第162話 紗季さんは、初めて「ごめん」と送った
待ち合わせ時間を、三分過ぎた。
駅の西口。
柱の影。
自動販売機の横。
岸谷紗季は、そこに立ったままスマホを握っていた。
東口へ行けば、美緒がいる。
たぶん、まだ待っている。
それは分かっていた。
けれど、足は動かなかった。
改札へ向かう人の流れが、何度も目の前を通り過ぎていく。
会社帰りの人。
学生。
親子連れ。
イヤホンをつけた若い男。
買い物袋を提げた女性。
みんな、どこかへ向かっている。
目的地がある人の足は、迷いなく見える。
紗季だけが、そこに取り残されていた。
待ち合わせ時間を、四分過ぎた。
スマホの画面には、まだ美緒からの追加メッセージはない。
急がなくていいよ。
今日大丈夫?
どこにいる?
何も来ない。
その沈黙は、紗季を責めなかった。
だから余計に、胸が苦しくなった。
美緒は待っているのかもしれない。
探しに行かずに。
電話もせずに。
紗季が来るかもしれない場所で。
そんなことを、紗季は知らない。
知らないはずなのに、なぜかスマホの静けさから、少しだけ伝わってくる気がした。
紗季は返信欄を開いた。
『ごめん、行けない』
打とうとして、止まる。
行けない。
その言葉は、今日も違った。
行けないと決めたわけではない。
行きたくないわけでもない。
けれど、行けていない。
それだけが、今の本当だった。
紗季は、理由を探した。
体調が悪いから。
仕事で疲れたから。
急に用事ができたから。
人が多くて、少し無理だったから。
どれも、完全な嘘ではない気がした。
でも、どれも本当ではなかった。
理由をつければ、美緒は許しやすいかもしれない。
大丈夫、と返しやすいかもしれない。
次の話にしやすいかもしれない。
けれど、その理由は、紗季自身を少しだけ遠ざける気がした。
紗季は、何も打てなかった。
待ち合わせ時間を、五分過ぎた。
スマホの画面が、手の中で少しだけ重くなる。
紗季は、ゆっくり息を吸った。
そして、打った。
『ごめん』
それだけ。
理由はない。
言い訳もない。
大丈夫でもない。
無理でもない。
ただ、ごめん。
紗季は、その三文字を見つめた。
短すぎる。
足りない。
けれど、今の自分の言葉に、いちばん近かった。
送信ボタンを押す。
画面に、その三文字が表示された。
『ごめん』
送ってしまった。
紗季は、スマホを伏せなかった。
でも、美緒の返事を見る勇気もなかった。
画面を上にしたまま、胸の前で握る。
駅の西口で、紗季はまだ動けなかった。
◇
その日の撮影は、昨日と同じ駅構内セットで行われた。
白瀬アカリは、西口側の柱の前に立ち、スマホを握っている。
昨日は、待ち合わせ五分前だった。
今日は、時間を過ぎる。
昨日は、行けるか帰るか分からないまま止まる場面。
今日は、行けていない現実を、美緒へ送る場面。
けれど、紗季は「行けない」とは書かない。
理由も書かない。
ただ、
『ごめん』
と送る。
控室で台本を読んだとき、しらいさんはその三文字から目が離せなかった。
ごめん。
それは、何度も使われる言葉だ。
軽く使うこともできる。
場を終わらせるためにも使える。
相手に許してもらうためにも使える。
でも、今日の「ごめん」は違う。
紗季が初めて、理由を作らずに自分の場所から送る言葉だった。
理沙さんは、撮影前にこう言った。
「今日の“ごめん”は、相手を安心させるためだけの謝罪ではないわ」
「はい」
「自分を守るための理由もつけない」
「はい」
「行けない理由を説明しないことで、紗季は初めて、自分の混乱をそのまま出す」
「はい」
「ただし、立派に謝らないこと」
しらいさんは、そこに少し引っかかった。
「立派に謝らない」
「ええ」
理沙さんは、タブレットを閉じた。
「ごめん、と言えるようになった成長の場面ではある。でも、綺麗な成長にしない」
「はい」
「紗季は、まだ美緒の目を見て謝れない。理由も言えない。自分がどこにいるかも言えない」
「はい」
「でも、ごめんだけは送った」
しらいさんは頷いた。
その距離だ。
できたことと、できていないこと。
今日も、その両方を持つ。
◇
一度目の本番。
駅の西口。
人が流れていく。
紗季は柱の前に立っている。
スマホを見る。
待ち合わせ時間を過ぎている。
返信欄を開く。
『ごめん』
打つ。
送る。
その瞬間、しらいさんは少しだけ救われた顔をしてしまった。
ようやく言えた。
ようやく送れた。
そんな顔だった。
「カット」
監督の声が飛ぶ。
しらいさんは、すぐに分かった。
「すみません。少し達成感が出ました」
監督が頷く。
「そうですね。今の紗季は、謝れたことで少し救われています」
「はい」
「でも、今日はそこまで行かなくていいです」
「はい」
「送ったあとも、まだ美緒の返事は見られない」
「はい」
「ごめんは、出口ではなく、今いる場所を知らせる小さな音です」
今いる場所を知らせる小さな音。
しらいさんは、その言葉を胸に置いた。
二度目。
今度は、苦しさを出しすぎた。
ごめん、と打つ前に、紗季が追い詰められているように見える。
カット。
監督が少し首を傾げる。
「今のは、謝罪が重すぎます」
「はい」
「美緒を傷つけた罪悪感だけになると、少し違います」
「はい」
「ごめんはある。でも、それだけではない。行けていない自分を、どう置けばいいか分からない」
「はい」
三度目。
駅の西口。
人が流れていく。
待ち合わせ時間は過ぎている。
紗季はスマホを見る。
美緒からの追加メッセージはない。
その静けさに、責められていないことを少しだけ感じる。
でも、だからこそ、苦しい。
返信欄を開く。
理由を打とうとする指が、一瞬だけ止まる。
何も浮かばない。
浮かぶものはある。
けれど、どれも違う。
紗季は短く打つ。
『ごめん』
画面の中に三文字が出る。
それを見つめる。
短い。
足りない。
でも、今いちばん近い。
送信ボタンを押す。
送信済みになる。
紗季はスマホを伏せない。
けれど、返事を待つようにも見ない。
ただ、画面を上にしたまま胸の前で握る。
顔は、救われていない。
でも、逃げきってもいない。
カット。
現場が静かになった。
監督がモニターを確認する。
数秒後、ゆっくり頷いた。
「今のでいきましょう」
しらいさんは、息を吐いた。
紗季さんは、ごめんと送った。
理由を作らずに。
◇
高瀬菜央は、美緒側の待ち合わせ場所でそのメッセージを受け取る場面に備えて、少し離れたところで見ていた。
撮影が止まると、すぐには近づいてこなかった。
しばらく、モニターの前に立っていた。
それから、白瀬アカリのほうへ歩いてきた。
「白瀬さん」
「はい」
「美緒、あれ見たら……」
そこで止まった。
言葉が続かない。
しらいさんは、静かに頷いた。
「はい」
「ごめん、だけなんですね」
「はい」
「場所も理由もない」
「はい」
「でも、ちゃんと紗季の言葉でした」
高瀬は、そこだけははっきり言った。
「美緒には、それがたぶん分かると思います」
「分かりますか」
「分かる、というより……分かりたいと思うと思います」
高瀬らしい、でも美緒らしい言い方だった。
しらいさんは少しだけ笑った。
「美緒さん、優しいですね」
「優しいだけじゃないです」
「はい」
「怖いです。たぶん、すごく怖い」
「はい」
「ごめん、って来たら、許す側に立たされそうになる」
その言葉に、しらいさんは少しだけ息を止めた。
許す側。
それは次の美緒の課題だ。
ごめんに対して、どう返すか。
大丈夫、で片づけるのか。
気にしないで、と流すのか。
長い優しさを送るのか。
それとも。
「高瀬さん」
「はい」
「次、かなり難しいですね」
「はい」
「美緒、頑張ります」
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は今日は唐揚げ弁当を前に、なぜか真顔だった。
「どうした」
「謝罪について考えてる」
「唐揚げの前で?」
「唐揚げの前だから考えられることもある」
「ないだろ」
三崎は唐揚げを一つ食べてから、ぽつりと言った。
「理由のない“ごめん”って、怖いけど強いよな」
春日は、箸を止めた。
「理由のない」
「うん。普通、謝るときって理由つけたくなるだろ」
「うん」
「遅れてごめん、電車が遅れて。行けなくてごめん、体調悪くて。返せなくてごめん、忙しくて」
「うん」
「理由があると、相手も許しやすい」
「うん」
「でも、理由をつけることで、自分も隠れられる」
春日は黙った。
三崎は続けた。
「理由なしで、ごめんだけ送るのって、逃げ場が少ない」
「うん」
「でも、たぶん本当のときがある」
春日は、その言葉を胸にしまった。
「三崎」
「何個?」
「二十個」
「大台維持」
「今日は現物?」
「心の中で」
「期待させるな」
三崎は不満そうに言ったが、すぐに真面目に戻る。
「でもさ、ごめんだけって、返す側も難しいよな」
「許す側に立たされる?」
三崎が少し驚いた顔をした。
「それ、いい表現だな」
「現場の……いや、知り合いが言ってた」
「白瀬アカリ周辺だな」
「まあ」
三崎は頷いた。
「そう。ごめんって来ると、こっちは許さなきゃいけない気になる」
「うん」
「大丈夫だよって言いたくなる」
「うん」
「でも、大丈夫って言うと、相手のごめんを片づける感じになるときもある」
春日は、次の美緒の場面を想像した。
これはかなり難しい。
そして、かなり強い。
◇
撮影後、しらいさんは青灰色のノートを開いた。
今日の一文は、すぐに出てきた。
『紗季さんは、理由を作らず、ごめんとだけ送った。初めて、自分の言葉に近かった。』
書いてから、少しだけ胸が重くなる。
でも、これは必要な重さだ。
写真を撮って、春日くんへ送る。
すぐ既読。
『読みました』
『理由を作らないごめん、ですね』
しらいさんは返す。
『うん』
『三崎がかなり近いことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『理由があると相手も許しやすい。でも、理由をつけることで自分も隠れられる』
『理由なしで、ごめんだけ送るのは、逃げ場が少ないけれど本当のときがある、と』
しらいさんは、画面を見つめた。
三崎さんは今日も、外側からこちら側の中心を見ている。
『三崎さん』
『今日は唐揚げ二十個?』
春日くんの返事は早かった。
『はい』
『現物は?』
『心の中です』
『厳しい』
『本人も不満です』
少し笑う。
けれど、今日は笑いだけでは戻りきれなかった。
ごめん。
その三文字が、まだ胸に残っている。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
声は少し静かだった。
部屋に入る。
いつものローテーブル。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
春日くんがミルクティーを作る。
今日は蜂蜜少し多めだった。
「今日は甘い」
「理由のないごめんの日なので」
「理屈は分からないけど、今日は合ってる」
カップを置く。
ことん。
今日は、ごめんの音だった。
「紗季さん、ごめんって送った」
「はい」
「理由なし」
「はい」
「場所も言わない」
「はい」
「行けないとも言わない」
「はい」
「ただ、ごめん」
春日くんは、静かに聞いていた。
「三崎の言葉、刺さりました」
「理由があると、隠れられる?」
「はい」
「うん」
「紗季さんは、今日は隠れなかったんですね」
「全部は隠れなかった」
「はい」
「でも、全部見せたわけでもない」
「はい」
「駅の反対側にいることは言ってない」
「はい」
「行けないとも言ってない」
「はい」
「でも、ごめんは送った」
春日くんは少し考えてから言った。
「今いる場所を、少しだけ知らせたんですね」
「監督も似たこと言ってた」
「そうなんですね」
「ごめんは出口じゃなくて、今いる場所を知らせる小さな音」
春日くんは、静かに頷いた。
「いい言葉です」
「うん」
しらいさんはミルクティーを飲んだ。
「春日くん」
「はい」
「私も、ごめんって言うとき、理由つけることある」
「はい」
「疲れてて、とか。撮影が押して、とか。喉が、とか」
「はい」
「本当の理由もあるけど」
「はい」
「理由の後ろに隠れることもある」
「……はい」
「もし金曜、私が来られなくて、ごめんだけ送ったら」
「はい」
「困る?」
春日くんは、少しだけ目を伏せた。
「困ると思います」
「正直」
「はい」
「どう困る?」
「何があったのか心配になります」
「うん」
「でも、理由を聞きすぎると、しらいさんを追い詰めるかもしれない」
「うん」
「だから、まずは受け取ると思います」
「何て返す?」
春日くんは考えた。
長く考えた。
そして言った。
「届きました、と返すかもしれません」
しらいさんは、少しだけ目を見開いた。
「大丈夫です、じゃなくて?」
「はい」
「気にしないで、でもなくて?」
「はい」
「届きました」
「はい」
「それ、いい」
春日くんは、少しだけほっとした顔をした。
「許しすぎず、責めず、でも届いたことだけ返せる気がします」
「春日くん」
「はい」
「それ、たぶん次の美緒さんに必要」
「そうかもしれません」
「高瀬さんに言いたい」
「ぜひ」
しらいさんは、少し笑った。
胸の重さが少しだけ動いた。
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文を見せる。
『紗季さんは、理由を作らず、ごめんとだけ送った。初めて、自分の言葉に近かった。』
春日くんは、ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「初めて、自分の言葉に近かった、がいいです」
「完全に自分の言葉じゃない」
「はい」
「まだ怖い」
「はい」
「でも、誰かを安心させるための言葉だけじゃない」
「はい」
「そこが今日の紗季さん」
春日くんは頷いた。
「次の美緒さんが、かなり大事ですね」
「うん」
「ごめんにどう返すか」
「はい」
「大丈夫、で片づけるのか」
「はい」
「届いたことだけ返すのか」
「春日くん、もう編集者」
「すみません」
「謝らないで。今日は本当にそう」
◇
帰る時間になった。
今日は、春日くんがマグカップを洗った。
「ごめんの音が残っている日なので」
「洗い物と関係ある?」
「少しあります」
「じゃあ任せる」
水の音。
カップを拭く音。
棚に戻す音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割六分」
「少し残っていますね」
「ごめんが四分」
「その四分は?」
「帰り道で少し持つ」
「はい」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「もし私が、ごめんだけ送ったら」
「はい」
「届きました、って返して」
「分かりました」
「でも、必要なら聞いて」
「はい」
「心配しないふりはしないで」
「はい」
「面倒くさいね」
「かなり」
「一緒に迷って」
「はい」
しらいさんは、少しだけ笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「金曜なら」
「ここにいます」
「もし、ごめんだけ送ったら?」
「届きました、と返します」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、青灰色のコースターを見た。
理由を作らず、ごめんとだけ送る。
それは、逃げ場の少ない言葉だ。
でも、そこに本当がある日もある。
相手に許してほしいからではなく。
理由で自分を守るためでもなく。
ただ、今いる場所を知らせるための、ごめん。
春日はスマホのメモを開いた。
『十五分過ぎたら、ここにいます』
その下に、少しだけ書き足した。
『ごめんだけ来たら、届きました』
それが正解かは分からない。
でも、今の春日にできる準備だった。




