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第158話 待ち合わせ五分前、紗季さんは駅の反対側にいた

 水曜の夕方、岸谷紗季は駅にいた。


 正確には、待ち合わせ場所にはいなかった。


 待ち合わせは、駅の東口。


 美緒が選んだ定食屋は、東口から歩いて三分ほどの場所にある。


 改札を出て、右へ曲がって、少しだけ歩く。


 それだけ。


 たったそれだけの距離だった。


 けれど紗季は、駅の反対側にいた。


 西口。


 人の流れが、東口より少しだけ少ない。

 改札前の柱の影。

 自動販売機の隣。

 帰ろうと思えば、すぐに反対のホームへ戻れる場所。


 紗季は、そこでスマホを握っていた。


 待ち合わせ五分前。


 画面には、美緒からの追加メッセージはない。


 急がなくていいよ。

 今日大丈夫?

 無理なら別の日でも。


 そういう言葉は、何も来ていなかった。


 それが、少しだけ救いだった。


 もし来ていたら、紗季はそこで立ち止まるどころか、たぶん帰っていた。


 返さなければならない。

 大丈夫だと言わなければならない。

 行くのか行かないのか、決めなければならない。


 そう思って、足が動かなくなったかもしれない。


 でも、美緒からは何も来ていない。


 だから、紗季はここまで来られた。


 待ち合わせ場所ではない。


 東口でもない。


 美緒がいるかもしれない場所からは、まだ少し遠い。


 でも、家にはいない。


 駅には来た。


 紗季はスマホを見る。


 時刻は、待ち合わせ五分前。


 まだ間に合う。


 改札を抜けて、通路を渡り、東口へ行けばいい。


 できる。


 たぶん。


 でも、足が動かなかった。


 行きたいのか。


 帰りたいのか。


 自分でも分からない。


 紗季は、駅構内の案内板を見上げた。


 東口。


 矢印は、ちゃんとそちらを指している。


 紗季は、その矢印を見たまま、動けなかった。


    ◇


 その日の撮影は、スタジオではなく駅構内を模したセットで行われた。


 実際の駅に近い質感を出すために、床には淡い反射があり、改札機の電子音も細かく入れられている。


 人の流れもある。


 エキストラが行き交う。

 スーツ姿の人。

 学生。

 買い物袋を持った人。

 イヤホンをつけた人。


 みんな、それぞれの目的地へ向かっている。


 その中で、紗季だけが止まる。


 白瀬アカリは、駅の反対側の柱の前に立ちながら、静かに呼吸を整えていた。


 今日は、怖い。


 クローゼットの前で止まるのとは違う。


 カレンダーを見られないのとも違う。


 今日は、もう駅まで来ている。


 来てしまった。


 それなのに、待ち合わせ場所には行けない。


 この「来た」と「行けない」の間を演じなければならない。


 控室で理沙さんに言われた言葉が残っている。


「今日の紗季は、失敗した人ではないわ」


「はい」


「でも、成功した人でもない」


「はい」


「駅の反対側まで来た人」


「はい」


「そこを、小さく扱わないこと」


 失敗ではない。


 でも、成功でもない。


 駅の反対側まで来た人。


 その位置を、間違えない。


 監督が近づいてきた。


「白瀬さん」


「はい」


「今日は、待ち合わせ場所に行けない芝居です。でも、家を出られなかった芝居ではありません」


「はい」


「ここまで来た。それは消さないでください」


「はい」


「でも、ここまで来たことを自分で誇れるほどではない」


「はい」


「まだ、紗季本人には分からない。自分がどれくらい来られたのか」


 しらいさんは頷いた。


「来られたことに、本人が気づいていない」


「そうです」


「分かりました」


「もう一つ」


「はい」


「美緒から追加のメッセージが来ていないことを、少しだけ救いにしてください」


 それは、すごく大事だった。


 美緒は送らなかった。


 紗季の足を止めないために。


 紗季はそれを知らない。


 けれど、追加のメッセージが来ていないことによって、ここまで来られた。


 知らない優しさが、紗季の足をここまで運んだ。


    ◇


 一度目の本番。


 駅構内。


 人が行き交う。


 紗季は柱の近くに立つ。


 スマホを見る。


 待ち合わせ五分前。


 美緒からの追加メッセージはない。


 東口の案内板を見る。


 しらいさんは、そこで怖さを少し強く出しすぎた。


 足がすくんだ人のように見えた。


 カット。


 監督がすぐに言った。


「今のは、行けない怖さが前に出ています」


「はい」


「紗季は怖い。でも、完全に逃げたいわけではない」


「はい」


「東口を見る目に、少しだけ行きたい気持ちも残してください」


 しらいさんは頷いた。


 そうだ。


 紗季は、美緒が嫌で動けないのではない。


 水曜を消したいわけでもない。


 行きたい気持ちも、どこかにある。


 二度目。


 今度は、行きたい気持ちを入れすぎた。


 東口へ向かいたいのに勇気が出ない人になった。


 それはそれで成立する。


 けれど、紗季の混乱とは少し違う。


 カット。


 監督が首を傾げる。


「今のは、行きたいことが分かりすぎますね」


「はい」


「紗季は、まだ自分が行きたいのかも分かっていない」


「はい」


「ただ、帰れていない」


 ただ、帰れていない。


 その言葉が、しらいさんの中に落ちた。


 美緒のところへ行けない。


 でも、家にも帰れていない。


 その中間。


 三度目。


 駅構内。


 人が流れる。


 紗季は柱の近くに立っている。


 スマホを見る。


 待ち合わせ五分前。


 追加メッセージはない。


 紗季は、それを長く見ない。


 けれど、ほんの少しだけ呼吸が浅くなる。


 来ていない。


 確認されていない。


 急がされていない。


 だから、まだここにいられる。


 東口の案内板を見る。


 行きたいのか、帰りたいのか、分からない。


 足は動かない。


 でも、体は帰る方向にも向かない。


 ただ、そこにいる。


 待ち合わせ場所ではない。


 けれど、家でもない。


 駅の反対側。


 美緒のいるかもしれない場所へ、まだ辿り着けない人の場所。


 カット。


 現場が静かになった。


 人の流れ役のエキストラたちも、少しだけ空気を止めているように見えた。


 監督がモニターを確認する。


 しばらくして、頷いた。


「今のでいきましょう」


 しらいさんは、静かに息を吐いた。


 紗季さんは、待ち合わせ場所には行けなかった。


 でも、駅の反対側までは来た。


    ◇


 撮影後、高瀬菜央が近づいてきた。


 今日は美緒側の待ち合わせ場所の場面も撮る予定だが、その前に紗季の場面を見ていた。


 高瀬は、少しだけ目元を赤くしていた。


「白瀬さん」


「はい」


「紗季、来てたんですね」


 その言い方が、美緒そのものだった。


「待ち合わせ場所ではないですけど」


「でも、来てた」


「はい」


「美緒は、知らないんですよね」


「はい」


「それ、しんどいですね」


 高瀬は小さく笑った。


 笑っているのに、少し泣きそうだった。


「美緒は、来ないって思うかもしれない」


「はい」


「でも、視聴者は知ってる」


「はい」


「駅の反対側にいることを」


 しらいさんは頷いた。


 これもまた、視聴者だけが知るやつだ。


 美緒は知らない。


 でも、読者は知っている。


 紗季が完全に逃げたわけではないことを。


 ここまで来たことを。


「高瀬さん」


「はい」


「美緒さん、待つの大変ですね」


「大変です」


「紗季さんも、大変です」


「知ってます」


 二人で少しだけ笑った。


 その笑いは、現場の重さを少しだけほどいた。


    ◇


 昼休み、春日悠真は三崎と向かい合っていた。


 三崎は唐揚げ弁当の横に、駅構内図をスマホで開いていた。


「もう聞く前から白瀬アカリだな」


「正解」


「駅構内図は何だ」


「待ち合わせ場所に行けないけど、駅までは来るやつについて考えてる」


 春日は箸を持ったまま止まった。


「お前、本当に何なんだ」


「外側の番人」


「今日はかなり強いな」


 三崎は、駅構内図を指で拡大した。


「約束の場所には行けない。でも駅の反対側までは来た」


「うん」


「これ、失敗扱いしたら雑だと思うんだよ」


「雑?」


「だって、家を出てるだろ」


「うん」


「電車乗ったか歩いたか知らないけど、駅まで来てるだろ」


「うん」


「待ち合わせ場所には行けない。でも、そこまで来た。これ、めちゃくちゃ大きい」


 春日は、胸の奥で頷いた。


 今日もしらいさんへ届ける言葉ができた。


「三崎」


「何個?」


「十八個」


「昨日と同じ」


「高評価維持」


「現物は?」


「今日はない」


「やっぱり一昨日の奇跡は続かなかったか」


 三崎は少し残念そうに唐揚げを食べた。


 そして、すぐにまた言う。


「こういうとき、“行けなかった”って言うと全部失敗みたいになるけどさ」


「うん」


「“そこまで来た”って言い方にしたら、見え方変わるよな」


「かなり変わる」


「人って、行けなかった場所ばっかり見るけど、来られた場所もあるんだよ」


 春日は、その言葉を聞いた瞬間、箸を止めた。


 これは、次の一文になるかもしれない。


 いや、たぶん今日のしらいさんに必要な言葉だ。


    ◇


 撮影後、しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 少しだけ迷った。


 書きたいことは二つある。


 待ち合わせ場所には行けなかった。

 でも、駅の反対側までは来た。


 それだけで十分な気もする。


 でも、そこにもう一つある。


 来られた場所を見ること。


 しらいさんは、まず今日の紗季の一文を書いた。


『紗季さんは待ち合わせ場所には行けなかった。でも、駅の反対側までは来た。』


 そのまま写真を撮って、春日くんへ送る。


 すぐ既読。


『読みました』


『大きいですね』


 しらいさんは返信する。


『うん』


『でも、行けなかった』


 すぐ返事が来る。


『三崎が、かなりいいことを言っていました』


 既読。


『外側の番人?』


『はい』


『行けなかった場所ばかり見るけれど、来られた場所もある、と』


 しらいさんは、控室で息を止めた。


 来られた場所もある。


 その言葉は、今日の紗季に必要だった。


 そして、今日の自分にも必要だった。


『三崎さん』


『今日は駅構内図?』


 春日くんの返事は少し遅れた。


『当てないでください』


『当たり?』


『はい』


『唐揚げ十八個?』


『当たりです』


『現物は?』


『今日は心の中です』


『厳しい』


 しらいさんは少し笑って、それからノートをもう一度開いた。


 今日は、書き足したい。


 ペンを持つ。


 一文目の下に、少し小さく書いた。


『行けなかった場所の手前にも、来られた場所はある。』


 これは、次の回に残してもいい言葉かもしれない。


 でも、今日の紗季を置くには必要だった。


    ◇


 夜、しらいさんは春日くんの部屋へ来た。


 今日は、足が少し疲れていた。


 実際には大きく歩いたわけではない。


 でも、駅の反対側で止まる芝居は、足に残った。


 玄関が開く。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 声は少し疲れていた。


 でも、ちゃんと帰ってきた声だった。


 部屋に入ると、春日くんはすぐに気づいた。


「足、疲れていますか」


「うん。駅の反対側の足」


「はい」


「変な言い方」


「でも分かります」


 ローテーブルには、いつもの白いマグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 少し離れたスプーン。


 春日くんがミルクティーを作る。


 今日は蜂蜜少し多めだった。


「今日は甘い」


「駅の反対側まで来た日なので」


「理屈は分からないけど、今日は助かる」


 カップを置く。


 ことん。


 今日は、駅の反対側の音だった。


「紗季さん、行けなかった」


「はい」


「待ち合わせ場所には」


「はい」


「でも、駅の反対側にいた」


「はい」


「来てた」


「はい」


「でも、美緒さんは知らない」


「はい」


「それが、苦しい」


 春日くんは、静かに聞いていた。


「三崎の言葉、もう一回聞きたい」


「はい」


 春日くんは少し姿勢を正した。


「行けなかった場所ばかり見るけれど、来られた場所もある」


 しらいさんは、目を伏せた。


「うん」


「それ、かなり必要だった」


「はい」


「私、行けなかったって思ってた」


「はい」


「待ち合わせ場所には行けなかった」


「はい」


「でも、駅の反対側まで来た」


「はい」


「そこを見ないと、紗季さんがかわいそう」


 春日くんは頷いた。


「そう思います」


「美緒さんにも見せたい」


「はい」


「でも、美緒さんは知らない」


「はい」


「読者は知ってる」


「はい」


「だから、読者は苦しい」


「続きが気になります」


「アクセス狙いとしても?」


「かなり強いです」


 春日くんは真面目に言った。


「紗季さんが完全に逃げたわけではないことを読者だけが知っているので、美緒さんの待ち合わせ場面がかなり強くなると思います」


「春日くん、今日も編集者」


「すみません」


「謝らないで。今日は必要」


    ◇


 しらいさんは青灰色のノートを開いた。


 今日の一文と、書き足した一文。


『紗季さんは待ち合わせ場所には行けなかった。でも、駅の反対側までは来た。』


『行けなかった場所の手前にも、来られた場所はある。』


 春日くんは、ゆっくり読んだ。


「二文ですね」


「今日は二文」


「必要だと思います」


「うん」


「一文目は出来事」


「うん」


「二文目は、見方」


「そう」


「かなり大事です」


 しらいさんは、ミルクティーを飲んだ。


 甘い。


 今日は、その甘さでちょうどよかった。


「春日くん」


「はい」


「私も、そういうことあるかも」


「はい」


「行けなかった場所ばかり見てる」


「はい」


「でも、来られた場所もある」


「はい」


「春日くんの部屋も、最初からここまで来られたわけじゃない」


「はい」


「河川敷から、肉まんから、かたんから、ことんから」


「はい」


「いろいろあった」


「はい」


「来られた場所、増えてる」


 春日くんの目元が、少しだけ柔らかくなった。


「増えています」


「金曜も」


「はい」


「来られる場所になるといい」


「はい」


「でも、もし来られなかったら」


「はい」


「行けなかっただけじゃなくて、どこまで来られたかも見る」


「分かりました」


「春日くんも見て」


「はい」


「待ち合わせ場所じゃなくても」


「はい」


「駅の反対側でも」


「はい」


「メッセージの手前でも」


「はい」


「玄関の前でも」


「見ます」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


「かなり面倒くさいね」


「かなり」


「でも、大事」


「はい」


    ◇


 帰る時間になった。


 今日は春日くんがマグカップを洗った。


「足が疲れている日なので」


「足と洗い物、関係ある?」


「あります」


「理屈が雑」


「すみません」


「でも、ありがとう」


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に戻す音。


 ことん。


 今日最後の音。


「何割ですか」


 春日くんが聞く。


「九割六分」


「少し残っていますね」


「駅の反対側が四分」


「その四分は?」


「帰り道で、来られた場所として持って帰る」


「はい」


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「行けなかった場所だけ見ないでね」


「はい」


「来られた場所も見て」


「はい」


「私も見る」


「はい」


「また行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「また帰ってくる」


「金曜なら」


「普通のミルクティーで待っています」


「もし、駅の反対側までしか行けなかったら?」


「そこまで来たことを見ます」


 しらいさんは、安心したように笑った。


「知ってる」


 ドアが閉まる。


    ◇


 部屋に静けさが戻った。


 春日悠真は、青灰色のコースターを見た。


 行けなかった場所の手前にも、来られた場所はある。


 その一文は、今日の部屋に強く残っていた。


 人は、目的地だけで判断されると苦しくなる。


 行けたか。

 行けなかったか。


 それだけでは、途中の距離が消えてしまう。


 家を出たこと。

 駅まで来たこと。

 反対側で立ち止まったこと。

 帰らなかったこと。


 そこにも、ちゃんと意味がある。


 春日はスマホのカレンダーを見た。


 金曜。


 普通のミルクティー。


 もし、しらいさんが来られなかったとしても。


 どこまで来られたかを見よう。


 そう思った。

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