第163話 美緒は「うん」と返した
美緒のスマホが震えたのは、待ち合わせ時間を五分過ぎたころだった。
東口の柱のそば。
改札からは、まだ人が流れてくる。
美緒は、その流れの向こうに紗季の姿を探していた。
探している。
でも、探しに行かない。
電話もしない。
メッセージも送らない。
ただ、紗季が来るかもしれない場所を、空けていた。
スマホが震えた瞬間、美緒の指先が少し跳ねた。
画面を見る。
紗季からだった。
『ごめん』
それだけ。
場所は書かれていない。
理由もない。
行けないとも書かれていない。
ただ、ごめん。
美緒は、画面を見つめた。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
来られないのだろうか。
それとも、どこかにいるのだろうか。
大丈夫なのだろうか。
聞きたいことは、いくつもあった。
美緒は返信欄を開く。
『大丈夫だよ』
打って、止まった。
大丈夫。
その言葉は、優しい。
でも、今日の紗季の「ごめん」を、すぐに片づけてしまう気がした。
大丈夫だよ。
そう返せば、美緒は許す側になれる。
紗季は許された側になれる。
それで終わる。
でも、紗季の三文字は、終わらせるためだけの言葉ではなかった気がした。
美緒は消した。
次に打つ。
『気にしないで』
これも違った。
気にしないで。
そう言いたい。
本当に責めていない。
でも、気にしている紗季に、気にしないでと言うことは、紗季の気持ちを先回りして閉じてしまうように見えた。
消す。
『また今度にしよう』
打つ。
すぐに、消せなかった。
また今度。
便利な言葉。
前に進んだように見えて、全部を曖昧に戻せる言葉。
でも、今日は違う。
今日は、水曜だった。
紗季が「水曜なら」と言ってくれた日だった。
来られなかったとしても、なかったことにはしたくない。
美緒は、その文字も消した。
返信欄が空になる。
駅の人の流れは、変わらない。
誰かが笑いながら通り過ぎる。
誰かが急ぎ足で改札へ向かう。
美緒だけが、その場で小さな画面を見つめている。
紗季の「ごめん」。
そこに何を返せばいいのか。
許す言葉ではなく。
責める言葉でもなく。
心配を押しつける言葉でもなく。
次の約束で上書きする言葉でもなく。
届いたことだけを返す言葉。
美緒は、短く打った。
『うん』
それだけ。
送信ボタンを押す。
画面に、自分の返事が表示された。
『うん』
美緒はスマホを伏せなかった。
そのまま、胸の前で握る。
紗季のごめんは、届いた。
美緒のうんも、届いてほしかった。
◇
撮影前、高瀬菜央はかなり緊張していた。
白瀬アカリが控室に入ると、高瀬はスマホ型の小道具を握ったまま、こちらを見た。
「白瀬さん」
「はい」
「今日、難しすぎませんか」
「かなり」
「ごめん、に、うん」
「はい」
「短すぎますよね」
「でも、長くできない」
「そうなんです」
高瀬は台本を開いた。
ページには、美緒が紗季の『ごめん』を受け取る場面が書かれている。
長文を打ちかける。
全部消す。
最後に『うん』とだけ返す。
「美緒って、優しくしたいんです」
「はい」
「大丈夫って言いたいし、気にしないでって言いたいし、また今度って言いたい」
「はい」
「でも、全部違う」
「はい」
「じゃあ、うん、しかない」
白瀬アカリは頷いた。
「紗季としては、その“うん”は……かなり助かると思います」
「本当ですか」
「はい。許された、ではなく、届いた、になる気がします」
高瀬は、少しだけ目を伏せた。
「届いた」
「はい」
「それが今日の美緒ですね」
「たぶん」
高瀬は、台本を閉じた。
「うん、って便利だけど、怖いですね」
「はい」
「軽く見える」
「はい」
「でも、重すぎない」
「はい」
「責めない」
「はい」
「許しすぎない」
「はい」
「届いたことだけ返す」
白瀬アカリは静かに頷いた。
「今日の美緒さん、かなり大事です」
「ですよね」
「紗季さんの“ごめん”を、壊さないで受け取る日です」
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
「壊さないで受け取る」
その言葉を、小さく繰り返した。
◇
駅の東口セット。
美緒は柱のそばに立っている。
待ち合わせ時間を過ぎた。
紗季は来ない。
人は流れる。
スマホが震える。
監督が、高瀬に言った。
「今日の美緒は、返す側です」
「はい」
「ごめんを受け取って、すぐ許すのではない」
「はい」
「責めるのでもない」
「はい」
「紗季の言葉を、言葉のまま受け取る」
「はい」
「大丈夫だよ、は美緒の優しさです。でも、今日は少し早い」
高瀬は頷いた。
「気にしないで、も早い」
「そうです」
「また今度、も早い」
「はい」
「うん、だけ」
「はい」
「でも、軽くしない」
一度目の本番。
美緒はスマホを見る。
『ごめん』
表情が揺れる。
返信欄を開く。
『大丈夫だよ』
消す。
『気にしないで』
消す。
『また今度にしよう』
消す。
『うん』
送る。
高瀬の美緒は、そのあと少し安心した顔をしてしまった。
カット。
監督が言う。
「今のは、美緒が返せたことで少し安心しています」
「はい」
「でも、美緒はまだ安心できない」
「はい」
「紗季がどこにいるかも分からない。何が起きているかも分からない」
「はい」
「ただ、ごめんが届いたことに、うんと返しただけです」
二度目。
今度は、美緒の不安が強すぎた。
うん、が震えている。
紗季を心配する気持ちが前に出て、返事が少し重く見えた。
カット。
監督が首を傾げる。
「今のは、うん、に心配が乗りすぎています」
「はい」
「心配はある。でも、紗季に心配を背負わせないうんです」
「はい」
三度目。
人が流れる。
美緒はスマホを見る。
『ごめん』
息がほんの少し止まる。
返信欄を開く。
『大丈夫だよ』
違う。
消す。
『気にしないで』
違う。
消す。
『また今度にしよう』
これも違う。
消す。
少しだけ、指が止まる。
美緒は画面を見つめる。
紗季の三文字を、すぐに片づけない。
許す側に立たない。
責める側にも立たない。
ただ、届いたことだけを返す。
『うん』
送る。
美緒はスマホを伏せない。
でも、画面にすがりつかない。
胸の前で、両手で持つ。
改札のほうを見る。
紗季はまだ来ない。
それでも、美緒はその場所にいる。
カット。
現場が静かになった。
監督がモニターを見て、長くはない沈黙のあとに頷いた。
「今のでいきましょう」
高瀬菜央は、息を吐いた。
白瀬アカリも、離れた場所で同じように息を吐いた。
うん。
その二文字が、駅の空気の中に残っていた。
◇
次に、紗季側の短いリアクションが撮られた。
西口。
柱の影。
紗季はスマホを握っている。
画面が震える。
美緒から。
『うん』
それだけ。
紗季は、その二文字を見る。
大丈夫だよ、ではない。
気にしないで、でもない。
また今度、でもない。
うん。
紗季の「ごめん」を、言葉のまま受け取った返事。
白瀬アカリは、その二文字を見た紗季の顔を演じる。
泣かない。
救われすぎない。
でも、少しだけ肩の力が抜ける。
許されたわけではない。
終わったわけでもない。
ただ、届いた。
カット。
監督が静かに頷く。
「いいです。ここは短く行きましょう」
短い。
けれど、確かに届いている。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は唐揚げ弁当を前に、今日はなぜか深刻な顔をしていた。
「今日は何だ」
「うん、について考えてる」
「広いな」
「広いけど大事だろ」
三崎は唐揚げを一つ食べてから言った。
「ごめん、って来たときの返事って難しいよな」
「うん」
「大丈夫だよ、って返すと優しい」
「うん」
「でも、相手のごめんを片づける感じになることがある」
「うん」
「気にしないで、も同じ」
「うん」
「また今度、は前向きだけど、今日をなかったことにする感じもある」
春日は、箸を止めた。
今日も外さない。
「じゃあ、何がいいと思う」
三崎は少し考えた。
「場合による」
「真面目だな」
「いや本当に」
「うん」
「でも、ごめんがただ届いたことを返すなら、“うん”って結構強いと思う」
春日は頷いた。
「許しすぎない」
「うん」
「責めない」
「うん」
「届いたことだけ返す」
「そう。それ」
三崎は少し目を細めた。
「何だ、お前も分かってるじゃん」
「周辺で聞いた」
「白瀬アカリ周辺だな」
「まあ」
三崎は唐揚げを食べながら、少し笑った。
「でも、“うん”って演技難しそうだな」
「どうして」
「軽く言ったら冷たい。重く言ったら圧になる。優しくしすぎたら許してる感じになる」
「うん」
「ちょうどいい“うん”って、相当むずいぞ」
春日は、その言葉をしらいさんへ伝えようと思った。
「三崎」
「何個?」
「二十個」
「大台維持」
「現物は?」
「心の中で」
「うん」
「今の、かなりいい“うん”だったな」
「唐揚げは届いてないけどな」
「届いたことだけ返したんだろ」
「届いてないんだよ」
三崎は不満そうに言ったが、笑っていた。
◇
撮影後、高瀬菜央は少し疲れた顔でベンチに座っていた。
しらいさんが隣に座ると、高瀬はぽつりと言った。
「うん、だけで、こんなに疲れるとは思いませんでした」
「はい」
「長台詞より疲れました」
「分かります」
「大丈夫でも、気にしないででも、また今度でもない」
「はい」
「うん」
「はい」
「美緒、これでよかったんですかね」
しらいさんは、少し考えた。
「紗季としては、よかったです」
「本当ですか」
「はい。たぶん、大丈夫だよって来たら、大丈夫じゃないのに許された感じがしたかもしれない」
「はい」
「気にしないでって来たら、気にしている自分が置いていかれたかもしれない」
「はい」
「また今度って来たら、水曜が消えた気がしたかもしれない」
高瀬は、静かに聞いていた。
「うん、は?」
「届いた気がしました」
高瀬は、少しだけ目元を緩めた。
「なら、よかった」
「はい」
「美緒、ちょっと成長しましたね」
「かなり」
「出た。春日さんみたい」
「影響です」
二人で笑った。
その笑いは、今日の駅の空気を少しだけ軽くした。
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文は、決まっていた。
『美緒さんは、長い優しさを消して、うんと返した。』
書いてから、少しだけ迷った。
もう少し書き足したい。
でも、今日はこの短さが必要な気がした。
美緒の「うん」と同じように。
写真を撮って、春日くんへ送る。
すぐ既読。
『読みました』
『短いですね』
しらいさんは返す。
『今日は短くしたかった』
『合っています』
少し間があって、春日くんから続く。
『三崎が、かなり近いことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『ごめんに対する“うん”は、軽すぎると冷たい。重すぎると圧になる。優しくしすぎると許している感じになる』
『ちょうどいい“うん”は難しい、と』
しらいさんは、控室で小さく笑った。
『三崎さん』
『今日は唐揚げ二十個?』
『はい』
『現物は?』
『心の中です』
『うん』
『本人が「届いてない」と言っています』
少し笑った。
その軽いやり取りで、今日の「うん」が自分の中にも落ち着いた。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
部屋に入る。
いつものローテーブル。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
春日くんがミルクティーを作る。
今日は蜂蜜普通。
「今日は普通?」
「うん、の日なので」
「普通なの?」
「短い言葉を普通に受け取る日かと」
「少し分かる」
カップを置く。
ことん。
今日は、うんの音だった。
「美緒さん、うんって返した」
「はい」
「長い優しさを全部消して」
「はい」
「うん」
「はい」
「それだけ」
「はい」
「でも、それだけじゃなかった」
春日くんは、静かに頷いた。
「届いたことを返したんですね」
「うん」
「大丈夫でも、気にしないででもなく」
「うん」
「許すのでも、流すのでもなく」
「うん」
「届いた、と」
しらいさんはミルクティーを飲んだ。
「春日くんの昨日の“届きました”に近かった」
「そうですね」
「美緒さんは、もっと短かった」
「はい」
「うん」
「はい」
「短いのに、ちゃんと届いた」
春日くんは少しだけ目元を柔らかくした。
「よかったです」
「出た」
「出ます」
「でも、今日はそれでいい」
◇
しらいさんはノートを開いた。
今日の一文を見せる。
『美緒さんは、長い優しさを消して、うんと返した。』
春日くんは、ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「短いけど」
「短いからいいです」
「今日はそうだよね」
「はい」
「余計な説明を消した美緒さんと、同じ形です」
しらいさんは少しだけ笑った。
「春日くん、今日はかなり編集者」
「すみません」
「謝らないで。助かる」
春日くんは、少し考えてから言った。
「短い返事を信じる回ですね」
「うん」
「ごめんも短い」
「はい」
「うんも短い」
「はい」
「でも、どちらも雑ではない」
「そう」
「読者は、そこを見ます」
「アクセス狙いとして?」
「かなり強いと思います」
しらいさんは頷いた。
派手な事件は起きていない。
食事にも行けていない。
会えてもいない。
それでも、紗季の「ごめん」と美緒の「うん」で、物語は確かに動いている。
◇
少しして、しらいさんは春日くんに聞いた。
「春日くん」
「はい」
「もし私が、ごめんって送ったら」
「はい」
「春日くんは、届きました、って返す予定だったよね」
「はい」
「うん、でもいい?」
春日くんは、少しだけ考えた。
「場合によります」
「真面目」
「はい」
「どういう場合なら?」
「しらいさんが、長い言葉を受け取りたくない日なら」
「うん」
「うん、にします」
「そっか」
「でも、心配が強い日なら、届きました、のほうがいいかもしれません」
「面倒くさいね」
「かなり」
「でも、ちゃんと迷って」
「はい」
「私も迷う」
「はい」
「ごめんって送る日が来ないのが一番だけど」
「はい」
「来るかもしれない」
「はい」
「そのとき、うん、でも届きました、でも、どっちでもいいから」
「はい」
「片づけないで」
春日くんは、真剣に頷いた。
「片づけません」
「うん」
しらいさんは、その「うん」を自分で言って少し笑った。
「今のは?」
「いい“うん”でした」
「本当?」
「はい」
「採点甘い」
「甘いです」
「蜂蜜普通なのに」
二人で笑った。
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割八分」
「高いですね」
「うん、が届いたから」
「はい」
「残り二分は?」
「金曜の返事をどうするか迷う分」
「まだ来ていない返事ですか」
「うん」
「待ちましょう」
「うん」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「短い返事でも、片づけないでね」
「はい」
「私も、春日くんの短い返事を片づけない」
「はい」
「うん」
「うん」
二人で同じ言葉を返して、少し笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「金曜なら」
「ここにいます」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、青灰色のコースターを見た。
美緒さんは、長い優しさを消して、うんと返した。
短い言葉は、雑とは限らない。
長い言葉は、優しいとは限らない。
ごめん。
うん。
たったそれだけで、届く日がある。
春日はスマホのメモを開いた。
『ごめんだけ来たら、届きました』
その下に、小さく書き足す。
『または、うん』
どちらが正解かは、その日にならないと分からない。
でも、迷う準備だけはできる。
春日はスマホを伏せずに置いた。
金曜は、まだ来ていない。
でも、少しずつ近づいていた。




