第160話 美緒は、紗季を探しに行かなかった
美緒は、東口の柱のそばに立っていた。
待ち合わせ時間の三分前。
駅の人の流れは、夕方らしく少し速い。
改札から出てくる人。
階段へ向かう人。
スマホを見ながら誰かを探す人。
買い物袋を持って、家へ帰る人。
その中に、紗季の姿はまだない。
美緒はスマホを見る。
何も来ていない。
『水曜なら』
紗季から届いた五文字。
『うん。じゃあ水曜に』
自分が返した言葉。
そのあと、何もない。
何もないことを、今日は責めてはいけない気がした。
急がなくていいよ。
今日大丈夫?
無理なら別の日でも。
そういう言葉を、今朝、美緒は全部消した。
紗季の足を止めたくなかったから。
けれど、待ち合わせ時間が近づいてくると、その選択が急に怖くなる。
本当に送らなくてよかったのだろうか。
もしかしたら、紗季はどこかで迷っているのかもしれない。
駅の中で場所が分からなくなっているのかもしれない。
来ているのに、こちらを見つけられないのかもしれない。
探しに行く?
そう思った瞬間、美緒の足が半歩だけ動いた。
改札のほうへ。
けれど、すぐに止まる。
もし、紗季がこちらへ向かってきていたら。
自分が動いたせいで、すれ違うかもしれない。
もし、紗季が少し離れた場所で呼吸を整えている途中なら。
自分が探しに行くことで、「見つかった」と思わせてしまうかもしれない。
電話する?
メッセージする?
美緒はスマホを握り直した。
でも、画面は開かなかった。
ここにいる。
紗季が来るなら見える場所に。
来られないなら、追い詰めない場所に。
美緒は、足を動かさなかった。
待ち合わせ時間になった。
紗季は、まだ来なかった。
それでも美緒は、柱のそばに立っていた。
◇
撮影前、高瀬菜央は、いつもより言葉が少なかった。
白瀬アカリが控室へ入ると、高瀬は台本を開いたまま、同じページを見つめていた。
「白瀬さん」
「はい」
「今日、美緒、動かないんです」
「はい」
「探しに行かない」
「はい」
「電話もしない」
「はい」
「メッセージもしない」
「はい」
高瀬は、台本から顔を上げた。
「これ、見捨てたみたいに見えたら嫌なんです」
その言葉は、とても美緒らしかった。
しらいさんは、少しだけ椅子を引いて隣に座る。
「見捨ててないと思います」
「はい」
「でも、探しに行かないって、外から見ると冷たく見えるかもしれない」
「そこが怖いです」
「はい」
「美緒は、紗季を探したいんです」
「はい」
「でも探したら、紗季が来る道を塞ぐかもしれない」
しらいさんは頷いた。
「待ち場所を守るんですね」
高瀬は、その言葉を聞いて、少しだけ目を動かした。
「待ち場所を守る」
「はい」
「探しに行かないんじゃなくて、紗季さんが来るかもしれない場所を空けておく」
「……それです」
高瀬は、胸に手を当てた。
「それでいきます」
「はい」
「美緒は、動かないんじゃなくて、待ち場所を守る」
しらいさんは静かに頷いた。
昨日、紗季は駅の反対側まで来た。
でも、美緒はそれを知らない。
今日の美緒は、紗季がどこにいるか分からないまま待つ。
探したい。
でも、探さない。
それは、冷たさではない。
かなり難しい優しさだ。
◇
駅の東口セットは、昨日の反対側より人通りが多い作りになっていた。
待ち合わせ場所として、自然に見える柱。
近くの案内板。
少し離れたベンチ。
改札から流れてくる人たち。
美緒は、その柱のそばで待つ。
監督が高瀬に説明する。
「高瀬さん、今日は探しに行きたい気持ちはあります」
「はい」
「でも、行かない」
「はい」
「電話もしたい」
「はい」
「でも、しない」
「はい」
「それが冷たく見えないようにしたい」
高瀬が頷く。
「見捨てるのではなく、来る道を塞がないために」
監督は小さく頷いた。
「そうです」
一度目の本番。
美緒は柱のそばでスマホを見る。
時刻は待ち合わせ三分前。
改札のほうを見る。
紗季はいない。
スマホを見る。
何も来ていない。
足が半歩動く。
止まる。
その止まり方が、少し分かりやすく“我慢している人”になった。
カット。
監督が言う。
「今のは、美緒がかなり立派に我慢しています」
「はい」
「もう少し、迷いを残しましょう」
「はい」
「美緒は完璧に待てる人になったわけではない」
二度目。
今度は迷いが強すぎた。
探しに行きたい気持ちが前に出て、じっとしていることが不自然に見えた。
カット。
監督が首を傾げる。
「今のは、動かない理由が少し弱いですね」
「はい」
「美緒は、動けないのではなく、動かないことを選びます」
「はい」
「でも、選びながら不安です」
高瀬は息を整えた。
三度目。
駅の東口。
美緒は柱のそばに立っている。
スマホを見る。
待ち合わせ三分前。
何も来ていない。
改札を見る。
人は流れている。
紗季はいない。
美緒の足が、ほんの少しだけ改札のほうへ出る。
すぐに戻る。
強く戻すのではない。
ここにいたほうがいい、と自分に言い聞かせるような戻り方。
待ち合わせ時間になる。
美緒は電話をかけない。
メッセージも打たない。
ただ、スマホを両手で持ち、画面を伏せずに胸の前で少し下げる。
改札から来る人が見えるように。
もし紗季が来たら、すぐに分かるように。
それでも、追い詰めないように。
カット。
現場が静かになった。
監督がモニターを見る。
しばらくして、頷いた。
「今のでいきましょう」
高瀬菜央は、深く息を吐いた。
白瀬アカリは、離れたところで見ていて、胸の奥がきゅっとした。
美緒さんは、探しに行かなかった。
でも、見捨てなかった。
◇
昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。
三崎は唐揚げ弁当を開けながら、今日は珍しく静かだった。
静かすぎて、春日のほうが先に聞いた。
「今日は何を考えてるんだ」
「待つ場所」
「やっぱり白瀬アカリか」
「まあ、だいたいそう」
三崎は唐揚げを一つ食べてから言った。
「探しに行く優しさもあるけどさ」
「うん」
「待ち場所を守る優しさもあると思うんだよ」
春日は箸を止めた。
「待ち場所を守る」
「うん。相手が来るかもしれない場所から、自分が動かない」
「うん」
「電話したい。メッセージしたい。探しに行きたい。でも、そうすると相手が来る道を塞ぐかもしれない」
「うん」
「だから待つ」
春日は、胸の中でその言葉を受け取った。
まただ。
また、三崎が現場の芯を外側から掴んでいる。
「三崎」
「何個?」
「十九個」
「昨日と同じか」
「高評価維持」
「現物は?」
「今日は……」
春日は少し迷った。
三崎が期待した目をする。
「心の中で」
「おい」
「現実は厳しい」
「心の中の唐揚げで腹が膨れるか」
「外側の番人ならいける」
「いけるか」
三崎は文句を言いながらも、少しだけ笑った。
「でも、これ本当に難しいと思うぞ」
「うん」
「探しに行かないって、何もしてないように見えるから」
「うん」
「でも、実際はかなり踏ん張ってる」
「うん」
「見捨てるのと、待ち場所を守るのは違う」
春日は頷いた。
今日しらいさんに届ける言葉が、また一つ増えた。
◇
撮影後、高瀬菜央はベンチに座ったまま少しぐったりしていた。
しらいさんが隣へ行くと、高瀬は小さく笑った。
「白瀬さん」
「はい」
「美緒、動かなかったです」
「はい」
「かなり疲れました」
「見ていて分かりました」
「何もしてないのに」
「何もしてないわけじゃないです」
「ですよね」
高瀬は、手元のスマホを見た。
「美緒、紗季が駅の反対側にいるって知ったら、どうするんでしょう」
「……たぶん、泣きそうになります」
「ですよね」
「でも、その場では探しに行かなかったから、紗季さんがもし東口に来たら会える」
「はい」
「来なかったとしても、美緒さんが動かないでいたことには意味があると思います」
高瀬は、少しだけ頷いた。
「待つって、疲れますね」
「はい」
「でも、美緒は待ちたいんだと思います」
「はい」
「紗季を捕まえたいんじゃなくて、来られる場所を残したい」
しらいさんは、その言葉に胸を突かれた。
来られる場所を残したい。
それは、今日の美緒のすべてだった。
◇
青灰色のノートを開く。
今日の一文は、自然に出てきた。
『美緒さんは探しに行かなかった。見捨てたのではなく、紗季さんが来る道を塞がないために。』
書き終えて、少しだけ息を吐く。
これは強い一文だと思った。
写真を撮って、春日くんへ送る。
すぐ既読。
『読みました』
『待ち場所を守ったんですね』
しらいさんは返す。
『うん』
『三崎がかなり近いことを言っていました』
既読。
『外側の番人?』
『はい』
『探しに行く優しさもあるけれど、待ち場所を守る優しさもある』
『見捨てるのと、待ち場所を守るのは違う、と』
しらいさんは、画面を見たまま小さく頷いた。
『三崎さん』
『今日は唐揚げ十九個?』
春日くんからの返事は早かった。
『はい』
『現物は?』
『心の中です』
『厳しい』
『本人も怒っています』
少し笑えた。
美緒の待ちの重さが、少しだけ軽くなる。
◇
夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。
今日は、美緒の場面を見た疲れが残っていた。
待つ側の疲れ。
動かない疲れ。
玄関が開く。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
部屋に入る。
いつものローテーブル。
白いマグカップ。
青灰色のコースター。
蜂蜜。
少し離れたスプーン。
春日くんがミルクティーを作る。
今日は蜂蜜普通。
「今日は普通?」
「待ち場所を守る日なので、動かしすぎない普通です」
「ちょっと分かる」
カップを置く。
ことん。
今日は、待ち場所の音だった。
「美緒さん、探しに行かなかった」
「はい」
「電話もしなかった」
「はい」
「メッセージもしなかった」
「はい」
「でも、見捨てたわけじゃない」
「はい」
「紗季さんが来る道を塞がないため」
春日くんは、静かに頷いた。
「かなり大事ですね」
「出た」
「出ます」
「でも、本当に大事」
「はい」
「動かないことも、待つことなんだね」
「はい」
「春日くんは、待ち場所を守れる?」
春日くんは少し考えた。
「守りたいです」
「守れる、じゃなくて?」
「守りたい、です」
「正直」
「はい」
「私が金曜に来なかったら?」
「はい」
「探しに来る?」
「行きたくなると思います」
「うん」
「電話したくなると思います」
「うん」
「メッセージも送りたくなると思います」
「うん」
「でも、しらいさんが来ると言った場所がこの部屋なら、まずここにいます」
しらいさんは、目を伏せた。
「待ち場所を守る?」
「はい」
「美緒さんみたいに?」
「練習します」
「うん」
「ただ、必要なら送ります」
「そこも大事」
「はい」
「送らないことが正解って決めつけない」
「はい」
「でも、動かない優しさもある」
「はい」
しらいさんはミルクティーを飲んだ。
温かさが体に入る。
◇
ノートを開く。
今日の一文を見せる。
『美緒さんは探しに行かなかった。見捨てたのではなく、紗季さんが来る道を塞がないために。』
春日くんは、ゆっくり読んだ。
「いい一文です」
「うん」
「これも、読者に刺さると思います」
「アクセス狙いとして?」
「はい」
「どうして?」
「待つ側の苦しさが見えるからです」
「うん」
「ただ待っているだけではなく、動きたい気持ちを押さえて場所を守っている」
「うん」
「それを読者だけが知ると、美緒さんを応援したくなる」
「春日くん、今日も編集者」
「すみません」
「謝らないで。今日は助かる」
しらいさんは、ノートを閉じた。
「美緒さん、強くなったね」
「はい」
「でも、強い人になったわけじゃない」
「はい」
「まだ不安」
「はい」
「それがいい」
「はい」
◇
帰る時間になった。
しらいさんはマグカップを洗い、棚へ戻した。
水の音。
カップを拭く音。
棚に置く音。
ことん。
今日最後の音。
「何割ですか」
春日くんが聞く。
「九割七分」
「少し残っていますね」
「美緒さんの待ち疲れが三分」
「その三分は?」
「帰り道で少し持つ」
「はい」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「待ち場所を守るって、難しいね」
「はい」
「でも、守ってほしい日がある」
「はい」
「金曜、もし私が遅れたり迷ったりしても」
「はい」
「まず、ここにいて」
「分かりました」
「でも、必要なら送って」
「はい」
「面倒くさいね」
「かなり」
「一緒に迷って」
「はい」
しらいさんは、少し笑った。
「また行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「また帰ってくる」
「金曜なら」
「この部屋で待っています」
「知ってる」
ドアが閉まる。
◇
部屋に静けさが戻った。
春日悠真は、青灰色のコースターを見た。
探しに行く優しさもある。
でも、待ち場所を守る優しさもある。
動かないことが、何もしないこととは限らない。
電話しないこと。
メッセージを送らないこと。
探しに行かないこと。
それらは、冷たさではなく、相手が来る道を塞がないための選択になる日がある。
金曜。
しらいさんが来る予定の日。
春日は、この部屋で待つ。
迎賓館にせず、普通に。
でも、確かに。
待ち場所を守るように。




