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第159話 三崎、駅の反対側まで来たことを「勝ち」と言う

 春日悠真は、朝からずっと同じ言葉を考えていた。


 駅の反対側。


 待ち合わせ場所ではない。

 約束した東口ではない。

 美緒が待っている場所でもない。


 でも、家ではない。


 会社でもない。

 いつもの部屋でもない。

 なかったことにした場所でもない。


 駅の反対側。


 そこまで、岸谷紗季は来た。


 それをどう呼べばいいのか、春日にはまだ少し分からなかった。


 失敗。


 そう呼べば簡単だった。


 約束の場所に行けなかった。

 食事にも行けなかった。

 美緒に会えなかった。


 だから失敗。


 けれど、それでは何かが違う。


 紗季は家から出た。

 水曜を消さなかった。

 美緒から追加の確認が来ない中で、ちゃんと駅までは来た。

 待ち合わせ場所の反対側で、帰りもせずに止まった。


 それを全部まとめて「行けなかった」で片づけてしまうのは、あまりにも雑だ。


 春日は出勤前、自分のスマホを見た。


 来週の金曜。


『普通のミルクティー』


 予定は、まだそこにある。


 もし、しらいさんがその日に来られなかったら。


 もし、部屋の前まで来たけれど、呼び鈴を押せなかったら。


 もし、駅までは来たけれど、こちらへ向かえなかったら。


 自分は、その日を「来られなかった」とだけ呼んでしまわないだろうか。


 それが少し怖かった。


    ◇


 昼休み、三崎はいつも通り唐揚げ弁当を開けた。


 今日は駅構内図はない。


 ファッション誌もない。

 カレンダーもない。

 クーポンアプリも開いていない。


 ただ、唐揚げ弁当だけがある。


 それなのに、春日は少しだけ身構えた。


 三崎が何も持っていないときほど、妙にまっすぐ核心を突いてくることがある。


「三崎」


「何だ。今日は先制攻撃か」


「一般論として聞きたい」


「だいたい一般論じゃないやつだな」


「一般論だ」


「はいはい」


 三崎は唐揚げを一つつまみ上げた。


 春日は少し言葉を選んだ。


「約束した場所には行けなかった」


「うん」


「でも、その近くまでは行った」


「うん」


「待ち合わせ場所の反対側とか」


 三崎は、唐揚げを口に入れる直前で止まった。


「それ、もう半分勝ちだろ」


「早いな」


「即答できる」


 三崎は唐揚げを食べ、しっかり噛んでから続けた。


「行けなかった、じゃない。そこまで来た、だろ」


 春日は、箸を持つ手を止めた。


 昨日も似た言葉を聞いた。


 けれど、今日はさらに強く届いた。


「勝ちなのか」


「勝ちって言い方が雑なら、前進」


「うん」


「でも俺なら勝ちって言う」


「どうして」


「だって、家にいたらゼロだろ」


「うん」


「駅まで来たならゼロじゃない」


「うん」


「反対側でも、来てる」


 三崎は、弁当の白米を少し箸で寄せた。


「行けたか行けなかったかで見ると、行けなかったになる」


「うん」


「でも、どこまで来たかで見ると、かなり来てる」


 春日は黙って頷いた。


 その見方が、今ほしかった。


「人ってさ」


 三崎は唐揚げの端をかじりながら言った。


「ゴールに着いたかどうかばっかり見るんだよ」


「うん」


「でも、ゴールに着けない日でも、スタート地点からは動いてることがある」


「うん」


「そこを見ないと、毎回ゼロ点になる」


 春日は、胸の奥にその言葉をしまった。


 毎回ゼロ点になる。


 確かにそうだ。


 行けなかった。


 返せなかった。


 言えなかった。


 選べなかった。


 それだけで見ると、何も進んでいないように見える。


 でも、実際には違う。


 消さなかった。

 伏せなかった。

 駅まで来た。

 反対側で止まった。


 その途中がある。


「三崎」


「何個?」


「今日は十九個」


 三崎は目を見開いた。


「増えた」


「かなり大事だった」


「ついに現物か?」


「今日は心の中で」


「昨日もじゃん」


「一昨日が奇跡だった」


「奇跡を通常運転にしてくれ」


「検討する」


「絶対しない言い方だ」


 三崎は文句を言いながらも、少し嬉しそうだった。


 それから、ふと真面目な顔に戻る。


「で、その一般論じゃない一般論、白瀬アカリの役か?」


「なぜそうなる」


「お前がそんな顔で聞いてくる一般論は、だいたい白瀬アカリか、その周辺だろ」


「……まあ、そうだ」


「やっぱり」


 三崎は、唐揚げをもう一つ食べた。


「もしそういう場面があるなら、視聴者はちゃんと見てると思うぞ」


「ちゃんと?」


「うん。行けなかったことじゃなくて、来たことを」


「うん」


「少なくとも、俺はそっちを見る」


 春日は、少しだけ笑った。


「外側の番人として?」


「読者代表として」


「兼任だったな」


「忙しいんだよ」


「無給だけど」


「唐揚げ十九個、心の中だけど」


 春日は、その言葉に笑った。


 笑いながら、今日しらいさんへ伝えるべき言葉が決まった気がした。


    ◇


 その日の撮影で、しらいさんは昨日の駅の反対側のカットを一部確認することになった。


 本当は、少し怖かった。


 自分が演じた「行けなかった場所」を、映像として見る。


 そこで紗季がどれくらい来られていたのか。


 それがちゃんと映っているのか。


 怖い。


 けれど、今日の編集確認は必要だった。


 監督はモニターを前に、白瀬アカリと理沙さんを呼んだ。


 映像が流れる。


 駅構内。


 人が行き交う。


 柱の影。


 スマホを握る紗季。


 待ち合わせ五分前。


 追加メッセージはない。


 東口の案内板を見る。


 動けない。


 けれど、帰らない。


 映像が止まる。


 しらいさんは、しばらく何も言えなかった。


 自分で演じたはずなのに、画面の中の紗季は、思っていたより小さく見えた。


 でも、弱くは見えなかった。


 迷っている。

 怖がっている。

 動けていない。


 けれど、そこにいる。


 監督が言った。


「白瀬さん」


「はい」


「ここ、かなり大事です」


「はい」


「紗季は、行けなかった人として撮っていません」


 しらいさんは、顔を上げた。


「駅の反対側まで来た人として撮っています」


 その言葉が、三崎の言葉と重なった。


 行けなかった、じゃない。

 そこまで来た、だろ。


 しらいさんは、小さく頷いた。


「はい」


 理沙さんが隣で言う。


「昨日より、今のほうが見えるでしょう」


「はい」


「演じている最中は、どうしても“行けない”の中にいる」


「はい」


「でも、映像で見ると、“来ている”も映る」


 映像で見ると、来ているも映る。


 それは、少し救いだった。


 自分の中では失敗に見えていたものが、画面の中では前進として残ることがある。


 それが映像の強さなのかもしれない。


    ◇


 休憩中、高瀬菜央がモニター前に来た。


 彼女も駅の反対側のカットを見たらしい。


 少し目元が赤い。


「白瀬さん」


「はい」


「紗季、来てました」


「はい」


「昨日も言ったけど、やっぱり来てました」


 高瀬は、少し笑った。


「美緒は知らないんですけど」


「はい」


「でも、見ている人は知ってる」


「はい」


「それ、かなり救いですね」


「救い?」


「はい。美緒が知らない間に、紗季はちゃんと来てたって、視聴者が知っていてくれる」


 しらいさんは、その言葉をゆっくり受け取った。


 視聴者が知っていてくれる。


 物語の中の美緒には届かない。

 でも、見ている人には届く。


 それは、紗季にとっても、美緒にとっても少し救いなのかもしれない。


「高瀬さん」


「はい」


「三崎さんが、駅の反対側まで来たことを勝ちって言ったらしいです」


「勝ち?」


「はい」


 高瀬は、少し驚いてから笑った。


「いいですね、それ」


「ですよね」


「美緒が聞いたら、たぶん泣きます」


「美緒さんは知らないですけどね」


「そこがまた苦しい」


 二人は笑った。


 でも、その笑いには昨日より少しだけ明るさがあった。


    ◇


 夕方、しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 昨日書いた二文を見返す。


『紗季さんは待ち合わせ場所には行けなかった。でも、駅の反対側までは来た。』


『行けなかった場所の手前にも、来られた場所はある。』


 今日は、その続きが書きたかった。


 でも、同じことの繰り返しにはしたくない。


 昨日は、紗季の出来事だった。


 今日は、その出来事を見る角度の話だ。


 しらいさんは、少し考えてから書いた。


『駅の反対側は、失敗の場所じゃない。紗季さんがそこまで来られた場所だった。』


 書いてから、胸の中で何かが少し整った。


 写真を撮って、春日くんへ送る。


 すぐ既読。


『読みました』


『三崎の言葉、届きましたね』


 しらいさんは返す。


『うん』


『今日、映像で見た』


『行けなかった人じゃなくて、来た人だった』


 少し間があって、春日くんから返る。


『それを見られてよかったです』


 しらいさんは、その文を見て少しだけ息を吐いた。


 見られてよかった。


 本当に、そうだった。


『三崎さんに伝えて』


『唐揚げ十九個』


 春日くんからすぐ返事。


『本人が狂喜します』


『現物は?』


『今日は心の中でお願いします』


『厳しい』


 しらいさんは少し笑った。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 今日は、昨日ほど足は疲れていなかった。


 けれど、映像を見た疲れが少しあった。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 声は落ち着いていた。


 部屋に入る。


 迎賓館ではない、いつもの部屋。


 ローテーブルには白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 春日くんがミルクティーを作る。


 今日は蜂蜜普通。


「今日は普通?」


「勝ちを普通に受け取る日なので」


「勝ちって言うと、ちょっと強い」


「三崎の言葉です」


「うん」


 カップを置く。


 ことん。


 今日は、見方が変わる音だった。


「今日、映像で見た」


「はい」


「駅の反対側の紗季さん」


「はい」


「演じてるときは、行けない、だった」


「はい」


「でも、映像で見たら、来てる、だった」


 春日くんは、静かに頷いた。


「よかったです」


「うん」


「三崎の言葉も、かなり合っていましたね」


「行けなかった、じゃない。そこまで来た」


「はい」


「勝ち」


「はい」


「ちょっと雑だけど、救われる」


「三崎らしいです」


「うん」


 しらいさんは、ミルクティーを飲んだ。


「春日くん」


「はい」


「私も、見方を変えられるかな」


「はい」


「できなかったことだけじゃなくて」


「はい」


「そこまで来られたことも」


「はい」


「春日くん、見てくれる?」


「見ます」


「でも、甘やかしすぎないで」


「難しいですね」


「かなり」


「では、できなかったことも見ます」


「うん」


「でも、来られた場所も見ます」


「いい」


 しらいさんは頷いた。


「それがいい」


    ◇


 しらいさんはノートを開いた。


 今日の一文を見せる。


『駅の反対側は、失敗の場所じゃない。紗季さんがそこまで来られた場所だった。』


 春日くんは、ゆっくり読んだ。


「いい一文です」


「うん」


「昨日の一文より、少し前を向いていますね」


「そうかも」


「昨日は、行けなかった場所の手前にも来られた場所がある」


「はい」


「今日は、そこを失敗の場所じゃないと言えています」


「うん」


「進んでいます」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


「紗季さんも?」


「はい」


「私も?」


「はい」


「春日くんも?」


「俺も、そう見られるようになりたいです」


「何を?」


「しらいさんが来られなかったとき、来られなかっただけで見ないこと」


「うん」


「自分が待ちきれなかったときも、待てなかっただけで見ないこと」


「春日くんも、駅の反対側ある?」


「あると思います」


「どこ?」


「たとえば、メッセージを送りたいけれど送らなかった日」


「うん」


「それは何もしていないように見えるけれど、送らない場所までは来ています」


 しらいさんは、目を細めた。


「送らない場所まで来た」


「はい」


「それ、ちょっといい」


「ありがとうございます」


「出た」


「出ます」


 二人で少し笑った。


    ◇


 会話は、少しだけ金曜の話へ移った。


「春日くん」


「はい」


「もし金曜、私が来られなかったら」


「はい」


「どこまで来たか見るって言ったよね」


「はい」


「でも、そもそも家を出られなかったら?」


 春日くんは少し考えた。


「その日は、家で金曜を消さなかったことを見ます」


 しらいさんは、少しだけ黙った。


 それから、笑った。


「また、ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「家で金曜を消さなかったこと」


「はい」


「それも、来られた場所?」


「はい。俺はそう思います」


 しらいさんは、カップを両手で包んだ。


「春日くん、甘いね」


「そうかもしれません」


「でも、今日はその甘さが助かる」


「よかったです」


「出た」


「出ます」


    ◇


 帰る時間になった。


 今日は、しらいさんがマグカップを洗った。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割八分」


「高いですね」


「駅の反対側が、失敗の場所じゃなくなったから」


「はい」


「残り二分は?」


「金曜のこと」


「怖いですか」


「少し。でも、もし来られなくても、見方が少し増えた」


「はい」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「駅の反対側は、勝ち?」


「三崎なら、勝ちと言います」


「春日くんは?」


「そこまで来た、と言います」


「うん」


「でも、心の中では少し勝ちだと思います」


 しらいさんは笑った。


「それ、いい」


「はい」


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「金曜なら」


「普通のミルクティーで待っています」


「駅の反対側でも?」


「そこまで来たことを見ます」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見た。


 駅の反対側は、失敗の場所じゃない。

 そこまで来られた場所。


 その見方は、春日自身にも必要だった。


 できなかったことだけで、人を見るのは簡単だ。


 行けなかった。

 返せなかった。

 言えなかった。

 待てなかった。


 でも、その手前にある場所を見落とすと、物語は雑になる。


 人も、雑に見えてしまう。


 春日はスマホのカレンダーを開いた。


 金曜。


 普通のミルクティー。


 その日がどうなるかは、まだ分からない。


 でも、もし何かが予定通りにいかなくても。


 行けなかった場所だけではなく、来られた場所を見る。


 春日は、そう決めた。

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