗季の部屋。
美緒の部屋。
そして、それぞれが「来られなかった水曜」を消さずに持つ場面。
派手な展開はない。
でも、この章の区切りだった。
紗季は食事に行けなかった。
美緒は会えなかった。
約束は、予定通りには実現しなかった。
けれど、この水曜を失敗として閉じない。
そこが大事だった。
理沙さんが入ってきて、いつものように聞く。
「喉は?」
「九割二分です」
「私の評価では九割一分」
「今日は近いですね」
「今日は、泣く場面ではないから」
しらいさんは頷いた。
泣く場面ではない。
むしろ、泣いてはいけない気がした。
泣くと、水曜が大きな悲劇になってしまう。
紗季は、まだそこまで整理できていない。
ただ、スマホの画面を消さない。
水曜のやり取りを削除しない。
それだけ。
理沙さんは台本を軽く指で叩いた。
「今日の紗季は、反省している人ではありません」
「はい」
「救われた人でもない」
「はい」
「来られなかった水曜を、消せない人です」
しらいさんは、ゆっくり頷く。
「消せない」
「ええ」
「失敗として消すこともできる」
「はい」
「なかったことにもできる」
「はい」
「でも、消さない」
「はい」
「今日の目標は?」
しらいさんは、少し考えた。
「水曜を、成功にも失敗にも決めないこと」
理沙さんの目が、わずかに細くなった。
「いいわね」
「行けなかった。でも、終わらなかった」
「ええ」
「紗季さんは、まだそれを言葉にできない」
「そう」
「でも、消さないことで、それを少しだけ残す」
理沙さんは頷いた。
「その距離で行きなさい」
◇
最初に撮ったのは、紗季の部屋だった。
夜。
駅から帰ってきたあとの部屋。
紗季は靴を脱ぎ、鞄を椅子の横に置く。
コートをかける動作が、少しだけ遅い。
疲れている。
でも、大きく崩れてはいない。
テーブルの前に座る。
スマホを見る。
美緒とのやり取り。
『水曜なら』
『うん。じゃあ水曜に』
『ごめん』
『うん』
監督が言う。
「白瀬さん、ここは水曜を振り返りすぎないでください」
「はい」
「紗季はまだ、今日のことを物語にできていない」
「はい」
「ただ、消せない」
「はい」
「“消さない”と決めた顔ではなく、“消す気になれない”顔で」
消す気になれない。
そのほうが、紗季に近い。
一度目の本番。
紗季はスマホを見る。
やり取りを見つめる。
しらいさんは、少しだけ感情を込めすぎた。
水曜の意味を、すでに理解している人の顔になった。
カット。
監督が言う。
「今のは、紗季が水曜を大事な日として分かっています」
「はい」
「まだ、そこまでではありません」
「はい」
「大事かもしれない。でも、今はまだ消せないだけ」
二度目。
今度は淡すぎた。
スマホを見るだけの動作になった。
カット。
監督が少し苦笑する。
「今度は、水曜が軽いですね」
「はい」
「難しいですが、軽くも重くもしすぎないでください」
「はい」
「水曜は、まだ手の中で温度が決まっていないものです」
三度目。
紗季は部屋に戻る。
靴を脱ぐ。
鞄を置く。
コートをかける。
テーブルの前に座る。
スマホを見る。
美緒とのやり取りがある。
紗季は、それを長く読み返さない。
けれど、すぐ閉じもしない。
ごめん。
うん。
そこに目が止まる。
ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。
救われたわけではない。
許されたと思ったわけでもない。
ただ、届いたことだけは分かった。
紗季はスマホの画面を閉じる。
伏せない。
画面を上にしたまま、テーブルへ置く。
そのまま、グレーのマグカップを手に取る。
水を入れる。
飲む。
水曜は、まだそこにある。
カット。
現場が静かになった。
監督がモニターを確認し、頷く。
「今のでいきましょう」
しらいさんは、静かに息を吐いた。
水曜は、消えなかった。
◇
次に、美緒の部屋の場面が撮られた。
美緒もまた、帰宅していた。
行くはずだった定食屋には行かなかった。
予約はしていない。
店に連絡する必要もない。
ただ、候補として保存していた店のページがスマホに残っている。
美緒は、その店のページを開く。
駅近くの小さな定食屋。
特別すぎない場所。
逃げやすくて、でも座れる場所。
行けなかった場所。
いや、行かなかった場所。
美緒は、保存を外そうとして、やめる。
まだ消さない。
そこへ、監督が高瀬菜央へ説明する。
「高瀬さん、美緒は紗季を責めていません」
「はい」
「でも、まったく傷ついていないわけではない」
「はい」
「会えなかったことは、残っています」
「はい」
「でも、定食屋の候補も、紗季の“ごめん”も、自分の“うん”も、消さない」
高瀬は頷いた。
「美緒も、水曜をなかったことにしないんですね」
「そうです」
一度目の本番。
美緒はスマホを見る。
定食屋のページを開く。
保存済みの印。
それを外そうとして、やめる。
少しだけ悲しそうな顔になる。
カット。
監督が言う。
「今のは、少し失恋のように見えます」
「はい」
「美緒は悲しい。でも、ここはまだ関係が終わる場面ではありません」
「はい」
「むしろ、終わらせない場面です」
終わらせない場面。
高瀬は深く頷いた。
二度目。
今度は少し前向きになりすぎた。
また次がある、と決めているように見えた。
カット。
監督が首を横に振る。
「次があるかは、まだ分かりません」
「はい」
「でも、今日を消さない」
「はい」
三度目。
美緒は部屋に戻る。
バッグを置く。
スマホを見る。
紗季とのやり取り。
『ごめん』
『うん』
そこで少しだけ指が止まる。
次に、保存した定食屋のページを開く。
保存を外す指が、画面の上で止まる。
外さない。
だからといって、嬉しそうでもない。
行けなかった水曜。
会えなかった水曜。
でも、紗季が駅のどこかで「ごめん」と送った水曜。
美緒が「うん」と返した水曜。
それを、消さない。
カット。
監督が頷く。
「今のでいきましょう」
高瀬菜央は、深く息を吐いた。
少しだけ、目元が赤かった。
◇
撮影後、白瀬アカリと高瀬菜央は、控室の隅で並んで座った。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
先に口を開いたのは高瀬だった。
「会えませんでしたね」
「はい」
「でも、終わりませんでしたね」
「はい」
「美緒、定食屋の保存消せませんでした」
「紗季も、やり取り消せませんでした」
「似てますね」
「似てます」
二人は少しだけ笑った。
笑ったけれど、軽い笑いではなかった。
高瀬が言う。
「美緒は、紗季が駅の反対側まで来ていたことを知りません」
「はい」
「でも、視聴者は知ってる」
「はい」
「紗季は、美緒が探しに行かずに待ち場所を守ったことを知らない」
「はい」
「でも、視聴者は知ってる」
「はい」
「ずるいですね」
高瀬は小さく笑った。
「見る側だけが、二人とも頑張ってたことを知ってる」
しらいさんは頷いた。
「だから、二人とも責められない」
「はい」
「だから、続きが見たくなる」
「アクセス狙いとしても?」
「かなり」
二人は、同時に少し笑った。
春日くんみたい、と言いそうになって、しらいさんはやめた。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は唐揚げ弁当を開けたものの、今日はなかなか食べ始めない。
「どうした」
「消えなかった約束について考えてる」
「また急に詩人みたいなことを」
「白瀬アカリの話だと思う」
「思う、じゃなくてそうだろ」
三崎は唐揚げを一つ食べてから言った。
「約束ってさ、実行できなかったら失敗って思いがちだけど」
「うん」
「実行できなくても、消えない約束ってあるよな」
春日は、箸を止めた。
「消えない約束」
「うん。会えなかった。でも、そこまで来た。ごめんを送った。うんって返した」
「うん」
「それって、予定通りじゃないけど、何もなかったわけじゃない」
「うん」
「だったら、その約束は消えてないだろ」
春日は、胸の中でその言葉を受け取った。
今日の章の芯に、とても近い。
「三崎」
「何個?」
「二十個」
「大台維持か」
「高評価維持」
「現物は?」
「今日は……」
三崎が少し期待した顔をする。
「心の中で」
「知ってた」
肩を落とす三崎に、春日は少しだけ笑った。
「でも、今のはかなりよかった」
「そうだろ」
「行けなかった約束が、消えなかった約束になる」
「そう。言い方が変わるだけで、見え方が変わる」
三崎は、唐揚げをもう一つ口に入れる。
「読者はそういうの好きだと思うぞ」
「どういうの?」
「結果だけ見たら失敗。でも、過程を知ってると失敗だけじゃないって分かるやつ」
「うん」
「続き読みたくなるだろ。次は行けるのかって」
春日は頷いた。
その通りだった。
水曜は終わった。
でも、読者はそこで離れない。
むしろ、次を見たくなる。
来られなかった水曜が消えなかったからこそ、次の約束が気になる。
◇
夕方、しらいさんから青灰色のノートの写真が届いた。
『来られなかった水曜は、失敗じゃない。消えなかった約束だった。』
春日は、その一文を何度も読んだ。
そして、返信する。
『読みました』
『今日の章の区切りですね』
既読。
『うん』
『三崎が近いことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『約束は、実行できなくても消えないことがある』
『会えなかった。でも、そこまで来た。ごめんを送った。うんと返した。それなら、何もなかったわけじゃない、と』
少し間があった。
しらいさんから返る。
『三崎さん』
『今日は唐揚げ二十個?』
『はい』
『現物は?』
『心の中です』
『厳しい』
『本人も完全に諦めなくなりました』
『強い』
春日は少し笑った。
それから、スマホの画面を見つめる。
金曜が近づいている。
水曜は、消えなかった。
なら、金曜はどうなるのだろう。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
声は、いつもより少し落ち着いていた。
部屋に入る。
ローテーブルには、いつものもの。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
春日くんがミルクティーを作る。
今日は蜂蜜普通。
「今日は普通?」
「消えなかった約束を、普通に置く日なので」
「ちょっと分かる」
カップを置く。
ことん。
今日は、水曜が消えなかった音だった。
「水曜、終わった」
しらいさんが言う。
「はい」
「紗季さんは行けなかった」
「はい」
「美緒さんは会えなかった」
「はい」
「定食屋にも行けなかった」
「はい」
「でも、消えなかった」
「はい」
「駅の反対側まで来た」
「はい」
「ごめんを送った」
「はい」
「うんって返った」
「はい」
「美緒さんは店の保存を消さなかった」
「はい」
「紗季さんも、やり取りを消さなかった」
春日くんは、静かに頷いた。
「失敗だけではないですね」
「うん」
「でも、成功でもない」
「はい」
「そこがいい」
「はい」
「春日くん」
「はい」
「行けなかった水曜は、失敗ですか」
春日くんは少し考えた。
「失敗ではないと思います」
「でも、行けなかった」
「はい」
「会えなかった」
「はい」
「予定通りではなかった」
「はい」
「でも?」
「消えませんでした」
しらいさんは、ゆっくり息を吐いた。
「それ、今日欲しかった」
「はい」
「消えなかった」
「はい」
しらいさんはミルクティーを飲んだ。
温かい。
普通の甘さ。
今日には、それがちょうどよかった。
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文を見せる。
『来られなかった水曜は、失敗じゃない。消えなかった約束だった。』
春日くんは、ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「かなり強いです」
「アクセス狙いとして?」
「はい」
「どうして?」
「読者が、ここまでの積み重ねを全部思い出せる一文だからです」
「うん」
「水曜なら、店選び、服選び、送らない確認、駅の反対側、ごめん、うん」
「はい」
「全部が、この一文に戻ってきます」
しらいさんは頷いた。
たしかに、ここまでの短い言葉や仕草が、この一文に集まっている。
水曜は予定通りにいかなかった。
でも、積み上げたものは消えなかった。
「春日くん」
「はい」
「金曜、近い」
「はい」
「ちょっと怖い」
「はい」
「でも、水曜を見たから、少し分かった」
「はい」
「来られなかったとしても、消えない約束はある」
「はい」
「でも、行きたい」
春日くんは、少しだけ目を細めた。
「待っています」
「急がないで」
「はい」
「でも、待ってて」
「もちろんです」
「もし私が、たぶんって言ったら?」
「たぶん、でもいいです」
「でも、消さない」
「はい」
「金曜、消さない」
春日くんは静かに頷いた。
「俺も消しません」
◇
少しして、しらいさんはカップを置いた。
「春日くん」
「はい」
「私、金曜に行く。たぶん」
「はい」
「たぶん、がついた」
「はい」
「嫌?」
「嫌ではありません」
「不安?」
「少し」
「嬉しい?」
「かなり」
「重い?」
「少し」
「正直」
「はい」
しらいさんは笑った。
「私も、たぶんがつくの、ちょっと嫌」
「はい」
「でも、つけないと嘘になる」
「はい」
「だから、たぶん」
「受け取ります」
「春日くん、上手になったね」
「練習中です」
「私も」
二人は、少しだけ黙った。
沈黙は、重くなかった。
水曜が消えなかったあとに来る、静かな沈黙だった。
◇
帰る時間になった。
今日は、二人でマグカップを洗った。
しらいさんが洗い、春日くんが拭く。
「共同作業?」
「水曜の区切りなので」
「意味は分からないけど、いいと思う」
水の音。
カップを洗う音。
布巾で拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割九分」
「高いですね」
「水曜が消えなかったから」
「はい」
「残り一分は?」
「金曜のたぶん」
「はい」
「それは、持って帰る」
「分かりました」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「来られなかった約束も、消えないことがある」
「はい」
「でも、来られたら、もっといい」
「はい」
「金曜、行く。たぶん」
「ここにいます」
「十五分過ぎたら?」
「ここにいます、と送ります」
「ごめんだけ来たら?」
「届きました。もしくは、うん」
「よし」
しらいさんは、少しだけ笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「金曜なら」
「普通のミルクティーで」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。
来られなかった水曜は、失敗じゃない。
消えなかった約束だった。
予定通りにいかなかった日にも、残るものがある。
行けなかった場所。
来られた場所。
送れた言葉。
返ってきた短い言葉。
消さなかった画面。
それらがあるなら、その日は全部失敗ではない。
春日はスマホのカレンダーを開いた。
金曜。
『普通のミルクティー』
予定は、そこにある。
たぶん、という余白を抱えたまま。
消さない。
それだけは、もう決めていた。




