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第161話 春日、待つ場所を動かない難しさを知る

 待つ場所を守る。


 言葉にすると、簡単そうに聞こえる。


 ただ、そこにいればいい。


 動かず、騒がず、探しに行かず、相手が来るかもしれない場所で待つ。


 それだけ。


 けれど春日悠真は、朝からずっと、その「それだけ」が引っかかっていた。


 昨日、しらいさんが話してくれた美緒の場面。


 駅の東口。

 柱のそば。

 待ち合わせ時間。

 紗季は来ない。


 探しに行きたい。


 電話したい。


 メッセージしたい。


 けれど、美緒はその場を動かなかった。


 紗季が来る道を塞がないために。


 見捨てたのではなく、待ち場所を守るために。


 春日は、朝の部屋でローテーブルを見た。


 白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 金曜に、しらいさんが来るかもしれない場所。


 いや、来ると言ってくれた場所。


 普通のミルクティーを飲む予定の場所。


 もし、しらいさんが来なかったら。


 もし、約束の時間を過ぎても呼び鈴が鳴らなかったら。


 春日は、ここに座っていられるだろうか。


 駅まで迎えに行きたくならないだろうか。


 電話したくならないだろうか。


「大丈夫ですか」と送りたくならないだろうか。


 昨日、しらいさんは言った。


 まず、ここにいて。


 でも、必要なら送って。


 面倒くさいね、と笑っていた。


 春日も笑った。


 けれど、一人になって考えると、笑い事ではなかった。


 必要なら送る。


 必要じゃないなら送らない。


 その見極めが、いちばん難しい。


 何もしないことは簡単ではない。


 動かずにいることは、思っていたよりずっと、能動的だった。


    ◇


 昼休み、三崎は唐揚げ弁当を開ける前から、春日の顔を見ていた。


「春日」


「何だ」


「今日は待ち場所を動きそうな顔してる」


「顔の種類が多すぎるだろ」


「今作った」


「毎回作るな」


 三崎は唐揚げを一つ箸で持ち上げ、春日の前で止めた。


「どうした」


「一般論として聞きたい」


「はい、一般論じゃないやつ」


「約束した相手が来ない」


「うん」


「待ち合わせ場所は自分の家」


「うん」


「時間を過ぎた」


「うん」


「探しに行くべきか、待つべきか」


 三崎は唐揚げを口に入れ、しばらく噛んだ。


 急には答えない。


 珍しい。


 春日は、少しだけ背筋を伸ばした。


 三崎は飲み込んでから言った。


「まず、相手の危険度による」


「危険度」


「事故とか、体調不良とか、そういう可能性があるなら連絡したほうがいい」


「うん」


「でも、そうじゃなくて、相手が迷ってるとか、来るか来ないかの境目にいるなら」


「うん」


「待ち場所を守るのも、かなり大事だと思う」


 春日は頷いた。


 昨日と同じ言葉。


 でも、今日は自分の問題として刺さる。


「探しに行く優しさもある」


 三崎は続けた。


「うん」


「でも、探しに行ったせいで、相手が来たときに誰もいないってこともある」


「うん」


「それ、けっこう怖い」


「怖いな」


「だから、待つ場所って、案外簡単に捨てちゃいけない」


 春日は、その言葉を胸に置いた。


 待つ場所は、簡単に捨ててはいけない。


 自分が不安だから動く。


 相手が心配だから探す。


 それは優しさかもしれない。


 けれど、相手にとっての「来れば会える場所」を消してしまうことにもなる。


「三崎」


「何個?」


「今日は十九個」


「またか。高止まりだな」


「かなり大事だった」


「現物は?」


「心の中で」


「知ってた」


 三崎はため息をつきながら、もう一つ唐揚げを食べた。


 それから、少しだけ声を落とす。


「たださ」


「うん」


「待つって、格好よく言うけど、実際かなりしんどいぞ」


「うん」


「何もしない自分に耐える時間だから」


 春日は、箸を止めた。


「何もしない自分に耐える」


「そう。電話すれば、何かした感じになる。探しに行けば、動いた感じになる」


「うん」


「でも待つって、相手のために何かしてるのに、見た目は何もしてない」


「うん」


「だから、自分の不安がうるさい」


 春日は、ゆっくり息を吐いた。


 本当に、その通りだと思った。


 待つ側は、相手だけを待っているわけではない。


 自分の不安が暴れないように、押さえながら待っている。


「三崎」


「唐揚げ増える?」


「二十個」


「ついに大台」


「心の中で」


「心が太るわ」


「外側の番人だから大丈夫だろ」


「なんでも大丈夫にするな」


 三崎はそう言って笑った。


 けれど、そのあと少しだけ真面目に付け足した。


「でも、お前が待つ側なら、たぶん動きたくなるだろ」


「なると思う」


「じゃあ、動かない準備もいるな」


「動かない準備」


「うん。動かないって決めてないと、動くぞ」


 春日は、その言葉を深く受け取った。


    ◇


 午後、春日は仕事の合間にスマホのメモを開いた。


 金曜。


 普通のミルクティー。


 その下に、新しい言葉を打つ。


『動かず待つ』


 打ってから、少し見つめた。


 強すぎる気もした。


 動かず待つ。


 まるで、何があっても動かないと決めているように見える。


 それは違う。


 必要なら連絡する。

 必要なら迎えに行く。

 必要なら、普通なんて言っていないで動く。


 でも、自分の不安だけで動かない。


 春日は、少し考えて書き直した。


『まず、動かず待つ』


 これならいい気がした。


 まず、ここにいる。


 しらいさんが来ると言った場所に。


 来れば、会える場所に。


 それを最初に守る。


 春日はスマホを伏せずに机へ置いた。


 不思議と少し落ち着いた。


    ◇


 その日の夕方、しらいさんからメッセージが届いた。


『撮影終わった』


 春日は返信する。


『おつかれさまでした』


 少し考えてから、続ける。


『今日は三崎と、待ち場所を守る話をしました』


 既読。


 少し間があって返ってくる。


『外側の番人?』


『はい』


『何て?』


『探しに行く優しさもあるけれど、待ち場所は簡単に捨ててはいけない』


『待つのは、何もしない自分に耐える時間だ、と』


 既読がついて、しばらく返事がなかった。


 春日はスマホを見張りそうになって、やめた。


 まず、動かず待つ。


 これはメッセージでも同じだ。


 少しして、返事が来た。


『それ、今日聞きたい』


『行ける』


 春日は、胸の奥で小さく息を吐いた。


『待っています』


 送ってから、少し迷った。


 急がなくていいです、と付けたくなる。


 でも、今日はやめた。


 しらいさんから、すぐ既読。


『知ってる』


 短い。


 でも、十分だった。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 声は穏やかだった。


 部屋に入ると、ローテーブルはいつものままだった。


 白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 迎賓館ではない。


 でも、ちゃんと待っていた部屋。


 しらいさんは、それを見て少しだけ笑った。


「待ち場所、守ってる」


「練習中です」


「いいと思う」


 春日くんがミルクティーを作る。


 今日は蜂蜜普通。


 カップが置かれる。


 ことん。


 今日は、動かず待つ音だった。


「三崎さんの言葉、もう一回聞きたい」


 しらいさんが言う。


 春日くんは頷いた。


「探しに行く優しさもあるけれど、待ち場所は簡単に捨ててはいけない」


「うん」


「それから、待つのは何もしない自分に耐える時間」


 しらいさんは、ミルクティーを飲まずに、しばらくカップを見つめた。


「それ、すごく分かる」


「はい」


「美緒さん、何もしない自分に耐えてた」


「はい」


「電話すれば何かしたことになる」


「はい」


「探しに行けば、動いたことになる」


「はい」


「でも、しなかった」


「はい」


「そのほうが、たぶん難しい」


 春日くんは静かに頷いた。


「俺も、金曜に向けて考えました」


「うん」


「しらいさんが来なかったら、俺はたぶん動きたくなります」


「うん」


「メッセージも送りたくなります」


「うん」


「でも、まずこの部屋にいようと思いました」


「まず」


「はい。必要なら動きます。でも、自分の不安だけで動かない」


 しらいさんは、目を伏せた。


「それ、いい」


「はい」


「でも、無理しないでね」


 言ってから、しらいさんは少しだけ苦笑した。


「あ、これも足を止めるやつ?」


「日によります」


「難しいね」


「かなり」


 二人で少し笑った。


 笑えるくらいには、二人ともこの面倒くささに慣れてきていた。


    ◇


 春日くんはスマホのメモを見せた。


『まず、動かず待つ』


 しらいさんは、それをゆっくり読んだ。


「まず、がいい」


「最初は“動かず待つ”だけでした」


「強すぎる」


「そう思って、足しました」


「春日くん、進化してる」


「三崎のおかげです」


「外側の番人」


「はい」


「唐揚げ何個?」


「最終的に二十個です」


「大台」


「心の中ですが」


「現物は?」


「ありません」


「厳しい」


 しらいさんは笑った。


 それから、鞄から青灰色のノートを出す。


「今日は、春日くんのメモから一文もらっていい?」


「もちろんです」


 しらいさんはペンを持つ。


 少しだけ考えて、書いた。


『待つ場所を守るために、まず動かず待つ。自分の不安だけで、相手の来る道を消さない。』


 書いてから、春日くんへ見せる。


 彼は真剣に読んだ。


「……いい一文です」


「長いけど」


「必要な長さです」


「一文ルール、もうゆるいね」


「今日は待ち場所の話なので」


「理由になってる?」


「たぶん」


 しらいさんは小さく笑った。


「自分の不安だけで、相手の来る道を消さない」


「はい」


「これ、私にも必要」


「しらいさんにも?」


「うん。春日くんが黙ってるとき、私も聞きたくなることある」


「はい」


「大丈夫?って」


「はい」


「でも、春日くんが来る道を、私の不安で塞ぐこともあるかもしれない」


「……はい」


「だから、私も練習する」


 春日くんは、少しだけ目元を柔らかくした。


「一緒に練習しましょう」


「出た」


「出ます」


「でも、今日はそれでいい」


    ◇


 少しして、話は金曜へ移った。


「春日くん」


「はい」


「金曜、私が時間を過ぎても来なかったら」


「はい」


「どれくらい待つ?」


 春日くんは、すぐには答えなかった。


 真面目に考えている顔だった。


「まず、約束の時間から十五分は何も送りません」


「十五分」


「はい」


「そのあと?」


「短く一通だけ送ります」


「何て?」


「『ここにいます』と」


 しらいさんは、少しだけ息を止めた。


「大丈夫ですか、じゃなくて?」


「はい」


「急がなくていいです、でもなくて?」


「はい」


「ここにいます」


「はい」


「それ、いい」


「足を止めないかは分かりません」


「うん」


「でも、待ち場所を知らせるだけなら、まだ近いかと」


 しらいさんは頷いた。


「うん。たぶん、それなら助かる」


「はい」


「でも、その日になったら違うかもしれない」


「はい」


「そのときは一緒に迷う」


「はい」


「本当に面倒くさいね」


「本当に」


 二人で笑った。


 その笑いは、かなり普通に近かった。


    ◇


 帰る時間になった。


 今日は、しらいさんがマグカップを洗った。


「待ち場所を使わせてもらったので」


「関係ありますか」


「ある」


「分かりました」


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割九分」


「高いですね」


「金曜の待ち方が少し決まったから」


「はい」


「残り一分は?」


「当日の私に任せる」


「分かりました」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「もし十五分過ぎたら」


「はい」


「ここにいます、って送って」


「分かりました」


「それまでは?」


「まず、動かず待ちます」


「よし」


「でも、必要なら動きます」


「それもよし」


 しらいさんは笑った。


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「金曜なら」


「ここにいます」


 その言葉に、しらいさんは少しだけ目を細めた。


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。


 待つ場所を守るために、まず動かず待つ。


 自分の不安だけで、相手の来る道を消さない。


 その一文は、かなり重かった。


 けれど、重いだけではなかった。


 どう待てばいいかが、少しだけ形になった。


 金曜。


 普通のミルクティー。


 十五分。


 ここにいます。


 それは約束ではなく、練習だった。


 春日はスマホのメモを閉じ、カレンダーを見た。


 予定はまだ消えていない。


 待ち場所も、まだここにある。

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